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第一回阿賀北ロマン賞受賞作③随筆部門大賞『二王子岳と仲間達』石田瑞穂

 この記事は新潟県の阿賀北エリアの魅力を小説で伝えてきた阿賀北ロマン賞の受賞作を紹介するものです。以下は石田瑞穂さんが執筆された第1回阿賀北ロマン賞随筆部門受賞作です。2020年より阿賀北ロマン賞は阿賀北ノベルジャムにフォーマットを新たにし、再スタートしています。<詳しくはこちら>公式サイト

 小説創作ハッカソン「NovelJam(ノベルジャム)」初の地方開催を企画・運営しています。「阿賀北の小説 チームで創作 敬和学園大が初開催 筆者と編集者、デザイナー募集へ」 (新潟日報)→ https://niigata-nippo.co.jp/news/local/20200708554292.html

『二王子岳と仲間達』石田瑞穂   

 昭和十五年、私は父三十歳、母二十四歳の時、長男として、新発田市で生まれた。お城近くの寺町裏、新発田川に架かる欄干の無い小さな板の橋を渡ると玄関という家に三歳まで住んだ。この辺は、新発田藩の頃、武家屋敷が並んでいたという。
 太平洋戦争も、厳しい戦況になった昭和十八年、父は税務署の勤めを辞めて、港関係の会社に代わり新潟市に移り住んだ。
 私が小学校三年生の時、父は学友二人も連れ、角田山に登った。これが私と山との初めての出会いだった。草につかまりやっと登った角田山から見た越後平野の広大さは目を見張るものがあった。二王子岳、飯豊連峰など県境の山々がはるか遠くに霞んでいた。

 阿賀北と再び関わりを持ったのは昭和二十七年、中学一年生の時だ。私はクラブ活動に郷土調査部を選んだ。故郷の歴史、地理などを学ぶクラブである。現地調査という名目で、ダムのためにまもなく湖底に沈むという奥三面部落を訪ねた。小国町からボンネットバスに乗り、終点から山道をひたすら歩いた。夏の県北の山々は、緑深く、海に近い平野の新潟市で育った私には、珍しく興味深かった。一日掛かりで集落に辿り着くと、萱葺きの古い民家に泊めて貰い、囲炉裏の周りで集落の歴史を聞いた。夜、外に出て山に囲まれた狭い空を見上げると星が大きく近く煌めいていた。
 新潟高校に入った三十一年私は山岳部の門を叩いた。戦前の中等学校時代にはあったらしい山岳部も、旧制から新制に代わる頃は、部活動は休止していた。私と入れ替わりに卒業していった小林光衛先輩が、在学中仲間と手探りで山岳部として活動を始めていた。
 彼は教員である両親の勤務の移動に随い小千谷の奥や糸魚川などに住んでいたが、糸魚川の中学担任教師に連れられテントを担いで妙高山系を周遊したことが山への目覚めであったという。新潟高校で彼は、同行してくれる顧問教師もないまま生徒ばかりで石転び沢から飯豊連峰に入った。アイゼンやピッケルなどの雪渓を登る装備などメンバーのほとんどは持ってなく、仲間の一人が目の前を滑落して行くのを目にしたという。幸い大事に至らなかったが、そんな顛末を先輩は校内雑誌に「飯豊紀行」として残している。
 東京の大学に進んだ先輩は、社会人の名門、鵬翔山岳会に入った。自分の山行だけでも忙しい中、寸暇を捻り出して帰省し、そこで得た登山技術を高校生の私達後輩に熱心に教えてくれた。そのホームグランドが、五頭山、菱ヶ岳であり、二王子岳であった。私は阿賀北の山々との関わりがさらに深くなった。

