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Connect Verba(コネクトウェルバ)

登場人物紹介(別記事)


第1話『ゆめみるおとなたち』


〈【急募】頭の回転が速くて、なおかつ大金を稼ぎたい方へ。あなたにぴったりのお仕事があります。詳しくは、下記までお電話ください。〉
 カナダに拠点を置くゲーム開発会社【パンタシア】が、日本支社近くの駅にあるデジタルサイネージに広告を掲載したのは2036年の4月。最初の頃は物珍しさも相まってか、申し込みが一日10件は下らなかった。5月のゴールデンウィークに旅行客が撮った写真がSNSで拡散され、全国から問い合わせの電話が一日100件ほどかかってくるようになる。だが、8月に入る頃には、電話はほとんど鳴らなくなった。広告の前で足を止める人間も減り、担当者である三葉早百合(みつはさゆり)は、早くも次の手を打つ必要に迫られている。
 8月8日金曜日の午後2時、三葉は遅めの昼食を摂るため、駅の近くのカフェへと向かっていた。目的地が会社から駅を挟んで反対側にあるため、駅の中を突っ切って歩いていく。その途中、今では三葉自身もほとんど注意を払っていないデジタルサイネージの前に、一人の男性が立っているのが見えた。真夏だというのに長袖のトレーナーを着て、汚れの目立つスニーカーを履いている。どんな顔で広告を見ているのかが気になり、三葉は男性の横顔が見える位置まで回り込んだ。人間、30を過ぎると途端に大胆になるものだ。不審者だと言われたら、弊社の広告なんです、と言おう。
 その人物は、まだ高校生ぐらいの少年だった。無造作に伸ばした黒髪が、肩に触れるくらいまで伸びている。彼は唇をきゅっと結び、どこか憂いを帯びた表情で液晶画面をじっと見つめていた。その様子は、一言で言えば、静謐。彼の周りだけ、時間が止まっているかのようだった。5つの広告が代わる代わる映し出される広告画像に照らされて、少年の顔が白・青・黄色と色を変える。
 少年の姿につられ、三葉も2分ほどその場に立ち尽くしていた。新幹線が到着したときのアナウンスでハッと我に帰り、足を無理矢理動かして歩き始める。
「彼、自分頭いいんです派でも、金が欲しいだけなんです派でもないわね……」
 三葉は、名残惜しそうに少年の背中を横目で見ながらつぶやいた。
 広告を見て連絡をしてくる人間は、大きく分けて3種類いる。
 一つは、頭の良さを自慢したい人間。学歴が高く、知識はあるが謙虚さと品性に欠けている印象がある。今回の広告案件では、ペーパーテストと適性検査はクリアするが、実際に作業をさせてみると思ったほどの成果を出さない。
 もう一つは、手っ取り早く金が欲しい人間。目先のことしか頭になく、自分にとって都合のいい文言しか読まないで応募してくる。こちらが丁寧に説明しても、面接時や雑談でトンチンカンな返しをする人間が多い。
 そしてもう一つは、単なる好奇心から問い合わせをしてくる人間。これが一番厄介なのだが、会社のサイトに書いてあることを読み上げるだけで、たいていは満足して電話を切る。世の中に、暇を持て余している人間のなんと多いことか。この最後のタイプの人間に対応するために、三葉は自動音声アナウンスを導入した。彼女の担当する日本以外では、そのような手間をかけずとも済んだという話を同僚に聞き、三葉は嘆息したものだ。
「いらっしゃいませ」
「今日のパスタランチ一つ」
 三葉の行きつけのカフェは、【コッタ・コッタ】という小さな店。ここなら、待たずにランチが食べられる。流行っていないわけではなく、オーダーストップの午後2時を過ぎてから入店するからだ。もちろん、他の店では三葉もこんなマネはしない。
「早百合、本日のパスタランチは梅とイカのペペロンチーノだぞ。鶏肉に換えていいか?」
 オーナーである佐藤晋(さとうしん)とは中学時代からの付き合いで、三葉の好みもよくわかっていた。偏食家の三葉にとっては、大変ありがたい存在である。
「ありがとう。よろしく」
 コッタ・コッタのカウンターは5席。テーブル席は3つで、店の床面積から考えるとずいぶん少ない。おまけに、テーブルと椅子は出店の際に中古をかき集めてきたため、テイストも高さもてんでバラバラだった。料理はおいしいが、店名に反して凝った内装ではない。だが、素朴で親しみやすい佐藤の雰囲気には、とても合っている。
「サラダのドレッシング、選んでいいぞ」
「青じそノンオイル一択」
 佐藤お手製のシーザードレッシングが店の売りの一つだが、三葉の口には絶望的に合わない。笑いながら「了解」と言う佐藤の優しさに支えられ、今日も三葉は人間らしい食事にありつけている。
「ほら、お待たせ。サービスでプリンつけてやるよ」
「晋様、いつもありがとうございます! いただきます!」
 両手を合わせて、三葉は梅と鶏肉のペペロンチーノパスタを食べ始めた。最初は行儀良く黙って食べていたのだが、自分以外に店内にいた客が出て行くやいなや、佐藤を捕まえて喋りはじめる。
「ねぇ、さっきうちの会社の広告見てる男の子がいてね」
「あぁ、まだあったんだな、アレ」
「ちょっと雰囲気あるから、気になったの」
「イケメンだったか?」
「そういうんじゃなくて……。そうね、身近な人で喩えると、温田(おんだ)くんみたいな雰囲気よ」
 温田というのは三葉と佐藤の高校時代の同級生で、現在はDV被害者支援保護団体の代表を務めている男性だ。
「どう表現していいかわからないけど、とにかく、何かを知ってそうな感じ。こちらが質問したら、的確な答えを適度な分量でくれる気がするの」
「わかる。で、その少年に同じものを感じたってことか?」
 そう、と三葉は頷いて、大きめの鶏肉を頬張った。少年とは視線すら合わせていないのに、何故だか彼は何かを『持って』いるような気がする。
「そんなに気になるなら、声をかけてみろよ。まだ誰もいないんだろ? 他のメンバーが」
 三葉は無言で頷いて、重く暗いため息をついた。
「もう4ヶ月よ……。一人しか決まってないのは、うちのチームだけ。2ヶ月後には本戦が始まるのに……」
 右手に持ったフォークが、急にひどく重たく感じられた。佐藤はしょうがないなとつぶやき、洗い物をするためシンクへ向かう。三葉は、ペペロンチーノとサラダをのろのろ食べ進めた。頭の中では、日本で唯一のプレイヤーのことを考えながら。
 プレイヤーの名は、櫻井山桜桃(さくらいゆすら)。現在17歳で、一応学生らしい。本人は高校を辞めたと言っているが、三葉は保護者から休学中と聞いている。身長体重ともに平均、顔立ちも平均的。強いて言えば、目が大きいような印象を受ける。髪型だけが変わっていて、ブリーチした短髪を青・紫・銀色に派手なピンクが加わるユニコーンカラーに染め上げていた。
 いや、一番変わっているのは、彼の思考能力だろう。そうでなければ、あのゲームであんなに高いスコアが出るわけがなかった。しかも、練習試合とはいえ、一人でブラジルの精鋭4人組のチームに勝ったこともある。
 思考している脳の状態を数値化し、スコアを競うゲーム【コネクトウェルバ】。櫻井山桜桃は、全世界に散らばる百余りのチームの中で、高いスコアを叩き出し続けている天才プレイヤーの一人だ。彼らの思考回路を理解し、それを他者にも応用できるメソッドにすることができれば、全体のスコアが上がる。プロジェクトに関わるメンバーたちは、そう考えている。
 だが、事はそんなに単純ではない。他国にいるチームとのミーティングでも、彼ら天才プレイヤーの困った特徴が、たびたび議題に上がっている。単独行動を好み、奇行も目立つ。制御できるスタッフを探してお守りをさせるのが大変だ、と。
 お守りが大変だというのはよくわかる。だが、三葉が日本チームのチーフという立場を守れているのも、山桜桃の高い能力があってこそだった。彼女以外のスタッフは、中身の入ったペットボトルを壁に叩きつけられたり、ゲームに参加してもやる気を見せずにスコアゼロで終了するなど、あらゆる手で山桜桃に撃退されている。
 三葉に山桜桃のお守り役が回ってきた当初、彼女は一歩も引かない対決姿勢で臨んだ。ペットボトルが飛んでくればキャッチして投げ返し、スコアをわざと低く保とうとする山桜桃に英語で話しかけて頭を働かせる。2週間もそんなことを繰り返しているうちに、山桜桃の態度が徐々に軟化して、現在の距離感に落ち着いた。
「とにかく、訓練に最低1ヶ月はかかるんだから、今月中に見つけないと間に合わない」
「それ、先月も聞いたぞ」
「毎月言ってるわよ! でも、今月は本当にヤバいの!」
 怒りに任せてパスタとサラダを平らげ、三葉はサービスでつけられたプリンに舌鼓を打つ。耐熱の薄いグラスに入った焼きプリンは、表面のカラメルの苦さとプリンのとろりとした食感や甘さが相まって、天上の味に思えた。
「さて、ごちそうさま。子守に戻るわ」
 気合を入れて立ち上がり、携帯端末の画面を支払いアプリに変えて佐藤に差し出す。
「櫻井くんにもプリン持って行ってくれよ。あとで感想聞かせてって伝えて」
 佐藤が、スマホと一緒に小さな紙袋を渡してくる。三葉は中身を覗いて、おや、という顔をした。
「2個入ってるけど、片方は私の分?」
「お前は今食べただろ。もう一つは、今日見つけたっていう少年の分」
「きっともう居ないわよ。40分も経ってるから。私が食べるわね」
 礼を言って、三葉はコッタ・コッタを後にする。左手に下げた紙袋の重みを幸せに感じながら、行きと同じ道を通って戻った。駅の中を通り抜けるとき、デジタルサイネージの方へちらりと目をやる。思わず、足が止まった。
 あの少年が、まだ液晶画面の前に立っている。
 三葉は自分が持っている紙袋に目を落とし、佐藤の勘の鋭さに舌を巻く。一つ深呼吸をして、三葉は少年に歩み寄った。
「その急募の広告出してるの、うちの会社なの」
 最初、自分に話しかけられているとは思っていなかつたらしく、少年は無反応だった。三葉はデジタルサイネージのすぐそばまで歩いていき、自社の広告が映ったタイミングで、声を張り上げる。
「この広告、うちの会社が出してるの。興味があるなら、話だけでも聞いてもらえる?」
 少年は突然現れた三葉にわずかに驚きながらも、こくりと頷いた。正面から目を合わせてみると、彼が聡明そうな顔立ちをしていることに気づく。やはり、お金だけ欲しいんです派ではなさそうだ。だが、一言も喋らずに三葉の後についてくる様子は、従順さというより殻の硬さを感じさせる。三葉は密かに嘆息し、この子もやっぱり難しいタイプなのかしら、と思う。まぁ、山桜桃にぶつけるにはいい相手かもしれない。とりあえず、ペーパーテストと適性検査をクリアできるかどうか試してみよう。
「このビルが職場よ。あなたが働くことになったら、9階がメインの職場になるわ」
 駅から200メートルほどの場所にある10階建てのビルが、三葉の職場だ。アルファベットではなくカタカナで【パンタシア】と書かれた小さな銀色のプレートが正面入り口に貼り付けてある。これは、本社が看板の予算を惜しんだせいではない。この建物自体を5年契約で借りているため、大きな看板を掲げるわけにはいかないのだった。
 パンタシアは、ゲームで人類の未来を創ることをコンセプトとして掲げていた。今まで開発してきたのは、自動翻訳機能のついたヘッドセットや、ゲームで遊んだスコアを換金して寄付できるアプリなど、細々としたものだ。しかし、2035年の年末、クリスマスプレゼントのように大きな仕事が舞い込んできた。
「実際にやってもらう作業は『問いを創って、考えること』。頭にヘッドセットを装着して、思考している状態の脳をモニタリングするの」
「……そんなことが、カネになるんですか?」
 面接場所である2階の事務所に向かう階段の途中で、少年が立ち止まった。あからさまに胡散臭そうな顔をしている。
「莫大な金になるわ。と言っても、ピンとこないでしょうね」
 三葉は少年を促し、6人がけのテーブルが置いてある小会議室に入った。壁面収納の一角を占める冷蔵庫にプリンの入った紙袋を入れ、代わりにペットボトルに入った水を1本取り出す。
「どうぞ。自由に飲んで、楽にしてちょうだい」
 水を少年に手渡し、部屋の壁に寄せてあったホワイトボードを引っ張り出して、黒と赤のペンを手に取る。
「世界全体で電力事情が逼迫してるって話、聞いたことない?」
「……電気代が払えない話ならできますけど」
 とりあえず話を聞こうと思ってくれたらしく、少年はホワイトボードの正面にある席に座った。
「まぁ、それも逼迫している状況よね」
 三葉は肩をすくめ、彼に呼びかけようとし、まだ名前を聞いていないことに気づく。
「ごめんなさい、名乗りもせずに連れてきてしまって。私は三葉早百合。株式会社パンタシア日本支社のスタッフよ。名刺は……オフィスに置いてきちゃったから、後で渡すわね。よければ、あなたの名前を教えてもらえる?」
「クスノキウトウ」
「くすのきうとう……どんな字かしら?」
 備え付けのメモ紙とペンを差し出すと、善知鳥はかろうじてそうと読める字で『楠木善知鳥』と書いてくれた。そばに書かれた16という数字は、彼の年齢だろう。ずいぶん大人びた表情をするので、20歳前かと思った。三葉は、改めて善知鳥の顔をまじまじと見つめる。
「読めませんか?」
「いえ、ありがとう。海鳥の名前と同じなのね。カッコいいじゃない」
 本心から褒め言葉を口にした三葉に対し、善知鳥は複雑な表情で応える。辞書に載っているとはいえ珍しい字面なので、馬鹿にされたりしてきたのだろうか。
「じゃあ、とりあえず、弊社が今手がけている事業の話をさせてもらうわね。世界全体で電力事情が逼迫しているけど、火力発電も原発も太陽光発電なんかの再生可能エネルギーも、結局のところ最終的な解決にはならないって結論が出たの。2033年の国際会議でね。難しい話を省いてざっくり言うと、他のエネルギーを探してこないといけなくなったわけ。宇宙開発が進めば、一発逆転のすごいエネルギー源が見つかるかもしれない。でも、人類にはもう宇宙開発をする余裕がないし、あったとしても宇宙を地球と同じように喰い尽くすだけだろうって反対意見が根強くて、結局、宇宙開発計画は立ち消えた」
 黒と赤のペンを駆使し、三葉はこれまで何十回と描いてきた説明図をホワイトボードに描いていく。面接のたびに一人一人にこの説明をするので、4月半ばの三葉の声はしゃがれ声を通り越して雑音だった。
「そこで、電力会社が次に目をつけたのは人間の持っているエネルギー。その中でも、一番大きな出力を見込めるのは、脳のエネルギーよ」
 最初に話を持ってきたのは、アメリカの大手電力会社だと聞いている。パンタシアが創ったヘッドセットの技術を応用すれば、脳のエネルギーを別のエネルギーに変換できる装置が造れるはずだ、と。
「開発には2年かかったわ。それでも、うちの会社だけじゃなく、世界中の技術者たちに参加してもらったから2年で出来たのよね。今は、世界中にチームメンバーが散らばって、データを集めているところ。あなたに手伝ってもらいたいのは、そのデータ収集作業なの」
「『問いを創って、考えること』が?」
「そうよ。難しく考えないでいいわ。実際やってもらうのはゲームだから」
 三葉は腕時計型のデバイスを操作し、部屋の照明を暗くした。ホワイトボードをひっくり返して白紙の面を善知鳥に向け、プロジェクターを起動させる。
「電力会社にプレゼンしたときの資料映像なんだけど、これで様子がわかると思うわ」
 ホワイトボードに映し出されたのは、四角く真っ白な壁で囲まれた部屋だった。部屋の中にはほとんど物が無く、小さな液晶画面と座り心地の良さそうな木製の椅子だけが置かれていた。広さは、2メートル四方ほどだろうか。大人が寝転んでも、まだ余るような広さに思われた。白人男性がそこに座り、血管のように複雑に絡み合ったコードに繋がれたヘッドセットを壁から取り、頭に装着する。カメラがゆっくりと引いていき、部屋の外の様子が映された。電光掲示板のような粗いドットの液晶画面が付けられており、そこに3桁の数字が表示される。10、20と数字が増えていき、カメラフレームの外から歓声が上がる。
「これが、思考している脳の状態を常時モニタリングし、数値化するゲーム【コネクトウェルバ】よ」
「これが、どう電力になるんです?」
「マシンの本体は、このヘッドセットじゃないの。この部屋の足元全体が本体なのよ。ヘッドセットから繋がる配線が、脳のエネルギーを摩擦ゼロの状態で発電機まで伝えるわけ。この辺りは企業秘密だから、詳しいことは言えないけど。実際に、コネクトウェルバで発生させた電力で、電気自動車を走らせたりもしたわ」
 ホワイトボードに、2人乗りの小型自動車がレーシング場を走っている様子が映し出される。しばらく黙ってそれを眺めたあと、三葉はデバイスを操作して映像を止め、部屋の明かりを点けた。
「ゲームは対戦形式で、頻度は週に1回あるかないか。1試合は24時間だけど、まるっと一日中プレイする必要はないわ。要は、他のチームより高いスコアが出せれば勝ちだから。報酬は、一試合勝っても負けても40万。勝てば60万上乗せされて、ジャスト100万になる。何か質問は?」
「その報酬の単位は、円ですか? ドルですか?」
「円よ。その国の通貨で計算してるから。残念かしら?」
「いえ、十分です。やらせてください」
 初めて、善知鳥の瞳に光が宿る。三葉は自身の興奮を悟られないよう、努めてゆっくり尋ねた。
「今日、ペーパーテストと適性検査を受けていく? それとも、保護者の方と相談して、日を改める?」
「三葉さんさえよろしければ、今からでもお願いします」
 三葉は頷いて、壁面収納の中から20ページほどの冊子を一冊取り出した。冊子・解答用紙2枚、加えて筆記用のペンを善知鳥の前に差し出す。そして、自分は椅子を1脚壁際に寄せ、ストップウォッチを片手に腰掛ける。
「解答用紙は一般教養と適性検査で分かれているから、間違えないようにね。時間は2時間。それより早く終わったら、声をかけてちょうだい」
 そう言って、善知鳥に見えるようにストップウォッチのスイッチを押した。
 まるで日常の一場面のように自然に、善知鳥は問題用紙を開いてペンを左手に持つ。
 そして、わずかに背を丸め、文字が書かれた紙に視線を落とす。
 そばで見ていた三葉には、1秒もかけずに彼が深い集中に入ったことが感じられた。ピンと張られた細い糸を見つめているときのような、奇妙な緊張感。三葉はそっと自分の携帯端末を取り出して、機内モードに切り替えた。予期せぬ音や振動で、善知鳥の集中を妨げることを恐れたからだ。呼吸すらも、最小限に抑える。何かの達人の妙技を見ているような気持ちだった。
「……終わりました」
 1時間と15分ほどが経過したところで、善知鳥が顔を上げる。三葉も、詰めていた息をふぅっと吐いた。
「お疲れ様。ちょっと確認するから、休憩してて」
 善知鳥の前から、解答用紙2枚を回収し、ざっと採点をしてみる。一般教養は百点中85点、適性検査は許容範囲内。合格だ。
「この点数なら、問題ないと思う。詳しい結果は、明日には出るから……」
 次の訪問日を確認しようとした三葉の声に被さるように、会議室のドアが激しく叩かれた。拳で叩いた、というより、足で蹴ったような音だ。まさかと思い、三葉は携帯端末の機内モードを解除する。
「おい、三葉! 電源切ってんじゃねーよ、開けろ!」
 山桜桃から、30件ほどの着信が入っている。チャットアプリにも恐ろしい数のコメントが入っていた。
「山桜桃くん、今は試験中なの! 邪魔しないで、部屋に戻っていて!」
 山桜桃の立てる音に負けじと、三葉も大声で応戦する。ここで大人しくドアを開けてしまったら、山桜桃との力関係がまた傾く。
 どんなに素晴らしい才能があろうとも、やってはいけないことがある。そのことを、分からせてやるのだ。
 三葉の気持ちが通じたのか、ドアの向こうが急に静かになった。ドアを開けて様子を見るべきか迷った三葉だったが、ゾンビ映画なら死亡フラグが立っている状態だと気づき、開けないことに決めた。善知鳥は展開についていけないのか、それとも肝が据わっているのか、座ったまま状況を静観している。
 突然、三葉の携帯端末が場違いに陽気な音楽を鳴らし始めた。着信だ。画面を見ると、山桜桃の名前が表示されている。
「ドアを蹴るのはやめなさい。いつも注意してるでしょ?」
「連れてきたの、俺と同じくらいの歳のやつだろ? 上に来い。どうせ、ペーパーテストはパスしてんだろ」
 善知鳥の存在を、もう知っている。部屋にいる善知鳥と、山桜桃がいるドアの方を交互に見ながら、三葉は動揺に揺れる声で問う。
「何で、知ってるのよ、連れてきた人のこと」
「佐藤さんから着信があって」
「……え?」
「プリンの感想聞いてきたぜ。あと、三葉に容器は明日、カフェスペースで返してくれって伝えてくれって」
 昼間のプリンの恩も忘れ、三葉は幼馴染に密かに恨みを抱いた。プリンのことのついでに、三葉が気になっている人間を見つけたという話を、山桜桃にしたのだろう。
「わかった。ここにいる彼が良いと言ったら、連れて行くわ。プリンも持って行くから、部屋で待ってて」
 電波を通して、三葉と山桜桃は無言の圧をぶつけ合った。5秒ほどして、山桜桃は無言で通話を切る。三葉は詰めていた息を吐いて、携帯端末をテーブルの上に置いた。
「騒がしくして、ごめんなさいね。今のが……」
 三葉は、ちょっと言い淀む。
 いきなりドアを激しく蹴りつけてきたあの少年が、あなたの唯一のチームメイトよ。
「ええと、その……」
 何か良いフォローの言葉がないだろうかと考えを巡らす三葉に向かって、善知鳥はさらりと言う。
「今のが、一緒に働くことになる人ですか?」
「え、ええ、そう、ね。そうなの。彼よ。名前は、櫻井山桜桃。4月から、ここで働いてるの」
 三葉は観念して、山桜桃のことを簡単に説明した。
 コネクトウェルバの日本におけるスポンサーであるやさしい電力会社の役員の子息で、最初はゲーム機の試運転時のテストプレイヤーとしてやってきたこと。デモンストレーションにしては高過ぎるスコアを初回から叩き出し、三葉が半ば拝み倒すようなかたちでプレイヤーとして残ってもらったこと。そして、やさしい電力株式会社の社員たちは彼の何かを刺激するらしく、あまり近寄らせてもらえないことも、正直に。
「気難しいっていうのかしら。ちょっと感情の起伏が激しくてね。でも、同じ年頃のあなたなら、仲良くなれるかもしれない」
 自分でも気休めだと思いつつ、三葉は努めて明るく言った。しかし、善知鳥はごまかせないようだ。
「希望的観測ですよね、それ」
 そうよね、と三葉は首を縦に振った。
「仲良くする必要がありますか? そのことが、何かスコアに影響があるとか……」
「いいえ、感情はあまり高いスコアにならないの。そう私は聞いているけど、スコアのことは山桜桃くんが誰より詳しいわ。解析班より詳しいんじゃないかしら」
 三葉は冷蔵庫から紙袋を取り出し、テーブルの上から携帯端末と試験問題一式を持ち上げた。それから、ドアを少しだけ開け、廊下の様子を窺う。山桜桃の姿はすでに無い。警戒しながら廊下に出て、部屋の中の善知鳥を振り向く。
「善知鳥くん、どうする? 気が進まなかったら、今日は帰ってもらってもかまわないわ」
「ゲーム機の実物がどんなものか、見てみたいです」
 善知鳥は、先ほどの騒動など気にもしていないようだった。もしかしたら、山桜桃にも、たいして興味は無いのかもしれない。
「じゃあ、ついてきて」
 善知鳥を伴い、三葉はエレベーターに乗り込んだ。部外者は入館パス無しでは2階以上の階に上がれないため、善知鳥にはセキュリティゲートの虹彩簡易登録だけ済ませてもらう。
「こういうところのエレベーター、初めて乗りました」
 機械を搬入するための大きなエレベーターが珍しいのか、善知鳥は壁から天井へ、そしてまた違う壁へと視線を巡らせる。その仕草は、どこか感情を覚え始めたロボットに似ていた。
「こういうところって?」
「エレベーターのボタンを押すのに、カードキーが要るようなところ、です」
「ああ、これは社員証兼入館パス。あなたの場合、食堂とカフェスペースのある10階、マシンが置いてある9階、それに6階へのアクセスが可能なパスを支給されるでしょうね。1階と2階は、今でも出入り自由よ」
「階によって、入れたり入れなかったりするんですか?」
「入れないところは、あなたの仕事には関係のないところなのよ」
 三葉が肩をすくめて見せたと同時に、エレベーターは九階に到着した。停止時に揺れを一切感じさせない技術は、マシンの電力装置を共同開発した六条重工のものだ。
 細かくエリアが分かれていた2階と違い、9階はワンフロアの構造になっている。エレベーターの扉が開いた途端、冷気が流れ込んできた。マシンの冷却のために、9階フロアの室温は18度に固定されている。
「そいつが新人?」
 エレベーターの前で、山桜桃が待ち構えていた。濃い藍色の半そでTシャツとヴィンテージジーンズを身に纏い、腕組みをしている。肩に引っかけたネオンイエローの上着が、照明の光を受けて光った。
「楠木善知鳥です」
 山桜桃の視線が自分に向いていることに気づいたのか、善知鳥は短くはっきりと名乗った。
「櫻井山桜桃だ。プレイルームにようこそ」
 自分が此処の主であることを示すように、芝居がかった仕草で山桜桃は両手を広げる。ユニコーンカラーの髪が、ゆらゆらと左右に揺れた。そして、おもむろに身を翻し、フロアの中央を占拠している白い部屋の方へ歩いていく。善知鳥は躊躇いなく山桜桃に続き、その後を追うかたちで三葉もエレベーターを降りた。対面はクリア、と心の中でつぶやく。
「何をするか、説明を受けたか?」
「『問いを創って、考えること』だと説明されました」
 山桜桃は一つ頷き、マシンの扉を開ける。
「実際やってみた方が早い。入れ」
「山桜桃くん、まずはお手本を見せた方がいいんじゃない?」
「このゲームで、お手本なんか意味ねえよ。ほら、入れ……いや、待て。ケータイは置いていけよ。持ち込んだら壊れるからな」
「持ってないんで、大丈夫です」
「なら、入れ。今日の試合はもう始まってるぜ」
 まずは段階を踏んで慣れさせようと思っていた三葉の計画は、あっさりと崩された。まったく、このお坊ちゃんは、こちらの予想をすぐに超えてくる。
「三葉さん、俺も実際にやらせてもらった方がいいです」
 善知鳥にもこう言われてしまい、三葉はすごすごと引き下がった。こうなったら見守るしかない。
「これがヘッドセット。コード、長いけど踏むなよ。両手で掴んで、真っ直ぐ引き下げる感じで被れ」
「髪の毛って、短い方がいいんですか?」
「関係ねえよ。もっとグッと頭入れろ。内側の金属ができるだけ地肌に近づくようにな」
 ヘッドセットを装着し終え、山桜桃が扉をゆっくりと閉める。マシンの壁面に埋め込まれたタブレットを操作し、ソフトを起動させた。純白の背景に【Connect Verba】のロゴが浮かび上がり、すぐに文字入力の画面に変わる。ここに入力された文字はボックスの中にある液晶画面に表示され、中にいるプレイヤーの思考の種となるのだ。
 山桜桃は人差し指で素早くタブレットのキーボードをタップし、問題を一つ提示した。
『焔の氷柱を想像しろ』
 三葉は、タブレットのすぐ上に埋め込まれた電光掲示板に目をやる。現在の表示はゼロが一つ。まだ善知鳥の脳はエネルギーを発していない。
「ペーパーテストの結果は?」
「合格よ。適性検査も問題なし」
「プリンは?」
「……ここよ。冷蔵庫、借りるわね。善知鳥くんの分もあるから」
 プレイルームの冷蔵庫は、鏡面仕立ての最新型だ。入っているものといえば、冷凍食品やアイス、それにお茶とジュースとお菓子。冷蔵庫の横にはウォーターサーバーと電子レンジ。充実しているのは食環境だけではない。フロアのあちらこちらに座り心地の良いソファや小さな本棚が点在しており、ゲーム中の息抜きができるようになっている。プレイヤーには最高の環境を与えよ、だ。
「スプーン、もう切らしちゃった?」
 さすがにシンクは備え付けられていないので、洗い物が出ないように紙製の使い捨て食器を使っている。ストックの棚を漁る三葉の質問に、山桜桃は答えない。聞こえなかったのか、と振り向いた三葉の目に、珍しく真剣な顔つきの山桜桃の横顔が飛び込んできた。
「なに……?」
「見ろよ、スコア」
 ついさっきゼロが一つしかなかった電光掲示板の値が、今は5桁に届こうとしている。三葉は問題文が打ち込まれたタブレットに飛びつき、時刻を確認する。まだ3分しか経っていない。山桜桃のような天才プレイヤーは別として、一般的なスコアは10分で4000を超すぐらいである。
 高い集中力と、頭の回転の速さ。それに加えて、何かがある。そうでなければ、この値の上がり方は説明がつかない。
 しかし、いったい何が?
「どうなってるの……?」
 呆然とする三葉の手から、山桜桃が無造作にプリンを奪う。スプーンを見つけることは諦めたのか、食器ストックの中から割り箸を一膳取り出す。
「天才ってやつだろ」
 器用に割り箸を使って、山桜桃はプリンを口に運ぶ。美味い、と言いながら、自分の携帯端末を触っている。佐藤に感想でも伝えているのだろうか。
「あなたみたいなプレイヤーが、そうそう転がってるわけないわ」
「じゃあ、機械の故障だろ」
 最初の衝撃が過ぎ去ったのか、山桜桃はもう善知鳥のスコアに興味を失ったようだ。切り替えが速いと言えば聞こえが良いが、彼の場合は何事にも深い興味を持たないだけである。
「それも含めて、ちょっと確認してくる。1時間以内に戻るから、善知鳥くんを追い出したりしないでね」
 三葉はそう言って、山桜桃の返事を待たずにエレベーターに乗った。手には、善知鳥の解答用紙を持って。
 これを書類審査部に回し、そのあと人事部と経理部を回って、解析班のところへ行こう。書類審査部のある3階のボタンを押し、扉を閉めるボタンを連打する。扉が閉まりかけたところで、山桜桃が駆け寄って来るのが見えた。
「何?」
 素早く扉を開くボタンを押し、三葉は山桜桃に声をかける。
「あいつの適性検査の解答、見せろ」
「適性検査の?」
 山桜桃は三葉の手から2枚の解答用紙を受け取り、適性検査の方にざっと目を通す。5秒ほどで、解答用紙は三葉の手に戻された。
「もういいぜ」
 彼が何を確認したのか、三葉にはわからない。エレベーターで下りていく最中、返された解答用紙を何度か見てみたが、変わったところは特になかった。不思議に思いながらも、今はその謎を考えている場合ではない。
 三葉はエレベーターを降りると、書類審査部に解答用紙を提出し、人事課で善知鳥の入館パスを申請した。そして階段で四階に駆け上がり、経理課で善知鳥に報酬を支払うための書類を書く。経理課の片隅でペンを走らせながら、三葉はけっこうな声量で不満をつぶやく。
「まったく……、どうして日本企業はいつまで経っても書類申請方式なのかしら? どうせ、電子申請でも書く内容は変わらないじゃないの」
 デスクに座ったまま、やさしい電力株式会社からの出向社員が、三葉に尖った視線を投げてくる。三葉は涼しい顔で彼らの一人に書類を手渡し、確かに渡しましたよ、と念を押した。
 それから、怒りに任せて非常階段を2階分駆け上がり、データ分析室がある6階フロアに向かった。
「ハイ、サユリ。ここまで来るなんて珍しいね。何かあった?」
 非常階段の重たい扉を開け、よろよろと廊下に足を踏み入れた三葉を、解析班の班長であるアンソニー・ド・ジャンが見つけた。ハイ、と片手を上げて挨拶したが、息が切れてしまってその後が続かない。
「ウンドーブゾクだね、キミ」
「ちょっと、怒って……。ちがう、急いでて……。今、話せる?」
「いいよ。ここで?」
 休憩中だったらしいアンソニーは、片手に缶コーヒーを持っている。大柄な彼が小さなコーヒー缶を持っている様子は、何度見ても小さな笑いを誘う。
「彼らに聞かれないところなら、どこでもいいわ。みんな部屋にいる?」
 三葉は廊下の壁に背中をつけて、大きく息を吐く。
「さっき、マシンのスコアが急上昇したって盛り上がってたよ。その話?」
「そう、その話よ」
 彼ら、と三葉が吐き捨てるようにして呼ぶのは、やさしい電力株式会社から出向してきている社員たちのことだ。出向社員は、データ分析室にも入り込んでいる。解析班とは独立した部署を設置し、マシンのスコアを自分たちで記録したり解析したりしているようだった。これが憶測でしか語れないのは、彼らが頑なに自分たちのデータを渡そうとしないからだ。そのくせ、アンソニーたち解析班が集めた情報や、三葉が山桜桃から聞いたスコア上昇の秘訣などは、すぐに渡せと高圧的な態度で迫ってくる。
「新人が入ったの。山桜桃くんと同じ年頃の男の子よ」
 アンソニーは缶コーヒーの中身をぐっと飲み干して、大きな目をさらに見開いた。
「おめでとう。ようやく、ユスラにもチームメイトができたわけだ。どうやって見つけてきたんだい?」
「広告の前で長いこと立ってたから、気になって声をかけたの」
「広告? 駅の、あの冴えないやつ?」
「シィーッ。だめよ、アンソニー。あの広告、トムたちの会社が広告代理店に300万円も払ってつくらせたものなのよ」
 金額を聞いたアンソニーが、目を白黒させて驚きを表現する。日本人は、真っ白い背景に、濃い灰色の文字が書かれただけの広告に300万円も払うのか。そう言いたいのだろう。三葉も同じ気持ちである。パンタシアから提出したラフ案は、もう少し凝ったものだった。なぜあんな簡素なものが納品されたのか、それはもう永遠の謎だ。
「で、どうだった? ユスラと新しい彼、お互いに噛みつき合ったりしたかい?」
 アンソニーは、歯並びのよい口を大きく開き、歯を打ち鳴らした。三葉は笑って、否定する。
「いいえ、心配していたようなことは何も起こらなかったわ」
「じゃあ、いいじゃないか。ユスラは何か言ってる?」
「新人の子が、天才なんだろうって」
「彼にそう言わせるなんて、すごいね。名前は?」
「クスノキ・ウトウ。本当に天才なら、これから嫌というほど名前を聞くことになるわよ」
 山桜桃のときがそうだったように。
 アンソニーにスコア表示の件を説明し、データ分析室でスコアメモリも確認してもらう。周囲に集まってきた解析班のメンバーたちに事情を説明し、トムたちからの探るような視線を無視する。善知鳥の名前くらいなら教えてやってもいいが、それもどうせ同じ会社の人間から聞き出すだろう。入館パスの管理は、やさしい電力株式会社が行なっているのだから。
 いがみ合っていても良い結果が得られないのはわかっているが、相手が高圧的な態度を崩さない以上、打ち解けるつもりは三葉にはなかった。
 解析班から「理由はわからないが、少なくともマシンの不具合ではない」という回答を得て、三葉はまたエレベーターに乗り込んだ。1時間と少しかかってしまった。山桜桃の機嫌が斜めになっていないといいが。
「戻ったわ。どうなってる?」
 再び九階に足を踏み入れた三葉が見たのは、305万6255点という7桁のスコア表示と、割り箸でプリンを食べている2人の少年の姿だった。

