見出し画像

(2) 【ベッシー・ヘッドとは誰か】アパルトヘイト下に生まれて(南アフリカ編①):出生の秘密を知るまで

ここでは、作家ベッシー・ヘッドがどのような境遇で生まれ育ち、アパルトヘイト下の南アフリカで生きたのか、その出生から子ども時代、そして自らの出生の秘密を知るときまでを見ていきたい。この出生と子ども時代こそが、まさにのちのベッシー・ヘッドの人格を形作り、アイデンティティを模索し続ける人生の根幹の部分となり、かつ南アフリカの社会事情を体現したような重要な物語でもある。当然、のちの彼女の作品にもこの自らの生涯を通して感じ、苦しみ、体験してきたことが顕著に記され、かつベッシーが残した無数の書簡にも如実に現れている。

1. ポイント

ベッシー・ヘッドの生涯を語る上で、この出生の真実と幼少期から少女期にかけてのインパクトを抜きに語ることはできない。まさにアパルトヘイトに翻弄された運命とともに生きたベッシーの生涯で、以下がその後の彼女の人生を形作ったこの時期の重要なポイントである。

①【出生自体のインパクト】白人の母親と黒人の父親の間に生まれたというアパルトヘイト下の「違法」な出生であった。

②【精神を病むことへの恐怖】「母親が精神障害を患っていた」という宣教師の言葉により、自らも精神を病むことへの恐怖を抱いた。

③【アイデンティティの追求と孤独】13歳にして養父母が実の両親ではないことを知り、その後の人生を通して自らのアイデンティティとは何かを追求し続けることになった。また、生涯孤独の中で生きることになった。

2. ベッシーの母ベッシー・アメリアと父親の謎

母親ベッシー・アメリア・バーチBessie Amelia Birch”Toby”(ベッシーは母親と同名ベッシー・アメリアを受け継いでいる。母親のベッシーは家族の間で”Toby”という名で呼ばれていた)は、19世紀に英国から南アフリカに移住してきたバーチ家の7人兄弟の二番目として1894年3月13日に生まれた。1915年、Tobyはオーストラリアから南アフリカに移住していたアイラ・ガーフィールド・エメリーIra Garfield Emeryと結婚する。アイラは、南アフリカのオリンピック委員会の設立に関わり、長年事務局長を務めていた人物である。1915年、最初の子どもスタンレーが生まれ、1919年に二番目の男の子ロナルドが生まれている。しかし、Tobyの人生を一気に悲劇に突き落としたのが、1919年12月17日のスタンレーの交通事故死であった。自宅の目の前で車にはねられた幼い息子の暴力的な死について、Tobyの夫アイラはTobyを責め、その後二人の結婚は破綻し、苦悩するTobyは精神を病んでいくことになる。

スタンレーを失ったTobyにとって、まだ赤ん坊だった下の息子ロナルドは唯一の希望であった。その後、1933年ごろにTobyの精神状態は一層悪化して生活がままならなくなり、やがて彼女の生活の面倒や財産の管理などは、全て母親のアリス・バーチが担うことになるとTobyはプレトリアの精神病院に入院する。年月を経て彼女の状態は悪化と改善の波を繰り返し、病院を入退院しながら暮らすようになる。1936年10月、一時期状態の良くなったTobyはヨハネスブルグの弁護士に遺言状の作成を依頼したという。内容は、彼女の財産を息子のロナルドに譲り渡すというものだったとされる。この時のTobyにどのような心境の変化があったのか、それとも人生を大きく変えるような何らかの出来事があったのかはわからないが、将来を考える何らかのきっかけがあったことは想像できる。しかし、この遺言状は彼女の精神状態から考えて無効であるとされてしまう。精神状態の悪化したTobyは、離婚後時間が経ってからもアイラを夫と呼び、アイラの再婚が決まった時には取り乱し、何とその結婚式の詳細を調べ上げて出席までして周囲を狼狽させたという(*)

1937年4月、姉妹とともに東海岸にあるインド洋に面したビーチの街ダーバンでしばらく日々を過ごしたTobyだったが、この時になって初めて姉妹がTobyの妊娠に気づいた。Tobyは息子を失ってからというものずっとふくよかな体つきをしており、妊娠が気づかれにくかったという。この頃のTobyの写真を見ると、後のベッシー・ヘッドの容姿と驚くほどよく似ていることがわかる。そして、この子ども、つまりベッシーが生まれるまで誰もその父親が黒人であるということを知らなかった。

