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隙間からこぼれ落ちないようにするのは苦しい

映像のことを深く考えている同期と昼をたべていて、「映画は誰かの視点を知ることが出来る、誰かの視点になることができる。それは倫理だ」と力強く言っていて心地が良い。「共感」という言葉はとても薄く扱われてしまいがちで、その言葉では拾いきれない沢山のニュアンスがあると思うけれど、やっぱりわたしたちはどこかで「わたしはあなたかもしれない」と思う瞬間があって、そう思えたことは、もはや生きている理由すら十分に説明できるほどの尊さなのかもしれない、とか考えていて、こんな曖昧で気恥ずかしいことをうまく言葉に出来ないから、ただ「ふーむ」と言いながらメンチカツ食べるだけの人になってしまった。

仕事が終わらなくって、途中で抜けてカネコアヤノのライブにいった。終わった後、一緒にみた人と「まいったね…」とばかり言い合うような、すごい2時間で、たまらずグッズのTシャツを買って(ピンクのかわいいやつだ)、ちょっと「ばれるかな、どうかな」とか思いながら会社に戻って仕事をした、ばれるも何もカネコアヤノ好きの何人かに自分から自慢したけれどもね、結局。

仕事はやっぱりどれだけやっても終わらなくて日にちの変わるころに帰った、…無念。

ライブ中、点々と光る照明が瞼にたまった雫でキラキラと輝く中で、わたしが最近の毎日に強く思う嫌気は、「いい子」を演じているからなのだ、となんとなく気づいた。

わたしはずっとプライベートでの活動と仕事という、吉祥寺とホグワーツくらい違う環境の中で毎日を過ごしていて、価値観や大切だと思っているものがずれて擦れて焼き焦げていくこと、自分が作るものに誇りが持てないこと、色んな人に色んな言葉を使って話を合わせていることに嫌気がさして、「会社辞めたい」とか、そんなことばかり口に出していた。

でもなんか、それは手放してはいけない苦しみなのだと改めて思う。というか、これから先も、わたしがわたしである限り、これは手放せない類の苦しみなのだ。少なくとも、完全には。

「壊れそうだよな僕ら 次の夏には星を眺めたい」とカネコアヤノが歌って、「そうなんですよ、ホント、情けない話壊れそうで」とわたしは思って

「ちっぽけだからこそもっと勝手になれる 勝手になれる」と続いて
「そっか、わたしもっと身勝手に毎日を過ごしていいのか」と気づいたりして。

「隙間からこぼれ落ちないようにするのは苦しいね」と聞こえた時には、
わたしはもう、「ほんとそうで」と心を委ねてしまっていた。父親が何度も尾崎豊に心を奪われた青年時代を語ってきてうざかったときと同じように、わたしはヘラヘラとしたカネコアヤノに同時代的な苦しみを重ねていて、それは冷静になれば危ないことだけれど、でもそんな、すごく大きく開かれた「倫理」がそこにはあって、そして忘れていた。
この曲は「だから」と続くのだ。

わたしはなんだか、ありていな言葉だけれど、わたしなりの一生懸命を生き続けるしかないのだと思った。今抱えている数々の葛藤は消えないし、多分、この環境から脱したことで解決されることでもない。だから、だから「出来るだけ 光の方へ」なのだ。その場所だけは、わたしが、世間から身勝手だと思われながらも、「大切なもの」をこぼれ落ちないように出来るだけ上手く立ち回りながら、自分自身の足でつかみ取るものなのだ。

手放せる苦しみではないのなら、諦めるのではなく、出来るだけ、光の方へ、その力強いメッセージは何度も頭の中でループした。早速次の日チームの会議に寝坊して「気を付けるように」と上司から言われて、「ちょっとこれは身勝手さのベクトルが違うわ」と思って反省しているけれど、まあでも、言い方によっては怒られるだけで寝坊は済むともいえる。

わたしはわたしなりの身勝手さで「出来るだけ」上手く立ち回るんだ、暗闇ではなく、光の方へと。

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