第2話『しいたげられたこどもたち』


 長い一日を終え、善知鳥が帰宅したのは午後10時を回った頃。彼が家族と暮らしている部屋は、古い家が立ち並ぶ通りの、築40年を超えるアパートの2階にあった。三葉から渡された契約書入りの封筒を小脇に抱え、手にはコンビニエンスストアの紙袋を下げている。
 善知鳥は、なんとなく地に足がついていないような気がして、軋む鉄階段を一歩一歩踏みしめるように上がった。音を立てないように鍵を開け、そっと玄関扉を開く。
 玄関を入ってすぐ、台所と居間が一体になった部屋に、妹のかもめがいた。細かい傷だらけのテーブルに肘をつき、携帯端末を見つめたまま、ひどく難しい顔をしている。
「おかえり。遅かったね、お兄ちゃん」
 家の中は静まりかえっているため、彼女の細い声でもよく響いた。
「ただいま、かもめ。母さんは? 今日休みだろ?」
 靴を脱いで居間に上がった善知鳥は、静かすぎる家の様子に眉をひそめる。かもめは携帯端末をテーブルの上に置き、大人びた仕草で頬杖をついた。
「お酒飲んで、誰かに電話して、出かけた」
 怒りを通り越して呆れた、と言う顔だ。母親のつぐみは、いわゆる水商売の世界で働いて、善知鳥たち3人の子どもを育てている。彼女は子どもたちを置いて家を空けることが頻繁にあり、今更どうとも思わない。
「都(みやこ)も連れてったのか?」
「ううん、置いて行った。ギャン泣きしてたけど、それでも置いて行くって言うから、好きにしたら? って言ってやった」
 末っ子の都は、まだ5歳だ。つぐみが家に居るときは、どんなに鬱陶しがられても母親にべったりくっついている。たまに都だけは母の外出に連れて行かれるが、明け方近くになって帰ってくることも多いため、善知鳥としては正直置いて行ってくれた方がありがたい。
「あいつ、どうしてる?」
「もう寝たよ」
「お前も、もう休めよ。顔色悪いぞ」
「お兄ちゃんが帰って来たら、寝ようと思ってたの」
 少し怒ったように言われ、善知鳥は申し訳ないと眉尻を下げた。
「お兄ちゃん、やっぱりケータイ持ってよ。連絡取れないの不便。心配したし」
 善知鳥の2つ下の妹であるかもめは、自分の携帯端末を持っている。女の子なんだから持たせた方がいいという、つぐみの判断だ。対して、善知鳥は男の子だから、という理由で持っていない。楠木家の財政状況からみても、つぐみとかもめ、2人の通信料金を払うだけで精一杯だった。善知鳥が携帯端末を持ちたければ、自分で就職なりアルバイトなりして稼ぐしかない。
「これからは、持つよ」
 いつもとは違う返答をした善知鳥を、かもめはちょっと探るような目で見つめてくる。
「今日、図書館に行く途中で、アルバイトの求人を見つけて、面接受けてきた。次が決まらないと、そろそろやばいからな」
 善知鳥は高校を中退して時間が出来てから、昼はコンビニ、夜は居酒屋で、アルバイトを二つ掛け持ちしていた。どちらの職場も人手不足が深刻で、14連勤することが何度もあったほどだ。無理がたたったのか、ついに先月、善知鳥は居酒屋のアルバイト中に意識を失って倒れ、2週間ほど寝込んでしまった。かもめに泣かれ、アルバイトは2つとも辞めた。
「たぶん、雇ってもらえると思う。この契約書に、保護者のサインもらってこいって」
 パンタシアの社屋ビルがある駅から善知鳥の住む街までは、電車で10分ほど離れている。大きな図書館に行くためにあの駅を通ったのに、あの広告を見つけたことで予定が狂った。今日の予定どころか、人生の予定がまるっと変わってしまったような気がする。
「アルバイト? どうせなら、就職しなよ。お兄ちゃん、あたしと違って頭良いのに」
「下手に就職するより、良い条件だったから」
 善知鳥のように金もコネも学歴も無い人間が、一度に100万円も稼げる仕事は、今日出会った仕事以外に存在しない。どうしても同じくらいの金を手に入れたければ、法に触れることをしなくてはならないだろう。それは仕事ではないし、そうまでして生きていきたいかと言われると、善知鳥の答えはノーだった。
「どんな仕事? いくら稼げるの? 危なくない?」
 質問攻めにしてくるかもめを適当にかわそうとして、善知鳥は手に持ったままの封筒のことを思い出した。報酬に対する税金のことや、労働条件について詳しく書いてあると三葉が言っていた。そのあたりのことは、善知鳥が読んで理解すればいい。だが、母親のサインを自分で偽造することは危険だろう。
「かもめ。アルバイトのこと、母さんにも都にも黙っててくれるか? その代わり、お前には全部話すから」
「……お兄ちゃんが、危ないことするなら、神田(かんだ)さんに言うよ」
 かもめが善知鳥を牽制するために口にした名前は、児童相談所の職員のものだ。何人担当が変わったのかは覚えていないが、現在の担当者である神田芳恵(よしえ)は信頼のおける大人である。善知鳥やかもめの周りの大人たちの中では、唯一の、と言っていい。
「危ないことはない。危なくなったら、かもめにはちゃんと言う。神田さんにも相談する」
 こちらの真剣さが伝わったのか、かもめは無言で頷いた。善知鳥はその場で靴を履いたまま座り込み、かもめも彼の前に膝を抱えて座り込んだ。
「ゲーム会社が新しいゲームをつくるから、そのテストプレイヤーになってくれって話だった」
「ゲーム会社かぁ……。なんていう会社?」
「パンタシア。本社はカナダだって」
「うーん、知らないかも。時給は?」
「一試合につき、40万円」
「えっ?」
 思わず大きな声をあげたかもめを、善知鳥は目を細めてたしなめる。3メートルも離れていない部屋で、末っ子が寝ているのだ。起きてきたら、また母がいないと泣き喚くだろう。
「嘘でしょ? あやしくない?」
 慌てて口に両手を当て、かもめは声をひそめる。
「おまけに、試合に勝ったら60万円上乗せされる。一応、今日プレイした分の40万円はもらってきた」
 善知鳥は真新しいプリペイド式のクレジットカードを、かもめに差し出す。かもめは恐る恐るといった手つきでそれを受け取り、信じられない、とつぶやいた。善知鳥自身にもまだ信じられないのだから、話を聞いただけの彼女がそう思うのも無理はない。
「騙されてるんじゃないかと思って、コンビニで買い物してみた。ちゃんと使えたし、ATMで残高記録も見てみたけど、確かに最初に39万円以上の残高がある」
 そう言って、善知鳥はかもめに惣菜パンが4つと6枚切りの食パンが入った袋を渡す。かもめは中を確認し、再びまじまじと黒色のカードを見つめた。
「すごい」
 驚嘆というより、畏怖。
 かもめは押しつけるようにして、善知鳥にカードを返した。
「これ、お兄ちゃんが持ってて。まだ、生活費少しあるから」
 善知鳥は封筒の中から契約書を取り出し、保護者のサイン欄をかもめに示した。かもめはそのあたりに転がっていたボールペンを手に取り、できるだけ大人っぽい字で保護者署名欄に『楠木つぐみ』と書く。
「もし、順調に金を貯められたら、ちゃんと母さんにも言うよ。俺が金を出すから、広いとこに引っ越そう。高校も、制服で選べるようにしてやるからな」
 母親として欠陥の多いつぐみだが、それでも3人の子どもを養うために、ほとんど休みなく店に出て働いている。善知鳥も高校を中退してからアルバイトを続けているが、中卒の人間が就ける仕事など限られていた。働けど働けど、というやつだ。
 そしてかもめは、まだ中学生だというのに、家事だけでなく弟の都の世話もしなくてはならない。そのせいか、学校の成績は散々だった。勉強しようにも自分の時間が足りず、塾に通ったり習い事をするなど夢のまた夢。同級生の中には、複数の習い事をかけ持ちしている者もいるというのに。
 善知鳥は、せめて妹と弟にはきちんと進学してほしいと思っている。つぐみもそう思っている、はずだ。
「引っ越しもいいけど、まずは洋服とか欲しいな。お兄ちゃんも、新しいとこでバイトするなら、髪の毛とかどうにかしたら?」
 女子中学生らしい意見だ。
 参考にする、と短く答え、善知鳥は書類を封筒にしまった。クレジットカードも一緒に入れ、封筒をテーブルの上に置く。
「シャワー浴びて寝る。遅く帰ってきて、ごめんな。おやすみ」
「おやすみ、お兄ちゃん」
 そう言って背を向けた妹の肩が、ひどく細くなっていることに今更ながら気がつき、善知鳥の心臓が一つ大きく鳴った。
 小学5年生の夏頃から、かもめは食事を摂ったり摂らなかったりの状態を繰り返していた。善知鳥が家にいたり、都と2人だけのときは少ないけれども食事を摂る。しかし、母と食卓を囲むときや、母に連れて行かれて知らない男と一緒に食事をするときは頑なに何も食べない。
 かもめがこうなってしまった理由を、善知鳥は尋ねてみたことがない。妹とはいえ、思春期の女子だ。男の自分にはわからない、複雑な胸の内があるだろう。持て余している、というのが正直なところだった。
 善知鳥は、床に散乱している服の中から自分の下着を掘り出し、ユニットバスに足を踏み入れる。ここはいつも湿気が抜けきれず、微かにカビ臭い。昼光色の明かりを点け、脱いだ服を洗面台の下に積み上げる。ふと、善知鳥は洗面台の上にある鏡に映る自分の姿に目を止めた。
 凹んだ腹、薄い胸、骨張った肩、喉仏だけが目立つ首。目の上にかかる長い前髪と、世の中への恨言を口に出すまいとして引き結ばれた唇。
 一体、三葉は、自分の何に惹かれて声をかけてきたのだろう。自分だったら、決して楠木善知鳥に声はかけない。暗い顔で、みすぼらしく、生きることはただ息をすることだと思っているような人間には。
「……一試合、40万円か……」
 かもめは半信半疑の様子だったが、善知鳥自身もまだ夢の中にいるような心地である。
 夢であるなら、できる限り早く醒めてほしい。
 だが、夢でないなら、できる限り多くの金を稼がなければ。
 善知鳥は蛇口を軽く捻り、シャワーヘッドを手に取った。水音があまり響かないように、勢いを弱くしたまま水を浴びる。身体を伝い、やがて排水溝へと流れていく水を眺めながら、善知鳥はプレイルームでの出来事を思い出していた。
『焔の氷柱』問題の次に、山桜桃が出してきた問いは『暴力が愛情表現の一種であることを証明せよ』というものだった。
 この組み合わせには見覚えがあった。三葉に出された適性検査の中に、この組み合わせが使われた設問があったように思う。たしか、様々な単語を2つずつ挙げて、それが類義語が対義語かを問う分野の中にあったはずだ。
 愛と暴力。
 それは、善知鳥の中では確実に対義語である。善知鳥でなくても、たいていの人間にとってはそうだろう。
 だからこそ良質な問題になり得るのだ、と山桜桃は言った。
「絶対に結びつかないだろってものを、結びつけようと考えることでスコアが伸びる。理屈はわかるだろ?」
 わかります、と善知鳥は答えた。しかし、どうやって愛と暴力のつながりを証明したらいいのか、その糸口さえ掴めない。
「誰かを殴りつけながら、その誰かのことを愛しているヤツのことを想像しろ。なぜそいつが、殴ることで愛を伝えられると思ってるのか、考えるんだ」
 山桜桃の口調は、淡々としたものだった。まるで、スポーツのフォームについて語るコーチのように。
 善知鳥は手を伸ばして蛇口を捻り、水を止める。水で薄めたボディーソープをポンプから押し出しながら、相手を射抜くような山桜桃の鋭い目を思い出す。
 三葉から聞いた限りでは、甘やかされたお坊ちゃんという印象を抱いていた。暴力的なのも、甘えと幼さからくるものだと。しかし、山桜桃の言動は、善知鳥の予想を裏切るものだった。理知的で、計算高い。一つ違いだと聞いたが、もっと歳を重ねている印象を受けた。三葉に対する少しふざけた態度でさえ、演技ではないかと疑わせる。
 目を閉じ、髪を泡だらけにした善知鳥の頭にふと、一つの疑問が浮かぶ。
 どんな出来事が、山桜桃に『愛と暴力の証明』を思いつかせたのだろう。


************************


 山桜桃が自分の家にたどり着いたのは、深夜零時を少し過ぎた頃だった。家といっても自宅ではなく、パンタシア日本支社に程近いワンルームマンションの一室である。ゲームの報酬金が200万を超えたところで、彼は独り暮らしを始めた。もう二度と、実家に足を踏み入れるつもりはない。
 昨年建てられたばかりの20階建てのマンションは、薄灰色の外観を含め、近代的な雰囲気に満ちていた。その人間味の無さが、かえって心を落ち着かせる。山桜桃の暮らす9階の角部屋も、わずかな家具や家電があるだけの生活感の無い空間になっている。
 山桜桃は携帯端末でドアロックを外し、無言で真っ暗な室内へと足を踏み入れた。主人の帰りを感知し、電灯と冷房が動き出す。玄関を入ってすぐ左にある簡易キッチンには急速湯沸かしポットと電子レンジがあるだけで、調理器具らしきものは一つもない。その光景が、彼の食生活がどんなものかを物語っている。
 手を伸ばして電子レンジの上に携帯端末を置いた山桜桃は、靴と一緒に服も脱ぎ、全裸になってキッチンの隣にあるバスルームへと入った。シャワーの水量を最大にして、頭から冷水を浴びる。頭に昇った血がだんだんと冷えていき、それにあわせて動作が緩慢になっていく。シャワーの操作パネルに手を伸ばし、水をぬるま湯に変えるのに、2分もかかってしまった。
「はぁ……」
 ため息が漏れる。
 山桜桃は1分ほどの時間をかけて水量を調節し、浴槽の中でうずくまった。明るい色に染められた髪が、水に濡れて暗みを帯びる。規則正しい水の音を聞きながら、山桜桃はプレイルームでの出来事を思い出していた。
 善知鳥の第一印象は、「なんか小汚いヤツ」だった。だが、受け答えははっきりとしているし、場に対する順応も速い。なんといっても、三葉がわざわざ連れてくるからには、何かがあるのだろう。山桜桃は三葉のことを、彼女が想像しているよりも買っていた。素直にそれを口にすることは、気恥ずかしくて出来なかったが。
「あいつ、続くといいな……」
 プレイルームで善知鳥と一緒にいた時間は、山桜桃にとっては楽しいものだった。4月からずっと大人たちに囲まれて、舐められないようにと虚勢を張っていたが、今日はいつもより肩の力が抜けていたように思う。善知鳥の方は終始難しい顔をしていたが、無理もない。まだ戸惑っているのだろう。少し身の上話のようなものを聞いたが、親の収入が低いので、自分が妹と弟を養育する金を稼ぎたいと言っていた。だから、まとまった金がいるのだと。自分とはまったく違う境遇に驚き、山桜桃は気のきいたセリフ一つ言えなかった。
 まだ重く感じられる身体を鼓舞して立ち上がり、山桜桃はシャワーを止めてバスルームを出た。バスタオルを頭から被り、全身から水を滴らせながら、玄関とは逆方向にあるリビングへ向かう。彼の歩みに合わせ、短い廊下に設置されたフットライトが道標のように灯る。
 8畳ほどあるリビングには、小さな折りたたみテーブルが1つと、マイクロビーズの大きなクッションが1つ、それに引越しの際に持ってきた洋服の詰まった段ボールが2箱あるだけだ。そんなリビングの片隅で、充電器に繋がれている携帯端末が鳴った。山桜桃が普段持ち歩いているものとは違う、別の端末だ。これは、彼が実家にいたときに母親の夏美(なつみ)が契約してきたものである。新しい携帯端末の存在を、夏美は知らない。
 着信音が長く鳴ったあと、通話は留守番電話に切り替わった。スピーカーでの通話をオンにしているため、母親の声が携帯端末から呪詛のように流れ出てくる。
〈もしもし、ゆぅくん? お母さんです。アルバイト、忙しいみたいね。まだ帰って来てないの? 心配しているので、連絡ください。ちゃんとご飯は食べてるの? 簡単な料理のレシピを思いついたので、送りますね。お野菜やお肉が足りなかったら、お母さんが買っていくので言ってください。お父さんもお仕事が忙しいみたいで、あまりご飯をお家で食べてくれません。ゆぅくん、お父さんに会ったら、お母さんが心配していましたと伝えてくれる? ゆぅくんも、いつでも帰ってきていいからね。つらくなったら、電話ください。またね〉
 通話を切る音と、トークアプリの受信音とが同時に鳴り、それを最後に部屋に静寂が戻って来た。山桜桃は詰めていた息を吐き、無意識に握りしめていたバスタオルで、髪を乱暴に拭く。突っ立っていた床の上には小さな水溜りができており、冷房によって冷やされた身体の体温を急速に奪う。
「……っ、くしゅんっ!」
 身体の震えとともに出てきたくしゃみを合図に、山桜桃は床の水をバスタオルで拭いて玄関へと戻った。電子レンジの上の携帯端末を手に取り、ゲームアプリを起動する。片手で器用に画面を操作しながら、脱ぎ捨てた服をバスルームのドア近くにある洗濯機兼乾燥機へと放り込む。そして、再びリビングに入って部屋着に着替え、冷えた床に寝転がった。携帯端末で冷房の温度を操作し、心地よい室温へと変える。このまま、今日もベットまで辿り着かずに寝てしまいそうだ。
 再び、部屋の隅で着信音が鳴り始める。山桜桃は片肘をついて上半身を起こし、鳴り続ける携帯端末を凝視した。
 母親と話をするつもりはないのだから、放っておけばいい。
 そう思いながらも、山桜桃はあの携帯端末の音を無視できない。
 もしかしたら、電波を伝って母親がこの部屋に侵入してくるかもしれない。
 そんな、子どもじみた妄想が、彼の頭からずっと離れずにいる。
 捕食者が通り過ぎるのを待っている小動物のように、山桜桃は息を殺してスピーカーから流れてくる夏美の声を聞く。
〈ゆぅくん、さっき言い忘れてたけど、学校のことで大事な話があるの。せっかく2年生になったのに、もう半年も通えていないでしょ? 担任の先生から……あら、ゆぅくんは会ってないから知らないわよね。太田(おおた)先生っていう男の先生よ。若いけど、しっかりしてらっしゃって。ああいう先生が担任だと、子どもたちは楽しいと思うわ。あ、それでね、太田先生から連絡があって、学校にしばらく来れないようなら、休学届を出したらどうですか? って提案してくださったの。どうかしら? お母さん、良い案だと思ったわ〉
 先ほどより陽気な夏美の声は、いっそう不気味な印象を山桜桃に与えた。
〈1年間、どこかに留学しているってことにして、来年2年生からやり直すの。ゆぅくん、小さいときからずっとお勉強してるから、英語もちゃんと喋れるし、アルバイト先でも外国の方と一緒なんでしょ? 何にもしてないけど休んでましたなんて、かっこ悪いものね。大丈夫、お母さんがちゃんと休学理由考えてあげるから。お父さんにも相談してみるけど、お父さんは、学校の勉強より社会勉強が大事だって言うものねぇ。困るわねぇ……子どもの頃は、勉強の方が大事なのよ。お友達だって……あら、大変。ゆぅくん、お友達と一緒に3年生になりたいかしら? ねぇ、どう? そうだとしたら、今から授業に追いつけませんか? って太田先生に聞いてみるわね。いずれにしても、ゆぅくんが良いと思う方が一番だわ。連絡ください。待ってますね〉
 通話は、始まったときと同じく唐突に終わった。
 山桜桃は寒気を通り越して吐き気を感じ、浅く荒い呼吸を繰り返す。乾いた喉奥が、キュッと鳴く。
「……っ…………クソが……」
 歯を食いしばり、山桜桃は拳を強く握った。
 床や壁を拳で殴りつけたい衝動が過ぎ去るのを、じっと待つ。
 自宅に居たときは、ところかまわず殴りつけ、家具をいくつも壊したし、窓ガラスを何枚も割った。それでも衝動が収まらず、自転車で遠くの空き地に行って、大声で叫んでいた時期もある。あのときはただ苦しくて、嵐の中にいるような気持ちだった。17年閉じ込められていた家を逃げ出して、ようやく山桜桃は、自分の気持ちをコントロールできるようになったのだ。
 厳しいけれども懐の深い大企業勤めの父、優しくて料理上手な専業主婦の母、幼い頃から神童と呼ばれ将来を期待される息子。それが櫻井家の家長である恵一(けいいち)の理想とする家族像だった。山桜桃が小学生の頃までは、その家族像は保たれていた。
 だが、山桜桃が中学2年生のとき、ついに親子の関係に亀裂が入る。きっかけは、父親が山桜桃の志望校を勝手に自身の母校に決めたことだった。
「三者面談では、志望校はS高校と答えるんだ。首席で入学してみせます、とな」
 このように、父親が息子の進路を決めてしまうことは、櫻井家では特に珍しいことではない。どこの塾に何歳から行くか、どの習い事をするか、すべて父親が決めていた。といっても、彼は決めるだけで、あとは何もしない。送り迎えや入退会手続きなどは、夏美の仕事だった。恵一は、成績表や発表会で山桜桃の上達ぶりをチェックするだけだ。もちろん、何の成果も上げられなければ厳しく叱責される。
 そのときも、山桜桃は「はい」と言おうとした。
 だが、その日は何故か、これから先のことを考えてしまったのだ。
 このまま、父親の望む高校に行き、父親の望む大学へ行き、父親のいる電力会社か関連会社に就職するのだろう。
 それは確かに安定した人生だろうが、果たして『櫻井山桜桃の人生』なのだろうか。
「どうした? 聞いているのか、山桜桃?」
 笑顔で即答しない息子に苛立ち、恵一の声が一段低くなる。怒鳴り声を上げるまで、あと数秒。恵一の言動は、常に「俺を怒らせるな、どうなっても知らないぞ」という無言の圧力を感じさせるものだった。
「ゆぅくん、お父さんが聞いてらっしゃるわよ。ほら、ちゃんとお返事して? ね?」
 矛先が自分に向くことを恐れ、夏美が猫撫で声を出す。山桜桃は舌が凍りついてしまったかのように喋れなくなり、わかったも嫌だも言えずにその場から逃げ出した。
 恵一は逃げていく山桜桃を追わず、代わりに夏美を張り倒して罵倒した。ごめんなさいと泣き叫ぶ夏美の声を背中で聞きながら、山桜桃は「あいつらは頭がおかしいのだ」と結論づける。
 早くここから出て行かなければ、自分の頭もおかしくなってしまう。
 いや、もうすでに、俺の頭もおかしいんじゃないか?
 山桜桃は結局、恵一の望む高校に入学した。家を出る歳になるまでは、父親に従った方が得だと判断したためである。
 なるべく早く金を貯めて、なるべく遠くへ逃げよう。
 親から遠くへ逃げることが、彼の人生の唯一の目標になった。