1937年5月、Tobyはダーバンから50キロほど内陸に入ったピーターマリッツブルグにあるFort Napier精神病院に入院し、二ヶ月も経たない1937年7月6日、ベッシーは生まれた。Tobyは、この子どもに自分の名前をつけることを望んだ。ベッシー・アメリア・エメリー(のちのベッシー・ヘッド)の誕生である。

このときに生まれた自分の娘ベッシーに対するTobyの心境はどのようなものだったかというのは想像するしかないが、少なくとも彼女は、この生まれた子どもに自分の名を与えることを望んだという。のちに作家となったベッシー・ヘッドは以下のように記している。

「南アフリカの当局が私にしてくれた唯一の名誉あることは、私が知らないこの愛すべき予測不可能な女性の名前を私につけてくれたことでした」(Ms, 1975)

*このような周囲を狼狽させる行動は、哀しくも結局のところ精神を患っていくベッシー・ヘッドのそれを連想させる。このことについては改めて詳しく記述する。

3. ベッシー・アメリア・エメリーの誕生と養父母

生まれた時に「白人」とされたベッシーは、白人夫婦に養子として出されるものの、すぐに「この子は何かがおかしい」と言われ戻されてしまう。南アフリカの人々は、人種的特徴を示すものに非常に敏感であった。肌の色はもちろん、髪の毛がカールしているかどうかなどを厳しくチェックするのは、人種主義的な意識はもとより、すでに人種差別的な法規制が存在していたからでもある。特にベッシーのような「ミックス」の子どもは存在そのものがすでに法に触れていたという事情もある。

白人夫婦から戻されたベッシーは、ピータマリッツブルグの貧しい地域に居住するネリーとジョージ・ヒースコート夫妻に養子に出されることになる。カラードであった夫妻は、ベッシーの養育についてその後も気をかけていたTobyの母親アリス・バーチの計らいもあり、Tobyの財産から月々3ポンドの養育費を得ることになった。ジョージは靴修理職人で児童福祉委員会のメンバーでもあった。ネリーは自宅の裏庭で違法な自家醸造酒を販売して生計を立てていたとベッシーはのちに書いている。

Tobyの病状は悪化していく中で、Tobyの母親アリスは幼いベッシーを気にかけるも、ベッシー自身はこの養父母であるヒースコート夫妻を実の両親と信じ育っていた。この出生の真実を13歳になるまで知ることのなかった彼女だが、母親も親戚も兄弟もなく天涯孤独であるというこのことが、やがて彼女の内面の根幹を形作る重要な要素となるのであった。

後のベッシーの記述によると、養母のネリー・ヒースコートは彼女にとって厳しい母親であったという。幼いベッシーは読書に情熱を注ぎたがったが、ネリーは彼女が本を読むことを嫌ったという。この養母とベッシーとの間では、感情的なすれ違いも存在したが、それは他の子どもと違うベッシーに対する不安の現れでもあったと想像できる。厳しく育てられ、時にひどい扱いを受けたベッシー自身の養母への感情も複雑ではあった。ネリーは、ベッシーに出生の真実について告げることはなかったという。

ネリーとジョージには、ベッシーより15歳年上のローナという養子がいた。このローナの娘であるベロニカ・サミュエルはベッシーと7歳違いである。姉妹のように育った姪っ子であった彼女とは、その後ベッシーがヒースコート家を出て以来連絡も途絶えていたが、25年の時を経て繋がり手紙のやり取りをするに至る。ベロニカはベッシーのただひとりの賞賛者となり、彼女との手紙のやり取りの中でベッシーは子ども時代のことを思い出すことになる。

1943年9月、ベッシー・ヘッドの実の母親Tobyが、Fort Napier精神病院で亡くなる。年齢は49歳であった。実の母親の死は、その後のベッシーの人生に大きなインパクトをもたらすこととなる。母親の病名は、「肺膿瘍」および「精神疾患」具体的には「dementia praecox」(schizophrenia=統合失調症)とされている。長い年月を経て、ボツワナで孤独に生きたベッシー・ヘッドもまた、のちにSchizophrenia「統合失調症」と診断され母親と同じように精神病院に入院することになってしまうのである。

