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指と頬の間を湯気が上っていく

昼下がり、どうしても素直に会社に戻る気になれなくて、村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」を読む。人生論をふんだんに含んだランニングにまつわるエッセイの一文一文から、以前読んだときのことをありありと思い出す。その時、わたしは大学受験の最後の模試でE判定が出て、センター試験も思うように振るわず、何かしらのとても大きな絶望みたいなものにやられていた。毎日取り組む課題のできていないところばかりが目立ち、逃げ出したくて仕方なくなっていて、ちょうどそんなときにこの本を手に取ったのだった。それで具体的に救われたというわけではないのだけれど、それでもあの時読んだ言葉の数々はそれなりの処方箋のようなものになってわたしの逃走癖を抑えてくれたように思う。

思えばあの時と全く同じような形で、最近の仕事から逃げ出してばかりのわたしに、処方箋のようなものとして村上春樹の言葉は沈澱していく。
仕事に帰ってから、わたしはしっかりと自分なりのスケジュールを組んで、一歩一歩前に進めることが出来た。今回つまっている内容もまた受験と同じく、それが果たして人生の本質的な部分にとってどれほど大切なのかと言われたら答えに窮してしまうようなものだけれど(人生の本質的な部分、なんて、極めて曖昧な話だけれど)、それでも、非常に個人的な問題として、とりあえず其処を抜けなければいけない理由がわたしにはあるのだ。海辺の街だって路地によっては全く海が見えないように、少なくともわたしは、いつでも「綺麗だね、楽しいね」って気持ちでいれるわけではない。わたしはこの先の曲がり角につくために、どうしても億劫な沢山の物事から目を背けてばかりではいけないのだ。効率良く、システマティックに、最善手を探していかなければ。そうしてたどり着いた曲がり角からは眩い光が差し込んでいて、ひらけた視界の向こうには、真っ青な海がみえる。……

「指と頬の間を湯気が上っていく 瞼を閉じて 名前を忘れて 透けてく体に身を任せて 裸の心で 祈りを捧げる」
帰り道、ノンブラリを聴いていたら村上春樹を読んで思ったことなんか不思議なくらいどうでも良くなってしまった。わたしは大いに村上春樹の考え方に畏敬の念を抱くけれど、それは距離があるから思うんだってなんとなくわかる、ほら、道路標識の左折矢印のところに、余りにも近い地名じゃなくて、一つ遠い地名が書かれているのと同じで。
わたしが何者であるか、なんて、どうでもいいんだよって思いながらも考え続けちゃう性分だったけれど、なんというか、最近は普通にそれが疲れてきたんだよね、探さなくてもいいよ、もう疲れたわってなってしまう。でもそれは、割といい兆候かもしれない。

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