第一回阿賀北ロマン賞受賞作①小説部門 『姉とみたオリオン』杉原泰洋
この記事は新潟県の阿賀北エリアの魅力を小説で伝えてきた阿賀北ロマン賞の受賞作を紹介するものです。以下は杉原泰洋さんが執筆された第1回阿賀北ロマン賞小説部門受賞作です。2020年より阿賀北ロマン賞は阿賀北ノベルジャムにフォーマットを新たにし、再スタートしています。<詳しくはこちら>公式サイト
小説創作ハッカソン「NovelJam(ノベルジャム)」初の地方開催を企画・運営しています。「阿賀北の小説 チームで創作 敬和学園大が初開催 筆者と編集者、デザイナー募集へ」 (新潟日報)→ https://niigata-nippo.co.jp/news/local/20200708554292.html
『姉とみたオリオン』杉原泰洋
それは、姉の智恵がまだ新発田の女学校に通っていた頃、弟の荘一が小学校に上がる前の、秋のことだった。
午前中には絹のような薄い雲が空高くかかっていたが、その雲はいつしか低く垂れ込めた鉛色の雲に入れかわり、細かい雨が降り続いていた。
その日の朝、智恵が傘を持たずに家を出たため、荘一と竹蔵は母に頼まれ、傘を届けに赤谷駅まで行くことになった。
竹蔵は、荘一の家の使用人で、年はもう四十を過ぎていた。竹蔵は小さいころ、利発な子だったが、柿の木から落ちて、頭の打ち所が悪かったので発達が止まってしまった。荘一が小さかったころ、そう人から聞いたことがあるが、本当のことはわからなかった。
家から出て、杉林に挟まれたひんやりとした薄暗い線路沿いを二人で歩いていると、やがて右手の眼下に田んぼがあかるく開けてきた。
少し前まで黄金色に輝いていた稲穂はすべて刈り取られ、あぜの所々にはタモの木が一列に並び、稲が編まれるように、はさ掛けされていた。そして、干藁の匂いが、辺り一帯に広がっていた。
あとには、緑色のあぜに縁取られた、薄褐色の田んぼが大小不揃いのまま、モザイク状につらなり、遠くのほうまでつづいていた。
駅の待合室に着くと、二人はホームに出て待つことにした。やがて、左手の山の陰から、白い煙をあげた蒸気機関車が小さな姿で現われた。そして、駅に近づくと短い汽笛を二度鳴らしてから、ゆっくりとホームに入ってきた。
客車の扉が開くと、乗客の中に、紺色のセーラー服を着た三人の少女が、ホームに出てきた。そのうちの一人が、髪を二本のおさげに束ねていて、それが智恵だった。彼女の姿を見つけると、おとなしくしていた竹蔵は、二本の傘を持ち上げたまま振り上げ、智恵に向かって叫んでいた。
その突飛な行動は、周囲の乗客の注意を引き、竹蔵だとわかると、何人かは、くすくすと笑った。
智恵が友達と一緒に竹蔵のほうに近づいてきたが、荘一は竹蔵を避けて、距離を置いたまま立っていた。
智恵は、友達から離れると、竹蔵に声をかけた。
「竹さん、ありがとね。助かったわ」
それから、数メートル離れたところに立ち尽くしていた荘一を見つけると、
「荘ちゃんも来てくれたん。ありがとう」
智恵は長いまつげで覆われた眼を、やさしく下げて合図した。
しかし、荘一は、姉の笑顔には応えず、口を固く結んだまま、下を向いたままだった。
その日の智恵は、友達と一緒に帰らずに竹蔵と並んで歩き、荘一は二人から遅れて歩いていた。
「どうしたん? 荘ちゃん」
と、智恵が後ろを振り向くと、竹蔵も、そうだ、と言わんばかりに手招きをしたが、荘一はうつむいたまま眼も合わせず、距離も縮めようとはしなかった。
智恵はときどき荘一のほうを振り返りはするものの、それ以上声をかけることはなく、困ったような笑顔を送ってよこした。
それから、八年たったある夏の日のこと。
まだひんやりとした朝の湿った空気の中、濃い葉っぱの生い茂るケヤキのどこかで、姿を見せないイカルが、涼しげな声を響かせていた。
しかし、日が昇りはじめると、蒸し暑い空気に入れ替わり、イカルに代わったミンミン蝉が、ケヤキの中でこだまするように鳴り響いた。