実母であるベッシー・アメリアTobyの死後、Tobyの母親アリス・バーチがヒースコート家を訪ねたことを6歳だったベッシーは記憶していたという。もちろん、実母のことも、アリスが祖母であることも知らないベッシーではあったが、この女性のことは印象に残っていた。Tobyの死をきっかけに、ベッシーの養育費3ポンドが支払われることもなくなり、ベッシーは完全に「家族」から切り離され孤独の身になったのである。

同時期に養父のジョージ・ヒースコートが亡くなるとネリーの暮らしはますます困窮することになった。時は、1940年代の終盤。アパルトヘイトという人種差別主義が1948年に南アフリカ政府の政策として成立することになろうという時代だ。国民党が政権を取ると、1949年には雑婚禁止法(Prohibition of Mixed Marriages Act「混合婚姻禁止法」とも訳される)が成立、1950年には1927年に白人と非白人の恋愛行為を禁じたImmorality Act「背徳法」が改正を経て白人と非白人の性行為をも禁止することとなる。さらに、Group Areas Act「集団地域法」等アパルトヘイトの人種差別構造を体系化するような数々の法律の整備が一気に進んだ。

ネリーの生活は苦しくなり、そんな折、ジョージが役割を担っていた児童福祉委員会のメンバーの勧めで、ベッシーがネリーの重荷になっているということで、彼女を孤児院へ入れる話が決定してしまう。厳しい養母であったとはいえ、ベッシーはネリーのことを実の母親と信じ、ネリーもまたベッシーを愛していたと言われる。

1950年1月23日、12歳であったベッシー・アメリア・エメリーは、養母を残しダーバンにあるカラードの女子のための全寮制キリスト教系学校St. Monica's Diocesan Home for Colourd Girls(以下、セント・モニカと表記する)に入れられることになる。

4. セント・モニカでの生活

セント・モニカは、カラードの女子のための英国国教会系のミッションスクールであった。養母のもとを離れたベッシーにとって、家を離れることも、同時にローマカソリックから英国国教会系のスクールに入ることも初めてであり、大きく環境が変わることであった。ベッシーはローマカソリック教徒であるネリー・ヒースコートのもとで育ったため、英国国教会の教義に基づくキリスト教の教育は初めてだった。

セント・モニカでの生活は規則に厳しく、ルールを破った生徒は体罰を受けるような方針であった。ベッシーは厳しい教育方針にもめげることなく、セント・モニカからGreyling Street Coloured Schoolに通っていた。しかし、セント・モニカに入った年、ベッシーは養母ネリーや姪のベロニカ・サミュエルに会うことが叶わず、ホームシックにかかっていた。ネリーにとって、ピータマリッツブルグからダーバンまでベッシーに会いに行くことは簡単なことではなかった。しかし、1951年にはセント・モニカに入り一年以上たってからようやく一度ベッシーをセント・モニカに訪ねている。

G.S. アイラーセン著のベッシー・ヘッドの伝記"Thunder Behind Her Ears"(1995)によると、13歳のベッシーが執筆した最初の物語に関する印象的なエピソードがあるという。全人種の子どもたちによるエッセイや詩を集めた冊子が発行され、ベッシーは"The Stepping Stones of Truth"という物語を書いた。主人公のピーターは嘘つきで、周囲は彼を罰する(punishment)がなかなか変わることがなかった。ある日、父親から金を盗むという悪事をはたらいてしまうが、ある夢を見て彼は変わることができる。大きな川を渡ろうとして飛び石を渡ろうとするが、あまりにも痛くて思うようにできない。そこに純白のドレスを纏った美女が現れ、これは"The Stepping Stones of Truth(真実の飛び石)”であり、彼自身が手遅れになる前に正直にならなければいけないと告げる。目を覚ましたピーターは父親に金を盗んだことを正直に告白する。物語の締めくくりには、「ピーターの守護天使がそうしたように、他者を助けるのは愛です。罰を与えることは、物事を悪化させることにすぎません」このことは、当時のセント・モニカで体罰を含む厳しい教育方針であったことへのベッシーの直截的なメッセージであったといえる。この荒削りだが深い点を付いている作品のスタイルが、13歳という年齢で発現していることが、彼女の秘められた才能の豊かさを象徴しているかなり興味深いエピソードであると言えるだろう。

