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sending you good vibes

ビルの屋上

散歩中にときどき見つける、4階建てくらいのビルの屋上が好き。下から見上げるたび、「あそこに行けたらなあ」と考える。四方を金属の手すりで囲まれた空間で、吹き抜ける風と、遮られることを知らない太陽の光を感じたい。

これは全く想像の話なんだけど、手すりに腕をのせて下を見下ろしているとき、あわよくばビルの下を通りかかった人が屋上を見上げて、「あの人、飛び降りないといいなあ」なんて思いを馳せてほしい。

飛び降りるつもりなんてほとんどないけれど。

飛び降りるつもりはないと書いたけれど、昔から自分の足と地面をくくり付けている摩擦力というか、自分にかかる重力というか、そういったものが人より小さいのではないかと思うことがよくあった。

ときどき、ふわっと体が浮き上がるようなイメージが頭の中で再生されるのだ。なにかの拍子で手すりをつかんで、ぐっと地面から足を浮かせる。次の瞬間、屋上のようなところから、そのまま飛んでしまう、そんな想像だ。

たいていその時に限って、空気の密度が大きくて、私の体はふわふわと宙に浮くだけなのだが。助かった。

家族や友人との関係が良好であれば、地面に自分をくくりつける重力や摩擦力(もちろん意識上の)は大きくなる気がしている。

そもそも、そんなことを意識すらしないのかもしれない。自分が浮かんでしまうリスクがあることなんて。友人たちを見ていると、ふとそう感じる時がある。

ビルの屋上に立つ人のニュースを見て、自分より不幸な人もいるんだな、と、相対的な自分の幸福を確認して、なんとか日々をつないできた。

ある日の日記を読み返すと、自分のことを書いている文章は、文体が「だ・である調」であったのに対して、家族への想いを書いた文章では「です・ます調」になっていた。

家族のことを敬うようになった時期はいつだか分からないのだけど、こうやって無意識の中にも染み込んでいたことが嬉しかった。

長年、家族をコンプレックスに思ってきた私にとって、信じがたいことだったから。


フードコート

ある週末、夫と遠出をしたとき、フードコートに立ち寄った。
東京で生まれ育った夫はフードコートが珍しいようで、いつになく嬉しそうにお店を選んでいた。

きっと街にあっても選ばれないどころか、気付かずに通り過ぎてしまうであろうファストフード店たち。それでもフードコートのなかでは、一等地にあるように見えてくる。

結局私は最寄り駅にあるラーメン屋を、夫は食べ慣れているうどん屋を選択した。

本当は、値段を気にせず好きなものを食べてほしかったけど、夫は「かき揚げに惹かれてしまった」とのこと。そういう感性が変わらずにいるあたりが、夫を変わらず好きでいる一つの要素だと思う。

となりの席では、ベビーカーのなかで目を半開きにしながら眠る、小さな赤ちゃんがいた。
二つとなりの席では、マックの紙袋をのぞき込んで、少しだけ緊張がやわらいだような、小さな子どもを連れた女性が見えた。

ままならない日常の中で、どうかこの時間だけは守られてくれよ、と念を送ってみる。

小さなころは、フードコートが大人たち(とくに子供をもつ親)にとってどんな意味を持つのか、もちろん分からなかったけれど、今なら少しだけ分かる気がする。

sending you good vibes

そうやって、人の幸せを願えるようになったのは、いつからか分からない。でも今は幸せな人を見て、相対的に自分の幸福度は下がらない。

ビルの屋上に立つ人がいたら、となりに立って、風を、太陽の光を、感じる喜びを教えたいと思う。

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深瀬みなみ
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