第3話『たくらむこどもたち』


 8月12日火曜日、善知鳥は再びパンタシア日本支社のビルを訪れた。時刻は午前10時。まだ朝と呼べる時間帯だが、太陽はぎらついた光を放ち、アスファルトからは陽炎が立ち上っている。
 髪を切っておいてよかった、と善知鳥は思う。山桜桃ほどではないが、だいぶ短くなった。真新しい半袖のトレーナーも、肌に心地好い。かもめが絶対にこれがいいと言うので水色にしたが、職場に着ていくには少し明るすぎる色だったかもしれない。
「おはよう、善知鳥くん。迷わず来れた?」
「おはようございます、三葉さん。大丈夫でした」
 まだ社員証を持っていない善知鳥のために、三葉が一階まで下りてきてくれた。携帯端末が無い善知鳥のために、先日もらった封筒の中に、三葉は次の出社日を書いたメモを入れておいてくれたのだ。
「この暑いのに、上着を持って歩くの変な感じでしょう?」
 三葉の書いたメモには、上着があった方がよいので持って来るようにと書き添えられていた。常に冷房が効いているプレイルームに長時間いるとなれば、真夏でも厚手の上着は必須だろう。
「持って来るのはともかく、売っている店を探すのが大変でした」
 善知鳥は、以前の自分なら考えられないような値段の上着を手にしていた。母親と末っ子が出かけた隙に、かもめと一緒に郊外のショッピングモールへ行って購入したものだ。
 普段なら、夏休みを満喫する親子連れがたくさんいるそのような場所に、かもめは絶対に近寄らない。だが、善知鳥も独りで行くのは心細かったため、妹を服と靴で釣って連れて行った。髪を切り、服を選び、靴を買う。自分たちが、自由にものを選べていることに、2人は終始戸惑いっぱなしだった。買い物ってこんなに楽しいんだね、と言ったときのかもめの顔を、しばらく忘れられそうにない。
「今日は、何枚か書類を書いてもらうのと、社員証を発行してもらうだけだから、そんなに固くならないで」
 善知鳥の複雑な表情を見て、三葉は彼が緊張していると勘違いしたようである。
「渡しておいた書類の記入、終わってる? ちょっと見せて」
 三葉はエントランスホールに点在している円柱型の椅子の一つに座り、善知鳥にも近くの椅子に腰かけるよう促した。書類の入った封筒を三葉に渡しながら、偽造サインが見抜かれませんように、と善知鳥は祈る。
「報酬の振り込み用の通帳もあるわね。新しいみたいだけど、もしかして、わざわざ口座をつくったの?」
「まとまったお金だから、学費用にしたいって思って……」
 善知鳥は言葉を濁す。実は、つぐみに内緒で地元の銀行に口座を開設したのだ。もちろん、未成年の善知鳥は勝手にそんなことはできない。だから、裏技を使った。児童相談所の神田に連絡を取り、『未成年者特別貯蓄口座』を児童相談所所長名で発行してもらったのだ。これは、預け入れは出来るが引き出しはできない口座だった。引き出すためには、名義人が成年に達した後、家庭裁判所に申し立てて普通口座に移行する許可を取らなくてはならない。問題を多く抱えた親が子どもの金に手を付ける事例が後を絶たないため、何年か前に始まった制度だと聞いている。
「保護者の方、何か言ってなかった?」
「いえ、特には……」
 本当だろうか、と言いたげな三葉の視線が善知鳥に向けられる。普通の親なら、ゲームをするだけでこんなに高額の報酬がもらえるアルバイトなど、怪しすぎて反対するはずだ。普通の親、ならば。
「うちは、家計が苦しくて……。この間もお話ししましたけど、俺も高校を中退して働いてるくらいなんです。だから、親も、稼げるなら稼いでこいって感じでした」
 つぐみなら、幾ら稼げるのかとは聞いても、そこは怪しいところじゃないのか、とは言わないだろう。たとえ非合法集団が運営しているような店で働くことになっても、金さえ自分に渡してくれればいいと考えるに違いない。おそらく三葉には想像もつかない世界だろうから、このことは言わないでおくけれども。
「苦労してるのね」
 重たい話題を、さらりと一言で片づけてしまえる三葉は、色々な意味で大人だ。善知鳥は曖昧に頷いて、少し口の端を上げて見せる。同情を寄せてくる大人たちに、何度もしてみせた仕草だった。
 不思議なことに、少しでも笑みらしきものを見せると、大人たちは同情を寄せる以上の行動を取らなくなる。無理をして笑っているという発想が、そもそも彼らに無いのかもしれない。
「不備は無いみたいね。じゃあ、三階に行きましょうか。面倒かもしれないけど、何枚か書いてもらわないといけない書類があるの」
 善知鳥は三葉とともに三階の人事部を訪れ、入館パスを兼ねた社員証を受け取った。人事部の若い男性職員は、これの使い方は三葉さんに聞いてください、とそっけなく言う。
「あと、こちらは会社支給の端末です。割ったり、水でダメになったときには修理費用を負担していただきますので、取り扱いには十分注意してください」
 ありがとうございます、と小さく礼を言う善知鳥に対し、男性職員はどうも、とだけ応えた。あまりにも突き放した態度に戸惑う善知鳥へ、三葉が小声で囁く。
「ごめんなさいね。実は、山桜桃くんが、支給の端末を一回壊してるの。善知鳥くんには関係のないことなのに、まったく……」
 ぶつくさと文句をつぶやく三葉のあとを追いつつ、4階の経理課で先日の試合の追加報酬を受け取る手続きをする。
「では、報酬はこちらの銀行口座にお振込みいたします。処理まで数日かかることもございますので、正確な振り込み日時を知りたいときはお声かけください」
 経理課の女性は、人事課よりも対応が丁寧だった。
「次回から、自動で振り込みになるんですか? それとも、通帳は毎回持って来た方がいいですか?」
「口座の登録が終わっていますので、通帳は次回からお持ちいただかなくて結構です」
「わかりました。あの、たとえば、報酬を半分は銀行に、半分はこの場で手渡しでもらうっていうのは、可能ですか?」
「可能でございます。今回、そのようになさいますか?」
「じゃあ、5万だけ現金でいただいていいですか?」
「かしこまりました。残りの55万円はお振込みいたします」
 家に入れる生活費に4万円、かもめに買い物に付き合ってもらった謝礼として1万円。善知鳥は、経理課の女性から受け取った白い封筒を折りたたんで真新しい長財布にしまった。
「ここにカードを挿したら、行ける階のボタンが点灯するから、行きたいところを選んでね」
 エレベーターで9階に上がっていきながら、三葉は簡単に社員証の使い方を教えてくれた。基本的には、入館時やエレベーターの使用時にのみ使うものらしい。
「会社の外だと、10階のカフェスペースを借りてるお店で、割引があったりするわね。といっても、まだ5軒くらいしかないけど」
 10階のカフェスペースは、同じフロアにある社員食堂と違って、他の店舗が日替わりで入っているらしい。
「三葉さん、この携帯端末の番号、家族に教えてもいいですか?」
「ええ、もちろん。ゲームアプリもダウンロードしていいわよ。うちの会社のゲームが最初に入ってるはずだから、よかったら遊んでみて」
「わかりました。感想とか要ります?」
「気を遣わなくてもいいのよ。もっと違うことに頭を使ってほしいから、できたらでいいわ」
 プレイルームでは、すでに山桜桃がくつろいでいた。
「よぉ、おはよう後輩。ちゃんと来たな」
 山桜桃は大きめのクッションに寝転んだまま、携帯端末の画面を素早くスワイプしている。かもめもよく同じ動作をしているので、彼も同じ猫育成のゲームアプリを入れているのかもしれない。
「おはようございます、先輩。ちゃんと来ますよ」
 未だ互いとの距離感を測りかねている野生動物同士で会話している気分だ。山桜桃は善知鳥を気に入ったようだし、善知鳥も山桜桃は苦手なタイプではなかった。だからといって、すぐに打ち解けて何でも話し合える仲になるとは限らない。
「あなたたち、結局その呼び方で決定なの?」
「何がですか?」
「先輩・後輩って呼び方よ。2人きりのチームなんだし、せっかくだからちゃんと名前で呼び合ったら?」
 三葉の指摘を受け、善知鳥と山桜桃は顔を見合わせる。そして2人そろって、彼女の案を却下した。
「2人だけだから、この呼び方が成り立つんですよ」
「世の中、自分の名前が好きなやつばっかりじゃねーんだよ。サユリさんにはわかんねえだろうけど」
 唇を尖らせた山桜桃と、表情を変えない善知鳥に、三葉は肩をすくめて見せた。ええ、いいわよ。好きにしなさい、子どもたち。そう言っているみたいだった。
 善知鳥は手に持ったままだった上着を羽織り、マシンへ視線を向ける。
「ちょっと、マシン使って訓練したいですけど、試合が無くても使っていいものなんですか?」
「使うこと自体は問題無いわ。ただ、今日はちょっと待ってね。解析班のメンバーが、メンテナンスをする日だから……」
 もうすぐ来ると思う、という三葉の言葉が終わらないうちに、エレベーターの扉が開いて4人の男女が降りてきた。台車の上に、工具やコードの入った半透明の箱を載せている。小脇にラップトップパソコンを挟んだ大柄な白人男性が、親しげな笑みを浮かべて善知鳥に歩み寄ってきた。
「初めまして。ボクはアンソニー。解析班の班長だよ。キミがウトウだね? ウトウって呼んでいいかな?」
 彼の口から出て来た流暢な日本語に驚きながら、善知鳥は差し出された手を握り返す。「もちろんです、初めまして」と言う声が震えてしまった。
「緊張してるね。大丈夫、すぐに彼みたいになるよ」
 アンソニーは、我関せずと言った態度を貫く山桜桃を視線で示し、ごく自然な流れでウインクをする。
「ハイ、ユスラ。チームメイトとの相性はどうだい?」
「ハイ、アンソニー。まぁ、悪くなさそうだ」
「アンソニー、善知鳥くんにコネクトウェルバの説明をしてあげて。人類の叡智を結集した傑作だってことをね」
 三葉の依頼を受けたアンソニーに促され、善知鳥はマシンに歩み寄る。三人の解析班メンバーが、マシンの外側と内側の壁のパネルを外して配線を確認していた。壁の中を縦横無尽に走るケーブルや、ところどころに設置された計量機器など、善知鳥が今まで見たことのないものばかりである。
「人間の脳は可能性に満ちている。その話を、サユリから聞いたかい?」
 アンソニーはマシンの外に出されたヘッドセットを善知鳥に渡し、ラップトップパソコンを起動する。
「脳のエネルギーで電力を生む、という話なら聞きました」
「脳の、どこの部分のエネルギーを使うか、聞いた?」
「いえ、聞いていません。脳全部じゃないんですか?」
 英語で何かつぶやいて、アンソニーは善知鳥に液晶画面に表示された人間の脳の画像を見せてくる。濃い藍色を背景にして、灰色の脳が宙に浮いている様子が映っていた。立体図になっているらしく、アンソニーが画面の前で指先を振ると、脳の画像がその動きに合わせて揺れる。
「人間の脳と、動物の脳。一番違うのはどこだかわかるかい?」
「えっと、大脳新皮質、ですか? 新しい脳って呼ばれてる」
「OK。このヘッドセットがアクセスするのは、その新しい脳までなんだ」
 脳の画像の中で、大脳新皮質にあたる部分が、黄色く光る。
「新しい脳の奥にある古い脳には、アクセスしない。古い脳は、とっても省エネなんだ。ここのエネルギーを電気に変えても、たいした量にはならない」
 善知鳥は、中学の理科の時間を思い出していた。古い脳、つまり大脳辺縁系や小脳など運動や情動を司るところ、か。人間以外の生物で、あまり知能が高くないものは、その古い脳を主に使っていると授業で教わった記憶がある。
「感情が高ぶっても低いスコアしか出ないのは、古い脳が感情に関係しているからですか?」
「そう。理解が早いね、ウトウ。人は、泣いたり怒ったりすることより、言葉で何かを考えることに沢山のエネルギーを使っているんだ」
「そのエネルギーを、電気に換えるんですね」
「キミたちプレイヤーの協力のおかげで、計画は順調だよ」
 世界中に散らばるプレイヤーの数は、現在200名ほどらしい。善知鳥は、ふと頭に浮かんだ問いを口にする。
「どうして、これをスコアを競うゲームにしようと思ったんですか? パンタシアがゲーム会社だからですか?」
 アンソニーは、いたずらっ子のような笑みを浮かべて答えてくれる。
「どうしてって? 考えてもみてよ、ウトウ。これが単なる発電装置で、ここに入って考え事をしてください、なんて言われても、ワクワクしないだろう? 人は、ワクワクするものに夢中になる。そして、ゲームっていうのは最高のワクワクだ。たくさんゲームを創ってきたボクたちは、それをよく知ってる」
 他人とスコアを競うだけの単純な仕組みでも、そこに各自の個性や技量の差異が加われば、誰も予測できない結果を産む高度な知略ゲームになる。パンタシア社内の開発チームはそこに目をつけた。コネクトウェルバのゲームは、各チームがただひたすらにスコアだけを競い合うように設計それている。直接チャットで交流したり、アイテムを使ったりといった機能はまったく無い。
「スコアが相手より低ければ、どうすればスコアを伸ばせるのかを自分たちで考えるようになる。そうやって考えること自体が、訓練になるんだ。そしてだんだん、全体のレベルが上がっていく」
 各チームは、頼る指標がスコアの変動しか存在しないため、自然と『いかにスコアを伸ばすか』を模索するようになる。このゲーム設計のすごいところは、もし1位のチームになったとしても、彼らも同じように『いかにスコアを伸ばすか』を考え続けなくてはならないところだ。次の試合では抜かれるかもしれない。次は勝てても、その次で負けるかもしれない。相手の作戦や参加メンバーなどの詳細が一切わからないため、自チームにできることはスコアを伸ばし続けることだけである。
「すごく考え抜かれて創られたゲームなんですね」
「あと、できるだけ若い人に知ってもらいたいっていう気持ちもあって、ゲームにしたって聞いてるよ」
「それは、スコアが伸びやすいからですか?」
 アンソニーは、灰色がかった青い瞳で真っ直ぐに善知鳥の目を見つめ、それからゆっくりと瞬きをした。
「パンタシアの社員はね、ウトウ。世界を救うヒーローは、未来を生きる若者たちだと思っているのさ」
 希少資源の枯渇、温暖化による異常気象の被害、埋まる気配の無い貧富の差。この世界に産まれてくる子どもたちにとって、明るい未来を暗示してくれるものはほとんど無い。だが、子どもは産まれてくる。各自の個性と可能性と未来を創る力を持って。
「うまくいけば、この技術が世界を救うんだ。参加したみんながヒーローになる。石油も、原子力も、最小限でよくなる。子どもたちは、何かを一生懸命考えることが良いことだと教わるようになる。それって、素晴らしい世界だと思わない?」
 善知鳥は手の中にあるヘッドセットを、じっと見つめた。自分にはとうてい考えつかないような理論と技術と夢を抱え、アンソニーや三葉たちは世界を変えようとしている。
 自分は、その壮大なプロジェクトの一端を担っているのだ。
 善知鳥は、胸にこみ上げてくるものを覚え、熱のこもった声でアンソニーに応えた。
「素晴らしい世界だと思います」
 アンソニーは満面の笑みを見せて、ラップトップパソコンを閉じた。
「ま、ボクのアイデアじゃないけどね。ボクもこのプロジェクトのことを聞いたときは、カンドーしたよ」
「アイデアをかたちにできることも、すごい才能だと思います」
 マシンのメンテナンスをする解析班のメンバーに目を移し、善知鳥は素直な感想を述べた。
 思いつくだけなら、誰にでもできる。どのようにしてそれを成し遂げるかを考え、実行できる人間が現れない限り、どんなに素晴らしい計画も結局は絵空事でしかない。
「ありがとう。まったく、世界には天才があふれているね」
「アンソニー、ヘッドセットの点検をしても?」
 冗談めかして笑うアンソニーに、背の高い女性が歩み寄って来た。
「ウトウ、彼女に渡してあげて」
 促されるまま、善知鳥は女性にヘッドセットを渡した。
「ありがとう。私は高津冴(たかつさえ)。よろしくね」
 無愛想なタイプかと思ったが、笑みを浮かべると花が咲いたようをな印象を受ける。善知鳥は軽く頭を下げて、挨拶をした。
「楠木善知鳥です。はじめまして」
「君も天才プレイヤーなんだって? 羨ましいね。私なんて、どうやってもスコアが四桁から上がらないのに」
 反応に困る善知鳥の隣で、アンソニーが豪快な笑い声を上げた。
「サエは職人タイプなんだよ。言葉よりも感覚で世界を見てる」
「そうかもね」
 高津は、ヘッドセットについているケーブルを軽く引っ張ったり、顔を近づけて異常がないか確認している。内側に付いている電極の表面を拭き、耳元にヘッドセットを近づけて軽く振った。
「よし、異常無し。点検の最後にテストプレイするんだけど、楠木くん、よければやってくれる?」
 ヘッドセットを渡された善知鳥は、壁面パネルが外された状態のマシンへ入っていく。液晶画面の表示は、純白の背景にロゴが表示されているところで制止していた。
「そういえば、コネクトウェルバってどういう意味なんですか?」
 善知鳥は、一緒にマシンへ入ってきた高津に問いかける。
「たしかラテン語、だったかな? 言葉を繋ぐって意味だと聞いてるけど」 
 よくは知らない、と言う高津の前で、善知鳥は頭にヘッドセットを装着する。先日より短くなった髪の毛のせいか、今日は電極が地肌に触れているのが感じられた。液晶画面の表示が、文字入力画面に切り替わる。どうやら、ヘッドセットの装着がゲーム開始のスイッチになっているらしい。
「問題はどうする?」
「こないだと同じでいいだろ、後輩。『焔の氷柱』問題で」
 山桜桃の声が近くで聞こえたことに驚き、善知鳥はマシンの扉の方に頭を向ける。山桜桃の姿は扉の影に隠れて見えなかったが、液晶画面が切り替わったので、彼がタブレットを操作したのだと知れた。
「それでいいですよ、先輩」
 高津がヘッドセットの具合をチェックしているわずかな間に、善知鳥は臨戦態勢を整えていた。
 呼吸をだんだん深くゆっくりにしていき、虚空の一点を焦点の合わない目で見つめる。ここ数日、家の中や近所の公園で訓練してきたやり方だ。なるべく集中を途切れさせず、多くの言葉を矢継ぎ早に頭に浮かべて繋げていく手法。
 なるほど、だから『言葉を繋ぐ』なのか。
「じゃあ、テスト開始。頑張ってね」
 マシンの中から出て行く高津の声が、どこか遠くの方で聞こえた。それを最後に、善知鳥は思考の海に沈んでいく。
 焔の氷柱を想像しろ。
 そんなものは存在しない、存在できるわけがない。
 それはわかっている。
 だが、そこで無いものと決めつけてしまうのは単なる思考停止なのだ。
 スコアは伸びず、ゼロのままで終わる。
 だから、焔の氷柱とはそもそも何か、をまずは考える。それは何かの比喩かもしれないし、文字通りの意味かもしれない。
 まずは、文字通りの意味を示していると考えてみる。この場合、『焔で構成された氷柱』ということになる。焔で氷柱が作れるのか? そもそも、焔とは何か……。あるいは、やはり何かの比喩だろうか? だとしたら、何の比喩になるというのか……。
 善知鳥は、思考の海の中で、ときに揉まれ、ときに流され、ときに深く沈んで息が苦しくなる感覚を楽しんでいた。彼にとって思案する時間と言うのは、生身の自分から解き放たれる解放の時間である。何かを考えている間は、空腹を忘れ、身体の痛みを忘れ、今ここで生きていることすら忘れられる。自分が何か大きなものと一つの存在になって、もう何にも苦しまなくていい状態になっている気がするのだった。
 もちろん、頭の片隅にはちゃんと現実世界の自分がいて、そんなことはないとわかっているのだが。
「すごい! もうスコアが五桁を突破した!」
「今月の順位、韓国のチームを抜くかもしれないわ」
「本戦の総合優勝も狙えるんじゃないか? なぁ、ユスラ?」
 解析班の人間や三葉の声が、薄い膜の向こうから聞こえてくる。少しそちらに引っ張られそうになったが、善知鳥の意識はまだ遠くにあった。
「トップになったら、幾らもらえんの?」
 しかし、山桜桃の声には完全に引っ張られてしまった。その発言内容に関心があったことに加え、彼の声が冗談めかしているけれど真剣そのものだったことが気になって。
「……もう、いいですか?」
 集中が完全に途切れたと感じ、善知鳥はヘッドセットを外してマシンの扉から頭を出した。
「ブラヴォー、ウトウ。5分でスコア3万だなんて!」
 アンソニーが拍手をすると、高津を始め解析班のメンバーも控えめな拍手を贈ってくれる。何とも居心地の悪い気分になり、善知鳥は一つお辞儀をしただけで、他に何のリアクションも返せなかった。
「メンテナンスの結果は問題ないよ。あとは、パネルを元通りにするから、ちょっと待ってて」
 ヘッドセットを受け取ったアンソニーが、力強く温かい手で善知鳥の細い肩を軽く叩く。
「善知鳥くん、疲れたでしょう。ちょっと早いけど、お昼にしない? 山桜桃くんもどう?」
 三葉に誘われ、善知鳥と山桜桃は十階にあるカフェスペースを訪れた。時刻は午前11時18分。エレベーターの中で、今日は三葉の友人が店を出している日だと教えられる。それを聞いた山桜桃が、携帯端末から目を離さずに言った。
「三葉、プリンのカップどうした?」
「え? カップ? あっ!」
「……忘れたんだな」
 どうやら、先日プリンをくれた人が三葉の友人らしい。善知鳥は、プリンの蓋に書いてあったコッタ・コッタという店名を思い出す。
「いいわ、どうせ明日行くから、明日持っていく」
 常連らしい台詞を言って、三葉は先に立ってエレベーターを降りた。10階は9階と違って明るく開放的な印象を受けるフロアだ。四方の壁はガラスになっており、展望台のような空間になっている。エレベーターのある場所を境に、左が社員食堂、右がカフェスペースになっているようだった。
「あっちの社員食堂、俺も使えますか?」
「もちろん。でも、時間が12時から1時半までだし、ほとんどやさしい電力の出向社員が使ってるから、居心地が良くないわ」
「なるほど、時間で区切ってるんですね」
 何やら因縁があるらしい口調だったが、善知鳥は面倒事の気配を感じ取って踏み込んだ質問を避けた。一瞬、山桜桃の視線を感じた気がしたが、それにも反応せずに歩く。
 カウンター席が8つにテーブル席が5つあるカフェスペースには、先客が一人いた。遠目にも皺だらけとわかるスーツを着た、小太りの男性だ。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの中から声をかけてきたスタッフらしき男性は、先頭に立つ三葉を見て、営業用の笑みを崩す。
「なんだ、早いな。今日はお前用のメニュー用意してないぞ」
「今日は、オイルパスタに焼いた肉でいいわ」
「おい、野菜も食べろ」
「そんなことより! 紹介するわね。こちら、新しいチームメイトの楠木善知鳥くん」
 三葉は勢いよく善知鳥の手を引き、佐藤とカウンター越しに対面させる。
「善知鳥くん、こちらはコッタ・コッタの店主の佐藤さん。この間、プリンをくれたのは彼よ」
「はじめまして、楠木です。あの、プリンありがとうございました」
「佐藤です。プリン、どうだった?」
「美味しかったです。あんなに美味しいプリン、生まれて初めて食べました」
 善知鳥が食べたことがあるのは、3個か4個がパックになっているタイプのプリンだけだった。それも、特売コーナーで3割引き以下になっているときに贅沢品として購入するものである。店でつくった上等な焼きプリンなど、本当に生まれて初めてだった。
「ほんと? 嬉しいなぁ。こちらこそ、食べてくれてありがとうね」
 佐藤は、笑うと細い目が余計に細められ、くしゃりとした笑顔になる。育ちのよさそうな温厚な言葉遣いから、彼の人柄が知れた。
「楠木くんが、早百合がスカウトしたいって言ってた子?」
「そうよ。あなたの予想が当たって、まだ広告の前に居てくれたの」
 佐藤から、カウンター席に座るよう言われ、善知鳥たちは並んで腰を下ろした。
「佐藤さん、揚げ物が食いたい」
「櫻井くん、チーム結成おめでとう。今日タルタルソース作ってきたから、チキン南蛮できるよ?」
「じゃあ、チキン南蛮とアラビアータ」
「オッケー。楠木くん、これメニュー。ゆっくり決めてくれていいよ」
 手渡されたメニューは、ハガキ大の小さな冊子だった。ファミレスやファーストフード店とは違う、手づくりの雰囲気に溢れている。パラパラとめくってみたが、パスタやトーストというカテゴリはわかっても、一体その料理が何を素材としていてどんな味なのか、想像がつかないものが多い。山桜桃が注文したアラビアータですら、善知鳥には未知のものだ。
「…………」
「お前、嫌いなもんある?」
 どうしたものかと悩む善知鳥の隣から、山桜桃が尋ねてくる。相変わらず携帯端末から目を離さないままだが、善知鳥が困っているのを察してくれたらしい。さすが「俺のことは先輩と呼べ」と言うだけのことはある。
「特には……といっても、食べたことのあるもののバリエーションが少なすぎて、知らないだけかもしれませんけど」
「辛いのが平気なら、アラビアータ美味いぜ」
「辛いって、どのくらい……」
 尋ねようとした善知鳥の背後に、いつの間にか先客の男が忍び寄って来ていた虚を突かれて驚き、振り向いた瞬間、男と目が合う。濁った沼から、得体の知れない何かに睨みつけられているようだった。
「あら、泊(とまり)さん? いらしてたんですか?」
 佐藤と話し込んでいた三葉が、男性に気づく。
「こ、こんにちは、三葉さん。今日もお会いしましたね」
 彼女に名を呼ばれたことで、泊の関心が三葉に移ったようだ。善知鳥は警戒を解かぬまま、身動ぎせずに大人たちの会話を聞いている。
「佐藤さんのオムレツが絶品で、その、惚れこんじゃって……」
 泊と呼ばれた男は、湿った声で笑う。どうやら、彼も常連らしい。
「いつもありがとうございます」
 快活な佐藤の声に、泊はそっけなく「うん」と頷く。
「三葉さん。新しいプレイヤーって、彼なの?」
 一瞬の間があって、三葉は頷いた。笑みのかたちになっているのは口元だけで、目が笑っていない。
「ええ、そう、彼です」
 これで何回目だろうと思いながら善知鳥は、はじめまして、と挨拶しようとした。しかし、口を開くより先に山桜桃に腕を掴まれ、強引に遠くのテーブル席へと連れて行かれる。
「何ですか? 挨拶ぐらいさせてくださいよ……」
 元居た席に戻ろうとする善知鳥を、山桜桃は強引に自分の隣に座らせる。もう、携帯端末を見てはいなかった。
「泊さんはな、やさしい電力から出向してきてる社員。コネクトウェルバのことを監視して、本社に報告するするのが仕事だ」
「先輩。俺は、挨拶しなくていい理由を聞いてるんですけど」
「お前の名前と顔ぐらい、もう知ってるよ。あっちの目的は、お前を手懐けて三葉やアンソニーたちを出し抜くことなんだから、馴れ合うな」
 善知鳥は、振り返って泊の様子を窺う。彼は自分たちを追いかけてくるそぶりも見せず、それどころか、もうこちらには興味が無いような雰囲気で熱心に三葉と話し込んでいた。
 彼の何が、山桜桃をこんなにも警戒させるのだろう。いくら外部から来ている人間だといっても、同じプロジェクトに関わる人間だろうに。
「何で近づいたらダメなのか、教えてもらえませんか? 理由も無く従えることじゃないですよ、先輩」
「…………」
 眉間に深い皺を寄せた山桜桃は、どう話し出そうかと考えている顔だ。
「楠木くん、注文決まった?」
 カウンターから出てきた佐藤が、水とおしぼりを運ぶついでに、注文を取りに来てくれた。善知鳥はメニューを返しながら、山桜桃と同じものを、と答える。
「今日、デザートはクレープにしようと思うんだけど、嫌いじゃない?」
「ありがとうございます、いただきます」
「チョコバナナにクリーム付く?」
 眉間の皺を消さないまま、山桜桃が尋ねた。
「わかった、付けようね。すぐ作るから、もうちょっと待ってて」
 佐藤は軽快な足取りでカウンターの中へ戻っていき、再び善知鳥と山桜桃の間に重たい空気が戻って来た。善知鳥は水を一口飲んで、頬杖をついたまま山桜桃が話し出すのを待つ。
「あいつがいなくなったら、話す」
 泊に話を聞かれたくないのだろう。
 善知鳥は頷いて、先ほど渡されたばかりの携帯端末を手に持った。三葉の言ったように、すでにインストールされているゲームがいくつかある。画面を覗き込んできた山桜桃に、解説を頼む。
「これは面白かった。これは、まあ、合う合わないがあるな」
「先輩がやってるゲーム、この猫のやつですか?」
「エサやりが面倒なだけで、あとは放置でいいから楽だぜ」
「うちの妹も、そう言ってました」
 しばらくゲーム談議に興じていると、泊がカフェスペースから出て行くのが見えた。時折向けられる視線に気づいていたのか、途中で立ち止まってこちらの様子を窺っている。善知鳥は一応の礼儀として、顔を上げて会釈した。山桜桃は無視を決め込む。泊は、反応が得られて満足したらしく、足早に歩き去った。
「はい、お待たせしました。チキン南蛮とアラビアータです。タバスコいるかな?」
 ちょうど、佐藤が二人分の食事を運んで来てくれた。泊が去って一人になった三葉は、気を遣ってくれているのか、こちらに来る気配は無い。
「俺は要らないです」
「俺もいい。いただきまーす」
 一口、二口と無言で食事を口に運び、三口目を飲み込んだところで山桜桃が喋り始めた。
「ここの建物には、三葉たちパンタシアの社員と、やさしい電力株式会社ってところから出向してきた社員の両方がいる。ちなみに俺たちは、パンタシアの所属だ」
「ゲームの報酬を出しているのは、その電力会社ですか?」
「いや、それは全然別のとこから出てる。ゲームに参加してる各国の電力会社が共同出資してつくった会社があるんだよ」
 やたらと報酬が高額なのは、世界中の大企業から集められた十分な資金があるからか。電力会社にしてみれば、現在プレイヤーに払っている金は、今後得る利益に比べれば端金なのだろう。
「泊さんはもともと営業職だったけど、会社命令で技術職としてアメリカの電力会社に研修に行ったりしたらしいぜ。本人としても、そっちの方が向いてたからよかったって言ってたけど」
「ベテランじゃないですか」
 善知鳥は初めて食べるアラビアータの味に感動を覚えながらも、山桜桃の話はちゃんと頭に入れている。
「黙って聞いてろ。問題なのは、泊さん個人がどうとかじゃなくて、やさしい電力自体がコネクト・ウェルバの発電装置計画に反対してるってことだ」
 2036年現在、日本の電力のほとんどは火力発電で賄われている。原子力発電も行われているが、火力発電に比べれば10分の1程度しか発電していない。他に、エコエネルギーと言われる太陽光・水力・風力なども取り入れられているが、発電量は総電力の数パーセント程度。つまり、無いも同然なのだ。
「火力発電は地球環境に悪いんでしょう? 日本は代替エネルギーをずっと探してるって。エコで手軽な技術があるなら、歓迎されるもんじゃないですか?」
 警告を聞かず口を挟んだ善知鳥を、山桜桃は叱らない。水を一口飲み、大きなチキンの塊を頬張る。
「普通はな。でも、あの連中は頭がおかしいから、そういう発想はしない」
 政治と金と企業間の利害関係が複雑に絡み合い、やさしい電力会社は、時代の流れに逆らって原子力発電所の再稼働を目指している。火力発電は、確かに環境に悪い。かといって、環境に良い発電は効率が悪すぎる。だとしたら、他に選択肢が無いという理屈で、原子力発電所を再び動かそうというのだ。それには、多額の賄賂と多くの天下りの役人が絡んでいる。やさしい電力株式会社の幹部たちにとって、再稼働は何としてでも成し遂げなくてはならない目標になった。
 だが、そこに飛び込んできたのがコネクトウァルバによる発電プロジェクトだった。
 人間の活動にほんの少しの工夫を加えるだけで実現する、究極のクリーンエネルギー。そんな夢物語があるわけがないと高を括っていた幹部たちは、計画が具体的になりパンタシアとの会議を重ねるうちに、次第に焦り始めた。このプロジェクトが順調に進めば進むほど、原子力発電所の再稼働の日が遠のくのだ。しかし、それに気づいたときにはすでに、当社ではできないと言えない段階に入っていた。おまけに、パンタシアとの橋渡し役をしたアメリカの電力会社は、原子力発電所の技術でもお世話になっている会社だった。
 国内の利権と、外交上の利権。板挟みの状態に陥った幹部たちは、一計を案じた。
「他の国では上手くいくようですが、日本では上手くいかないみたいですねって言えるような状況をつくろうとしたわけだ」
 山桜桃は苦いモノでも噛んだときのような顔をして、フォークに巻かれた大量のパスタを口に突っ込む。善知鳥は食べ終えたアラビアータの皿を脇に退け、まだ湯気を立てているチキン南蛮にフォークを突き刺した。
「俺、先輩は電力会社の役員のご子息だって聞いたんですけど」
「そうだよ」
「その話からいくと、先輩のお父様がこの計画を潰したがってるんですよね?」
「お父様って言い方止めろ。気色悪い」
「その……父親の推薦で、先輩はここに来たって聞いてますけど」
「そうだよ。よく知ってんな」
 山桜桃の口調は、怒っている風ではなかった。むしろ、どこか虚しさを含んだ言い方だった。自分のことを、自分が知らないところで噂されることに慣れてしまった人間の対応だ。
「先輩のやってること、真逆じゃないですか?」
 日本チームは、今まで山桜桃しかプレイヤーがいなかったにも関わらず、総合スコアでは五位あたりにいると聞いている。
「……うちの父親は前時代的な亭主関白男でな。妻だけじゃなく子どもにも、自分の思い通りになることを要求するようなクソ野郎だ」
 善知鳥は無言で頷き、話の先を促す。
「どんな物を食うか、どんなおもちゃで遊ぶか、どんな本を読むか、どの習い事をするか、どの学校に通うか、どんな友達と付き合うか、どんな言葉遣いをするか……俺は、家を出て一人暮らしを始めるまで、そういうことを全部父親に決められる生活を送ってた。母親も、夫から良い妻だと褒められたいばかりに、俺に理想像を押しつけてくるようなタイプだ。褒められたいっていうか、怒鳴られたり殴られたくないって言うのが正確だな」
 とにかく俺の父親はクソ野郎だ、と山桜桃は繰り返した。
「コネクトウァルバのゲームに参加しろって話も、やってみるか? じゃなくて、やりにいけって感じで持って来た。そのときに、聞いてもないのに今の話をしたんだよ、あいつ。この話を聞かせておけば、俺が自分の期待通りに動くはずだって思ってやがる」
 山桜桃はコップに半分ほど残っていた水を一気に飲み干し、コップを脇に退ける。
「俺はもう、あいつの思い通りに生きるのはやめた。ゲームで勝てば遠くで独りで暮らすための金が手に入るし、三葉たちの思い描く世界は、あいつの期待する世界よりも良いところだ。そう思わねえか?」
 善知鳥にとっては、電力会社の利権問題など遠い世界のことだった。持っている人間がより多くのものを手に入れるのは当然のことだし、それを止める力が自分にあるわけではない。
 だが、もし、自分にそんな力があったら?
「先輩、俺にできることは?」
 皿に残ったタルタルソースをレタスの上に乗せながら、善知鳥は問う。
「スコアを上げて、試合で勝ちまくって、日本での実験は大成功だったと思わせることだ」
 山桜桃の返事は、善知鳥の利害と一致するものだった。
「了解です」
 タルタルソースを包んだレタスを一口で食べきり、善知鳥はコップに残った水を飲み干す。
「……別に、俺に付き合うことねえぞ。嫌になったら、さっさと辞めろよ」
 皿に最後の一口を残したまま、山桜桃の手が止まっている。さすがに喋り過ぎたと思ったのかもしれないし、いやにあっさり了承した善知鳥のことを警戒しているのかもしれない。
「俺は報酬目当てですよ。先輩の要求が、金を寄越せ、だったら断固拒否してます。でも、そうじゃなかったし……。……それに、俺も、自分の親が嫌いです」
 善知鳥は真っ直ぐに、山桜桃の顔を見た。その目に込められた力を感じ取ったのか、山桜桃の手が再び動き出す。
「じゃあ、これからよろしくな、後輩」
 軽い口調だったが、山桜桃からの信頼を得たと感じる。善知鳥は少しだけ口角を上げ、笑みを浮かべる。
 山桜桃が最後の一口を食べ終えたと同時に、三葉がカウンター席を立ってやってきた。手には、大きな銀盆を持っている。
「デザートのクレープよ。中身は、自分たちで好きなだけ詰めなさいって」
 銀盆の上には、美しく焼かれたクレープの生地と、色とりどりの果物。それに、チョコソースやクリームが山のように盛られていた。テーブルいっぱいに広がる夢のような光景に、善知鳥はしばし見入ってしまう。妹弟の顔が、頭に浮かんだ。
「あの、これ、少し持って帰ってもいいですか?」
「ちょっと待って、聞いてみるわね。晋、テイクアウトできる?」
 三葉の問いかけに、佐藤は頭の上で大きな丸をつくって答える。
「別に焼いてあげるから、帰るときに寄っていきなよ。それは全部食べちゃっていいから」

