「君たちはどう生きるか」の不可解なストーリーを、父親の言動から解釈してみた
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以下、ネタバレを含みます。
母親を求める、その過程を乗り越えることで、継母を愛せるようになる。簡単に言ってしまえば、これが、宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』のストーリーである。
しかし、それだけでは不可解な点が多すぎる。なぜ、眞人はみずからの頭を石で傷つけたのか?なぜ父親はあれほど躍起になって犯人探しをすると言ったのか?なぜ夏子は別の世界で子どもを産もうとしたのか?など、数え上げればキリがない。
それでも、ひとつずつ紐解いていくことで、これらはきっと説明できる。製作者を信頼して、その深い森へと分け入っていくことにする。
まず、この物語の冒険がスタートするのは、夏子が失踪したことがきっかけとなる。その失踪した夏子を探しに、森の奥に深く入っていき、青鷺を追い詰めたところで、異世界へと沈み込んでしまう。
そこから、キリコと出会いなおし、大叔父から後継者として認められ、若かりし母親と手を取り合うことができるようになるという物語である。
つまり、夏子が失踪しなければ、この物語は始まることができない。
夏子が森へ入った理由
では、なぜ、夏子は失踪したのか?物語を進めるために仕方なくそう設定したのか。いやそうではなく、彼女には失踪をする理由があった。もっと言えば、お腹の子を産んではいけないという罪の意識があった。そう考えることもできる。
そもそも、妊娠中で体調不良も重なって寝込んでいる時に、家のしきたりで近づいてはいけないという森の奥へと進んでいくのは、よっぽどの理由がないとあり得ないことである。
彼女は、あの時、切迫した目的意識を持っていたとも言える。そして、それは出産への恐怖、罪の意識ではないだろうか。
というのも、夏子が異世界で出産をしようとしていた空間は、石の洞穴のような場所だった。石の女、うまずめ。それは、現代では差別的な意味合いも強いため使われなくなった言葉である。
うまずめという響きの通り、産まない女性(産めない女性)を示す言葉である。つまり、夏子は異世界の石女を象徴する場所で出産をしようとした=実世界での出産をやめようとした。
では、なぜ、夏子は自分の体を危険に晒してまで、出産を無かったことにしようとしたのか。
眞人の父親が犯した罪
それは、夏子の夫、眞人の父親の存在が関係してくる。
オープニング、火事のシーンから始まる。自宅で眠っている主人公の眞人が、騒動の音で目を覚ます。そして遠くの方で火の手が上がっていることを気づく。
そこに、父親がこう叫ぶ。
「母さんの病院が火事だ!」
おかしくないだろうか。映像上でもかなりの距離があることがわかるにも関わらず、父親は瞬間的に、家事の現場をピンポイントで指し示すのである。もし、どこが火事かを知らなければ、「母さんの病院の方角だ」とでもいうのが自然である。
なぜ、父親は火事の現場をピンポイントで指摘できたのか。このセリフに意味が込められているとしたら、その答えは一つしかないだろう。
そして母親が亡くなってから一年後、眞人と父親は長野へ疎開する。そして、疎開先には既に新しい母親である夏子がおり、夏子は妊娠をしていた。
あまりにも都合が良すぎるほどにとんとん拍子に話が進んでいくことに違和感を覚えるのは、考えすぎだろうか。病弱の母親が火事で死に、疎開先に自分が経営する工場があり、夏子が妊娠している。
作り話だからそういうものだ、とも言えるかもしれないが、これらに意味があるとしたら、これらが父親の謀略だった、と考えると話が見えてきてしまう。
妻が入院してから、夏子との関係が進展していき、そのうちに妻が邪魔になってしまう。火事や戦争のどさくさの中、長野へ疎開し、そのまま大家へ身を寄せるようになり工場の経営へと腰を落ち着けた。
この事実を、夏子が知ってしまったとしたら。自分が妊娠している子どもを産んでいいのかどうか。そして、この結婚関係が本当に良いものなのかどうか。思い悩み、そして、ひとりで異世界へ消えてしまおうと決断をしても不思議ではない。
ここに、悪意としての父親と、それに悩まされながら善意を貫こうとするこの長野の一族の対比が見える。
悪意のある石は、戦いである
さらにいえば、父親が経営していた工場は、飛行機工場である。つまり、戦争で敵を倒すための、兵器を作っていた。戦争に積極的に参加し、息子の喧嘩にまで「絶対に仇をとってやる」と介入するのが、この父親である。
