鮮魚売り場に並べられているのは、魚ではなく死だったことに気づいてしまう一首(短歌一首鑑賞文)

スーパーの鮮魚売場の明るさに目を開けたまま死んでいる鯖

『駅へ』松村正直

歌自体はとてもシンプルである。歌の主人公がスーパーの鮮魚売り場でサバを見た。それだけのことである。

しかし、ここには、それだけでは済ませられない暗さがある。執拗に迫ってくる暗さが。その暗さとはなんだろうか。


主人公が見つめている鮮魚売り場とは、スーパーマーケットの中で新鮮な魚を販売する空間である。白いライトと、新鮮さを売りにする魚の生簀や氷が敷き詰められた売り場が特徴である。

そこでは活きがいいことが評価され、価値となる。

有り体に言ってしまえば、「さっき死んだばかり」の魚や「いまにも死にそうな」魚が高い価値を持つ。そしてそれらを鮮魚と呼ぶ。つまり、鮮魚とは、死までどれだけ近いかを指し示しているとも言える。

死に近ければ近いほど評価される場所、それが鮮魚売り場である。そんな鮮魚売り場で、主人公は死んだ魚と目を合わせてしまう。不意に。

そして、その瞬間、この空間の不思議さに囚われてしまった。


その目は何を訴えていたのだろうか。わたしたちは、普段彼らの目を見ない。見つめない。目を合わせない。

そこに死があることを見つめないためだ。死ではなく、商品である。そう思って手を伸ばすために。視線を外す。

それが、商品社会、資本主義社会での正しい振る舞いである。

それなのに、この歌の主人公は、目を合わせてしまった。鯖と。死んでいる鯖と。

その結果、何を読み取ったのだろうか。死は、無を意味するのだろうか。それとも、何かを。


そのメッセージはここには描かれていない。描かれているのは、強烈な対比である。明と暗の。

スーパーマーケットは明るい。明るくすることで商品を魅力的に見せようとする。鮮魚売り場などは特に。過剰なほどの明るさがそこにはある。

その明るさ、白さによって、そこに美味しさ、清らかさ、そして正しさが生まれるかと信じているように。

しかし、その明るさの中で、かの主人公は、鯖の死を見てしまう。見つけてしまう。その明るさにはあまりにも不似合いな死んだ魚の目を。

広い空間の明るさから、狭い死んだ魚の目の暗さへと歌はフォーカスをしていく。絞り、狭め、息苦しいほどにクローズアップする。そこに何か真実を見つけたかのように。

スーパーマーケットが、商品社会がひた隠しにしてきた、明るさで誤魔化してきた、暗さがそこには宿っていた。そして、歌はそこで終わる。

わたしたちには、暗さが手渡される。問答無用で。さあ、わたしたちはこの暗闇をどうしよう。


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