荘一は、夏休みを無為に過ごし、午前中は居間に横になったまま本を読んでは、眼が疲れると、寝転んだままケヤキの大木を見上げながら、ぼんやりと夏の声を聞いていた。
そんなとき、玄関前に掃除をしていた竹蔵が、甲高い声を上げた。母が応対に出てみると、人の名前がでた。その人の名前に反応するように、荘一は真っ先に居間から飛び起き、玄関口へと走っていった。
薄暗い玄関口に、その人は、帽子を脱いで黙って立っていた。逆光のため、姿は暗かったが、引揚者であることは、一目でわかった。
頭は丸刈りで、顔は浅黒く日に焼け、頬はこけていた。汚れた麻色の服の肩には、重そうなリュックサックの紐がくい込み、両腕には、カーキ色のカバンがぶら下がっていた。後ろには、丸坊主とおかっぱ頭の二人の痩せこけた幼い子供が、その人の服にしがみつき、警戒するような眼で、こちらを覗いていた。
荘一は、息を止めた。それが、姉の智恵との久しぶりの再会だった。
「ただいま・・・」
智恵はそういったきり、口を動かさなかった。そして、吊り下げていた布カバンを両腕からはなすと、それは鈍い音を出して土間に落ちた。
玄関に入ってきた竹蔵は、事態を飲み込めず、あたりをきょろきょろしていたが、その人が智恵とわかると、真っ先に笑顔を見せ、大きな声をあげ、智恵の肩を何度も叩いてよろこんだ。そして、智恵のこわばった表情は、ようやく崩れるようにほぐれていった。
昭和二十一年、真夏の日の午後、荘一が中学二年のときだった。
智恵は、代々親戚付き合いしている旧家に嫁いでいた。そこには、叔母が嫁いで娘を一人もうけており、その一人娘が婿を迎え入れていた。その夫は、軍人で将校だった。
夫婦は満州に移動し、二人の子どもをもうけた。
しかし、その妻が病気で亡くなってしまい、夫である将校は子供を育てる必要から、後妻を紹介してくれるように実家に頼んでいた。そこで、その娘の従姉妹である智恵が、後妻に選ばれたのである。
家のつながりを大事にしていた江戸時代の風潮は、田舎ではまだ根強く残っていた。父親は智恵をつれて、戦時中の満州に渡り、新しい夫に、よろしくと頼んで帰国した。
満州での将校の生活は、智恵の実家に較べれば、裕福で華やかな生活だったし、父親はその生活に智恵のしあわせを託した。しかし、その後戦局は悪化する一方で、三年もすると太平洋戦争は終わりを告げた。
若い智恵は、暴行に会わないようにと、頭を丸刈りに男装して、血のつながらないふたりの子どもをどうにか日本へと連れ帰った。軍人である夫は抑留されたまま、消息不明のままだった。
その頃智恵の実家には、父親と母親、そして弟の荘一の三人に加え、使用人の竹蔵の四人で暮らしていた。
智恵はその二人の連れ子とともに、嫁ぎ先へと移ることになり、地元にある製紙工場に事務員として働くことになった。
当時、赤谷は鉱山に恵まれ、官営八幡製鉄から引き継いだ民間会社があったし、そのほかに炭鉱も掘られ、全国各地からさまざまな人間が入り込んでいた。山間の村でありながら、そこには銭湯や映画館、スーパーのようなものまであり、はなやいでいた。
鉄道はというと、豊富な鉄鉱石やら石炭やらを貨車に詰め込むとともに、村の人々を新発田の町まで、一日に何度も往復で運び込み、活気を帯びていた。
勤めに出てからの智恵は、周囲のにぎやかさに合わせるように、少しずつ元気をとり戻していったように見えた。しかし、細くなった二の腕や胸元のあたりは、なかなかふくらみを帯びてこなかった。
それに対して、連れの幼い子たちは、腹が膨れ上がって手足が棒のように細い、いわゆる栄養失調体型だったが、二人のほうは、順調に回復していった。
帰国してから二ヶ月ほどすると、周囲はすっかり秋になっていた。
「お母さんが、栗が落ち始めたから、子供たちを連れておいでって・・・」
そう荘一に言って、朝早いうちに智恵は二人の子どもを連れて、実家に尋ねてきた。まだ髪の伸びていない智恵は、つばの長い帽子を少し深めにかぶっていた。
「荘ちゃん、この子たちに、栗拾いさせてやってくんない?」