 戦後十年、装備も食糧も手探りで創意、工夫した。テントは朝鮮戦争で米軍が使用したポンチョをつなぎ合わせたもの、先輩が東京の山用品店からやっと手に入れてきたもの、雨が降れば雨が漏る、しかし晴れた夜はテントの中から星が見える。靴は軍靴に鋲を打った。寝袋はやはり米軍の放出品で、朝鮮戦争の死体を入れて日本に運んだものという噂もあった。その後、部で買ったテントは、かまぼこ型の六人用であったが、生地は木綿で雨の後など濡れて倍の重さになり、一年生は一人で担げなかった。昼食は炊き立ての飯盒飯とおかずの福仁漬けをポリ袋に入れ、腹に巻いて懐炉の代用とした。非常食は自分の家で炊いたご飯をざるにあけ、干して糒飯を作った。アルファ米が市販される前の話だ。お茶も薬局から買ってきた衛生ガーゼに薬缶一回分の茶葉を袋に入れ、なれない裁縫をした。炊事用の焚き火起こしも大変だった。先輩にしごかれながら、重荷に喘ぎ山々を歩いた。さらに大きく、重そうな先輩のザックから段ボールにぎっしり詰まったジャガイモ、ニンジンが出てきて、鯖の水煮のカレーライスになった。鯨の缶詰などはご馳走であった。
 春の連休には二王子岳で雪上訓練があり厳しかったが、越後のドカ雪がえぐられた登山道を埋めて、夏や秋などよりは登りやすかった。
新発田駅からのバスはまだ石喜部落までで、南俣から先、二王子神社まで川沿いに長いアプローチであった。神社境内や杉林が好適なテント場で、初めて雪の上で寝た。翌日たどり着いた頂上から、まだ一面真っ白な飯豊連峰を見た感激は未だ忘れられない。
 やっと頂に立つとまた先に山がある。重なり合って尽きない阿賀北の山々が続く。濡れたテントを担ぎ、隊列を組み、先輩に、最終バスに遅れるぞと鞭打たれた帰路も懐かしい。頂上の小屋に泊まった時などの夜空も星も忘れられない。手の届くような星の数々、破れたテントから見あげた星空、自然のなかで遊んだ高校時代と仲間を思い出す。
 私は京洛に憧れ、同志社大学に進んだ。学ぶというより街を歩き、名所、旧跡、山野を訪ね、歴史、文学の香りを肌で味わった。遊学といえば正しい四年間であった。
「息子を監督しに行ってくる」を口実に、家業の合間、四季折々に訪ねてくれる父との古都散策は楽しかった。父の歴史、文学への造詣は深かった。
 父が旧制中学を卒業するころは、昭和大恐慌で、県内各地に大学卒就職浪人が入り込み、西蒲原、木崎など小作争議が盛んであった。旧制高校文科への進学希望は、
「文科へ行けばアカになる」と父親に反対され、断念させられたと聞いている。上洛して私の下宿に泊まることは、父の喜びであった。家業を助けて共働きの母は
「お父さんは兄ちゃんの下宿へ行くとなかなか帰ってこない」と愚痴をこぼしながらも父の喜びをともに喜んでいたと、番頭さんに聞いた。私は少し親孝行した気分であった。

 この入学に際して、山岳部の別の先輩に世話になった。入れ替わりのため在学中は一度も一緒に山行したことのない阿部先輩は、当時同志社大学四年生であった。郷里の小林先輩からの紹介状一枚持って私が訪ねてゆくと、荷物を置く間もなく、
「おい、街へ行くぞ」と言い、賑やかな街に出ると
「ちょっと待ってろ」と言い、裏小路へ消えた。戻ってくるとさっきまでは着ていたレインコートがない。
「もうちょっと」と今度はパチンコ屋へ消えた。しばらく待たされてそれからさらに賑やかな街へ出た。
「腹一杯食べて明日の受験頑張れよ」とすき焼きをご馳走してくれた。山岳部の後輩を思う温かい絆、先輩達の心に感激した十八歳の私であった。

