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辞書を引く楽しみ

子どものころ、父は使い込んだ自分の辞書をよく自慢げに見せてくれた。
小さな英和辞書だったが、ページは開いてすっかり分厚く柔らかくなり、小口部分には手垢がくっきりと黒い帯のようになっている。
父は仕事で英語を使っていたので、日ごろからよく勉強をしていた。

小学校六年生でアメリカに渡り現地の学校に通うようになって、わたしも辞書を買ってもらった。
何せ学校でコミュニケーションを取るのに英語がわからなくては話にならない。ごく普通の日本の小学生だったわたしは、辞書を引き引き学校の授業についていこうとしたし、友だちとの会話を試みた。

辞書と言えば、もうひとつ思い出すエピソードがある。

小学生のころどこで読んだのか思い出せないのだけれど、何らかの事情があって小学校に通えず文字の読み書きができない昭和時代の大人たちの話だった。実話だったと思う。

読み書きができず苦労をして生きてきたひとたちが、大人の識字教室に通い、真新しい辞書を手にひとつずつ文字を書いて覚え練習していく喜びの描写が印象的だった。
それは輝かんばかりの感動に溢れていて、文字を読み書きできるって何と素晴らしいことなのだろうと子どもながらに思った記憶がある。

その影響で、辞書といえば世界への扉を開いてくれる魔法のツールのようなイメージを持っていた。

いま、ときどき思うのだけれど、いったいどれくらいの大人が辞書を日常的に使っているのだろうか。
文字や文章を書く仕事をしているひとは、ほぼ辞書のヘビーユーザーであると想像する。

だけど、それ以外のひとはどうなんだろう。

わたしは今でも辞書をよく使う。
もちろん、英語の意味間違いや綴り間違い、日本語の漢字や使い方の違いなど、自分がかなりやらかすことを知っているからだ。

少し不安に思ったらいつも辞書で調べている。
当然、お恥ずかしい間違いはゼロにはならないけれども、この習慣のお陰で少なくとも半減はしているのではないだろうか。

最近、立て続けにいくつか気になる英語の綴り違いを見つけてしまった。

メールやSNSの書き込みだったり、昔からよくある「英語でおしゃれにデザインしたつもりで変になってしまうパターン」ならまだしも(良いかどうかは別として)、気になるのはお店のメニューや看板など、継続的に毎日使うような大切なところにも間違いがいくつもあったりすることだ。
グラスワインとか、サラダとか、お店にとって重要な単語が間違っていると、どうしたものかとこちらがそわそわしてしまう。

余談だが、以前街を歩いていてびっくりしたのは、ハンドメイド「フェア」の大きなポスターがfairではなくfearになっていたこと。それじゃ恐怖ですよ。
(ちなみに一緒にいたアメリカ人の友人たちに手作り恐怖って何?と質問されて、おそらく綴り間違いだよと説明したら彼女らは爆笑して写真を撮っていたというエピソードもある。人通りが多い駅のポップアップショップでそのポスターはかなりまずかったと思う)

綴りミスに気づいてしまっても、なかなか指摘しづらいのだけれど、お店にとって大切な看板やらメニューの単語が間違っていると、そのお店のことが色々心配になるのはやはり余計なお世話なのだろう。

ミスが多いわたしからご提案できることはひとつ。
少しでも不安があったらすぐ辞書を引くようにすれば、避けられたかもしれないよ。

そして辞書を引くって本当に面白い。
今ではページを手垢で真っ黒にすることもなくなったが、自宅では基本的にカシオのプロ仕様の電子辞書を使っている。これはかなりの種類の辞書が入っているし、複数の辞書を横断して検索できるので翻訳にも役立つ。

普段の持ち歩き用はスマホの辞書アプリだ。
今は、アルクなどいくらでも辞書ツールはある。

英語の綴りや意味はもちろん、日本語の意味や使い方、漢字など、毎日辞書で調べることを楽しめば、不安もなくなるし、失敗もきっと半減するだろう。(なくなりはしないが)

スマホを持ち歩く時代となった今、普段使うのはどれでもいいと思う。
お気に入りの辞書アプリを見つけてみてはいかがだろうか。

などと思いながら、まだなじみのお店のメニューについて何も指摘はできずに、グラスワインの綴りから目をそらしてビールをオーダーしている。

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【11/100本】

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