この父親は何を象徴しているのか。それはおそらくこの現実社会であり、悪意のある石である。大叔父と眞人の会話のところで、眞人は悪意のある石を積み上げてはいけないことに気づく。
つまり、善意が必要である、と。しかし、大叔父が善意のある石だけを13個用意したところでは、自分の手は既に悪意に染まっているから善意の石に触れることもできない、とも。
そうすると、眞人には悪意を見抜くことのできる善意もあれば、自分を石で傷つけた時のような悪意も持っているということになる。
そして、それはおそらく、眞人の血筋に根拠が求められる。
つまり、戦争、敵を倒すこと、邪魔なものは力で排除しよとする父親と、世界を守り続けてきた大叔父、火を受け入れることを決めた母親、自分の体をかえりみず正しいことをしようとした夏子、善意をどうにか進めようと、この世界を受け入れようとする一族との、混血が眞人なのである。
眞人のギリギリの自傷行為
そう考えると、なぜ眞人が、同級生との喧嘩の後に自分を傷つけたのかも説明がつく。それは、自分の中に芽生えた悪意を、相手に向けることをギリギリで我慢したからである。
喧嘩に(おそらく)負けた眞人には相手への復讐心や敵意が芽生えた。しかし、それを相手に向けて振り下ろすことは、母親の血が許さなかった。だからこそ、石を握りしめ、自分の頭へと振り下ろした。
ここでの石とは、ただの河原の意思ではない。それは、悪意を持てば人を殺すこともできる包丁であり、戦闘機である。その悪意をのせた石を彼は自分へと向けた。それが、父親の血と、母親の血との折衷案だったのだろう。
あまりにもグロテスクなジャムの正体
そして、その石の結果、血が吹き出した。この血が補われるシーンが、映画の後半で現れてくる。そして、それがおそらく継母を受け入れることのできた、つまり、世の中を受け入れようと、善意を信じようとするきっかけにも繋がっている。
それは、ヒミの家で供されたパンの上にのっていたジャムである。
この映画で食事シーンはあまりにも少ない。ジブリ飯という言葉も生まれるほど、食事シーンが注目されてきた宮崎駿の作品とは思えないほどである。
具体的に、眞人がものを口にするのは2箇所。長野の家で、ばあやたちと一緒に白飯のようなものと漬物のようなものを食べるところ、とヒミとのシーンだけである。
しかも、最初に出てくる食事シーンでは、はっきりと美味しくないといった。これは、田舎の食事が口に合わないという意味合いもあるかもしれないが、それ以上に、母親から差し出されたものではないという意味合いもあるようだ。
そういう意味では、今回の唯一の眞人が美味しそうに物を食べるシーン(キリコから出されたシチューは、口にしたところが描かれていないので除外している)は、母親から手渡され、その上には、バターとジャムがたっぷり乗せられている。
そのジャムが赤く、パンから溢れるように出てくるのである。それも、眞人が口にするたびに湧いてくるかのように、モクモクと。それは、最初の頭から血を流すところを想起させるほどの、勢いと生々しさである。
あの時に失った血を、悪意によって流した血を、善意の象徴である母親から受け取り、体に補充したのだろう。その少し後に、夏子のことを、夏子母さんと呼ぶシーンに繋がっていく。
この家族としての宿命を受け入れ、夏子を受け入れることがなぜできるようになったのかその大きな変化は、描かれていない。が、そのサポートとなったのは、母親から分け与えられた血だったのだろう。
そして、自分の悪意に意識的になりながらも、善意へと進んでいく強さを身につけた眞人は、夏子と一緒に現実世界へと帰る。そこには、母親と出会い、夏子と出会い、自分の悪意と、善意と出会うことで、すこしだけ成長した眞人がいた。
終わりに
10年ぶりの宮崎駿の新作、それも宣伝を一切しないという前代未聞の戦略。その中で、このような解釈を公開するのがいいのか悪いのかはよく分からない。
また、一度見ただけのため、記憶違いがあるかもしれず、その辺りは、是非コメントで教えてもらいたい。
また、これら以外に、映画の中に、監督からのメッセージを探すとしたら、「我を学ぶものは死す」と書かれたあの不穏な空間がそれに当たるのだろうか。
映画のことを考えたりしていないで、船で旅に出ろ、と。そう言われているのかもしれない。
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