第4話『ゆめみるこどもたち』



 プレイルームに自由に出入りできるようになって以来、善知鳥は毎日やって来た。来る時間はまちまちで、午前9時に来ることもあれば、昼過ぎまで顔を見せないときもある。朝から晩までプレイルームにいる山桜桃は、毎日出社してくる善知鳥を迎えて、退社する彼を送り出していた。
「別に、毎日来なくていいんだぞ? 来たからって、日当が出るわけじゃないし」
「ちょっとは練習しとかないと、次の試合が不安なんです。それに、他に行くところもないし」
 自分も、ここに来たばかりの頃は同じような心境だった。
 山桜桃は、無理するなとだけ言って、善知鳥の好きにさせている。彼は、一緒に居て苦痛を感じるタイプではない。自分の意見とペースを、しっかり持っている。だからといって、自分の意見を他人に押しつけることはしないし、自分のペースに他人を合わせようともしない。独立独歩。それが、山桜桃から見た善知鳥の印象だ。
「先輩、ずっと独りだったんですよね?」
「そうだよ。お前の前に、そのマシンを実際使ってテストした人間が10人くらいいたけど、誰も高いスコアは出せなかったからな」
「そこそこのスコアでも、10人全員分足していったら、大きい数字になるんじゃないですか? チーム人数に上限は無いって聞きましたけど」
「フランスとかイタリアが、そのやり方でやってるみたいだけどな。成功してるとは言い難いぜ。はっきり言って、何人集めても雑魚は雑魚だ」
 他のチームのことは、今まで興味が無かったせいもあって、山桜桃はよく知らない。月に1度発表されるランキングの上位チームの国名と、三葉やアンソニーが話している内容を、断片的に覚えているだけだ。
「本戦の対策立てるために、他のチームのこと聞いておいた方がいいと思います。そのためには、自分たちがどのくらいの実力なのか、正確なところを知らないと」
「そうだな……。三葉に資料持ってるか、聞いてみる」
 10月初旬から、全世界のチームが参加するトーナメント戦が始まる。今、山桜桃たちがやっているのは練習試合だった。練習試合をしたいチーム同士が日時を指定し合い、条件が合えば試合が開催される。そのため、賞金も日本円にして一人頭100万円に抑えられているのだ。
「優勝賞金の100万ドル、欲しいよな」
 4月からゲームに参加している山桜桃は、すでに2000万強の金額を稼いでいる。本戦に興味が無かったのは、今までの収入で当面やっていけると思っていたからだ。それに、一人で全世界のチームを相手に勝ち抜けるとも思っていない。しかし、善知鳥が加わったことで、もしかしたら、という気持ちが芽生えてきた。
「すごいですよね。一チームに100万ドルですよ? 参加するだけで一人1万ドルもらえるのもすごいですけど」
 アメリカの電力会社がコネクトウェルバの試合を開催するためのスポンサーを募ったところ、かなりの数の企業が出資してくれることになったらしい。その中には有名なウェブ配信会社も含まれており、放映権を独占する代わりに多額の寄付をするということで話が着いた。発電をゲームにしたばかりか、その技術の発表の場をエンターテインメントにしてしまう発想は、すごいとしか言いようがない。また、そうやって得た利益をちゃんとプレイヤーにも還元する姿勢が素晴らしい。
 1時間ほどして、タブレットを3つ抱えた三葉がプレイルームにやってきた。そのうち1つを山桜桃に渡しながら、満面の笑みを浮かべる。
「ようやく、やる気になったのね?」
「俺じゃなくて、後輩の意見だよ」
 山桜桃は、タブレットを受け取りに歩み寄ってきた善知鳥を指す。
「じゃあ、うちのチームは善知鳥くんが参謀役になるのかしら?」
「そういうわけじゃないですけど……。三葉さん、他のチームのやり方というか、戦略について詳しいですか?」
「それが、私は成績ぐらいしかわからなくて……」
 三葉たちパンタシアの社員が持っているのは、コネクトウェルバ本体に関する情報だけらしい。試合の日程調整や試合内容の詳しい分析結果を握っているのは、やさしい電力株式会社の人間だけというわけだ。
「そういうことに詳しくて、他チームのサポートスタッフとも交流してるのは、泊さんよ」
「泊さんて、この前カフェスペースにいた方ですか?」
 泊の名を聞いて黙り込んでしまった山桜桃の代わりに、善知鳥が三葉に尋ねる。
「そうよ」
「どんな方なんですか?」
「どんなって、そうね……」
 三葉は両手でタブレットを持ったまま、口ごもる。真っ暗な画面に映る自分の顔と、何かを相談しているような表情だった。
「まず、技術者としては優秀ね。アンソニーが言ってたけど、発電装置内で配線経路を見直すときにアドバイスをしてくれて、そのおかげで発電効率がぐんと上がったとか。そういうエピソードがいくつかあるわ。そうね、あと、泊さんはコネクトウェルバのプロトタイプの開発にも携わっているのよ」
「プロトタイプって、日本でつくったんですか?」
「いえ、アメリカよ。泊さん、留学費用免除の交換留学生として、院生時代に向こうに2年ほど行っていたみたい。その時に知り合った仲間から、営業職時代に誘われたそうよ。客に頭を下げるより、何かを造る仕事に向いてるんだから、こっちに来いって」
「優秀な方なんですね」
 善知鳥から、どうしますか、という視線を向けられ、山桜桃は足元にあった四角いクッションを遠くに蹴飛ばす。クッションは抗議をするように2度ほど床をバウンドし、柱の一つに当たって止まった。
「わかった、泊さんでいいぜ。呼んできてくれ」
 三葉はタブレットをテーブルに置き、エレベーターに乗っていった。彼女の姿が見えなくなったと同時に、山桜桃と善知鳥は顔を見合わせる。
「プロジェクトが失敗すればいいって思ってるなら、改善策を提案したりします? 泊さん個人は、コネクトウェルバのことを支持してるんじゃないですか?」
「発電効率を上げることと、日本にこの発電方法を根付かせないようにするっていうのは、まったく別のことだぜ、後輩。技術者として改良策を思いついたから言っただけで、会社命令は忘れてないかもしれないだろ?」
 なるほど、と頷いた善知鳥は、それでもまだ納得しかねるという顔をしている。
「あと、俺が一番警戒してるのはな、泊さんはうちのクソ親父と同期で、長年、いじめる奴といじめられる奴の関係にあるってことだ。親父は泊さんのことを馬鹿にしてたし、泊さんは親父だけじゃなく俺にも媚びてくる。会社とは何の関係も無い、17のガキに、だ。それだけ、親父が怖いんだろ」
 山桜桃は、泊から「君が、櫻井常務の息子さんですか」と言われたときのことを、よく覚えている。へつらう、という表現がぴったりの顔をしていたが、彼の目の中では怨嗟の炎が燃えていた。恵一を恨む彼の気持ちは、山桜桃にもよくわかる。だからなのか、その妬みや恨みを自分に向けるのは筋違いだという思いは、不思議と湧いてこなかった。
「コネクトウェルバは親父が統括してるプロジェクトだから、泊さんは従うしかない。だから、話を聞くのはいいが、気を許すなよ」
「了解です、先輩」
 5分ほどで、三葉が泊を連れて戻って来た。先日と同じスーツを着た泊は、小脇にラップトップを抱え、片手に下げた布袋からは何かの接続ケーブルがはみ出している。顔はやや不機嫌そうで、何故自分がこんなことをさせられるのか、という不満がにじみ出ていた。
「先日は失礼しました。楠木善知鳥です」
 善知鳥はいつもと変わらぬ涼しい顔で、泊に頭を下げる。山桜桃は蹴飛ばしてしまったクッションを回収しにいくふりをして、そっとその場から離れた。
「泊です。君も、天才プレイヤーなんだってね?」
「天才かどうかは、自分ではわかりません。スコアは先輩と同じくらいです」
 何か含みがありそうな泊の台詞に、善知鳥はいつものトーンで応えている。それが何だかおかしくて、山桜桃はクッションを拾いつつ、肩を震わせ笑った。
「僕も暇じゃないんで。現状の説明をするだけでいい? あと、質問があれば手短かに」
 布袋からはみ出していたコードは、プロジェクター用のものだった。泊はフロアの照明を暗くし、コネクトウェルバのマシンの壁面にラップトップの画面を映し出す。練習試合における現在の順位表のようだ。1位から10位まで、国名とスコアの数字が載っている。
「現在、日本は5位。ただし、7位の中国と8位のアメリカは、練習試合に出ているのが2軍メンバーだってことに注意。僕が掴んだ噂だと、レギュラーメンバーは2軍の倍のスコアを出す精鋭たちだ。その情報をもとに順位を動かすと……」
 中国・アメリカの順位がぐっと上がり、2位のブラジルに並んだ。1位の韓国までは僅差というところか。日本は7位に転落する。下にいるのはロシアとイスラエル、それに台湾だ。
「本戦はトーナメント戦だからね。最初に上位チームにあたってしまうと、初戦敗退ってことになる」
 負けの話をしているというのに、泊はどこか嬉しそうだ。性格が悪い、と山桜桃は自分のことを棚上げしてつぶやく。
「もし本戦で負けたら、日本にコネクトウェルバが入って来れなくなる、なんてことありますか?」
 善知鳥も同じことを感じたのか、淡々とした口調で鋭く切り込む。泊は、そんなことないよ、と素早く否定した。
「今回の試合は、コネクトウェルバが実用化可能だってことをアピールするためのデモンストレーションなんだよ。プレイヤーには悪いけど、運営としては、正直どこが勝っても負けてもいいんだ。話題になって、一般の人の目に触れる機会が増えればいいんだからね。コネクトウェルバは、技術もすごいけど、何よりそのコンセプトが素晴らしいよ。環境も汚染しないうえに、一人一人が自分の頭を使って考えることを推奨するんだから」
 泊は目を輝かせて、世界はもう動き出しているんだよ、と熱弁を奮う。
 技術者として喋っているときの泊は、誰かに対する恨みや劣等感とは無縁の存在に見えた。背筋が伸び、声に張りが出て、ふっくらとした頬が紅潮している。職種を変えたのは、良い選択だったと思う。
 ついでに、恵一からも逃げてしまえばよかったのに、と山桜桃は思った。
 もちろん、それだけが普段の彼の劣等感の原因ではないだろうが。
「それで、俺たちは、勝つために何をしたらいいですか?」
 善知鳥は手元のタブレットで、別の情報を見ているようだ。山桜桃もタブレットを起動して、そこに入っている資料を読み込みはじめた。各国のメンバー構成、試合中のヘッドセットの駆動時間、各チームが今までにどのくらい電力を生み出したのか。かなり詳細な情報が入っていた。
「勝つためには、長い時間ヘッドセットを付けっぱなしにして少しでもスコアを稼ぐか、人数を増やして人海戦術でいくか、の二択かな。僕としては、後者をおすすめしたいね」
「人数といえば、他のチームはプレイヤーがだいたい10人くらいは登録されてますね」
 メンバー表には、プレイヤーの名前と年齢が記載されている。個人情報保護の観点からか、他の情報は一切なかった。年齢は20歳前後が最も多いが、中には60代のプレイヤーもいる。わかる範囲で名前を確認したところでは、あまり性別による偏りは見られない。各国に飛んだパンタシアの社員や現地の提携している電力会社の社員がプレイヤーを集めているので、平均的なデータが取れるよう偏りなく採用しているのかもしれなかった。
「日本が一番少ないね。ただ、2人っていうのは少なすぎると思うけど……」
「何人集めても、雑魚は雑魚だ」
 山桜桃は、先ほど善知鳥に言ったことを繰り返した。
「数は力だよ、櫻井くん」
 静かだが断固とした口調で、泊が言う。
「それに、これは君たちのためでもあるんだ。いくら才能があっても、長時間脳を酷使することは、良いこととは言えない。パフォーマンスだって自然と下がってくる」
 泊が、プロジェクターで映し出す画像を変えた。
「君のプレイ時間とパフォーマンスの推移だ。ほら、1時間を超えたあたりから、急激に下がってる。ここからまた持ち直すのは、相当難しいんじゃないか?」
 右肩上がりに上昇を続けていたグラフが、ある箇所を境にがくんと下降をはじめているのがわかる。山桜桃の体感としても、一度下がったら休憩を挟んで再度ヘッドセットを装着しないと集中力が戻ってこない。
「下がってきたところで、俺が交代しますよ」
「そうだけど、それを24時間繰り返すんだよ? できる?」
 泊の指摘はもっともだった。他のチームが10人交代でやっていることを、2人だけでやろうというのは無謀だろう。
「繰り返せるように、今から集中力を高める訓練とかするんじゃないんですか?」
 わかりきったことを言うな、と言わんばかりの彼の態度に、泊は気分を害したのか眉間に皺を寄せた。わざとらしく咳ばらいをし、ラップトップを操作する。今度は動画のようだ。画面は2つに分割され、左側の画面はマシンの中を映している。2人の人物が互いに向き合って座っていた。一人は年配の男性で、もう一人は10代と思しき少年だ。
「そんなに言うなら、この訓練をやってみたらいいよ。これは、イスラエル国籍のプレイヤーたちがやってる訓練の映像だけど……」
 年配の男性が、一言少年に話しかける。少年はたっぷり3分ほど考えたあと、一つの単語を発する。分割された右側の画面は、少年のスコアを映し出していた。男性から話しかけられて、答えるまでの間に、スコアの数字が500ほど伸びているのがわかる。
「これは、対話方式の訓練なんだ。こっちの男の方はプレイヤーじゃない。マシンの中に部外者を入れるなっていう規定は無いから、それを逆手にとって教師役を入れるんだ。彼らがやっているのは宗教問答のようなものだから、正確に言えば教師と言うより導師役と言うべきかな」
 日本の学校教育のように、教える側と教わる側に分かれてしまうと、この方法は効果を発揮しないと泊は言う。
「自分の頭で考えさせることが大事なんだ。それも、万人にとっての正解は無いけど、その人にとっては正解と言えるものがあるようなことを考えさせることがね」
「たとえば、トロッコ問題とかですか?」
 トロッコ問題とは、人の倫理観を測るために昔からある問題で、暴走するトロッコにひき殺させる人間の数を問うというものである。
 とあるトロッコの走るレールは二股に分かれ、問題の回答者は自分がその分岐点に立っていると想定される。目の前には、レールの進路を切り替えるレバーがあり、自分はそれを操作できる。
 さて、暴走するトロッコが現れ、このまま走り続ければ進路上にいる5人の人間をひき殺すことになる。一方、自分がレバーを切り替えれば、進路が変わって犠牲者は他のレール上にいた1人だけ、ということになる。
 レバーを切り替える派、触らないでおく派、誰が死ぬのかによって変わる派など、人々は沢山の派閥に分かれ、もちろん今でも正しい答えなど出ていない。
「よく知ってるね。今は、道徳の時間に学校とかでやるの?」
「ここに置いてある本で見ました。道徳の時間にやったかどうかは……学校にあまり行けなかったので、わかりません」
「……あぁ、そうなんだ」
 善知鳥にペースを乱され、泊の口数が減ってきた。技術者としての顔が引っ込み、狡猾で劣等感に塗れた歪んだ大人の表情に変わっていく。
「そういえば、楠木くんは若いのに、家のために頑張ってるんだって聞いたよ。偉いね」
 泊は、山桜桃に対する態度と違い、善知鳥に対しては余裕ぶった姿勢を崩さない。新参者と親しくなろうとしているのか、泊は褒める作戦に切り替えたようだ。善知鳥はちょっと困ったように眉根を寄せ、首を傾げる。
「偉い……ですか?」
「うん、偉いよ! 親を助けて、妹弟たちのために働いてたんだって? 僕なんて、君くらいの年の頃は自分のことばかり考えてたね」
「選択肢が他に無かっただけで、偉いとは違うと思いますが……」
「そんなことないって!」
 不自然なほど大きな声で、泊は善知鳥の言葉を遮る。
「うちの家も、小さな商店やってて、ずっとお金が無くてさ。でも、自分の学費は自分で稼げばいいやって思って、プログラムを書いて売ったり、大手から下請けの仕事をもらったりして、大学時代と院生時代を乗り切ったんだよ。運良く、無利子の奨学金も借りられたから、だいぶ助けられたね。下に弟がいるけど、あいつは頭が悪いから、僕みたいに大企業には入れなかった。そこそこの大学を出て、今は地元で働いてるよ。ま、結婚して子どもがいるからいいとか言ってるけど、人生で大事なのはそういうことじゃないんだよ……」
 途中で話が脱線したことに気づき、泊は再び不自然な大声を出す。
「それでさ! 楠木くんのことを聞いて、僕も弟のために何かしてやったらよかったのになって、後悔したよ」
 賞賛し、共感する。善知鳥が泊の想像するような人物であれば、この作戦は功を奏しただろう。だが、善知鳥は彼の言葉など聞こえなかったかのように、複雑な表情を崩さない。両者の間に漂う空気が、わずかに重たくなった。
「泊さんの親御さんは……」
 善知鳥の声は変わらず静かで、彼が今どんな感情を抱えているのか、まったくわからない。
「進学に反対されましたか? うちにはお金が無いから無理だ、とか」
「いや、自分で頑張れるなら、出来るだけのサポートはするって言ってくれた。まぁ、ちょっと期待したんだけど、本当にお金は出してくれなかったなぁ」
「うちの親は、大学どころか高校すら行っても無駄だと言われました。どうせまともな職には付けない、今から働いて金を稼げって」
 ある程度は自由に授業の時間と内容を選択できる大学生と違って、高校生は朝から夕方まで学校にいなくてはいけない。高校生が学費と生活費を稼ごうと思ったら、夜間にアルバイトをするしかないのだが、それでは睡眠時間や自主学習の時間が確保できない。善知鳥は、学校の方がきつくなったので辞めたと言っていた。彼だって、自分の親の協力が少しでもあれば、夜間のアルバイトの方を辞めただろう。
「それに、お金が無いといっても、生活費に事欠くほどではないですよね? 一日3食は食べれず、親の給料は親自身の交際費と酒代に消えるなんてことも、当然無かったと思います。違いますか?」
「そ、んなことは、もちろん……無かったけど……」
 善知鳥からこんな切り返しをされるとは、想像してもいなかったのだろう。泊は、明らかに動揺した様子で返事をする。
「世の中には、子どもに腹を殴らせて堕胎の手伝いをさせるような母親も存在します。親と仲が良く、自分のやりたいことを精一杯応援してくれる家族がいるなんて、とても恵まれた環境だと思いますよ。俺とは全然違って」
 フロア内の温度が、一気に下がったような気がする。
 堕胎の話に反応して、三葉が身体を震わせていた。怒りのためか、恐怖のためかはわからない。
 泊も、明らかにキャパを超えた話を聞かされたせいか、茫然と立ち尽くすだけだ。
 山桜桃だけが、何事も無かったかのように一歩踏み出す。
「そこまでだ、後輩」
 その声に反応し、彼らは三者三様の表情で山桜桃を見た。三葉は目を赤くして、泊はどこかほっとしたような顔で。そして善知鳥は、見たこともないほど青ざめ、傷ついたような顔をして。
「泊さん」
「えっ? は、はい!?」
「俺たちの人生を、そっちの頭の中にあるストーリーで勝手に決めつけないでくれ。あんたから見れば、俺は恵まれた環境でぬくぬく育ってきたお坊ちゃんかもしれないが、そんなことない。俺は小さい頃から、テストで良い点を取らないと、背中を棒でしこたま打たれてきた。父親から『こいつを思いっきり打て』と命令された母親に」
 泊の顔が、色を無くしていく。その目にあるのは、恐怖と同情、そして共感だった。
 君も、苦しんできたのか。
 そう言っているかのように。
「だから、俺にも後輩にも、そういう話はしないでくれると助かる。自分からはしたくない。でも、言わないとこのつらさはわかってもらえないって状況に、俺たちを追い込まないでくれ」
 山桜桃と真正面から視線を合わせて、泊は頷いた。何度も、何度も頷き、最後には頭を下げた。次に、善知鳥に向かっても同じように頭を下げる。
「ごめん、楠木くん。本当に申し訳ない。何てお詫びしていいか……」
 善知鳥は固まったまま、唇を固く引き結んでいる。タブレットを掴んだ指先が、真っ白になっていた。
「いえ、俺の方こそ……」
 喉の奥から絞り出すような声で、善知鳥は「すみません」と続けた。泊は頭を上げないまま、10秒ほど沈黙が続く。
「……もういいだろ? この話は終わりだ」
 冷えきった後輩の手首を掴み、山桜桃は強引にマシンの中へと善知鳥を引っ張り込む。
「閉めろ」
 山桜桃の声に、善知鳥は数秒遅れで反応した。慎重にそっと扉を閉じ、まだ硬い表情のまま山桜桃を見つめてくる。
「お前な、ムカついたときは、一言ムカつきましたって言えばいいんだよ」
 あんな風に、自分自身の傷口を抉るような言い方をしなくても。
「すいません。……つい……言いたくなってしまって……」
 小さな声でそう言って、深く俯いた善知鳥の姿は、普段の彼よりもずっと幼く小さく見えた。山桜桃は善知鳥の手を再び引いて、床に転がっている大きめのクッションの上に座らせる。
「……先輩にも、申し訳ないです。すみませんでした」
 虐待の話題を口にさせたことだろう。山桜桃のダメージは、自分で想像していたよりも遥かに軽かった。泊が話を信じて、真剣に受け止めてくれたおかげかもしれない。
「俺はいいよ。自分で言ったんだからな。気にすんな」
 ヘッドセットを手に取り、山桜桃は自分の頭に装着した。そんな彼の様子を、善知鳥はクッションの上で膝を抱えて眺めている。
「……ところで、先輩はああいうとき『ムカつきました』の一言で納められます?」
「あー、俺はな、ムカつく! 死ねよ! って思ったときはマシンに入って、ムカつく相手をどうやって殺すか考える」
 怒りや憎しみは、スコアにあまり影響を与えない。だが、具体的な殺害方法を考えることは、スコアに多大な影響を与える。山桜桃の成績が良いのは、いつも両親の殺し方を考えているからだ。できるだけ苦しませて殺した後、死体をどう処理するかも考える。それだけで、ゆうに一時間はスコアを伸ばし続けられた。
「……イカレてません?」
 山桜桃の話を聞いた善知鳥は、そう言いながらもどこか楽しげだった。
「それで金が稼げるなら、何でもいいだろ」
 少し調子が戻ってきた善知鳥に安堵しつつ、山桜桃はヘッドセットのスイッチを入れた。
「俺たちは、金さえあれば親を捨てられる。そうだろ? 後輩」
 善知鳥は、初めて年相応の笑顔を見せて、そうですねと頷いた。

