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そういうものを超えてわたしたちは人を愛することだとか

もうわたしの身体ではないみたい。一生眠くて重くて怠い。なんというか、仕事がエアポケットみたいなところにはいって、ふっと緊張感がなくなったのもあると思うけれど、今日はもうほんとに何もできずして、「名探偵コナン」をわんこそばのように読んで、次々とスマブラの実況を垂れ流した。一体今日でわたしは怪獣や超人を含めて何十人の殺人現場を目にしただろう。

ふと自分の感覚がバカになっているのを感じるとき、言い訳みたいに反射的に「だって仕方なかった」と口を尖らせるわたしが生理的に無理だ。気色わるい。
何かを成し遂げるには、何かを諦めなくてはいけないよ、と言うけれど、それでも子どもの頃にスーツ姿の大人たちに感じたとてつもなく強烈な違和感だとか、素朴で煌びやかでなくても、その人らしいというだけで、それだけでこんなにも美しいのだと感じたピアノの音だとか、そんなものをまるで無視するかのようにわたし、短絡的な面白さや、分かりやすさや、決まりきった感動へと誘発していくポルノみたいなものを作っているだけの気がして、大袈裟かもしれないけれど、ハクが飲み込んだハンコに付くわるい虫が体内で暴れているみたいな苦しさに囚われる。

一方でつくづく思うけれど、大人になるということは扉をくぐり抜けることなのだ、きっと。何かを得るために、代償に何かを差し出さなければ通れない扉のようなものがあって、そういうものを超えてわたしたちは人を愛することだとか、自分より大切なものを見つける力だとか、手に入れていく。それでも、と思う。子どもの頃の、なにを言われても反抗できた、鋭利な頃のわたしの無敵さを、簡単に忘れることはできない。

「お前は知るのか 季節の終わりに散る椿の美しさを」

カネコアヤノの最新アルバム、弾き語りが出て、聴いて、ふるえる。この曲だって、感動を誘発していると言うことができるのだろうけれど、少なくともこの曲は怒っている、怒りに震えて、軽蔑もこめて感覚のぬるい、短絡的で薄っぺらいあたり一体を呪うように声を張りあげている。

わたしも表に出して怒ればいいのかもしれない。それができるようになったら、どれだけ生きづらくなるだろう、人に嫌われていくだろうと思う。でも自分のことが生理的に無理になっているなんて、そんなの、誰に嫌われるより切ない話じゃないですか。

上辺だけの会話に慣れすぎてわたし、怒り方がわからなくなっている。もっともだからこそ会社に入ってから一層、燃えたぎる初恋みたいに沢山の音楽を聴いて、本を読んでいるのだとおもうけれど。

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