そう言って、智恵は二人の子どもの手を引いてきた。二人とも満州育ちとはいっても、街中で育ったらしく、栗拾いはしたことがないと言っていた。
屋敷の裏に植えてある栗の木は二本あり、足で蹴ったくらいではびくともしないくらいに大木だった。木の上を見上げると、色づき始めた葉っぱの陰から、ヤマガラが透き通った声を響かせ、枝から枝へとすばしっこく飛び移っていた。
そして、大木の周辺には、去年に落ちて朽ちかけた落ち葉の間から、朝露に濡れた丸々とした栗が、あちこちに輝いていた。中にはイガごと落ちて、その開いた口から栗がのぞいているのも幾つかあり、子どもたちは、そっちのほうに興味があるらしかった。
上の息子のほうが、それを採りたい、と言ってきた。その言いかたが、生意気で、荘一には気に入らなかった。というより、初めて会ったとき、姉の智恵にしがみつき、弟の自分に対して警戒する目つきでこちらを見たときから、気に入らなかった。
荘一は、その子に答えることなく、黙って両足でイガをはさんでその口を開き、栗が取れるようにむき出してやった。
数十個も取れたころ、荘一がそのうちの一個を取り出し、皮を前歯で剥いて、まだ柔らかい渋を親指の爪で擦りとり、口の中へ放り込んだ。生の栗は、こりこりとして甘かった。
今度はそれを見た下の妹が、わたしにも剥いてちょうだいと言ってきた。荘一はわざと渋を多めに残して女の子の手にわたした。
彼女は荘一と同じように口に放り込んだが、しぶい、といって吐き出した。そして、智恵のもとへと走ってから、荘一の顔を振り返って、口をとがらせた。
「荘ちゃん、きちんと皮を剥いてやった?」
と智恵にいわれ、荘一は、ふん、と鼻を鳴らしてこたえた。智恵はすこし困ったような笑顔で、弟を叱った。そして、荘一は、そういう姉の表情が、好きだった。
秋が深まる頃になっても、智恵の体重はもどらず、体の不調に微熱と乾いた咳が続いていたが、医者に見てもらった結果、結核であることがわかった。
智恵が床に伏せるようになった頃、元軍人である夫が、突然帰国してきた。荘一は、はじめて智恵の夫をみた。荘一の家にやってきた彼は、口数が少なく、背筋を伸ばして、さして広くない家の中を、大またに歩くような人だった。
彼は、なにか人を寄せ付けない雰囲気を持っていて、荘一のような少年が気軽に声をかけられる人物ではなかった。
そして、その日のうちに、荘一のいないところで、親族会議が開かれた。その結果、夫と二人の子どもは、婿入りした家でなく、夫の実家に帰ることになった。ひとり残された智恵は、嫁ぎ先に居ることもできず、実家に帰ることになった。
智恵には、両親が使っていた東向きに窓のある、条件のいい部屋を与えられた。しかし、二人の子どもと離れた智恵は、気をふさいでしまい、しばらく誰とも口を利かなかった。それからというもの、病状は階段を転げ落ちるようにして進んでいった。
荘一はというと、数日おきに、隣村まで智恵に鶏の卵を買いに出かけ、母は、智恵の痩せた背中を拭き、喀血したちり紙を、屋敷の裏で燃やしていた。
正月の儀式は、冷え切った奥の座敷で、しずかにとり行われ、智恵は、布団の中で新年を迎えた。
雪は、例年通りに降っていた。特に、風など周囲の物音が一切聞こえない夜というのは、綿をちぎって水を含ませたような重い雪がひっそりと降り積もり、朝にはおどろくほどの高さに達していた。
一月半ばを過ぎたあたりに最初の雪下ろしをし、その後、一冬に何回も繰り返さなければならなかった。その頃には、下ろした雪は軒下まで積み上げられ、それを踏み台にすれば、簡単に屋根まで上がれるようになっていた。玄関に入るにも、地下室に降りるように雪の階段が作られ、部屋の中は昼間でも薄暗かった。
そのころ、智恵の夫はというと、雪が積もる前は二人の子どもを連れて一度見舞いにきたが、雪が深くなってからは、音沙汰は途絶えていた。
そんなある日、荘一が学校から帰ってくると、家の雪下ろしが終わったばかりだった。雪下ろしは既に三回目で、家の周囲に張り巡らした雪囲いの板に、大量の雪がのしかかり、それが囲いの板の高さを超えて、家の中に入る太陽の光を遮っていた。