第5話『たくらむおとなたち』



 8月20日の水曜日、泊は、やさしい電力株式会社の本社に居た。今やすっかり馴染んでしまった黒いデスクトップパソコンのある事務机の前ではなく、今まで座ったこともないような革張りのソファに腰かけている。天然杉でできたローテーブルを挟んだ向かい側には、今や天上人となった櫻井恵一がいた。ここは、会社が彼に与えた役員用の私室である。
「今日は、わざわざ来てもらって悪いな」
 まったく悪いと思っていない口調は、昔と変わらない。泊は目を合わすことができず、秘書が素っ気ない態度で置いていった茶を一口啜った。
「いや、そんな……。それで、その、今日の用件は?」
 単刀直入に尋ねた泊に、恵一はちょっと意外そうな顔を見せる。
「何か急ぎの用事でもあるのか? いつもみたいな世間話もしないなんて、珍しいな」
 恵一が世間話というのは、いわゆる『密告』のことだろう。誰かが会社への不満を口にしていた、誰かの家では夫婦仲が悪いらしい、誰それが仕事中にプライベートな用事をこなしていた、等々。
 パンタシア日本支社へ出向する前の泊は、本社の中では空気のような存在だった。誰も彼に注意を向けないし、彼もまた誰にも関わろうとしない。そのため、泊がいるにも関わらず、同じ室内で秘密の会話をする社員も多かった。
 無害な奴だと思われているのだろう。
 話を聞かれたところで、あいつには何もできないと思っているのだろう。
 自分に対する評価が低いことに一方的に腹を立て、泊は密告という手段で大勢の人間を間接的に攻撃した。攻撃といっても自分自身では何も動かず、同期の中では一番出世していた恵一に、せっせとご進言申し上げたわけだ。
 今では、そんな自分を殴りつけてやりたいと思っている。
「報告書を書き終わってないんだ。それに、パンタシアのエンジニアから、解析作業を手伝ってほしいと言われてるし……」
「報告書なら、すぐ書き終わるだろ? 現状に進展なし、日本での運用は難しいと思われる、の二言でいいんだ」
 人を見下した笑い方が、恵一の特徴だった。若い頃は、そんな彼を怖いもの知らずの英雄だと勘違いしていたこともある。
「お前、あんまり連中と慣れ合うなよ。あとがきつくなるだけだぞ」
 私益のために自分を苦しい立場に追い込んでいる恵一の言葉に、泊は怒りを感じた。今までは、腹の底で何を考えていても、ヘラヘラと笑って頷くだけだったが、今日は違う。
「彼らと話してると、勉強になるんだ。それに、今回のプロジェクトがダメでも、他のことで協力する日が来るかもしれないだろ? 繋がりを大事にしないと」
 早口に自論をまくしたてた泊を、恵一は厳しい目で睨む。
「俺は、お前のためを思って忠告してやってるんだぞ?」
 声は穏やかだったが、その中に込められた圧力は凄まじい。
 意識的に真正面から接してみて、泊は初めて恵一の精神の異常性を体感した。
 俺の言うことだけが、絶対的に正しい。
 頭の芯から、そのことを信じている。いわば彼は、狂信者のような存在なのだ。
「もちろん、わかってる!」
 泊は自分でもわざとらしく聞こえるほど、明るい声で応えた。
「僕だって、会社のためにいろいろ考えてるってことを、言いたかっただけだよ」
 会社のため、というのはつまり、恵一のためということだ。恵一の頭の中では、この変換は自動で行われる。部下の手柄は自分の手柄にし、会社の名前で取れた契約は自分の手腕がなければ取れなかった契約にするのだと、かつて恵一は誇らしげに言っていた。
 3年前、40代の若さで常務になるという異例の出世を遂げた恵一は、数多の犠牲の上に今の地位を築いた。もちろん、泊もその一人だ。いや、密告など卑劣な手段を取っていたのは泊自身なので、自分はむしろ共犯者として糾弾されるべきだろう。
 泊がそのようなことを考えているとは夢にも思っていないらしい恵一は、ローテーブルの上に置いてあった2冊のファイルのうち、1冊を開いて寄越す。
「これは?」
「今年の新卒採用のお荷物リストだ。どこで何をやらせても、何もできないお荷物たち。昔のお前みたいだろ?」
 やさしい電力株式会社では、毎年30名ほどの新卒採用を行う。約半年で3分の1が辞め、5年後に残っているのが3名いれば当たり年と呼ばれる。泊や恵一が入社した20数年前から、この慣習は変わらない。会社の体制が変わらないのだから、当然と言えば当然のことだが。
「全部で6人いる」
 ファイルに綴じられていたのは、男女あわせて6名分の履歴書と面接記録、それに各部署の上司の評価報告書だった。適性なし、矯正困難、機密処理部に異動といった文字が並ぶ。機密処理部というのは、いわゆるシュレッダー部屋である。本社の地下2階にある窓の無い狭い部屋で、各部署から廃棄されてきた書類をただシュレッダーにかけることが唯一の業務内容だ。
「その6人、お前の方で引き取ってほしい」
「僕に、部下がつくってこと?」
 戸惑う泊の様子を見て、恵一は大きな声を出して笑いだした。
「部下? お前に? そんな風に思ったのか? 勘違いにもほどがあるだろ?」
 ひとしきり笑って気が済んだのか、悠然とした態度で足を組み、恵一はソファに深く身を沈めた。
「その6人を使って、プロジェクトを中止に追い込め。本戦まで時間がない。日本は本戦に参加できるレベルにさえ達してない、という状況をつくるんだ」
「そんなこと……!」
 できるわけない、と言おうとした泊の舌は、恵一の一瞥で凍りついた。自分の威光が衰えていないことを確認して満足したのか、恵一の表情が和らぐ。
「ところで、俺の息子のほかに、もうひとりメンバーが入ったみたいだな?」
「ああ、入ったよ。楠木善知鳥くんだ」
 善知鳥のことを、自分は報告書に何と書いただろうか?
 詳しい内容が思い出せないが、書いたときは善知鳥のことをまったく知らなかったし、プロジェクトを中止に追い込むためにわざと悪し様に書いたような気もする。
 どうせ会社が金を払うからと思い、泊は興信所を使って善知鳥の身辺調査を行った。母親が長年水商売の世界にいること、子どもの父親が全員違うこと、善知鳥は高校を中退して学歴が中卒だということ。そういった社会ではマイナスと評価されるようなことを、書き連ねて恵一に送ったかもしれない。
「随分、高いスコアを出すらしいな?」
「ご子息と同じくらいにね」
「あいつは出来が良くて当然だ。俺の息子なんだから、どんなゲームであっても高得点を取れて当たり前なんだ」
 再び恵一の目が熱を帯び、泊の背筋に冷たい汗が流れた。
「新しいメンバーは辞めさせろ。中卒で親が水商売なんて、イメージが悪い」
「……どうせ潰すつもりのプロジェクトなのに……?」
「潰れたあとも、コネクトウェルバのプロジェクトにうちの会社が出資していた事実は残る。お前、株主の皆さんにどう説明する? そんな境遇の子どもを使って金儲けをしようとしたのか、と言われたら、どう説明する?」
「…………」
「それに、この問題提起は俺からじゃない。先生から直々に承ったものだ。お前だって、先生には随分お世話になっただろう? 恩を仇で返すつもりか?」
 恵一が『先生』と呼ぶ人物は、野原憲一郎(のはらけいいちろう)。彼が個人的に懇意にしている元国会議員だ。もう85を過ぎたというのに、私腹を肥やすことに余念がない妖怪。原子力発電の再開を望んでいるのも彼が率いる政党一派で、恵一でさえも彼らには頭が上がらない。彼がコネクトウェルバのプロジェクトを潰したいと言っているのも、野原にそう言われたからだ。
 野原の要求に応えることで、恵一は多額の賄賂なり謝礼なりを受け取れるのだろう。口効き一つで何百万という金が動く世界だ。泊にはまったく縁のない、魍魎跋扈の世界。昔は自分もおこぼれにあずかろうと必死だったが、今では縁遠くいられてよかったという気持ちしかない。
「あれを、お世話っていうんなら、そうだけど……」
「あれをお世話っていうんだよ。タダで風俗に行けてよかったろ? 先生からも、お前の裸踊りが一番面白いって聞いてるぞ。一芸があって得したな」
 手にした分厚いファイルで恵一の顔面を殴りたい衝動をかろうじて抑え、泊は立ち上がった。
「今日は、もう行く」
「まだ話は終わってない。座れ」
 泊が従わずにいると、恵一の声があからさまに怒気を孕んだものに変わった。
「何度も言わせるな! 座れ!」
 窓を震わせるほどの大声で、命令する男。
 独裁者を気取って、あれこれと他人に命令することで存在意義を確認している男。
 そんな恵一が、今の泊の目には、ひどく矮小な人間に見えた。
「大声を出さなくても、聞こえてるよ」
 鷹揚に構えた態度で、泊は再びソファに腰を下ろす。
「で?」
 短く促すと、恵一はローテーブルの上のもう1冊のファイルを手に取った。
「これをお前に言うのは、俺としても心苦しいんだが……」
 そう言いながらも恵一は、ハイエナそっくりの顔で歯をむき出し、嗤う。
「見てみろ」
 投げつけるようにして渡されたファイルに綴じられていたのは、20枚ほどのA4サイズの紙だった。紙一枚につき、2枚の写真がプリントされている。すべて、泊と三葉が映っている写真だった。場所は、パンタシア日本支社のカフェスペース。写真の右下に刻印されている日付はバラバラで、長期間に亘って盗撮されていたことがわかる。
「古典的なハニートラップに引っかかるなよ。これだから、女に免疫のないやつは……」
 わざとらしく大きなため息をつく恵一を、泊は無視した。
 盗撮に気づいていない三葉が、写真の中で楽しそうに笑っている。
 こんなことに巻き込んですまない、というのが、泊の率直な気持ちだった。
「三葉さんとは、仕事の話をしているだけだよ」
「そう思ってるのは、お前だけだろ」
 恵一は鼻で笑って、組んでいた足をほどいた。ことさらゆっくりとした動作で、思わせぶりに顔をこちらに近づけてくる。
「機密を漏らしていないだろうな?」
 彼の言う機密とは、一体何のことだろう。自分が、コネクトウェルバの計画を私欲のために潰そうとしていることだろうか。
「本当に、話してるのはゲームの試合結果とプレイヤーたちのことだけだ。うちの会社のことは、何も話してない」
 三葉とは、山桜桃と善知鳥から衝撃的な告白を受けた日以降、頻繁に連絡を取り合っている。カフェスペースで顔を合わせれば、一緒に食事を摂るようにもなった。話している内容は、プレイヤーたちの訓練方法の改良点や試合結果についてで、恵一の想像しているような色気のある話題など皆無だった。三葉経由で善知鳥から質問を受け、その回答を口頭で伝えてもらったりもしている。職員室での教師同士の会話、というのが近いかもしれない。
「こんなにだらしない顔で、仕事の話をしてるって? 信じられるか。女をかばうことないぞ。相手は所詮、中小企業の一社員だ」
 恵一は泊の手からファイルを奪い、満面の笑みを浮かべる彼の写真を指さした。恵一にはこれが若い女にちやほやされて鼻の下を伸ばした、醜い中年男性に見えているのだろう。泊はこの場面をよく覚えている。山桜桃たちが、練習試合とはいえ1位の韓国相手に圧勝したことを、三葉と一緒に喜んだときだ。三葉も同じく笑顔なのは、状況を考えれば当然のことだった。盗撮者は、どうやら音声までは拾えてないらしい。
「仮に仕事の話しかしてないとしても、おだてられて気持ちよくなってうっかり口を滑らせることもあるだろ? もっと気をつけろ。お前なんかが、人から親切にしてもらえるわけないんだから、裏があるって疑えよ」
「それは……うん、まぁ、そうだけど……」
 泊に、下心がまったく無かったわけではない。三葉には以前からアプローチをしていたし、彼女のような伴侶がいればいいと夢想したこともあった。しかし、我が身を冷静に見つめることができるようになって以来、そんな分不相応な夢を見ていた自分をひたすら恥じ入る日々を送っている。
 今は三葉に、純粋にチームメイトとして接しているつもりだ。同じプロジェクトに属し、それぞれの立場で一緒に夢を追う仲間。だいぶ打ち解けてきたプレイヤーの2人にも、そしてアンソニーたち解析班にも同じ感情を抱いている。
「とにかく、気をつけるよ。心配なら、カフェスペースに盗聴器でも仕込めばいいじゃないか」
 泊の大胆な発言に、恵一はちょっと風圧を受けたかのように身体を反らせた。してやったり、と泊は心の中でほくそ笑む。
 自分が変わることで、相手が変わっていくこともあるのだ。
 そのことを、齢46にして泊は知った。遅すぎたとは思わない。目の間にいる男のように、おそらくは一生を自己意識の檻の中で過ごす者もいるのだから。気づけた自分は、幸せ者だと思う。
「話がそれだけなら、もう行くよ」
 泊は新しく身を任された6名分のプロフィールが入ったファイルだけを持って、立ち上がった。今度は、恵一も止めはしない。自分は座ったまま、犬にするように手の甲を表にして片手を振った。
「また呼ぶ。良い報告を期待してるぞ」
「わかりました。失礼します」
 重そうに見えて案外軽い役員室のドアから廊下に出た途端、泊はドアに片耳をくっつけて中の様子を窺った。数秒ほどして、部屋の中から恵一が癇癪を爆発させた音が聞こえてくる。口汚く泊や三葉を罵りながら、ローテーブルを蹴りつけているようだ。泊はさっとドアから耳を離し、悠然とした足取りで役員フロアの廊下を歩きはじめる。
 足取りは軽く、顔にはうっすらと笑みが浮かぶ。愉快だった。いや、痛快、と言うべきか。
「勇作? 泊勇作だろ? 久しぶりだな。俺のこと、覚えてるか?」
 一階に向かうためエレベーターを待っていると、恵一のとは別の役員室から出てきた初老の男性に声をかけられた。皺だらけの顔が、真っ黒に日焼けしている。酒焼けした濁声と、真っ白な歯で、泊にはすぐに誰だかわかった。
「渕上(ふちがみ)さん、お久しぶりです」
 渕上英俊(ふちがみひでとし)は、泊と恵一が初めて配属された営業三課で、当時課長を務めていた人物だ。10歳ほど年上で面倒見の良かった渕上は、成績の芳しくなかった泊に、根気よく指導をしてくれた。彼のおかげで、一度だけではあるが、泊は部内の半期売り上げ1位になれたのだ。感謝してもしきれない恩人である。
「挨拶にも来ず、すみませんでした。専務取締役ご就任、おめでとうございます」
 深々と頭を下げた泊の肩を、渕上は温かく分厚い掌で叩く。
「そんなに改まって言われると、こっちが照れくさくなるな。俺の方こそ、長く留守にして悪かったなぁ」
 泊が営業部での仕事に限界を感じて技術部に異動したのと同じくらいの時期に、渕上は本社営業部から地方支社の一営業になった。事実上の左遷である。自分が上りつめるのに渕上が邪魔だと判断した恵一が、上層部へ渕上の経理不正を告発したのだ。8年前の出来事である。渕上は7年ほど地方に居て、去年本社へ戻ってきた。3ヶ月ほど前に専務取締役に就任したと社内の通達で知り、お祝いに駆けつけたかったのだが、恵一が駄目だと言うので我慢していたのだ。
「支社の方では、あの、すごく活躍されたと聞いています。本社に戻ってきて当然ですよ」
「俺の活躍? 草野球の方じゃないだろうな?」
 ニヤリと笑う顔も昔のままで、泊は自分が10年若返ったと錯覚したほどだ。渕上は少年野球から社会人野球を経て、今は草野球に熱中している筋金入りの野球小僧である。だが泊は、渕上のチームに誘われたことはない。正直、尊敬する人の趣味だからという理由で野球に興味は持てなかったので、泊としては寂しいより安堵の気持ちの方が勝っていた。
「勇作も、元気そうでよかった。櫻井常務殿のプロジェクトに巻き込まれてるんだって?」
 櫻井常務殿、のところだけ小声になるのがおかしくて、泊は手にしたファイルで口を隠して笑った。
「今日も呼び出しをくらいました。プロジェクトの進捗状況がよろしくない、と」
「あいつは、人にやらせ過ぎるのが問題だな。お前は、自分でやり過ぎるのが問題だが……」
 やれやれと頭をかく渕上の様子を見ながら、ふと泊の頭にあるアイデアが浮かんだ。
「渕上専務、お忙しいところ大変恐縮ですが、折り入ってお話があるので、近いうちに外でお会いできませんか?」
 長年の営業人生で培った勘だろうか。渕上はトラブルの気配を察し、神妙な顔で頷いてくれた。
「近いうちと言わず、今からどうだ? ちょうど【ポール】で昼飯でも、と思って出てきたんだ」
 ポールというのは、本社から徒歩5分ほどの場所にある軽食喫茶だ。創業は昭和50年代で、店内は昭和後期から平成初期のもので溢れている。レトロ趣味の若者と、渕上のような青春時代を思い出したい中高年が主な客層だった。
「ありがとうございます。助かります」
 店への道すがら、泊は渕上の話す支社時代のエピソードを拝聴した。大半は彼の単身赴任生活での苦労話だったが、一つくらいはと自慢話も聞かせてくれた。
「地方支社配属でくすぶっていた20代の若手と組んで、大口の契約を取り付けたんだ。あっちに進出してきたベンチャー企業で、オール電化社屋を造りたいっていうから代表の方に会わせていただいて……」
 渕上の楽しそうな顔を見ていると、悪夢を見て寝不足になるほど苦痛だった営業の仕事が、懐かしい思い出に変わっていく。顧みれば、いつでも渕上は他の誰かのために仕事をする人間だった。その対極として、泊の脳裏に恵一の顔をよぎる。
「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます。そちらのお客様は、ずいぶんお久しぶりですね」
 会社員を辞めて店を継いだらしい四十代の2代目マスターは、泊のことを覚えていた。午後2時半という半端な時間のためか、喫茶ポールの狭い店内に、客は泊と渕上だけである。2人は一番奥まった場所にあるボックス席に向かい合って座り、メニューも見ずにナポリタンセットを2つ注文した。
「で、俺に何ができる?」
 単刀直入に尋ねてくる渕上へ、泊も簡潔に状況を説明した。
「潰してこい、とは随分だな……。コネクトウェルバのことは、俺がいた支社の若手も知ってたぞ。あのプロジェクトに入りたいって言ってるのも、一人や二人じゃない」
 彼の口ぶりから、やさしい電力株式会社の中では知名度と人気の高いプロジェクトと思われているようだ。ゲームで発電できると聞けば、興味が湧く若者は多いに違いない。
 もっと上手くやれば、社の看板プロジェクトになるかもしれない。恵一の私利私欲で潰していいプロジェクトではない、という気持ちが、一段と強くなる。
「渕上専務には、役員会などでコネクト・ウェルバのプロジェクトを推奨していただきたいんです。今は、櫻井……常務が一人で指揮を執っている状態です。それを、全役員が名を連ねる委員会方式に変えてほしいんです」
 やさしい電力株式会社内におけるプロジェクトには、規模に関わらず2つの種類が存在する。その二種類のうち、違う点はただ一つ。最終意思決定権者が一人だけか、複数人いるのか、という点だけだ。
 現在、予算規模は何億にもなるコネクトウェルバのプロジェクトは、恵一を頂点とするピラミッド型である。彼だけに、すべてを決める権利があるのだ。
「確かに、櫻井常務殿だけしかトップがいないってのは、あの規模のプロジェクトでは異例だからな。プロジェクト発足から半年も経っているなら、そろそろ委員会方式に変えませんかと言ってもいい時期だ」
 役員会という名の会食が、来週行われる、と渕上は言った。
「その前に、岩崎(いわさき)に話を振っておく。あいつも櫻井には散々煮え湯を飲まされてるからな。喜んで援護射撃してくれるだろうよ」
 役員だけでなく、やさしい電力株式会社は恵一が常務の席に座って以来、常務派と社長派が激しい権力争いを繰り広げている。渕上が話題に出した岩崎というのが、代表取締役社長だ。渕上とは、同じ社会人野球チームでバッテリーを組んでいた仲である。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「おい、そういうのはやめろよ。もっと気安い感じで頼まれるんだからな」
 渕上は運ばれてきたナポリタンの香りを嗅ぎ、食べようぜ、と泊を促す。照れ隠しの仕草も変わっていない。2人はしばし、懐かしい味を共に味わう。
「しかし、お前、何か変わったな」
「えっ、そうですか? いや、僕なんて全然……偉そうにお願いなんてしましたけど、まだ平社員のままですし……」
 本来なら、恵一同じく渕上も天上人なのだ。渕上が優しいので、話を聞いてくれただけである。
「いやいや、自我が芽生えたって感じだ。前は、いいように櫻井に操られてたろ? お歳暮事件、俺もしっかり覚えてるぜ」
「やめてくださいよ、その話は……思い出したくもない」
 やさしい電力株式会社では、営業職に就いている人間には贈答品を売るノルマがある。この習慣がいつどうして始まったのかは、誰も知らない。しかし、ノルマはノルマ。年間で30万円分を売らなくてはならない。容量の良い恵一は、契約を取った客からしれっと代金を受け取り、サービスと言いながら品物を送りつけていた。逆に容量の悪かった泊は、年末のお歳暮商戦の時期に入るまで、ノルマを20万円分ほど残すのが常だった。
「ノルマ未達成で部長に怒鳴られるのは嫌だろ? 俺が協力してやるよ」
 ある年、病欠が続いてどうしてもノルマを達成できず、恵一から差し伸べられた手を、泊は藁にも縋る思いで掴んでしまう。すべて任せろと言われて事務処理まで任せた愚かさの代償は、大きすぎるものだった。
 恵一が考えたノルマ達成の方法とは、恵一の名義で20万円相当のお歳暮を彼の実家や親戚宅に贈り、代金は泊が負担するというものだった。いくらボーナスの時期とはいえ、20万円もの出費などできるはずがない。恵一もそのことをわかっているはずなので、後で代金を支払ってくれるものだとばかり思っていた。だが、違っていた。
「助かったよ、お歳暮の代金負担してくれて。うちも子どもが産まれるから、何かと入用でさぁ」
 出産の前祝ってことで。
 そう言ってニヤニヤと笑う恵一の顔は、泊の夢の中にまで出てきて彼を苦しめた。おそらくは、一生忘れられないだろう。
「僕が変わったように見えるんだとしたら……たぶん、プレイヤーたちのおかげですね」
 泊は、自分と山桜桃たちとの間にあったことを、かいつまんで話した。そして、いかに自分が視野の狭い矮小な人間であったことを自覚したか、についても。
「償いっていうと変ですけど、自分の力が及ぶ範囲で、彼らを守りたいと思ったんです。こんなところで、くだらない大人の都合で、彼らが潰れていいわけないって……っ……」
 話しながら、目頭が熱くなってくる。このような場面で泣くのはみっともないと思ってしまったが、溢れてくる涙を止めることはできなかった。泣くのは何年振りだろう。もう、こんな感情はとうに枯れ果てたと思っていたのに。
「すみません。取り乱してしまって……」
「勇作」
「はい?」
「気安くなんて言って悪かった。お前たちのことは、俺がどんなことをしてでも守り抜いてやる。だからお前は、プレイヤーたちと一緒に最善を尽くせ」
 泊の手から、フォークが皿に滑り落ちた。金属と陶器が触れ合うカチャンという音を合図に、泊の喉から嗚咽が漏れる。
 もちろんです、がんばります。
 自分を信じて支えてくれる人がいることの有難みを、こんなにも強く実感したことはない。
 自分も、山桜桃や善知鳥にとって、そういう存在でありたい。
 泊にとって、恵一と完全に決別する覚悟が決まった瞬間だった。