この時期、ベッシーの養育のために実母の遺産から支払われる月々3ポンドの養育費は、セント・モニカに支払われるようになっていた。しかし、実母の遺産はさほど大きな額ではなく、セント・モニカの学長の計らいでベッシーは貧困状態にある要支援児童(a child in need of help)として、政府の資金援助を受けることになり、残った遺産の40ポンドはベッシーの将来的なニーズのために確保されることとなった。

1951年8月、セント・モニカに来てから19ヶ月後、その年のクリスマス休暇のためピータマリッツブルグの自宅へのベッシーの帰省を許可するかどうかが議論され、ソーシャルワーカーも学長も許可を下ろすことは良いことではないと判断を下した。このことが、やがてベッシーの人生を大きく変えてしまう事件へと繋がっていくのである。

5. 「あの人はあなたの本当の母親ではありません」出生の真実を知る

1982年に、作家ベッシー・ヘッドは13歳で初めて自らの出生の真実を知ったという人生最大の出来事を振り返り、こう書いている。

「どのような伝記作家であっても、私の人生の物語に涙が出るほど退屈してしまうことを私は恐れている」(Notes from a quiet backwater 1982 "Woman Alone: Autobiographical Writing 1990)

この衝撃的なエピソードは、まさにベッシー・ヘッドの存在を象徴するようなものである。わずか13歳のベッシーがその日まで養母ネリー・ヒースコートのもとで築いてきた小さく平和な世界を、一瞬にして完璧に壊してしまうドラマがあったこと、その人生が最初からアパルトヘイトに絡め取られていたということは、彼女を語る上でもっと重要な要素である。そして、皮肉なことに彼女の作品の秀逸さをより一層引き立たせ、さらに没後34年という歳月を経た現在でも多くのファンを涙とともに惹きつけるひとつの要素であることは間違いない。あるいはこのことがあってこそ、彼女が類稀なる才能を発揮することへ繋がっていったという皮肉なことなのかもしれない。

1951年12月19日、クリスマス休暇が始まる頃、ベッシーは学長である英国国教会宣教師のもとへ呼ばれ、衝撃的な事実を告げられる。

「あなたは家へ帰れません。あの女性はあなたの母親ではないのです」部屋を飛び出して庭の茂みで泣いていたベッシーを別の教師が見つけて声をかけた。ベッシーは「お母さんのところへ返してもらえないから自分は死んでしまう」と訴える。

以下は、1982年に彼女自身が書いた文章である。(A Woman Alone, 1988)

彼女は私の腕を引っ張って学長室へ連れて行き、代わりに学長は私を車へ押し込むとまっすぐダーバンの治安判事裁判所の少年部門に連れていった。そこには若い男性がいて、早口で何かを読み上げたが私は聞き取れなかった。だが、彼はまるで私が犯罪者であるかのようになじるような目で私を見ると、敵意に満ちた声で「君の母親は白人女性だ。聞いているのか」と言った。
セント・モニカに帰ると、宣教師は大きなファイルを開き恐ろしい顔で私を見て言った。「あなたの母親は精神障害者だったのです。あなたも気をつけないと、母親のようにおかしくなってしまいますよ。あなたの母親は白人の女性でした。彼女は、黒人*の馬屋番の子どもを身ごもったから家族は閉じ込めざるを得なかったのです」
彼女は、自らの言葉の恐ろしい残酷さに完全に気づいていないようだった。だが、この後何年ものあいだ、私は宣教師と彼らが象徴するキリスト教に対する極端で出口のない嫌悪を心の中に抱き続け、二度とキリスト教会に足を踏み入れることがなかった。

ここまでのストーリーは、世界中のベッシー・ヘッド研究者が必ず語る部分であり、ベッシー自身何度も語っている。まさにアパルトヘイトを象徴するようなドラマではあるが、この出来事は彼女が亡くなるまで心の深い傷と孤独とともにあった。