大学卒業にあたり、
「すぐ家に帰らなくてもよいか」と父に相談したら、五十二歳の父は
「学校推薦で就職できるなら、しばらく外の空気を吸うのもいいだろう」といつた。
銀行に就職し名古屋勤務一年目、年の暮れに母から電話があり
「お父さんが顔面の大手術をすることになった」という。我が家は長男の私の下に大学二年生の妹、大学受験を控えた弟、さらに弟、妹、と五人兄弟姉妹である。
「子供達を五人全部大学に出すのだ」と一念発起、父が四十五歳で脱サラ創業して八年目のカラー印刷屋でした。そんな諸々の事情の中、長男としては、帰らざるを得ず、就職十一ヶ月でやむなく退職、帰郷して家業を継ぐことになった。
高校時代に鍛えられた二王子岳を初めとする故郷の山々は変わらず迎えてくれ、懐かしかった。

 四年違いの小林先輩は、大学卒業後新潟県高校教員として新潟中央高校に勤め、登山部顧問として活躍、傍ら母校新潟高校の山岳部の指導もしていた。一つだけでも大変なのに、重ねて二ヵ校、無償の奉仕と重責を担い、新婚さんというのに休日も休みなしであった。頭の下がる思いであった。
 再びの交遊が始まる。たまには手伝えと、中央高校の合宿に同行させられ、残雪の二王子岳で、滑落停止のモデルをやらされた。高校生の時、小林先輩の属していた、社会人名門山岳会、鵬翔山岳会の新人訓練に入れて貰い、谷川岳のマチガ沢で鍛えられたおかげで、大学、社会人と五年ほど、きつい山登りは空白であったが、女子高校生の前で恥をかかずに済んだ。
「空のザックで付いて来い」と言われ、何のことかと思ったが、
「女の子は、合宿途中で急に体調を崩す者がいる。そんなとき、お前ならその子の荷物を担ぎ、途中から連れて下山してもらえる。そのためだ」といわれた。登山部顧問とは気遣い、責任感、事前準備と大変なことだと感じた。
 中央高校は、彼の技術指導と日頃の訓練が実り、昭和四十五年の全国高校登山大会女子の部で初めて最優秀校となり、以来何度か全国最優秀校の栄誉に輝いた。

 なれない家業や、たった一年足らずで辞めてきた大都会でのサラリーマン生活に対する未練、無念さなどでのストレスがたまり、愚痴をこぼすと、先輩は、
「人にはそれぞれ与えられた運命、努めがある。そこで最善を尽くすことだ」と、慰めと助言をしてくれた。二王子、五頭、菱、光兎山、焼峯、菅名、大蔵、飯豊など誘ってもらう四季折々の山は楽しみでありストレス解消となった。
 先輩の定年退職お祝い会を開いたら、全国で活躍の後輩が駆け付けた。そのお礼の言葉の中で、
「通算四十五年の山岳部顧問生活であったが、その間山行で一度も事故やけが人を出したことがなかった。これが私の誇りである」と語られた。

 昭和三十八年、五頭山の麓で大水害があり、土石流と共に都辺田川が氾濫した。新潟大学農学部に現状調査依頼があり、当時学生の、山岳部後輩、加藤清策君が大活躍した。土石流と水浸しの辺り一面を山の技術を以って歩きまわり、現場見取り図の作製など、教授の手足となって活躍した。その故か卒業後、大手建設会社、間組に入り、初めての現場が、新発田市奥の、内の倉ダム建設であった。これも奇しき縁である。古くは鉱山で賑わった赤谷部落の人達と馴染みになった加藤君は、内の倉川のダム建設予定地より上流に、山小屋を後輩の為に作りたいと、部落の人が昔、出畑として使っていた土地を見付けてきた。私も誘われて減水時に膝までの沢を渡り下見した。湧き水、井戸もあり、ここに橋をかけなければなどと夢が膨らみ、話が弾んだ。その頃丁度二王子岳一体、内の倉川流域が県立自然公園に指定され、建造物新規建設は不可となり誠に残念であった。
 ダムについては、基礎工事から完成まで季節折々の進行状況を彼の案内で見せて貰った。このダムは、今新発田市の観光スポットとして人々に楽しまれている。