第6話『こわれたおやたち』



 絶対に、何かがおかしい。
 近頃、食事が1日3回出てくるし、冷蔵庫の中も食材とお菓子でアルコールを入れる隙間がないほど詰まっている。
 それに、今日も、かもめが新しい洋服を着ていた。
 8月もあと残り数日となった暑い夜、壊れかけのエアコンが不穏な音を立てる家の中で、楠木つぐみはゴミ箱の中身を床にぶちまけていた。ティッシュやお菓子の包装紙に混じって、洋服の値札タグが3つほど出てくる。
「ほら、見てよ!」
 つぐみは鬼の形相でタグを掴み取り、テーブルの上に叩きつけるようにして置いた。その様子を一瞥しただけで、かもめは携帯端末に視線を戻す。
「あんたが捨てたんでしょ!? どうやってこんなに服買ったのよ!?」
 拳で激しくテーブルを叩き、つぐみはかもめの気を引こうとする。しかし、かもめは口を開かず、顔さえ向けようとしない。
「答えなさい、かもめ!」
「うるさい。私のお金で何買おうと自由でしょ?」
「あんたが、何でこんなにお金を持ってたのかを聞いてるのよ!」
 テーブルの上のタグに書かれた金額は、総額で1万円ほどだ。かもめには、小遣いらしきものはあげていない。月々の生活費の中から、必要なものを勝手に買うのは見逃してあげていた。服なんて、まだ中学生なんだから1000円足らずのもので十分だろう。そう思っていたのだ。
「これなんか3000円もするじゃない! あんたがこんなにお金持ってるわけないわ!」
「あんたからもらってないだけよ。決めつけないで」
 突き放したように言い放つ娘の目つきは、最近同じ店に入ってきた小娘とそっくりだった。彼女は、高校生になる頃から、生活に困窮していたため男に身体を売る生活をしていたと言っていた。まさか、かもめも……。
「誰とヤッたの? 何人?」
「はぁ? 何それ?」
「だから、身体を売ったんでしょ!? あんたが、他に稼ぐ手段なんて無いじゃない!」
 悲鳴のような声を上げて、つぐみは何度もテーブルに拳を叩きつけた。母親の様子に驚き、部屋の隅で都が泣き叫ぶ。その癇に障る声が、なおいっそう、つぐみの神経を高ぶらせた。
「答えなさい!」
 それでも、母親として娘のことに気を配ってやらなくてはならない。つぐみは怒りで真っ白になりかけた頭をブンブン振って、かもめに向き合う。
「……そんなことしてない。自分がそれしかできないからって、私もそうだと思わないで」
 誰のために、あたしがあんな嫌な目に遭い続けてると思ってるの?
 反射的に、つぐみは手を伸ばしてかもめの髪を掴んだ。そのままテーブル越しに強く引き寄せる。
「親にそんな口聞くんじゃないよ!」
「あんたみたいな親なら、居ない方がマシよ。離して。痛い」
 かもめの目が、今度はつぐみ自身に重なる。お金がないから看護師の夢は諦めて、高校も辞めて働いてと母から言われたときの自分は、きっとこんな目をしていたのだろう。勝手に産んだくせに、勝手にあんたの苦労を押し付けるな。
「ただいま」
 母娘が睨み合い、膠着状態に入ったところへ、善知鳥が帰宅する。
「母さん、かもめを離して」
 善知鳥は真っ直ぐテーブルの方へ寄って来て、つぐみの腕を強く掴む。
 まただ、何かがおかしい。
 以前なら、善知鳥はつぐみに近寄らず、今のような状況では遠くから様子を見ているだけだった。あるいは、仕事の時間はいいのか、と尋ねて、つぐみの気を妹から逸らそうとする程度だった。それが、ここ数日で明らかに彼の態度も変わったと感じる。
「あたしはかもめと話してるの」
「話し合いをする態度じゃないよ。離して」
 グッと強く力を込められ、つぐみは恐怖を感じてかもめから手を離した。
「大丈夫か? かもめ」
「ありがと、お兄ちゃん。おかえりなさい」
 手櫛で髪を整えるかもめの背中を、善知鳥が優しくさすってやる。麗しい兄妹愛の風景を見て、つぐみは強烈な孤独感を刺激された。虚しさを怒りに変え、今度は善知鳥に矛先を向ける。
「善知鳥、あんたがちゃんとかもめを見てないからよ!」
「かもめが最近たくさん洋服を買ってることなら、知ってるよ」
 テーブルの上に置かれたタグを見て、状況を察したのだろう。相変わらず、頭の回転が速くて薄気味悪い子だ。
「俺のバイト代から、いくらか渡してるんだ。かもめにだって、自分で自由にできるお金は必要だろ?」
 母親がちゃんとしていないから、と暗に言われている気がして、つぐみは唾を飛ばして反論した。
「まだ中学生よ! この年でそんなに色気づくことないわ!」
「色気づくって言い方、気持ち悪いからやめてよ。おしゃれなんて、普通にみんなやってるから。むしろ、できないウチの方がおかしいんだよ」
 かもめの直球過ぎる言葉が、つぐみの心の深いところを抉った。
 こんなに、こんなにこんなに頑張っているのに、何もかもが思い通りにいかない。
 自分は、どこで間違えたのだろう?
 17で、善知鳥を産むと決心したときか?
 その後、かもめの父親に騙されて貯金を持ち逃げされたときか?
 都の父親と同棲を始めた六年前に、やっと普通の家庭生活を手に入れたと思った。しかし、都が産まれたら、男は出て行った。
 何て可哀想な自分。必死の思いで育てた子どもでさえ、つぐみのことを慰めてはくれない。
 かもめから見放された。そう感じた瞬間、つぐみは怒りを爆発させていた。
「そんなにウチが嫌なら、出て行け! 二度と帰って来るな! どこか遠くで野垂れ死ね!」
 テーブルを叩く拳に、血が滲む。つぐみは痛みを誤魔化すために、更に強く叩き続けた。だが、長くは続かない。すぐに手が震えはじめ、つぐみは冷蔵庫に飛びつきビールの缶を取り出した。長い爪で器用に缶を開け、半分ほど一気に飲み干す。
「母さん、かもめを追い出すなら、俺も一緒に出て行くよ」
 母親の様子を何の感情も籠らない目で見ていた善知鳥が、ふいに告げた。つぐみは驚き、ビールの缶を取り落とす。
「あんたが? お金はどうすんのよ? 母さんと都が飢え死にしてもいいの?」
「自分でどうにかしたら?」
 せせら笑いを浮かべたかもめが、平然と言い放つ。
「かもめ、お前は荷物まとめてろ。俺の荷物も頼む」
 善知鳥はかもめの肩を叩いて立ち上がらせると、子ども部屋に追いやった。かもめは、あろうことか末っ子の都に視線の一つもやらない。何て冷たい娘なんだろう。あんなに毎日毎日世話をしているというのに、自分の弟が可愛くないのだろうか。
「都のことは、神田さんに頼んでおく。母さんも、都とは一緒に暮らしたいだろうから」
 つぐみは、都の父親が「いつか息子の顔を見に来る」と言ったことを、まだ信じている。都が自分のもとにいる限り、いつか彼は自分のところに帰ってくるはずだ。だからつぐみは都にだけは苦労をさせてこなかったし、これからもさせるつもりはない。しかし、子どもに苦労をかけずに育てるためには、何よりもまず金が要る。
「神田さんはお金をくれないじゃない。生活はどうするのよ?」
「それも、神田さんに相談してみてよ。俺とかもめはどこか遠くで野垂れ死ぬから」
 かもめが、エコバック二つと真新しい鞄を3つ抱えて子ども部屋から出てきた。
「お兄ちゃん、行こう」
「ああ。都、兄ちゃんと姉ちゃんは、もう行くから。母さんと仲良くしろよ」
 部屋の隅でじっと家族の様子を眺めていた都に、善知鳥は優しく声をかける。
「ヤダ! ヤダァァ! ヤアアァァァダァァ!」
 都は、兄や姉がただのお出かけをするわけではないことに、気づいたようだ。手足をばたつかせ、顔面を涙と鼻水とヨダレまみれにしながら、喚き散らす。
「かもめ、やっぱり都も……」
「ダメよ」
 善知鳥は、連れて行こう、と言おうとしたのだ。それを、かもめはぴしゃりと拒否した。
「絶対にダメ。そんなことしたら、あの女との縁が切れなくなる」
 かもめは善知鳥を促し、玄関へ向かう。つぐみは慌てて駆け出し、2人の前に両手を広げて立ち塞がって進路を遮る。
「どいて。出てけって言ったのはそっちよ」
「お金を払いなさい。今まで育ててもらった恩も忘れて、このまま出て行く気じゃないわよね? お兄ちゃん、あんたは、そんな冷たい子じゃないわよね?」
 つぐみの口から出た言葉に、善知鳥はちょっとひるんだようだった。かもめが怒って口を開こうとするのを片手で制し、善知鳥はつぐみに真っ直ぐな視線を向けてくる。
「いくらいるんだ?」
「今までと、同じだけのお金を、ちゃんと家に入れて」
 善知鳥は高校を辞めてから、アルバイト代の12万円をつぐみに渡してくれていた。つぐみの月の稼ぎは酒代と、その時に付き合っている男性との交際費で消えていく。そのため、子どもたちに国や市から支給される手当の5万円と善知鳥のアルバイト代、計17万円で楠木家の生活は成り立っている。かもめが家事をしてくれたおかげで、生活費は低く抑えられていた。しかし、これからは都と自分の食事を買って来なくてはならない。だが、食い扶持が2人減った分、食費が浮くはずなので、何とかなるだろう。
「わかった。毎月1日に母さんの口座に振り込むから」
 あっさりと頷かれ、つぐみは戸惑った。それでは生活できないと言われて泣きつかれるのを期待していたのに。
「それだけなら、どいてくれ」
 茫然とするつぐみを強引に押しのけ、善知鳥とかもめは出て行った。後には、つぐみと、まだ泣き止まない都だけが残される。
 こんなにもあっさり、親を捨てていくのか。
 つぐみは、押し寄せる悲しみと怒りに耐え切れず、玄関扉を蹴りつけた。
「……ちくしょう……ふざけんな……!」
 こらえていた涙が、堰を切ったようにあふれ出る。
 つぐみの頭の中は、また捨てられた、という思いに占められていく。苦しくて苦しくて、自分がこのまま狂ってしまうのではないかと、恐ろしくなるほどに。


*************************


 もう9月なのに、ゆぅくんは全然連絡をくれない。
 ゆぅくんが、家を出て行ってから、ずっとお父さんは機嫌が悪い。
 ゆぅくんが出て行っちゃったのは、私が母親としてしっかりしてないからだって、お父さんは言ってる。
 お父さんがそう言ってるんだから、絶対、そうなのよ。
 夏美、あんたが悪いのよ。
 あんたがグズで世間知らずで、気の利かない母親だから。
 櫻井夏美は、一人息子との連絡用にだけ使っている携帯端末を握りしめて、冷たい汗を流していた。身体の震えが止まらない。
 もうすぐ午後6時になる。夫は今日も規則正しく午後8時に帰宅するだろう。このままでは、夕食の用意ができていないという理由で、また殴られてしまう。
 頭の中では警報が鳴り響いているのに、夏美はリビングのソファの上から動けない。指一本でさえも、自分の思い通りに動かすことができなかった。
 8月の始め頃にも、一度こういう状態になったことがある。その時は、無理矢理身体を動かして、夕食をつくり貼りついた笑みを浮かべて夫を迎えた。
 その翌日、すぐに診察してくれる心療内科を探して受診したところ、抑うつ傾向が認められると医師から告げられた。月に一度でも通うことは難しいと根気強く訴えると、医師は十分注意してくださいと強く言いながら、大量の薬を処方してくれた。2日ほど服薬し、だいぶ回復してきたところで、薬を飲んでいることが夫に知られることが恐ろしくなり、薬をサニタリーボックスの中へ隠したのだ。以来、一度も薬を飲んでいない。
 そうだわ、お薬を飲めば治るのかも。
 夏美は力を振り絞ってソファから立ち上がり、自分を奮い立たせながらソファから5メートルほどの場所にあるトイレに辿り着いた。くずおれるようにして膝をつき、サニタリーボックスの蓋を開ける。夫の恵一も、この場所は盲点だったらしく、薬はちゃんと残っていた。キッチンや寝室に隠していたら、簡単に見つかっていたかもしれない。
 薬袋を掴んで、夏美は立ち上がる。薬を飲むための水をキッチンに取りに行くまで、あと何分かかるだろう。しかし、行かなければ。
「あっ……!」
 キッチンに戻るために身を翻した際、夏美の手が洗面台に当たって薬袋から薬の束がこぼれ落ちる。拾わなければ、と洗面台に右手をかけて屈みこんだところで、ふと飲み水がここにあることに気づいた。
 洗面台のお水でも、いいじゃないの。ここで飲めば、それだけ治る時間も速くなるわ。
 夏美は床に転がった薬の方へ左手を伸ばしながら、何気なく壁に掛けられている時計を見た。時計の針が、午後7時半を指している。夏美の顔から、血の気が引いた。また身体が激しく震え始める。頭の中に、自分を怒鳴りつける恵一の声が響き渡った。
 怠け者め! 誰のおかげで生活できると思ってるんだ!?
 身体が動かなかったなんて、頭の悪い言い訳をするな! 愚図の上にクズなんて、救えない奴だな、お前は!
「どうしよう……どうしようどうしようどうしようどうしよう……」
 夏美は自分の口から漏れる言葉を止められず、身体の震えも止められなかった。しかし、彼女の手は忠実に命令をこなす家来のように、薬の束を拾い上げる。硬いプラスチックの感触を手の中に感じた瞬間、彼女の脳裏に天啓が降ってきた。
 これを、たくさん、飲めば、いいのよ。
 そしたら、きっと、早く、効くわ。
 もし、効かなくても、そのときは……。
 夏美は今までとは打って変わって素早い動きで、錠剤を開け始めた。薬袋の中に10、20、30と溜めていき、最後の錠剤を開け終わったあとで、水道の蛇口を強く捻る。勢いよく迸る水をうがい用のコップに取り、口の中に錠剤を流し込む。感覚が麻痺しているのか、薬の味はまったく感じなかった。
 口の中に錠剤を含めるだけ含んで、飲めるだけ水を飲んで胃に流し込む。
 この動作を3回続け、そして夏美は意識を失った。
 たまたま遅く帰宅した恵一が洗面所で倒れている妻を見つけ、救急車を呼んだのは午後10時を過ぎてからのことである。

