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思い出の「京都にある魔界」(百万遍大学の某西部講堂)

「あなたに質問です。生まれ育った場所から外に出たのはいつでしょう?」

「そして、その場所で一番楽しかった思い出とはなんでしょう?」


そう問われれば、私は京都の大学での日々を真っ先に思い出す。

生まれ育った奈良県奈良市から出たのは、大学に入学してからだ。


大学時代、私が主に生息していたのは、京阪出町柳駅周辺。

その周辺の1学年先輩の家、2回生だが同い年で、
高校時代の同級生の「茂くん」の家によく泊まっていた。

・・・わかりづらい表現を詫びよう。

私は、1年浪人をして大学入学したのだ。

それに対し、高校の同級生かつ、
大学では1学年先輩である「茂くん」は、現役合格したのだ。

高校時代は、私はバンド活動に時間を費やしすぎたことが影響し、現役合格はならなかった。

そんなどんくさい私とは異なり、
「茂くん」はさっそうと現役合格し、
大学では軽音楽部のJazz系に所属し、
ジャズドラムをたたくようになっていた。

私も後を追うようにして、大学入学し、
「茂くん」が先んじて所属していた軽音楽部に入り浸ることになる。

「茂くん」がJazz系に属していたのに対し、
私はRock系に在籍した。

所属するグループは違えども、同じ軽音楽部。

大学の学園祭ではJazz系やRock系の垣根なく一緒にイベントを開催する。

あの、超有名なバンドたちがライブを行った「西部講堂」を利用して、
”音楽の神に愛される御祭り”をとり行うのだ。

外国人バンドならば、

例えばフランクザッパ、
例えばポリス(スティング)、
例えばXTC
例えばストラングラーズ
例えばトム・ウェイツ
例えばトーキング・ヘッズ

日本人バンドならば、
例えばローザ・ルクセンブルグ(どんと)
例えば東京ロッカーズ
例えばZELDA
例えばスターリン
など。。。

※ 京都大学西部講堂wikipediaよりバンド名を一部抜粋

「西部講堂」の風景は、目を閉じればすぐに浮かんでくる。

私が生息していたのは2000年代だが、

上記のビッグネームたちは1970年代に「西部講堂」で活躍した、

「音楽の神からの使い」と言えるだろう。

そんな、「音楽の神からの使い」たちの生演奏を、
聞くことができた大学生たちは、
どんな感動を覚えたのだろうか。

人生最大のモラトリアム期間、
よろしくないことに耽溺するも良し、
信念を持ち没頭するも良しの大学時代を過ごす期間に、

「音楽の神からの使い」の奏でる音を聞いてしまった彼らは、
どんなク◎リをキメてもトリップしないような地平へと、
脳みそを揺さぶられつつ移送されたに違いない。

多分に阿呆な想像ではあるが、
同じ場所、「西部講堂」で、
演奏したり、
のんだくれたり、
時には真剣に学び、
くたびれては、
世捨て人のように過ごしたり、
あるがままに生きていたのだろう人々のことを思うと、
自分もその仲間になったのだと感じる。

同じく阿呆な自分も、

「音楽の神からの使い」の奏でる音に感化され、

「よし、俺の音楽で音楽の神ですらトリップさせてやんよ」

なんてことを考え始めずにはいられない。

だから、”音楽の神に愛される御祭り”を一番盛り上げるのは私しかいない。

・・・なんてことを考えてしまった私は、
2000年代の大学1年生にしては少々変わっていたのだろうか?
それとも平均的な大学生の感覚を持っていたのだろうか?