 新潟高校の後輩の中では、小林先輩の秘蔵子は石黒久君である。高校時代からしっかりしこまれ、卒業後、小林さんと同じ鵬翔山岳会に入りさらに研鑽に励み、大学院から大成建設株式会社に入社した。昭和四十八年の日本山岳会エベレスト南壁登山隊に選ばれて参加、十月二十六日に加藤保男氏とともにポストモンス―ン(秋季)初登頂の栄誉を担った。日本人として二人目のエベレスト登頂であった。
 翌年四月第三日曜日、登頂後初めて新潟に帰省した石黒君を労い、祝福し、ホームグランド、二王子岳にスキーを担ぎあげ、快晴ではあったが厳冬期そのままの、頂上小屋の前から一王子神社まで、小林先輩と三人で滑り降りたことは忘れられない感激であった。小林先輩にとっては愛弟子の快挙の喜び、いかばかりであったろうか。その後ネパールから登山隊のシエルパ達が石黒さんの故郷、新潟を訪ねてくれた時も、私は小林さんに誘われ、同席し、夜の古町で、山奥育ちの彼らを刺身などでもてなし、片言の英語で語り合ったのも貴重な経験である。元を辿れば、夢多き高校時代、阿賀北の山に帰る。残雪を踏み、新緑を愛で、秋の紅葉、新雪の嶺と、先輩にしごかれ、後輩をしごき、山野を舞台にロマンを感じ、友情と絆が結ばれた。故郷を出て、都会で活躍する仲間も帰省の折に顔を出すと何十年の年月が瞬時にあの青春の日々に戻る。

 我々に数々の思い出を残して、小林先輩は七十歳を目前に、平成十七年夏突然幽明境を異にされた。世の栄達を求めず、ひたすら生徒と共の日々を愛し平教員に徹し、自分の楽しんだ山と自然を後輩に伝えた先輩でした。
「先輩に受けた恩は、後輩に施せ」など、教えられたことを次に伝えて行くことで、この豊かな自然と人情と歴史に満ちた故郷に、これからも山野を歩く若者が充ち溢れてゆくと思う。自然に親しみ、ロマンを感じ、環境に配慮する若者が、次の世間のよき担い手となるだろう。

 山では最近、若者より高齢者に会うことが多い。それもまたよし。長い職業戦士の時間の後で、自然のふところに還り、四季折々姿を変える越後の山々をゆっくり、十分味わってもらいたい。阿賀北には低山から高山までそれぞれ趣のある山がある。切り立った渓谷、豊かな沢水もある。そして山懐には温泉もあり、歴史もある。この豊かなふるさとを、もっと多くの人々に親しんで、楽しんでもらいたい。地元との交流の中で、この阿賀北の良さを体験してほしい。それを他へ広めてほしい。この地域に未来が開けてほしい。

 新潟県では、昨今高卒後、大学や、就職にと、片道切符で故郷を後に都会へ出てゆく若者の数の多さが問題になっている。故郷には年老いた父、母が残されている。阿賀北だけでなく、県内中山間地共通の問題になっている。
 異常に集中したコンクリートジャングルの大都会での生活だけが本当の生活なのか、朝晩の長い通勤時間、混雑、マンション、住宅価格の高騰化、排気、環境問題など考えて見てほしい。この故郷での生活と多方面から比較して見てほしい。
 大都会での仕事を勤めあげて故郷に戻り、新たな生活を始める人もあるという。自然豊か、人情豊か、恵まれた山野を、経済的にも豊かな生活の場に、夢のある未来に創りかえてほしい。それはここで生まれ育った若者の英知と活力とに対する大きな期待である。
これからもよき仲間として老若、故郷再生の夢を語りたい。

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