第7話『かたりあうこどもたち』



 9月2日の朝早く、善知鳥は、神田から都が無事に児童養護施設に入所できたことを知らされて、ほっと胸を撫で下ろした。つぐみはだいぶ抵抗したようだが、神田や以前担当してくれていた生活保護課のケースワーカーらに説得され、しぶしぶ承諾したらしい。
「お兄ちゃん、あたしね、都のことずっと嫌いだったの」
 朝食の席でかもめに都のことを伝えると、彼女は遠慮がちにそうつぶやいた。
「母親は産みっぱなしだし、あの子の父親にも良い印象なんてなかったし、毎日毎日世話をしてても、正直、可愛いとか守りたいとか、思えなかったの」
「お前にばっかり押しつけて、俺も悪かったよ。つらかったろ? ごめんな、かもめ」
 善知鳥の言葉に、かもめは強く首を振った。黒く艶のある髪が、その動きに合わせてサラサラを音をたてる。あの家を出て、よく食べ、よく眠れるようにもなったらしい妹は、善知鳥の目から見ても魅力的な少女になった。
「お兄ちゃんは、何も悪くないよ。私をいつも守ってくれたし、働いて、お金も入れてくれるようになったから、私たちは生きていけたんだから……」
 かもめは、両手で顔を覆って泣き出した。家の中で気を張る必要が無くなったためか、彼女は近頃涙もろい。善知鳥は小さなテーブル越しに手を伸ばし、労りと愛情を込めて妹の頭を撫でた。
「でも、あたし、都のこと嫌いだったけど……」
 かもめは、喉の奥から絞り出すような声で言う。
「あの家から、都が違うところに行けて、良かったって思う。ほんとに、ほんとに……」
 今は家族から離されて、寂しいと思うだろう。だが、善知鳥は、いつか都もわかってくれると信じている。自分たち兄弟は、あの母親から離れて、ようやく自分の人生を生きることができるようになるのだ、ということを。
「……顔、洗ってくるね。先に食べちゃって」
 かもめが席を立つのとほぼ同時に、善知鳥の携帯端末が鳴った。珍しく、泊からの着信である。
「はい、楠木です」
〈楠木くん、朝早くごめん。櫻井くんの端末を鳴らしてるんだけど、出ないんだ。故障したとか、何か聞いてる?〉
 善知鳥は、壁に掛けられたアナログ時計を見上げた。時刻は午前7時40分。
「この時間なら、まだ寝てるんじゃないですか?」
〈だったら、起こして1階まで連れてきてくれ。マンションの駐車場で待ってる!〉
 泊の声には、切羽詰まった響きがあった。善知鳥は顔を洗って戻ってきたかもめに出掛けることを告げ、通勤用のボディバッグを背負う。自室のあるマンションの5階から山桜桃の部屋がある9階まで、階段を駆け上った。
 8月の終わり頃、かもめと2人で家を飛び出したまではよかったのだが、まだ未成年の自分たちは家を借りる契約をすることができないことを善知鳥はすっかり失念していた。こればっかりは、金があればいいというものではない。仕方なく三葉に事情を話して協力してもらい、山桜桃も住んでいるこのマンションに入居させてもらった。
 職場だけでなく、帰る場所も同じ建物になったことで、山桜桃との距離はぐっと縮まったように思う。それが、善知鳥の希望的観測でなければ、だが。
 山桜桃の部屋のインターホンを3回続けて押し、水色に塗られた分厚い扉を乱暴に叩く。
「先輩! 起きてください! 泊さんが呼んでます」
 平日の早朝から近所迷惑かとも思ったが、合鍵を持っていない以上、ドアを叩いて呼びかけるしかない。インターホンを鳴らし、声を出しながら扉を叩く。その動作を4回繰り返したところで、ようやく山桜桃が扉を開けた。
「何なんだよ、朝っぱらからうるせえな……」
「泊さんから着信入ってるはずですよ。マンションの駐車場で待ってるから、早く下りてこいって言ってます」
 いつになく早口で喋る善知鳥の様子に、ようやく山桜桃も異常を感知したらしい。
「何があった?」
「詳細は聞いてません。ただ、先輩を起こして連れてこい、とだけ」
「くそっ、端末の電源が落ちてやがる」
 ゲームしながら寝落ちしたからだ、とぼやきながら、山桜桃は素早く身支度を整える。善知鳥は山桜桃の携帯端末をモバイル充電器につなぎながら、自分の携帯端末で泊に連絡を取った。
「先輩起きました。今から下ります」
〈ありがとう。実は、連れて行かないといけないのは櫻井くんだけなんだ。楠木くんは、明日の試合に備えて、社の方に行ってほしい〉
「先輩だけ、ですか?」
 驚いた声を上げた善知鳥と、洗濯物の山の中から靴下を探している最中の山桜桃の、視線が合う。
「……わかりまし……」
「待て。スピーカーにしろ」
 善知鳥は携帯端末を頭から離し、スピーカー通話に切り替えて山桜桃に渡す。
「泊さん、何で俺だけなんだ?」
〈櫻井くん、落ち着いて聞いてくれ。昨夜、君のお母さんが、救急車で病院に運ばれた。薬をたくさん飲んで、意識不明の状態だそうだ〉
 山桜桃は目を見開き、睨むように携帯端末を凝視した。口を少し開きかけ、思い直したように固く唇を引き結ぶ。
〈発見したのはお父さんで、いまはお母さんに付き添って、病院にいる〉
「親父が、俺を連れてこいって?」
 そう問いかける山桜桃の声は、いつもと変わらぬ調子だった。
〈……いや、君も行った方がいいだろうって僕が判断した〉
 沈黙が降りた。
 つけっぱなしのエアコンがたてる唸り声にも似た音が、やけに大きく聞こえる。
「俺は行かない」
〈櫻井くん! 意地を張ってる場合じゃないよ!〉
 きっぱりと言いきった山桜桃に対し、泊は悲鳴にも似た声で応じる。
 善知鳥は身動ぎ一つせず、山桜桃の表情が次第に険しくなる様子をじっと見ていた。
「自分で死のうとしたんだろ? そのまま放っとけばいいじゃねえか」
〈……君が、ご両親とうまくいってないのは聞いてる。お父さんだけでなく、お母さんに対しても、思うところがあるだろう。だけど、それもお互い生きていてこそだよ。亡くなってしまったら、恨み言を言うチャンスも無くなるんだ。一緒に病院に行こう。行くだけでいいから!〉
 山桜桃は、聞くに堪えないといった表情で、善知鳥に携帯端末を返した。片方だけ履いていた靴下を脱ぎ捨て、無言でバスルームに消えていく。
〈もしかしたら、それで意識が戻るかも……〉
 スピーカーから聞こえてくる泊の声が、いつになく虚しく響く。バスルームからは、勢いよく流れるシャワーの音が聞こえてきた。
〈もしもし? 櫻井くん?〉
 善知鳥はスピーカー通話をオフにして、携帯端末を頭に近づける。
「すみません、泊さん。先輩は席を外しました」
〈あぁ……そう……〉
 芯から優しい泊は、きっと頭を抱えていることだろう。情に訴えるやり方では、山桜桃の気持ちは動かせない。かといって、力尽くで車に押し込んでも無駄だ。
〈どうしたら、行ってくれると思う?〉
「先輩は、一度行かないと言ったら行きませんよ」
〈人の命がかかっているのに?〉
 山桜桃がいつも頭の中で殺している相手が、父親なのか母親なのか、それとも両親ともなのか、善知鳥は知らない。彼の口ぶりから、父親については積極的に害したいと思っているようである。母親についてはあまり語らないが、殺したいとまではいかずとも、死ぬなら死ぬでいいと思っているのかもしれない。
「人として、親が死にそうなのに駆けつけないっていうのは、おかしいですか?」
〈僕としては……おかしいと思う。もちろん、君たちの境遇なら、もっと複雑な気持ちがあるだろうけど……〉
 泊は、善知鳥たちの心情に配慮しながらも、常に自分の意見を言ってくれる。出会った当初の媚びたような態度が嘘のようだ。彼といい、三葉といい、自分たちは良い大人に恵まれている。
「俺も先輩も、人間として育てられなかったので、その気持ちはわかりません」
 何も知らない人間なら眉をひそめるような台詞を口にしても、泊は黙って受け止めてくれる。否定するでもなく、同情を示すでもなく、ただじっと見守ること。それがどんなに難しいことか、善知鳥にもわかっていた。
「でも、泊さんが必死になる理由は、俺にもわかります」
〈楠木くん。何とかして、彼を病院まで連れてきてくれないか?〉
 泊の懇願を、どこか遠い世界のことのように聞きながら、善知鳥は窓辺に歩み寄った。
 すでに太陽は高く昇り、煌々と世界を照らしている。どこかで、夏の終わりを惜しむように猛々しく蝉たちが鳴いていた。
 昨日と何も変わらない朝に見えるのに、今、山桜桃の母親は死の淵にいるらしい。
「確約はできません。あと、説得はしませんから。先輩が行く気になったら、送り出します」
〈それでいいよ。僕は、何時間でも待ってるって、櫻井くんに伝えて〉
 通話が途切れたあとも、善知鳥はしばらく携帯端末を頭に寄せたまま、窓の外の景色を眺めていた。
「どうにかして、俺を引きずって行けって?」
 背後から声をかけられ、善知鳥は我に返る。振り向くと、バスルームに続くドアの前に、髪から水を滴らせた山桜桃が立っていた。普段は明るく輝いているそれが、濡れてくすんだ色になり、彼の額に貼りついている。
「説得を任されましたけど、確約はできませんって返事をしました。先輩が行くかどうかは、先輩が決めることですから」
 淡々と答える善知鳥を、山桜桃は苦虫を噛み潰したような顔で、じっと見つめてくる。
「お前ってつくづく、物分かりがいいのか冷たいのか、わかんねえやつだよな」
「行った方がいいですよって、言えればいいんでしょうけど」
 善知鳥は熱を放つ窓から離れ、洗濯物の山の中からバスタオルを拾い上げた。山桜桃は片手を伸ばしてそれを受け取り、乱暴に髪の毛を拭く。
「何で、そう言わない?」
「自分の親が死にかけてるときに、俺も行かない選択をするかもしれないと思って」
 バスタオルを頭に引っ掛けたまま、山桜桃は善知鳥に背を向けた。背中に、黒く濃いアザがいくつかあるのが見える。彼が、成績が悪いと棒で打たれると言っていたのを思い出す。
「適当に、座れ」
 山桜桃は、小型の冷蔵庫から炭酸水のボトルを二つ手にし、ゆっくりと戻ってくる。炭酸水のボトルを一本受け取り、善知鳥は床にあぐらをかいて座り込んだ。山桜桃の部屋には、クッションの類が家主の分一つしかない。半年も暮らしているというのに、善知鳥とかもめの家よりも物が少なかった。
「親と連絡取ったりするか?」
「家を出てからは、まったく」
 神田を通じて、つぐみの様子は伝え聞いている。都の世話もろくにせず、酒を飲んだり家に同僚や客を連れ込んだりしているらしい。
「連れて来なかった弟は? 気にしてただろ?」
「ちょうど今朝、児相の人から連絡があって、施設に入ることができたそうです。一緒に暮らせたらいいんでしょうけど、俺は仕事に出るし、妹も学校に行けるようになったので……。それに……」
 都を引き取ったら、つぐみがどこまでも追いかけてきそうで、恐ろしい。
「『それに』?」
 急に口を閉じてしまった善知鳥を、山桜桃が静かに促す。
「……俺と、妹と弟は、全員父親が違うんです。俺は生まれてから一度も父親に会ったことがなくて、妹の父親も同じく行方不明です。でも、弟の父親だけは、何年間か一緒に暮らしたことがあって」
 都の父親が家に転がり込んできた日のことを、善知鳥はよく覚えていた。善知鳥が小学校5年生の冬休みのことだ。電気が止められた家の中で、かもめと一緒に空腹と寒さに震えていたとき、酔っぱらった母親が男と一緒に帰ってきた。いつもなら、男は一晩でいなくなる。だが、あの男はそのまま2年ほど善知鳥たちの家に居着いてしまった。
「それまでは、母親のわめき声とか物を投げられるのに気をつけていればよかったのに、あの男がやってきてからは、そいつの機嫌まで伺わないといけなくなって……。控えめに言って、地獄でしたね。突然怒鳴られるし、突然殴られる。あの頃のことはあまり記憶が無いし、正直思い出したくもないです」
 善知鳥の記憶の中の男は、いつも大きな拳を振り上げている。顔は不思議と覚えていない。
「そいつは、来たときと同じく、ふらっといなくなりました。でも、出て行く前に、母に『いつか息子の顔を見に来るから』って言ったらしいんです。母は、それを信じてて、弟を手放したらあの男に会えなくなるって思ってるみたいです」
 出て行ってから3年ほどが経過したが、男は一度も現れていない。だが、まだ3年だ。
「だから、弟を引き取るときには、母親が追いかけてこられないように、どこか遠くに行こうと思ってます。まだ、先の話ですけど。妹の意見も聞いてみないと」
「妹はなんて?」
「母親がくっついてくるから、弟とは暮らせないって言ってます」
 山桜桃は頭を反らし、炭酸水をぐっと呷る。
「妹の方が賢明だな。弟はもう安全なんだろ? そこまでお前が背負いこむことねえよ」
 神田は、都を家から出したがらないつぐみに「いつでも会えるし、外泊許可も簡単に取れますから」と言って、説得したらしい。しかし、つぐみは虐待する親として児童相談所から警戒されているそうなので、外泊許可は簡単には下りないだろう。騙されたと知ったら、つぐみは激怒するに違いない。
 だが、今の彼女に何が出来るだろう。気持ちだけでは、母親になれない。子どもを育てる意志と、経済力が必要だ。善知鳥から見て、つぐみにはそのどちらも存在しない。
「そうかも、しれません」
 善知鳥は炭酸水の蓋を回し、ボトルの内側に発生した大量の泡に見入る。
 掌をわずかに震わせる振動。耳に入ってくるざらついた音。
 よく冷えたそれを口に含むと、泡が細かい棘となって舌を刺す。
 かもめも、おそらくは都も、自分の人生から母親の存在をさっさと消してしまうだろう。かもめは反発から、都は幼さから。もしかしたら、母親とのつながりを最後まで断ち切れないのは、自分ではないのか。
 ふとそう思い至り、善知鳥は俯いたまま苦笑した。
 今まで、家族を守ることが、自分の存在意義だった。家を出るまでは、その保護対象につぐみも入っていたのだ。自分が金を稼げるようになれば、母親が助かる。喜んでくれる。親子の仲が良くなるかもしれない。そう信じていた。
「おい、どうした?」
 黙り込んでしまった善知鳥を心配したのか、山桜桃が遠慮がちに声をかけてくる。
「いえ、ちょっと……」
 何でもない、と誤魔化すことができず、善知鳥は自分の頭に浮かんだ言葉を口にした。
「一方通行の愛情って、呪いと同じだなって、思って」
 母親を憎んでいるかと問われれば、そうではなかった。つぐみはどうしようもない人間だが、それでも自分の母親で、善知鳥の中には彼女に愛されたいという渇望が確かにある。だが、その望みが満たされることはないということも、彼はよくわかっていた。この矛盾した状態の心を、抱えて生きていかなくてはいけない。つぐみを憎むことができたら、あるいは忘れてしまえたら、苦しまずに済むだろうに。
「呪いか……」
 何か思いあたる節でもあるのか、山桜桃は善知鳥の言葉を真剣に受け止めてくれたようである。山桜桃はゆっくりと頭を巡らし、部屋の隅にある電源コードに繋がれたままの携帯端末に目を留めた。
「うちの母親は、毎日毎日これに電話をかけてきてた。ここに俺が越してきて以来、本当に毎日だ。トークもすごい量が溜まってて……俺は、一つも読んだことない。何を書いてあるのか想像がつくし、見たくもねえから」
 山桜桃は立ち上がり、携帯端末をコードから外す。そして、自分では画面を見ずに、善知鳥に渡してきた。
「俺は一度も電話に出なかったし、トーク画面も開いたことがない。俺にとってはもう捨ててきた過去だったし、家に戻るつもりもなかったから、自分のことはさっさと忘れてほしかった」
 古い携帯端末の画面には、通話とトークアプリ、それに計算アプリとカメラぐらいしか表示されていない。通話とトークアプリのバッチの数字は限界数を超え、3つ並んだ9の後ろにプラスマークが付いている。
「中身、読んでもいいんですか?」
「いいよ。読んでも面白くねえけど」
 善知鳥はトークアプリのアイコンをタップした。一番最近の投稿が、一昨日の日付になっている。手の込んだ料理が並んだ食卓の写真だった。写真の前に送られたメッセージには、ちゃんとしたものを食べているのか、といったことが書かれている。そこだけを見ると普通の母親からのメッセージなのだが、投稿を遡るにつれて、善知鳥は背筋が寒くなってきた。
 ある日は、アルバムに貼られた写真を映した画像が投稿されていた。小学校低学年であろう山桜桃が、勉強机の前で計算ドリルを両手に持って立っている。その目は死んだ魚のようで、口はへの字に引き結ばれていた。メッセージには、昔を思い出す引き金になったエピソードと共に、こう書かれている。
『あんなにお勉強が好きだったのに、どうして学校に行かなくなってしまったのか、お母さんにはわかりません。ゆぅくんが、昔みたいに笑顔で学校に行けるようになる日を、ずっとずっと待ってます。』
 指を素早く動かし、半年ほど遡ってみたが、内容はほとんど似たようなものだった。食事、学業、母親との過去の会話。大きく分けて、その3つの話題が延々と繰り返されている。
「何というか、すごいですね」
 携帯端末を山桜桃に返しながら、善知鳥は言葉を濁す。元の位置には戻らずに、山桜桃の隣に腰を下ろした。
「イカレてるだろ?」
 3分の1ほど残っていた炭酸水を一気に飲み干し、山桜桃は空になったペットボトルをゴミ箱に向かって放った。
「イカレてんだよ、うちの母親は」
 だから、自殺未遂なんて真似をするんだ。そう言いたげな口調だった。
「まぁ、一番頭がおかしいのは父親だけどな……。でも、何年もそいつに従って殴られてる時点で、母親も同じくらいおかしいよな」
 山桜桃の母親は、彼が物心ついた頃すでに、父親の奴隷だったという。
「俺は、両親の夫婦喧嘩を一度も見たことがない。喧嘩っていうのは、対等な相手同士がやり合うことだ。でも、うちはヒエラルキーがはっきりしてた。一番上に父親がいて、下には俺と母親がいる。母親は、自分の地位を高めようと思って、俺をおだてたり叱ったりして、思い通りの子どもを育てようとした」
 聡明だった彼がそのことに気づいたのは、幼稚園を卒業し、私立小学校の入学試験を受ける頃だったという。
「俺は公立の小学校の方が良かった。当時通ってた水泳教室で、仲良くなった友達が公立に行くって言ってたから、一緒に通いたいって。でも、母親は許してくれなかった。そんなワガママを言うなんて、あなたは私の息子じゃないわねって言うんだ。私のゆぅくんなら、私を喜ばせることだけをしてくれるはずよ。あんたは誰なのよ? って」
 淡々と語る山桜桃の顔は、疲れていた。もう戦い疲れた、といった様子だ。
「万事そんな感じで、俺はもう嫌になった。ゲームの賞金が手に入って、家を出て行くことを告げたときも同じだったよ。出て行くって言ったら、そんなこと言うなんて私のゆぅくんじゃないって言いやがった。だから、そうだよって答えたんだ」
 あんたの息子は、もうとっくにあんたが殺したんだ。もうここにはいない。
 泣き崩れる母親に背を向け、山桜桃はほとんど身一つで家を飛び出したという。過去を忘れて、何も持たずに新しい人生を始めたかった。
 過去から追いかけられるのが怖くて、夏美からの電話に出られなかった。
「母親がこのまま死ねば、俺との最後の会話は『あんたが殺したんだ』になるのか……」
 眉根を寄せて視線を下げる山桜桃の隣で、善知鳥は沈黙を守った。山桜桃はおそらく、母親を憐れんでいる。同じく父親の支配圏にいた者として。だが、それを同時に、恨んでもいる。子どもを守れる立場にありながら、自身の保身を優先した彼女を。
「どうするかな……」
 窓の外に目を向けた山桜桃に倣い、善知鳥も眩しく輝く青空に目をやる。先ほど善知鳥が感じたものと同じ感情が、今、山桜桃の胸を満たしているのかもしれない。
「山桜桃くん! まだ居るの? 早く病院に……っ」
 善知鳥が守り抜いてきた沈黙は、突然部屋に駆け込んできた三葉によって破られた。彼女は、寝坊の多い山桜桃の部屋の合い鍵を持っているのだ。
「善知鳥くんもここに居たの? 一緒に行く?」
「泊さんから、先輩を起こせって連絡をもらいました。三葉さんもですか?」
「泊さんが急に今日は休むって言うから、事情を聞き出したの。山桜桃くん、早く着替えて! 行くわよ!」
 彼が病院に行くことを渋っているのを知ってか知らずか、三葉はものすごい剣幕で山桜桃を急かす。善知鳥は、何も言わずに山桜桃の横顔を見つめた。
「……うるせえなぁ」
 山桜桃は、善知鳥の肩に手をついて、いかにも億劫そうに立ち上がった。
「準備するから、ちょっと待ってろ」
 のろのろと支度をする山桜桃を、善知鳥は座ったまま見つめていた。
 三葉のように、ごちゃごちゃ言わずに、ただ行けとだけ言った方が良かったのだろうか。それとも、自分と話すことで気持ちの整理がついた後に、彼女の台詞がダメ押しとなって効いたのだろうか。そんなことを考えながら。
「準備できた? 善知鳥くんも、行く?」
 早口で聞いてくる三葉に答えたのは、山桜桃だった。
「俺だけ行く。後輩は、残れ」
「わかりました」
 普段と同じように頷いたつもりだったが、山桜桃の耳には違って聞こえたらしい。すっかり乾いて明るさを取り戻したユニコーンカラーの髪を風になびかせながら、彼はいつもと同じ顔で笑う。
「絶対帰ってくるから、心配すんな」
「……はい」
 なるほど、自分はそれが不安だったのか。
 山桜桃がこの件をきっかけに家族のもとへ戻り、このゲームから下りてしまうのではないかと。
「留守を頼む」
「大丈夫ですよ。先輩がいない間も、ちゃんと勝っておきますから」
 精一杯晴れやかな顔で、善知鳥は山桜桃を見送った。明後日くらいには、またプレイルームに顔を出してくれるだろう。そう思いながら。
 しかし、その予想は大きく裏切られ、山桜桃はこの日を境に消息を絶つ。


第八話『くずれゆくはこにわ』


 母親が入院している病院にも、自宅にも、もちろん独り暮らしのマンションにも、山桜桃の姿はない。携帯端末に連絡しても、自動音声に切り替わるだけで、トークアプリの既読も付かない。
 病院で、集中治療室の前まで行ったことはわかっている。同行していた三葉と泊は、山桜桃と恵一が顔を合わせたことを確認して、すぐに引き揚げてしまった。だから、その後のことは何もわからない。
 山桜桃と連絡を取れなくなってから一週間後の9月10日。三葉は、新たな問題に直面していた。
 パンタシアのCEOであるリチャード・センから、至急ミーティングを行うので誰もいない場所に移動しろという指示が入った。時刻は、午前10時を少し回ったところ。カナダのバンクーバーにある本社は、夕刻のブレイクタイムに入っている時間だ。この時間帯にミーティングが入るのは珍しい。良くない話題だろう、と三葉はプレイルームから2階へと下りるエレベーターの中で思った。
 エレベーターを降りて、会議室のひとつに入り、三葉は背筋を伸ばして椅子に座った。タブレットを操作し、ミーティング用のアプリを起動させる。
「お待たせしました、リック。始めてください」
〈やぁ、サユリ。実は、やさしい電力株式会社の櫻井常務から、本社の方にクレームが2件入っている。何が問題になっているのか共有したいんだが、かまわないね?〉
 リチャードの話すフランス語訛りのある英語は、独特の響きを持っている。三葉はその音に引っ張られないように、ゆっくりと口を動かして発音した。
「もちろんです。櫻井常務は、何と仰っていましたか?」
 リチャードの澄んだ青い目と、唇を引き結んだ三葉の鳶茶色の目が、数秒、見つめ合う。
〈クレームの内容は、共に現在所属している2名のプレイヤーについてだ〉
「……2名とも、ですか?」
 山桜桃の件はわかっている。おそらく、彼の選手登録を抹消しろという話だろう。パンタシア日本支社に出向しているやさしい電力株式会社の社員たちからも、この1週間何度かその話題を振られているからだ。それらすべてを、三葉は突っぱねていた。
 一方、善知鳥については何も問題は起きていない。山桜桃が1週間も連絡がつかない状態が続いているため、さすがの彼もスコアに乱れが生じているが、それ以外はいたって平穏だ。
〈では、まず……〉
 タブレットの画面に、1通のメールが表示された。差出人は櫻井恵一。宛先はリチャード・センとなっている。
〈ここに書かれてあることをよく読んで、それから俺の質問に答えてほしい〉
「はい。3分ください」
 三葉は、素早く2度メールを読んだ。要点は、3点。
 一つは、自分の息子の選手登録の抹消に三葉が応じないことに対する抗議。息子は学業に専念することを望んでいるので、これ以上コネクトウェルバのプロジェクトに参加することはできないと書かれている。もしこれが山桜桃の本心なら、三葉だって無理に引き留めたりはしない。せめて本人の口から言ってほしいとは思うが。
 もう一つは、善知鳥の保護者である楠木つぐみが、自分の子どもがコネクトウェルバのプロジェクトに参加することを知らなかったという報告。おまけに、彼女はコネクトウェルバ自体を『発電装置と人体を直接繋ぐ拷問器具のようなもの』と誤解しており、そのようなプロジェクトに我が子を参加させることを強く拒否している、というのだ。一刻も早く彼女を説得しなければ、訴訟のリスクがある、とまで書いてある。
 そして最後に、現在所属しているプレイヤーは問題を多く抱えているため、他のプレイヤーに交代すべきだと書かれている。具体的には、自社の人間を訓練して高いスコアを出せるようにしてあるので、彼らを日本代表として選手登録してほしい、と書かれてあった。
〈サユリ、1つ目の質問だ。そこに書いてあることで、君の把握している事実と違う個所はあるかな?〉
「はい。まず、最初の櫻井山桜桃の件ですが、ここに書かれていない複雑な事情があります」
 三葉は、山桜桃が口にした教育虐待や、恵一から夏美への暴力について話した。それから、夏美が1週間ほど前に自殺未遂をして、病院に運ばれたこと。面会に行った山桜桃の行方が知れないことも。
〈…………なるほど、確かに複雑だ〉
 リチャードは、鮮やかな空色のゲーミングチェアの背もたれに身を預け、天を仰いだ。
〈サユリ。君はどうしようと考えてるんだ?〉
「まず、山桜桃の無事を確認したいです。彼が現在どこに居て、どういう状態にあるのかを突き止め、そのうえで、彼自身の意見を聞いてみたいと思っています」
 山桜桃の行方は、間違いなく恵一が知っている。だが、できることなら恵一に知られずに居 場所を突き止めたい。そのための手段は、泊がアンソニーらと協力して探ってくれているところである。三葉にできることといえば、山桜桃の選手登録抹消を阻止し続けることだけだ。
「ですから、櫻井山桜桃の選手登録抹消は、一時保留にしておいてください。子どもは、親の所有物ではありません。彼には彼の意志があるはずです。ましてや、山桜桃はもう17歳ですよ。自分の将来をどうするのか、もう自分で決めていい歳です」
 三葉の熱の籠った声に、リチャードは何度も頷いて同意を示してくれる。
〈俺も17歳のときには、もう自分でゲームを作って稼いでた。逃げなきゃいけない人間からは、それが自分の家族であろうと、早く逃げた方がいい。もちろん、家族と強い繋がりがある人間よりも頼れるものが少なくなるが、自由を得ることのメリットに比べれば、そんなデメリットは小さいものだ〉
 リチャードは、山桜桃の選手登録については三葉に全権を預けると約束してくれた。やさしい電力株式会社からの要請に対しては、本社は何の権限も無いと回答する、とも。
「ありがとうございます、リック」
〈本戦までに、彼が見つかることを祈るよ。日本チームには期待しているんだ〉
「はい、必ず」
〈OK。じゃあ、もう一人のプレイヤーについて、同じ質問だ〉
 つぐみの件は、三葉もまったく予想していなかった。三葉は慎重に記憶を辿りながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「楠木善知鳥の母親の件については、私も寝耳に水です。労働契約書の保護者欄にサインはもらいましたし、コネクト・ウェルバのプロジェクトに関する資料も渡しています」
〈それは、君自身が彼女に渡したのか?〉
「……いえ、善知鳥が家に持ち帰り、サインをした契約書を後日受け取りました」
 そういえば、つぐみのことは善知鳥から話を聞くだけで、実際には顔も合わせていない。アルバイトをすることを反対されたというのならともかく、三葉がわざわざ自宅を訪問して保護者と面会する必要は無いと思っていたから、今まで気にしたこともなかった。
〈他に、保護者がいるのか?〉
「いえ、母親はシングルマザーで、他に親権のある保護者はいません」
〈だが、母親は息子の仕事内容をまったく知らなかったと言っている。何故だと思う?〉
「それは……」
 つぐみが恵一が手を結び、コネクトウェルバのプロジェクトを潰す計画に加担しているのかもしれない。しかし、その場合、つぐみが一芝居打つメリットは何だろうか。恵一が謝礼金を払うと言ったにしても、それは一度きりの金だ。一方、善知鳥がプレイヤーとして賞金を得続ける限り、彼女は息子から金を受け取り続けることができる。少し考えれば、善知鳥をコネクトウェルバのプロジェクトに参加させ続けた方が利益になるとわかるはずだ。
 では、善知鳥が嘘をついているのだろうか。
 三葉は、善知鳥がつぐみのサインが入った契約書を持ってきた日の記憶を辿る。新しくつくられた通帳。高額過ぎるアルバイト代を、親は不審に思っていなかったと言う善知鳥の台詞。
 あのとき、面倒ごとの気配を感じ取って、とっさに三葉は踏み込んだ質問を避けた。世の中にはいろんな家庭があるし、彼も三葉の想像している範囲内の家庭で生きてきたのだと思っていたから。だが、善知鳥とつぐみの関係は、三葉の想像力が及ぶ範囲での『親と子の関係』ではない。
「……そういうことだったの……」
 善知鳥が持ってきたのは、偽造されたサイン。
 つぐみは、本当に、何も知らないのだ。
〈サユリ? どうした?〉
 青ざめた顔をした三葉を心配して、リチャードが画面の中で大きく手を振る。
「リック、その件も必ず解決します。早ければ、今日中にでも」
 善知鳥を連れて、改めて、つぐみに事情を説明しに行こう。三葉はそう決意し、ミーティングを打ち切ろうと手を伸ばした。
〈まだ終わってないぞ、サユリ。メールに書いてあった新プレイヤー加入の件は、どうする?〉
 リチャードは再び恵一からのメールを画面に映し出し、問題の箇所に黄色い下線を引いた。やさしい電力株式会社から、社員を新たに6名出向させる。しかも、訓練を経て高いスコアを出せるようになっているとは、どういうことなのか。
「私はやさしい電力株式会社の担当者から、何の報告も受けておりません。訓練をしていると書かれていますが、マシンの使用記録は私も毎日監視しています。現時点では、善知鳥以外の人間がプレイした形跡はありません」
 泊は、何も言っていなかった。以前の彼ならともかく、最近では、こんなに大事なことを三葉に話さないとは考えにくい。
「ですから、高いスコアが出せるようになったというのは……」
〈君が疑うのは無理もないが、実際、各自のスコア推移のデータが送られてきているんだ〉
 タブレットの画面に、見慣れたグラフが映し出される。アルファベットで書かれた人名と、訓練期間を示す日付が入っていた。日付は、8月25日から始まっている。
〈君は知らなかったと思うが、実はマシンのプロトタイプが、やさしい電力株式会社の本社倉庫にあるんだ。マシンといっても、発電用の機械には繋がっていないヘッドセットとモニタだけだが〉
「それで訓練していると?」
〈おそらくは〉
「プロトタイプのスコアは、あてにできるものではありません。プレイヤーを新規に加入させるのは、将来的には必要ですが、現段階では混乱を招くだけだから承服しかねるとご返答ください」
 きっぱりと言いきった三葉に対し、リチャードは首を振った。NOの仕草だ。
〈サユリ。今、君たちチームが置かれている状況を、もう一度確認した方がいい。二人しかいないプレイヤーのうち、一人は行方知れず。もう一人も、保護者の許可が下りなければ、訴訟リスクを背負うより選手登録を抹消した方がいい。違うか?〉
「……その通りです」
〈だとしたら、新規のプレイヤーを確保しておく方が賢明な措置だと思わないか?〉
「はい。ですが……」
〈突然、しかも一方的に提案を押しつけられて、不愉快になるのはわかる。君とプレイヤーたちとの関係も、単なるビジネス上のものではなく、親密なものなんだろう。でも、目的を忘れていないか? コネクトウェルバのプロジェクトは、通過点に過ぎない。最終的には、エネルギー問題を解決する手段を世界中に広めることが目的なんだ〉
 熱く語るリチャードの言葉に、三葉はパンタシアへ入社したときのことを思い出す。日本から遠くはなれた場所へ行ってみたい。それだけの理由で、特に何をするつもりもなくカナダへ留学した大学時代。偶然参加したイベントで、パンタシアの制作したゲームに出会った。遊びと社会問題の解決を融合させる彼らの理念に惚れこみ、その場でリチャードにインターンシップをさせてほしいと頼み込んだのだ。
「私は、エネルギー問題の解決だけを目標にしていません。それぞれの人間が、幸福に安寧に人生を送ることができること。それが、最終的な目標であり、我々の理想であるはずです」
 世界は、不平等で理不尽で残酷だ。山桜桃や善知鳥のような境遇にある子どもたちにとっては、絶望の場所でしかない。
「私のチームのプレイヤーにとって、コネクトウェルバは砦なんです。彼らが自分自身の人生を生きるために、守るべき場所なのです」
〈だから、他人を入れるな、ということかい?〉
 リチャードの言い方は、3歳の子どもに言い聞かせているような口調だった。
〈それは砦じゃない。箱庭だ、サユリ。君は、プレイヤーたちの信頼を損なうことを恐れているだけじゃないのか? 単なる自己保身だ。違うか?〉
「……わかりません」
 はっきり、違うとは言いきれなかった。せっかく得た信頼なのに、という気持ちも、確かにある。
 また、色々な問題が山積みになったこのタイミングで、今度は自分が火薬庫に火を放つ役割をしたくないというのもある。
〈居心地の良い場所は必要だ。でも、それは、自分の味方だけで構成されたチームとイコールじゃない。自分の役割を思い出せ。君は、彼らを守るだけじゃなく、成長させないといけない立場にいるんじゃないか?〉
 三葉の中に、尊敬する上司の言葉が染み込んでいく。自分は山桜桃にも善知鳥にも嫌われたくないというだけで、動いてはいないだろうか。彼らは、たまたま気の合う同類だったから、たいした衝突もなくすんなりと互いを受け入れた。だが、コネクトウェルバのプロジェクトの規模がもっと大きなものになれば、当然、受け入れがたいタイプの人間ともチームを組むことになるだろう。
〈彼らの将来を想うなら、むしろ櫻井常務からの提案は願ってもないことだと思うよ〉
「……頭では、私もわかっています。すみません、リック。感情が追いつかないんです」
 頑なな三葉の態度を見かねて、リチャードは譲歩案を示した。新しいメンバーはメインプレイヤーとはせず、メインプレイヤーの休憩時に補佐として入ってもらうようにする。試合のときは監督として三葉が入り、やさしい電力株式会社の社員は彼女の立てた戦略に協力することを約束させる、など。
〈何事も、動かしてみなければ結果が見えない。そうだろ? サユリ。プレゼントボックスの中に何が入っているかわからないのに、怖いからいらないっていうのは、ええと、モッタイナイよ〉
 モッタイナイ。
 リチャードはたどたどしい日本語でそう繰り返し、皺が目立ち始めた目元を器用に動かしてウインクをする。三葉は、思わず笑みをこぼした。
〈そうだよ。笑って、サユリ。君の明るさと素直さは、きっとプレイヤーたちの救いになってる。だからこそ、問題を多く抱えた彼らが、君を信頼してくれたんだ。その信頼を裏切りたくないと君に思わせるほどに、強い信頼をね〉
「私の方が、彼らに支えられて励まされています。だから、恩返しがしたいのです。私にできる精一杯のことを」
 三葉は、リチャードの示してくれた譲歩案の通りなら、という条件付きで新しいプレイヤーを入れることを了承した。あとで、泊にも相談してみよう。彼がこの件を知っていたかどうかも、確かめてみなくてはならない。知っていて黙っていたのだとしたら、その理由も含めて。
「では、状況が変わりましたらすぐに報告を入れます。お時間を割いていただき、ありがとうございました」
〈君たちの幸運を祈ってるよ。じゃあ、また〉
 ミーティングアプリを終了させ、三葉は会議室を飛び出した。非常階段を駆け下り、1階にあるロッカールームに向かう。
 パンタシア日本支社のビルは、災害時に備えてロッカールームを1階の非常口付近に配置してあった。壁面収納の中に備蓄された生活物資は、100人が3日間過ごせるぐらいはあると聞いている。ロッカールームが同じ場所にあるのは、各自で用意した備蓄用品も同じところに収めた方が良いという考えからだろう。
「これ、違う……。これ? じゃない……」
 三葉のロッカーは、書類と冊子と封筒の保管庫となっていた。マスメディアに渡すコネクトウェルバの紹介パンフレットや、やさしい電力株式会社との会議資料などに混じって、労働契約書もこの中のどこかにあるはずだ。
 ロッカーから紙の束を引っ張り出し、三葉は一旦すべてを床に置いた。そしてコンクリートのひんやりとした床に片膝をつき、一枚ずつ紙をめくっていく。
「あった!」
 ようやく見つけ出した労働契約書を、端のよれた封筒に突っ込み、三葉は紙の束を再びロッカーの中に押し込んで鍵をかけた。
 足早にエレベーターホールに向かいつつ、片手で携帯端末を操作して泊に着信を残す。今日、彼は用事があるらしく、このビルにはいない。着信履歴を見て、都合の良いときに折り返しかけてくるだろう。
 運良く一階に停まっていたエレベーターに乗り込み、9階のボタンを押す。だが、エレベーターが動き出した直後に考えを変え、3階のボタンを押した。偽造サインが書かれた書類を、手元に置いておいた方がいい。
「すみません、ちょっとお願いがあるんですけど」
 人事課の人間は、相変わらず全員無愛想だった。しかめっ面でパソコンに向かい、笑い声のひとつもない。三葉は、彼らは全員アンドロイドで、人間のふりをさせられているだけじゃないのかと密かに疑っていた。
「何でしょうか?」
「楠木善知鳥の労働契約書なんですけど、パンタシア本社の方で選手登録内容更新のために必要になったんです。すぐに返しますから、書類を処理する間、少し貸していただけませんか?」
 いかにも億劫そうな態度で応対する若い男性職員に、三葉は適当な嘘をでっちあげて善知鳥の労働契約書をキャビネットの中から出してきてもらった。不思議なことに、彼らは書類をどこかの機関に提出する、と言えば素直に見せたり貸したりしてくれる。三葉個人が確認のために見たいと言うと、それは規則なので見せられません、と言うくせに。
「ありがとうございます。すぐに返しますから」
 恐縮した態度で頭を何度も下げると、男性職員の雰囲気が和らいだ。
「いいですよ、こちらはすぐには必要ないので、ゆっくりで。ところで、櫻井山桜桃さんの件ですけど……」
「ごめんなさい、急いでるので」
 三葉は刺すような視線を背中に感じながら、またエレベーターに乗った。善知鳥の労働契約書の保護者サイン欄を、まじまじと見つめる。善知鳥の筆跡でないことは確かだ。彼の書く文字は、流れるような崩し字で、判別に困ることもしばしばある。対照的に、山桜桃の文字は丁寧で、硬筆のお手本のような字だった。印象がまるで逆ね、と三葉は笑いながら言った記憶がある。
「お疲れ様です、三葉さん」
「おかえり、サユリ。ボスは何だって?」
 プレイルームには、善知鳥の他にアンソニーがいた。山桜桃がいなくなって不安定になっている善知鳥を励ましたり慰めたりするために、アンソニーや高津が定期的に様子を見に来てくれているのだ。
「日本チームは問題が山積み。もっとしっかりしろって言われたわ」
「それだけ期待されてるんだよ」
 肩を叩いて励ましてくれるアンソニーに頷きながら、三葉は力なく笑った。
「だと、いいけどね。……善知鳥くん、ちょっといい?」
 声のトーンが変わったことを敏感に察し、マシンに寄りかかっていた善知鳥の背筋が伸びる。三葉はつぐみの名前が書かれた労働契約書を片手で摘み、善知鳥の目の前にぶら下げた。
「山積みの問題のうち、一つはこれよ。何のことか、わかるわね?」
「……はい」
 善知鳥の顔から、血の気が引いた。それでも、三葉の目を見てきちんと頷くあたり、さすがに肝が据わっている。
「あなたのお母様が、自分の息子が危険な実験に参加させられているんじゃないかと、心配しているそうよ。自分は何も知らなかったと仰っているみたいだけど、そうなの?」
「母は、何も知りません。俺がここで働いていることも、言ってません」
「サインを書いたのは誰?」
「妹に書かせました。俺が、書いてくれと頼んで」
 三葉は、大きなため息をついた。
「これは、学校に提出する書類とは違うのよ。本人以外が書いたサインは無効なの」
 三葉は、労働契約書を両手で真っ二つに割いた。薄い紙が破れる音が、プレイルームの空気を大きく震わせる。
 善知鳥は、処罰を待つ人間の顔で、じっと押し黙ったままだった。
 自分の運命は、他人の手に委ねられている。そう思って、諦めている人間の顔だ。
 彼のこんな表情は、久しぶりに見る。
「今からでも遅くないわ。お母様にきちんと事情を説明して、許可をいただきましょう」
 破ってしまった紙を手の中で丸め、三葉は脇に抱えた封筒を善知鳥に差し出す。かすかに震える指先で封筒を受け取った善知鳥の顔に、徐々に血の気が戻ってくる。
「わかりました。ちゃんと話して、サインをもらってきます」
「私も一緒に行かせて。ずいぶん不安に思ってらっしゃるみたいだから、私からも説明させてほしいの」
 三葉は善知鳥に、恵一からリチャードに宛てて送られたメールの中に書かれていたつぐみの証言を話して聞かせた。つぐみが何も知らなかったとすると、わけのわからない機械に我が子が繋がれていると聞かされ、パニックになるのも無理のないことだ。丁寧に説明すれば、理解してもらえるだろう。
「いえ、一人で行かせてください」
「どうして? 私が一緒に行った方が、いいと思うけど」
 首を横に振って拒否を示した善知鳥は、手の中にある封筒に目を落としたまま、ぽつりとつぶやく。
「母は、何かとんでもなく失礼なことを言うかもしれません。三葉さんに、嫌な思いをさせたくないです」
 三葉は、アンソニーと顔を見合わせた。善知鳥の家庭の事情を知っているアンソニーの瞳が、痛ましい、と言っている。
 善知鳥から、児童相談所の担当職員が何人も交代したという話を聞いている。誰が来ても、つぐみがずっと罵詈雑言を浴びせ続けるからだ、と。支援を必要としている人間ほど、他人を信用することができずに支援の手を拒んでしまうという話を聞いたことがある。つぐみも、誰も信じずに生きているのだろう。だが別の見方をすれば、彼女は自分だけで自分の家族を守ろうとしている。そう考えることもできるのではないか。
「善知鳥くん、お母様が何か私にひどいことを言ったとしても、それはあなたを心配する気持ちがそうさせているのよ。そのことがわかっていたら、私は何を言われても耐えられるわ」
 三葉の言葉に、善知鳥はまた首を横に振る。激しく何度も首を振る様子は、普段の彼からは考えられないほど幼い仕草だった。まるで、幼児がイヤイヤをしているように見える。
「母は……あの人は、俺の心配なんてしません。子どもの身の安全より、金をもらえるかもらえないかの方が大事なんです。今度のことだって、わざとそういう理由で騒ぎ立てて、三葉さんたちを脅迫しようとしているだけですよ。そんなことはさせませんから」
 吐き捨てるようにそう言った善知鳥の目が、憎悪に燃えている。今まで、親の話を口にするとき、善知鳥の目には諦念の感が浮かんでいた。人智の及ばない災害の話をするのと同じ心境だったのだろう。だが、今、彼ははっきりと戦う姿勢を示している。
 どうしたものかと戸惑う三葉の隣に、アンソニーが立った。
「ウトウ。君は、今まで一度も、お母さんは子どものことを考えてこなかったって思ってるね」
「……説得も説教も、勘弁してください」
 善知鳥はアンソニーの視線から逃れるように、一歩後ろへ下がった。マシンに背中をくっつけて、寄りかかる。まるで、それが自らの唯一の味方であるかのように。
「母が俺のことをどう思ってるか、俺が一番よくわかってます。口ではなんとでも言えるでしょう? 心配だとか、本当は子どもを可愛く思っているとか。でも、散々怒鳴られたり叩かれたりした後で、その言葉を信じられますか?」
「暴力は、愛情表現じゃない。ボクもよくわかってるよ。でも、だからといって、子どもを心配する親の気持ちまで、否定することはないだろう?」
「お前なんていなくなればいいと、何度も言われました。心配する気持ちがあるなら、もっと違う言い方をするはずです。あの人には、そんな感情は欠片もありませんよ。期待するだけ無駄です」
 アンソニーは善知鳥の隣に立ち、自らもマシンに背を預けた姿勢を取る。そして、身体を少しだけ傾け、善知鳥の耳の近くに顔を寄せた。
「裏切られるのが嫌だから、もう相手に期待しない。そういうことだね?」
 善知鳥は俯いたまま、こくりと頷く。
「ウトウ、ちょっとボクの思い出話を聞いてもらえるかい?」
 話の風向きが変わったことを不思議に思い、三葉と善知鳥は同時にアンソニーの方を向いた。
「ボクがキミぐらいの歳の頃、ホームレスの支援ボランティアをやってた。といっても、何かスゴイことをやったわけじゃない。大学生の兄がやっていた活動にくっついていって、水を配ったり、ちょっとした声掛けをしてただけだ」
 何十年も前から世界共通の問題として認識されている人々の格差は、カナダでも久しく社会問題となっていた。家族と別れ、仕事を失い、帰る家さえも失くした人々が、老若男女問わず路上での生活を余儀なくされている。財政難が続く自治体は、見て見ぬふりを決め込んで動かない。アンソニーの兄は、いくつかの大学に声をかけ、ボランティアサークル仲間を立ち上げた。彼らの大半は社会問題を研究する大学生で、研究資料を集める目的もあったらしい。
「ボクが一緒に活動してたのは、1年ぐらいの短い間だった。でも、その短い間に、何度も兄たちボランティアのメンバーが、ホームレスに裏切られている場面に遭遇したよ」
 仕事を紹介しても、約束の時間に面接に来ない。
 寝泊りできる福祉施設に入居させても、1か月もすればまたもとの路上に戻ってしまう。
 役所の人間との面談にこぎつけても、まともに自分のことを喋らないので給付金も受け取れない。
「どうして、彼らはそんなことをするんだろう? ボクには、彼らが助けるに値しない人間に思えた。人の好意を無にして、平気な顔をしているんだ。こんな人間だから、仕事も家族も失って社会から見捨てられるんだろう。本気でそう思ってたんだ」
 血気盛んだったアンソニー少年は、ある日、たまらなくなって自分の考えを兄にぶつけた。
「どうして兄さんは、彼らのためにそんなに頑張れるんだ? 約束を破り、忠告を聞かず、助けの手を振り払う人間なのに? って聞いたよ。兄は、何て答えたと思う?」
 突然の問いかけに、善知鳥は少し考える素振りを見せたあと、首を振った。
「兄はボクにこう言ったんだ。『約束したことを守ったり、新しい環境に慣れたりするためには、意志の力が必要になる。彼らは、約束をすることや新しい環境に身を置くことだけで、その力を使い果たしてしまうんだ。俺やお前が持っている意志の力を金塊とすると、彼らの意志の力は、いわば砂金だ。アンソニー、よく覚えておけ。金塊と砂金は、大きさが違うだけで同じゴールドだ。お前は、小さ過ぎて目に見えないからという理由だけで、砂金はゴールドじゃなく紛い物だと言うのか?』ってね」
 アンソニーは数秒口を閉ざし、善知鳥に自分の言葉が与えた影響を観察している。善知鳥は、真っ直ぐにアンソニーの方を見ていた。もう彼の目は、いつもの静かな色に戻っている。
「ウトウ、キミのお母さんも、今は砂金しか持っていないのかもしれない。どう思う?」
 善知鳥は涙で潤んだ目を瞬き、流れ出た一筋の雫を手の甲で拭った。
「わかりません。俺には、まだ」
「うん。そうだよ。わからないんだ」
 長く力強い腕を伸ばし、アンソニーはぐっと善知鳥の細い肩を抱いた。
「キミは、他の人より大きな金塊を持ってる。だから、まだわからないままでいてほしいんだ。お母さんが、キミのことを愛しているのか、いないのか。子どものことを想っているのは、本当か嘘か」
 誰かを憎み、自分の人生からその人間を抹消してしまうのは、ある意味容易なことだ。捨ててしまったゴミのことを誰もが忘れるように、自分の頭からその人物のことを消してしまえばいい。だが、いつまでもその人のことを考え続けるのは、容易なことではない。
 アンソニーは、敢えて茨の道を歩けと善知鳥を説得しているのだ。
「……いつか、わかりますか?」
 善知鳥の頬から涙が流れ落ち、彼の手の中の封筒に、一つ二つと染みをつくる。
「ボクには、答えられない。もしかしたら、死ぬまでわからないかもしれない」
「…………」
 突き放したような言葉だったが、アンソニーの精一杯の誠意が感じられる。善知鳥も、きっと同じことを思ったのだろう。彼は、答えを知りたがる人間ではない。自分で答えを出せる人間だ。たとえそれが、人生を賭けた難問であっても。
「ありがとうございました、アンソニー。母と、ちゃんと向き合ってみます」
 微笑む余裕のできた善知鳥を、アンソニーはそっと引き寄せ、抱きしめた。
「つらかったり、悲しかったりするときは、ちゃんとボクたちを頼ってくれ。キミが子どもだから、こんなことを言うんじゃない。キミが、ボクたちの大事な人だからだよ」
 善知鳥はアンソニーの肩に顔を押しつけ、何度も小さく頷いた。