近所から手伝いに来ていた大人たちが、その雪除けの作業をしていたが、智恵の部屋の方はまだ作業が始まっていなかった。
荘一は、急いで雪の階段を降りて玄関に入ってカバンを放り投げると、カンジキを掃き、スコップを持って知恵の部屋の外へと急いだ。
屋根から下ろされた雪は、凍みて重かった。荘一は、その硬くなった雪を角砂糖のように、スコップで切り取っては、ひとつずつ放り投げた。三十分も続けると、体中から湯気が立ちあがり、ひと通り作業が終わる頃には、息はあがり、腕は棒のように重くなっていた。
乱れた呼吸がおさまってから、荘一は部屋の中をそっと覗いてみた。雪の反射光に慣らされた荘一の眼には、部屋は暗くてよく見えなかったが、しばらくすると、智恵の寝ている布団が白く浮かび上がってきた。
智恵は布団の中で寝たまま、顔だけ窓のほうへ向け、まぶしそうに荘一のほうを見つめていた。
その夜、雲一つなく無数の星が輝いていた。荘一は、知恵の部屋が明るくなっているか、確かめたくなった。
智恵の部屋は、月明かりの青白い空気に包まれていた。小さく声をかけると、智恵はまだ寝ていなかった。入ってもいいかとたずねると、
「いいけど、寒いよ・・・」
姉の返事はいつもより素っけなかった。
その表情は、しばらく物思いにふけっていたようだった。暗い部屋は、凍てついた空気が張り詰めていて、火鉢の中の炭が、赤々と燃えていた。
荘一が、今日は月明かりで部屋が明るくないかとたずねると、
「そうね」と短い返事だった。
少し沈黙が続いた後、智恵のほうから話しかけてきた。
「荘ちゃん、オリオン座って知ってる?」
聞いたことはあるけど、見たことはないと答えると、智恵は説明した。
古代ギリシャに、オリオンという狩りの上手な巨人がいた。オリオンはクレタ島で、月の女神アルテミスに恋をした。アルテミスも狩りが得意なため、彼女を強引に狩りに誘った。そして、オリオンは自分の腕まえを自慢するあまり、地上のあらゆる生物を射止めると言い放った。これを聞いた大地の女神は怒り、一匹の大サソリを送り、さすがのオリオンも命を落とした。その後も、サソリが怖いオリオンは、夏のサソリ座が東の空から現われると、西の空に逃げるように沈んでしまう、という話だった。
オリオン座には、別の物語も伝えられていると姉は言った。
オリオンとアルテミスが、仲良く暮らしているのを気に入らなかったアルテミスの兄アポロンが、ある日、オリオンが頭だけ水の上に出して歩いていたところを見て、妹のアルテミスに、あの海に浮かんでいる小さな島を射ることが出来るかと聞いた。弓の名手であるアルテミスは、オリオンだと知らずに、オリオンを射とめてしまう。
やがて、オリオンの死体が海岸に打ち上げられ、悲しんだアルテミスはオリオンを星座に上げたという。
物語が終わり、ふたたび会話が途絶えてしまうと、荘一は、その二つの物語のうち、どちらを信じるかと、聞いてみた。
知恵はしばらく考えてから、こう言った。
「信じるっていうか、オリオンがアルテミスに殺されてしまうほうに共感する・・・」
なぜ、と聞くと、
「何も悪くないオリオンが、愛してるアルテミスに殺されるって、納得できないでしょ。でも、そういう納得できないことって、この世の中には、たくさんあるのよ。たぶん本当の理由は、きっとあると思うんだけど、ただ、それは神様や仏様しか知らない深いもんだと思う。わたしたちは、最後には、それを素直に受け入れるしかないのよ・・・」
荘一は黙って聞いていた。しばらく沈黙が続くので、荘一はオリオン座を見ようと窓に寄っていった。だが、星は明るい夜空に大小無数にちらばり、どれがオリオン座か見当がつかなかった。
智恵は、龍泉寺の方角をみると明るい三つの星が並んで光っているのが見えると教えてくれた。それが見えたら、周囲を取り囲むように明るい四つの星が見えるはずだと教えてくれた。