*アパルトヘイト下の南アフリカで"native"は黒人を指す

6. バーチ家の真実と父親の謎

「競走馬を所有する富裕層出身の白人女性が、馬屋番の子どもを身ごもったから精神病院に入れられ、そこでベッシーを産んだ」というベッシーが自ら書いているストーリーは長い間語られ続けていたが、それが孕んでいる矛盾と出生の謎については彼女が亡くなってから少しずつ明らかになってきた。その最も大きなきっかけは、ベッシーの母親ベッシー・アメリア(Toby)の弟、ベッシーの叔父にあたるケネス・バーチ(1914-2010)が、1995年にバーチ家に関する真実を書いた記事を南アフリカ・グレアムズタウンのローズ大学に寄稿したことであろう。バーチ家の歴史を知る年長の者として記すべき責任があると表明して始まるその原稿には、バーチ家が富裕層だったことはなく、競走馬を所有したことも馬屋番を雇ったこともないと明記されている。ケネス・バーチは、ベッシー・ヘッドの出生に関するストーリーへの想像をベッシーを含む多くの人々が膨らませ、物語に仕立て上げたと指摘している。("The Birch Family: An Introduction to the White Antecedents of the Late Bessie Amelia Head" English in Africa Vol. 22, No. 1 (May, 1995), pp. 1-18, Rhodes University)ケネス・バーチがこれを執筆した1995年、ベッシーはすでに1986年に48歳で亡くなっており、1970年代ごろから増えてきたベッシー・ヘッド研究者にとっては初めて明かされるあまりに衝撃的な事実であった。

富裕層でもなく馬屋番もいない、さらに出生のときベッシーは「白人」と思われていたため、「母親が黒人の子どもを身ごもったから精神病院に入れられた」という幾度も語られた定番のストーリーは虚構だったということになる。

この記事が書かれた同時期の1995年にベッシー・ヘッドの伝記「Thunder Behind Her Ears」を出版したデンマーク人研究者G.S.アイラーセンも、バーチ家が競走馬を所有していなかったことを指摘している。

ベッシー・ヘッド研究者の間でも、父親の謎については議論がされているが、真実はわかっていない。アイラーセンは、以下のように書いている。

Tobyはいつもふくよかな体型をしており、年月を経るごとに体重は増加していたため、妊娠6ヶ月になるまで誰も体型の変化に気づかなかった。それ(妊娠)がどのようにしてどこで起きたのかの記録は残っていない。おそらく彼女が海岸地方に行くまでのヨハネスブルグか、ダーバンに到着した直後か。だが、興味深いのはこの時期は彼女が遺書を作成した時期、1936年10月と一致するということだ。彼女の人生を大きく変えるドラマチックな出来事が誘引となっている可能性はあるだろう。愛、もしくはレイプなのかもしれない。(Thunder Behind Her Ears, 1995)

ベッシー・ヘッド本人は、この出生の秘密について以下の通り書いている。

彼女(Toby)は結婚していたが、その結婚がうまくいかなくなり家族の家へと帰っている。そこで突然、予測できない形で、彼女はひとりの黒人男性に愛と温かさを求めることにしたのだ。だが、家族は南アフリカ社会の競走馬所有者という上流社会に位置していた。家族の家はヨハネスブルグにあったが、忌まわしい秘密を家から遠く離れたところに隠す必要があったのだ。彼女はピータマリッツブルグの精神病院から出ることなく、1943年に亡くなった。(Notes from a quiet backwater I, 1982, in A Woman Alone)

ベッシー自身は、この話を信じていたのだと考えられる。父親に関する情報は今でも明らかになっていない。だが、彼女自身が信じていたこの物語は(愛に関する部分を除き)セント・モニカの少女時代、13歳の時に宣教師から伝えられた物語であり、ベッシーが大きく想像を膨らませて作らせたものとは言い難い。いずれ父親の秘密が判明する日が来るかはわからないが、重要なことは、ベッシーがこの物語を信じたという事実そのものであるのかもしれない。これは、孤独の中で愛を心のよりどころにして生きてきたことの土台となるストーリーだったのかもしれない。

なお、自らの出生に関してベッシー・ヘッド本人が書いた文章については、追って紹介することとしたい。

事項では、ベッシー・ヘッドがセント・モニカを出て高校に進み、教師となってからジャーナリストとして活躍し、ケープタウンに行った時期について取り上げたい。

ーー

本マガジンの主旨については以下の記事をご参照ください。

ブログ『あふりかくじらの自由時間』

作家ベッシー・ヘッドによる小説(日本語未訳)の日本語版翻訳を出版してくださる出版社を探しています。もしご検討くださる出版社・編集者、もしくは出版ご検討いただける方をご紹介できるという方がいらっしゃいましたらお知らせ頂けますと幸いです。詳細をお送りいたします。(こちらのページ一番下にお問い合わせフォームがあります)

言葉と文章が心に響いたら、サポートいただけるとうれしいです。