ともかくも、

ここで、私がいう”音楽の神に愛される御祭り” は、

ある人にとっては、
「音楽まみれ酒まみれ、前後不覚になるまで飲みつぶれる」ための御祭り。

またある人にとっては、
「類まれなる実験音楽を発表し、観衆を狂気に誘う」ための御祭り。

また他のある人にとっては、
「音楽の神とその下僕たる人間に飲食を提供し楽しむ」ための御祭りだ。

もしかしたら、
そんな阿呆たちをコッソリのぞき見するように観察し、
ヘラヘラ笑いながら酒をのんだくれる人々もいたかもしれない。

”音楽の神に愛される御祭り”の楽しみ方は、多様性に満ちているのだ。

さて、「茂くん」との話に戻る。

「しげちゃんよ、私は初めて、この”御祭り”に参加するわけだが、祭りで一番目立つにはどうしたらええのかな?」

茂くんは少し考えてから言う。

「アフロの好きなことをやるのが一番ええと思うで」

なるほど。

好きなことを、好きなように、好きなだけやればいいのか。

「音楽の神に愛されるには、好きなことを好きなように好きなだけやればよいと認識したわ。サンキューしげちゃん」

そんな私の勝手な解釈に対し、「茂くん」は、鬼殺しの入った紙コップをテーブルに置いて返事をする。

「そりゃどうも」

この男、素っ気ない返事だと思ったが、
このタイミングを逃してはならない。

「しげちゃん、俺とバンド組もう。俺がベースでしげちゃんがドラムやろ。音楽の神様に愛されるには人数をめっちゃ多くせなあかんねん。だからビッグバンドな大所帯にする」

もう一度、空になった紙コップに鬼殺しを注ぎながら「茂くん」が言う。

「え、まじで。僕はすでに4つバンド組んで出るから限界かも」

む、”音楽の神様に愛されるには人数をめっちゃ多くせなあかん”、
っていうところにツッコミ入れてほしかったんだがと思いつつ、
私も鬼殺しをもう一杯、紙コップに注ぎ込みながら言う。