荘一は外に出た。外の空気は、冷たく湿っていて、肺の隅々にまで浸みわたるのを感じた。雪下ろしをされた凍みた雪は、ざらざらとして、月明かりに照らされ、無数に細かく光っていた。普段は感じることのない、雪の匂いもかすかに鼻をついた。
姉に言われたとおり、龍泉寺の方角を見上げると、等間隔に輝いている三つの星がすぐに見つかり、それを取り囲む四つの星も、周囲の星より輝いて見えた。
均整のとれたうつくしい星座だった。智恵とは別の理由で、うつくしいオリオン座には、オリオンがサソリに殺されるより、恋人のアルテミスに射られてしまうような哀しい物語のほうが似合うような気がした。
再び智恵の部屋に戻ると、荘一は窓からオリオン座を探してみた。星座はすぐに見つかったが、窓は東向きにあり、星座は南の方角にあるため、窓の右端からようやく確認できる位置だった。
智恵にオリオン座を見せたいと思い、こっちにくれば見えるといったが、
「寒いからやめとく、それに少し疲れているし・・・」
その返事は荘一をがっかりさせたが、せっかく雪堀をして窓から月明かりが入り込んだのだから、どうしてもオリオン座を見て欲しかった。
「もういいって、病気が移るとわるいから、部屋に戻りな」
智恵はそういうと、目を閉じた。それでも、荘一はあきらめられなかった。ちょっと行ってくる、と言い残してから、部屋を出ていった。
そして、母の鏡台をかかえて部屋に戻ってきた。荘一は鏡台を智恵の枕元から少し離れたところに置き、その位置から鏡の角度を変えてオリオン座を探し出し、その像が反射して智恵に見えるように、何度もこころみた。
「見えた・・・」
と智恵の口が小さく開いた。
荘一は、枕元へ行き、智恵と同じ頭の位置から、鏡台に映ったオリオン座を見た。鏡は、オリオン座の中心にある三つに並んだ星を映していた。
しずかだった。智恵から、なんの言葉も聞かれなかった。姉の反応を確かめたくなって、荘一はうしろから、そっと智恵を覗き込んでみた。
すると、智恵の眼からは、しずかに涙がながれていた。
荘一は気づかれないように、元の位置に戻り、しばらく体を動かさずにじっとしていた。
その涙は、オリオン座の美しさに感動したのでもなく、弟の気持ちがうれしいのでもなかった。荘一には、姉にかけてやるべき言葉が見つからず、ただ黙っているよりほかはなかった。
そして、姉と一緒に鏡に映った小さなオリオン座の中心にある、三つに並んだ星を、しばらくのあいだ眺めていた。
それからまもなくのことだった。智恵が病床にあったにもかかわらず、夫は内縁の妻を家に入れていたことがわかった。父は激怒し、夫の家へ出かけ、絶縁を宣言した。しかし、智恵には、その事実は知らされなかった。
雪深い山の麓にも春の息吹が感じられるようになったころ。かなたに見える焼峰山は、まだ厚く雪化粧をしたままで、集落の道路脇にも、山のような雪塊がたっぷり残っていたが、それでも所々には地面が顔を出していた。そして、この土の匂いが春の到来を告げ、スズメがその上を跳ねていた。
この頃には、満州から引き上げてきた時の丸刈りだった智恵の髪も、小さなおさげができるほど伸びていたし、黒く日焼けてしていた肌も、以前のような白い肌に戻っていた。
だが、その伸びた髪の毛は艶がなく、肌の白さも薄紅色のさした肌ではなく、血の気が引いて透き通るような蒼白い肌になっていた。
咳をしても力がなく、肩が大きくゆれるようになり、咳とともにあわてて病衣の襟元にしまってある手ぬぐいを取り出し、口元を抑えることがときどきあった。
それでも、冬の季節とは違って、元気だったころの、長いまつげが眼を覆うようにして、目尻を少し下げた笑顔を見せることが多くなったし、調子のいいときには、わずかな時間ではあったが、荘一の話し相手になってくれた。
そんなある日、智恵は荘一を部屋に呼んで、外に出るようにいった。
荘一は姉のいう通りに急いで玄関から外に飛び出し、雪が溶け出してぬかるんだ地面を下駄で泥を跳ねながら、智恵の部屋へと走っていった。
部屋の窓際に到着すると、ガラス窓一枚を隔てたまま、窓際に顔を寄せるように手招きをし、細くなった指で部屋のすぐ脇にある木を指差した。
そこに木があることを荘一は知ってはいたが、特別の興味もなく、普段は見過ごしていた。姉に言われて初めてまじまじとその木をみた。そこには、黄色い小さな花が枝にびっしりとついていた。
すると、ガラス窓を通して、智恵の声が聞こえてきた。
「見てごらん、これがまんさくの花だよ。近くで見ると、黄色く縮れたリボンが、赤い紐で結ばれているようでかわいいでしょう」
「まんさくの幹は、雪には逆らわずに地面につぶされたまま、春の到来をじっと待つの。そして雪が消えるころになると、春一番に花を咲かせるんだよ」
いわれてみると、幹は地面から大きく湾曲してから空に向かっており、長い間の雪圧に耐えていたことを示していた。
「花は、はかないから、うつくしいんだね」
ガラス越しから見えた智恵の笑顔には、早春の柔らかな陽が射し込み、それが蒼白く透き通っていた頬を薄っすらと桃色に染めていた。もう冬の凍てついた夜にみせた哀しい表情は消えていた。
そして、智恵の穏やかな表情を見るのはこれが最後となった。まんさくの花が散り、若葉が芽吹くころに合わせるように、智恵はこの世を去った。
葬儀には、絶縁された夫と二人の子どもの姿はなかった。村では土葬が慣例であったが、智恵は結核だったため、棺は荷車に乗せられ、十数キロ離れた新発田の町まで村人によって引かれ、そこで火葬にされた。
智恵が死んでから、四十年以上たって、連れ子だった長男から、荘一にあてに一通の手紙が届いた。
それには、次のような文章が書いてあった。近くに自分の娘の結婚式があるので、ぜひ智恵の肉親として出席してもらいたい。
今の自分と子供たちがあるのは、智恵のお陰であり、こころから感謝している。生前の父親の振る舞いに対しては、大変申し訳なく思っており、そちらから、絶縁されたとはいえ、なんの連絡も取らなかったことについては、お詫びの申し上げようもない。その父親は、数年前に脳溢血で倒れ、二年前に死んでしまった。
自分もこの年になると、命の恩人である智恵との繋がりが途絶えたままでは、口惜しい。なんとか、智恵と繋がりのある人に、娘の花嫁姿を見てほしい。そんな文章だった。
荘一は、手紙を読みながら、何を今さら、と憤りを感じずにいられなかった。だが、手紙の後半に、思わぬことが記されていた。
智恵が病に伏してから、智恵から父親あてに、一通の手紙が送られてきており、それを添えると書いていた。
その手紙は、父親が死んだあとに、部屋の整理をして出てきたもので、今日まで大事にとっておいたが、今となっては、智恵の家の人間に渡したほうがいいと考えたと、その手紙は結んでいた。
知恵の手紙は、黄色く色あせていたが、繰り返し読まれたことを示すように、手紙の両端がめくれあがっていた。
これは、わたしがあなたに書く、最初で最後の手紙になると思います。
わたしが、あなたと結婚するにあたっては、かなり迷いました。
いくら従姉妹の夫とはいっても、あなたと話したこともありませんし、それに戦時中の満州で生活するわけですから、父も母も、相当心配したようです。
実際、父がわたしを連れて満州に連れて行くとき、何かあったときのためにと、短刀を懐に忍ばせていましたから、父も命がけだったと思います。
戦争中のこと、しかもあなたは軍人ですから、夫婦でゆっくり過ごすことはできませんでしたが、二人の子供たちはよくなついてくれました。それに、最初の頃は、裕福な生活をさせてもらい、あなたには感謝しています。
しかし、戦争が終わってからというもの、わたしたちの生活は、一変しました。あなたは行方不明ですし、わたしは、二人の子供たちを無事に日本に帰国させること、ただそのことだけに必死でした。
敗戦後の混乱した満州で、女一人が二人の幼い子どもを連れて帰国するということは、想像以上の苦難でした。