「しげちゃん、俺はな、5つやで。5つめが、しげちゃんとやるビッグバンドや。俺らどっちも5つのバンドで出演や。決めたで」

そう、私も「茂くん」と同じく、
すでに4つのバンドでこの御祭りにエントリーする予定だった。

1つは、ジョーサトリアーニのコピーバンド
1つは、椎名林檎のコピーバンド
1つは、なんかよくわからん謎のパンクロックバンド
1つは、weezerのコピーバンド

最後に、「茂くん」と、ビッグバンドで出演する。

「・・・・・・それは、厳しいな」

五劫思惟菩薩のように、
グリングリンだが大ボリュームのアフロヘアをした「茂くん」が続けて言う。

「僕は、大学入ってから1年間、JAZZをやってきた。アフロがやりたい曲に、JAZZのフィーリングが感じられなければ、やる気が、力が、出ない」

なんだこいつ、、、
”顔がぬれて、力が出ない~”
って、愛と勇気だけが友達のヒーローみたいな表現しやがって。
なんてことを思いながら私は続ける。

「まあまあ、そう言うけどな、このビデオを見てくれたら気分変わると思うで」

私はその時、たまたま手元にあった音楽ライブ映像を、
「茂くん」の家のVHSビデオデッキでスタートさせた。

そこには、まさに”音楽の神の使い”が奏でる音と、
確かな熱狂があった。

その熱狂は、”音楽の神に愛される御祭り”と呼ぶにふさわしいものだった。

”もう我慢できない”といった様子で「茂くん」は言う。

「え、この人ら、なんてグループなん?」

「あれ、しげちゃん知らんの?これが Sly and the Family Stone やで」

「えー、初めて見たわ。でも曲は聞いたことあるな。Dance to the Musicか。良いね」

「せやろ?俺はこんなビッグバンドを、ギターベースドラムとボーカルだけじゃなく、ホーンやコーラスもいる、ブラックミュージックをやりたいと言うてんねん」

興奮して早口になりながら、私は話し続ける。

「ちなみにな、しげちゃん、去年の御祭りで、こんなビッグバンド出てたか?」

「いや、なかったな。JAZZ系のビッグバンドで、どJAZZしか演奏してへんわ」

「ほら、そうやろ?ほな絶対目立てるで。このバンドで御祭りを最高に盛り上げようや」

その後は、
鬼殺しという名の安酒を摂取しすぎたため、
何を話したのかよく覚えていない。

でも、その年の御祭りでは、

大学一回生の私、アフロと、大学二回生の「茂くん」が4回生以上の大先輩たちもスカウトして結成したビッグバンドで話題をかっさらった。

当時、西部講堂近辺の某カフェ(夜はソウルバー)でアルバイトをしていた元軽音楽部部長や、その他OBたちからも注目してもらえたようだ。

”なんか、おもろい一回生がおるらしい”という噂がささやかれるようになったのだ。

それだけ注目を集めたものの、

正直いって、ライブ自体はひどいものだった。

今、もし当時の映像を見せられたら、
その瞬間に白痴となりこの世の外へと意識を向けるだろう。

そんなしょっぱいライブをしてしまったのだが、
今後4年以上にわたる西部講堂との付き合いが始まったこの時期の出来事は今でも忘れがたい思い出だ。

西部講堂でイベントがあれば、
イベントスタッフとして西部講堂の内外で酒を飲む。

串カツ屋を営業してイベント客をあおりながら飲みながら楽しむ。

さんまを焼いてイベント客をあおりながら飲みながら楽しむ。

読まなくなったBassMagazineをフリマで売りつつ飲みながら音楽を聴く。

そんなイベントを毎月のように繰り返す日々だった。

そこにはいつも、

幾何学模様の服を着た人々がいた。

サイケデリックな服装の人々だ。

京都のバンドマンって、サイケな服装の人が多い印象だ。

特に西部講堂の近辺は、うさんくさい雰囲気の人が多い。

百万遍大学生も普通にうさんくさい人が多いけども、

西部講堂周りで生息している人たちは、それに輪をかけてうさんくさい。

まあ、自分も西部講堂関係でイベントに携わっていたので、

同じ穴のナントカと言うものだと認識はある。

「アフロがいつもかぶってるニットタムも相当うさんくさいで」

「その七色の帽子、臭ってるで。四条や三条、鴨川でたまにみかけるフラフラの酔っぱらいの臭いがするねん」

「アフロは京都というより、大阪の西成区ってかんじのたたずまいやな」

とまあ、言いたい放題いわれていたことを思い出す。

別に意識をしてそんな風貌をしていたわけではない。

今の時代によく聞くコトバとして、「多様性」があるが、

京都大学西部講堂という”魔界”では、どんな「多様性」も、

ポジティブな誉め言葉でしかないのだと、

本気で呑気なことを言ってしまう空気感だ。

いや、2000年代はそうだっただけかも知れない。

1970年前後なんかは、もっとピリピリしていただろう。

自主独立の、学生による運営が今でも行われている西部講堂。

その「はじまりの空気」を、

魔界に入り、タイプスリップして味わいたい。

2024年の今、

まずは2000年代のあの頃へ。

そして、1970年代の、「音楽の神からの使い」が奏でる音楽を、

その音楽に聴きしれて、酔っぱらう魔界の住民たちを、

コッソリのぞき見するのではなく、

一緒になって乱痴気騒ぎを起こしたい。

魔界の御祭り。

魔界にいる神。

いや、神は神出鬼没、どこにでもおわすのだ。

2024年の今でも、西部講堂では御祭りがとり行われている。

ここでいう”御祭り”とは、音楽イベントのことだ。

ただし、もはや西部講堂という魔界では過去のものになってしまったイベントもある。

みやこ音楽祭しかり、
ボロフェスタしかり、

今はもう西部講堂で行われていない
数々のフェス、ライブイベントに思いをはせる。

その中に、確かに神はいる。

でも、
今この瞬間も、
確かに神はいる。

”音楽の神”から流れてくる音は、

西部講堂という魔界を思い出せば、

カラダの内側から流れてくる。

その、内側から流れてくる神の音が持つエネルギーを、

忘れない。

絶対に忘れない。

私の仲間たちだけでなく、

子どもたちにも、

「茂くん」だけでなく、

彼の子どもたちにも、

引き継いでいけるよう、

今、この瞬間も、

音を紡いで生きていく。

私が魔界で鳴らした音は、

音楽の神に届いていたのだろうか?

いや、死ぬまでに、音楽の神に「じゃかましい!」と怒鳴られるぐらい、

おもろくて、でっかい音で、

魔界を、

自分の周りを、

ひびかせてやる。

届いていたのだろうか?

なんて生易しいことじゃなく、

神に届けて神と乱痴気騒ぎをする。

それが一番楽しいんじゃなかろうか。

百万遍大学ならぬ京都大学。

魔界ならぬ、京都大学西部講堂。

鴨川ホルモーなんて小説が出てきたり、

森見登美彦さんの表現するダメ大学生の小説が出てきたり、

魔界「京都」には恐れ入る次第である。

・・・あれ、風呂敷が広がってきた。

改めて、話をもとにもどそう。

なんやかんや思い出を振り返りながら思うがままに書いてきたけども、

1つ、確かなことがあるんです。

あの、魔界、西部講堂でともに過ごしてきた人々は、

それぞれの場で、「それぞれの魔界」を現在進行形で作ってるんですよ。

自分も含めて、「あるていすと」(アーティスト)として、

その人生を、今を生きているんですよ。

その認識でいると、

今、この瞬間がめちゃくちゃ面白いんですよ。

そう思わせてくれる場所だから、魔界なんだろうな。

京都大学西部講堂。

その過去の歴史も、未来も気になる魔界に、あなたも一度訪れてみてはいかがでしょうか?


▼ついしん:
 本文内の”御祭り”の1つは、
 京都大学の学園祭、
 November Festival、
 俗にいう、NFのことを意味しています。
 もちろん、NF以外にもいくつも音楽イベントがあり、
 それは今も同様の認識です。
 たくさんの”御祭り”を盛り上げるのは人。
 その”御祭り”を見て喜ぶのは神。
 人には、神の喜びが投影されるしくみなのでしょうか。
 そのあたりの仕組みはよくわかりませんので、
 宗教学と、量子力学と、物理学と、哲学、形而上学を修め、
 プラグマティズムを実践のもと、
 宗教プラグマティズムとして体現し、
 人生を変えてまいることを変わらず決意のうえで、
 日々を幸せに生きてまいります。

思うがままに書いてみたら、

大学時代に書いてたブログのノリ、リズムで書きなぐる感じになりました。

なんだかんだあるけども、

生きるって、楽しいぜい。

生きてるって、いいなあ。

そんな想いにさせてくれる場所、

あなたにもありますか?


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