人に対する思いやりが、自分に対して仇となって返ってくるという、人として生きるには困難な時期でした。自分の子どもでさえ、捨てていく人間が多くいる中、わたしは幼い二人の子どもと一緒に帰ることができて幸運でした。
しばらくして、あなたが抑留生活から開放され、無事に帰国してこの家を訪れたときは、うれしかった。でも、わたしが結核に罹ってさえいなかったら、どんなによかったかと、思わずにいられませんでした。
あなたたちと帰りたいという気持ちは、もちろんありましたが、わたしの病気のことを考え、わたしは実家においてもらうように、両親に頼みました。
おそらくわたしの命も、そう長くはないでしょうし、子供たちにも、いずれ新しい母親が必要になるでしょうから、わたしはそれでよかったと思っています。
ただ、正直なことを言うと、わたしは、一人で実家に残ってから、しばらくは毎晩ひとりで泣いていました。それは、このまま死ぬことが怖くて、くやしかったからです。そして、この思いを誰にも打ち明けることができず、つらかった。
家族にも、これ以上わたしのことで、悲しませたくはありませんでした。
人の命ははかないもので、生きることは哀しいものだと感じます。けれど、今では、これがわたしに与えられた人生だと思っています。
先日、弟と冬のオリオン座を見たときのことです。
その星をみて、命は死んで終わりではない、ということを、ふと思いました。
オリオン座が、冬になるたびに、夜空にその姿を現わすように、人の命も消えることなく、どこかで人の知らないところで、巡っているのだと。
その思いは突然のことで、自分にもよくわかりませんでした。でも、そう思えたら、なぜだか自然に涙が溢れてきました。
このことはあなたにわかってもらえないかもしれませんが、わたしには、そのとき、はっきりと信じることが出来ました。ですから、もう死ぬことに対して、怖くはありません。
あなたと二人の子供たちのしあわせを、こころから祈っています。
もう書くのが疲れてしまいました。これで筆をおくことにします。
それでは、お元気で、さようなら
智恵より
手紙を読み終わった荘一は、しばらくのあいだ、体を動かすことができずに、肩を小刻みに震わせていた。
智恵のことを思うと、悔しくて、哀れだった。けれど、同時に、愛しかった。
どれだけ時間がたっただろうか。ようやく、我に返った荘一は、あらためて知恵の手紙に目を通し、しばらく考えていた。
果たして、智恵がどれだけ夫の愛情を信じていたかは、荘一には量りかねた。もしかしたら、智恵は夫の愛情の薄さを肌で感じていながら、それを誰にも吐露することなく、この世の人生を終わろうとしたのかもしれない。つらい過去はあえて捨て去り、自分の最期をきれいにして終わりたいという気持ちが、この手紙には表れているようにも思えた。
それに、子供のことについても、考えてみた。自分の命さえ保障されない状況で、実の子を現地の人間に託したり、あるいは捨てたりした親が多くいたはずである。ましてや、智恵は血のつながらない継母で、二人の幼子を抱えていた。いつでも、二人を見捨てることはできたはずである。
もし、夫の愛情が感じられないとしたら、血のつながらない子供をどこまで愛せるだろうか。
荘一は、これは、夫婦や親子の愛情というよりも、もっと別な感情からきているような気がした。それはたとえば、人としての良心のようなものかもしれない。
どのような境遇であっても、それを自分の運命として受け入れ、人としての良心を失わずに生きること。
その生きかたはけっして容易ではないが、人生の終わりにあっては、しあわせな死の迎え方なのかもしれない。しかし、智恵の本当の気持ちは、今となっては想像するしかなかった。
荘一は、手紙から眼を離すと、智恵の気持ちを無駄にしないためにも、この結婚式に出席することを決めた。そして、ことしの冬には、智恵と一緒に見た部屋で、もう一度あのオリオンの星を見たいと思った。
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