第9話『おやこのかたち』



 母に会いに行くのなら、妹も一緒に連れて行きたい。
 その申し出を、三葉は二つ返事で承諾してくれた。
「タクシーを呼ぶから、妹さんにはマンションの入り口で待つように伝えてちょうだい」
 そう言われた善知鳥は、すぐにかもめに連絡を取った。
「かもめ? 今日の授業、抜けられそうか?」
〈今日はオンラインだから、大丈夫だけど……何かあったの?〉
 かもめは、引っ越した後も在籍する中学校を変えなかった。小学校時代からの友達も、慕っている教諭もいるため、彼女自身が変えたくないと言ったのだ。現在は、週に2回教育委員会から派遣されてくる送迎支援タクシーで学校へ行き、その他の日はオンラインで授業を受けている。オンラインの日は、授業時間に生徒の都合が合わなければ、その科目の次の授業日までにアーカイブ視聴をすればいい。実家に居た時より登校日は減ったが、都の世話や家事の負担が減った分、勉強に充てられる時間が大幅に増えたと、かもめ本人は嬉しそうだった。
「三葉さんに、サインの件がバレて、叱られた。今から、母さんのところに行って事情を話す」
〈私も行く。連れてって。三葉さんにも謝りたい〉
「俺が書かせたんだから、かもめは何も悪くないよ」
〈私だって、何も知らずに書いたんじゃないよ。たとえ三葉さんが気にしなくても、私がちゃんと謝りたいの〉
「わかった。タクシーで迎えに行くから、エントランスに下りて待ってろ」
 10分ほど後、善知鳥と三葉はタクシーに乗って、かもめの待つマンションへと向かった。かもめはタクシーに乗り込むなり、三葉に平身低頭して謝り倒し、彼女を苦笑させる。
「いいのよ、かもめさん。ちゃんと確認をしなかった私も悪かったの。お互い悪かったということで、収めましょう」
 三葉にそう言われ、ようやくかもめは安堵の笑みを見せた。そして気が抜けてしまったのか、窓の外を流れる風景が段々と懐かしいものに変わっていく様子を、無言で眺めている。三葉とかもめに挟まれるようにして座る善知鳥も、妹と同じ気持ちを共有していた。
 此処には、二度と戻らないと誓ったのに。
 善知鳥は、実家が近づくにつれて、胃の辺りに重たいものを感じ始めた。不快感なのか、不安なのかはわからない。その何かを振り払うようにして、彼は運転席との間にある分厚い透明なアクリル板に顔を寄せる。
「すみません、その先にあるファミレスで降ろしてください」
 運転手の安全保護のため、今やほとんどのタクシーにアクリル板が設置されていた。アクリル板の一か所に細かい穴が水玉模様のように開けられており、運転手とのやりとりはその穴を通して行われる。客が声を出さなくていいように、タッチパネル式の端末を導入している会社もあるらしい。
「ご利用ありがとうございました。お気をつけてお降りください」
 運転手の女性は、料金を支払って降車する善知鳥たちを振り返り、元気の出る笑顔を見せてくれた。その笑顔に勇気づけられ、善知鳥は決心を固める。
「かもめ、三葉さんと中に入って待っててくれ」
 善知鳥はかもめに、入店用のカードを渡す。これはポイントカードと電子マネーが一緒になったもので、入店した客が自身に支払い能力があることを示すものだった。最近では、これがなければ飲食店では席に通してもらえない。
 以前、善知鳥は電子マネーの残高不足で、何度もここのファミレスに入店を拒否された。歳のあまり違わない店員に、憐みとも蔑みともとれる視線を向けられたことを、今でもはっきり覚えている。
「母さんを連れてくる。家じゃ、話にならないから」
 家に行けば、つぐみは酒を飲みながら話をすると言い出すだろう。それに、善知鳥とかもめにとって、あの家は嫌な記憶ばかりが詰まった檻だ。いずれにせよ、まともな話し合いなどできそうにない。
「善知鳥くん、私は何時間でも待つから、気長にね」
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。ちゃんと連れてきますから」
 三葉たちに背を向け、善知鳥は何百回と歩いた自宅への道を歩き始めた。ファミレス沿いの四車線道路から、一つ角を曲がって狭い道が入り組む住宅街へ入っていく。遠くから、小学校の昼休みを報せるチャイムが聞こえてきた。
 今日の給食は何だろう? 小学校時代は、一日の食事が給食だけという日も週に4日はあった。夜にお腹が空くからと、かもめと二人で申し合わせて給食のコッペパンを半分ずつ持って帰って食べたことも、一度や二度ではない。そのことを、つぐみがどう思っていたのかは、今もって謎だ。とりあえず何かを食べているから、それでいいとでも思っていたのだろうか。
 自分たちは、運良く生き延びた。この辺りは貧困家庭が多く居る地域で、善知鳥の同級生が二人、かもめの同級生も三人、小学生のときに亡くなっている。理由は虐待であったり、自死であったりと様々だが、いずれもどうにかできたような気がしてならない。
 小学生だった善知鳥は早々に、大人はこの問題に関心など無いのだと悟った。亡くなった子どもの存在は速やかに忘れ去られ、その子どもたちと同じ困難を抱えて生きている者がいるかもしれないなどとは、夢にも考えない。生き抜くために必要なのは、大人ではない。自分で蓄えた知恵と、困難に耐える力なのだ。そう考えて、彼は知恵をつけるべく読書と実学に励んだ。家庭やアルバイト先で起こる災害にも似た暴力や暴言にも、懸命に耐えた。
 実家のあるアパートのすぐそばに、ブランコと滑り台しかない小さな児童公園がある。高校を辞めてから、居酒屋のアルバイトを始めるまでの短い間、善知鳥は毎日都を連れてここへ来ていた。身体全部を使ってブランコを力強く漕ぐ都の姿を見て、彼の将来を守らなければと思ったのを覚えている。しかし、山桜桃に言われたように、本来なら、そこまで善知鳥が背負う必要は無いのかもしれない。
 アパートの軋む鉄階段を、善知鳥は一歩一歩確かめるように上がっていく。聞き慣れたその音は、懐かしくも忌まわしかった。
「母さん。……ただいま」
 部屋の鍵を開けるカチャンという軽い音も、記憶のままだ。だが、室内の様子は、善知鳥の記憶とまったく違うものだった。床に散乱した下着や衣服、台所の流しに積み上げられた酒類の空き缶とつまみの空袋。床には複数の箇所に水が染み込んだような跡があり、異臭を放っている。テーブルの上には食べ残しの食事が置かれたままになっていて、蠅が周囲をブンブン飛んでいた。エアコンはほとんど効いておらず、ひどく蒸し暑い。
 荒れ果てた光景に茫然としながらも、善知鳥はつぐみの姿を探した。ここまで荒れているのなら、彼女は数日家に帰っていないのかもしれない。だが、予想に反して、つぐみは自分の部屋で倒れ込むような姿勢で眠っていた。死んでいるのかと思って一瞬ドキリとしたが、よく見ると、規則正しく腹の辺りが膨らんだりしぼんだりしている。
 まだ、母は生きている。その事実に、善知鳥は安堵と失望の入り混じった気持ちを抱いた。
「母さん、起きて。起きてよ。話があるんだ」
 骨ばった細いつぐみの肩を両手で揺さぶり、善知鳥は呼びかける。つぐみの部屋は、台所兼居間と同じくらいに荒れていて、特にアルコールの匂いがきつい。
「母さん!」
 大声で呼びかけると、ようやくつぐみが反応した。苦しそうに顔を歪め、億劫そうに瞼を開ける。母親と目が合った瞬間、反射的に善知鳥は罵声と張り手を覚悟した。だが、つぐみは驚いたように目を見開き、何度か瞬きを繰り返すばかりで、口も手も動かさない。
「……ただいま」
 他に言うべき言葉も見当たらず、とりあえず善知鳥はそう言った。
「善知鳥……あんた、ねえ、ちょっと! 大丈夫なの!? ねえ!」
 飛び起きてすがりついてくるつぐみを避けきれず、善知鳥は両肩を掴まれ、激しく揺さぶられた。つぐみの長く伸ばした爪が腕に食い込み、アルコール臭のきつい息が顔にかかる。
「大丈夫。俺は大丈夫だから、ちょっと落ち着いてよ」
 努めてゆっくりと、子どもに言い聞かせるようにして善知鳥は母親に答えた。つぐみは、荒い息のまま、ピタリと動きを止める。射貫くような視線で、善知鳥を捕えたまま。
「あんたが、変な機械に繋がれてるって聞いたの」
「誰に?」
「店に来た客よ。どうしてかわからないけど、あたしのことを知ってた。善知鳥くんのお母さんですねって。あんたの同級生の親かと思って、そうよって答えたの。そしたら、あんたが、機械に繋がれて、大変なことになってますよって……」
 その時の衝撃が蘇ったらしく、つぐみは唇を震わせて涙を流しはじめた。より一層強く善知鳥の腕に爪を食い込ませ、善知鳥の胸に額を押し当ててくる。善知鳥の背中を、汗が伝った。
 つぐみの言動は、紛れもなく子どもを心配する母親のものだった。アンソニーに言われた言葉が、善知鳥の脳裏をよぎる。
 お母さんが、キミのことを愛しているのか、いないのか。
 子どものことを想っているのは、本当か嘘か。
「あんたがどうしてるのか、全然わからなくて……。あたしには、探すこともできなくて……」
 しゃがれた声で泣く母親を、善知鳥は不思議と冷静な心で眺めていた。
 母は自分のことを、本当は愛していたのだ。
 このように結論付けることが、どうしてもできない。
 本当に愛しているというのなら、なぜ自分とかもめを生活費と引き換えに追い出したのだろう。どうしてあの時、出て行けと言ったのは本心ではなかったと、引き留めに来なかったのだろう。
 つぐみが動揺しているのは、たまたま誰かから善知鳥の様子を悪意を込めたやり方で吹き込まれたからだ。彼女が、自分から息子を心配して行方を捜した結果ではない。
「母さん。俺が働いてる会社の人が、改めて俺の仕事のことを母さんに説明したいって言ってくれたんだ。今、大通り沿いのファミレスで待ってもらってる。着替えて、化粧を直して、出かける準備をしてくれ」
 今自分がやるべきことに集中しようと思い、善知鳥は淡々とつぐみに告げた。
「ダメ! 行かせない! あんたは、ここに居るの」
 つぐみは顔を上げ、挑みかかるような目で善知鳥を見つめた。負けじと、善知鳥もつぐみを睨みつける。
「母さんが何と言っても、俺は戻らないから。俺も、かもめも」
「かもめ!」
 娘の存在を、たった今思い出したようだ。つぐみの目が再び悲哀の色に染まる。
「かもめは無事なの? ねえ! あの子も変な機械に繋がれてんの!?」
「だから、落ち着いてくれよ。かもめは俺の仕事とは関係ない。元気にしてるし、今日も一緒に連れてきた」
「かもめを連れてきて! もう外には出さない!」
 母の言葉を、かもめが聞いたら何と言うだろう。馬鹿馬鹿しいとでも言いそうだ。守る力もその気も無いくせに、勝手なことを言うな、と。
「お願い! 善知鳥! お願いだから!」
 つぐみは目を真っ赤に腫らし、涙を流して懇願する。善知鳥は、以前にも、こんな風につぐみに「お願い」を繰り返されたことがあった。今よりもっとずっと幼い頃、自分が都ぐらいの歳のときだ。
「母さん。あのとき、何で、俺に腹を殴れと言ったの?」
 善知鳥の質問を受け、つぐみは弾かれたように息子から身を離した。恐ろしいものから逃れるように、手足をばたつかせて後退る。
「何よ、急に……。何の話?」
「俺は覚えてるよ。4歳くらいのときだった。かもめは熱を出して寝てた。母さんも具合が悪そうだったから、俺はてっきり、かもめの風邪が移ったんだと思って、すごく心配した」
 だが、つぐみは風邪をひいていたのではなかった。妊娠していたのだ。
「具合が悪いのに、珍しく俺に遊ぼうって誘ってきたのも、変だった。それも、ママのお腹にパンチしてよって言われて、俺は二度びっくりしたよ」
 思いっきりパンチして、善知鳥。
 ママに、どれだけあんたが強い子なのか、教えてよ。
 手を広げて善知鳥を招くつぐみの顔が、善知鳥の脳裏に焼きついている。その後に知った事実のせいで、このことは一生忘れられない傷となった。いや、正確に言えば、一生逃れられない罪になった。
「あれは……あのときは、あたしも具合が悪くて、頭がおかしくなってたのよ」
「それが、自分の息子に堕胎の手伝いをさせた理由? 頭がおかしくなってたから?」
 小学校に入り、2年生のときに受けたいのちの授業の後で、善知鳥はあの時自分が殴った母のお腹に、赤ちゃんがいたのではないかと思い至った。もっと早く知っていれば、赤ちゃんを助けられたのではないかと、善知鳥は何日も思い悩んで夜通し泣いた。
 あの件があって以来、善知鳥はあらゆる物事を深く考えるよう努めてきた。自分の浅慮のせいで、人が一人死んだ。そのことを重く受け止め、もっと知識と判断力を鍛えなければと思うようになった。
「やめて!」
 つぐみは、素早く両手で顔を覆った。ふるふる、と細かく何度も何度も首を横に振る。手の隙間から、違う違う違う、と声が漏れてくる。
「何が違う? 堕ろすなら、黙って医者に行けばよかっただろ。何で俺に腹を殴らせた? 答えろよ」
 漏れてくるつぶやきが、ごめんなさいに変わった。今更謝られたところで、何になるというのか。善知鳥は、産まれなかったきょうだいに、羨望の念すら抱いた。お前は、この母の子どもとして生きていかずに済んで、本当によかった。
「あんたが、優しかったから……」
 顔を手で隠したまま、ぽつりとつぐみはつぶやいた。
「あたしと一緒に、背負ってくれると思ったの……。あんたなら、ゆるしてくれるんじゃないかって……」
 人を一人葬るというつらい決断を、一緒に担ってくれる人間が欲しかった。
 本来なら、それはお腹の子どもの父親が負うべきものだ。だが、男には逃げられてしまったのだろう。だからといって、まともな親なら、子どもにそんな責は負わせないものだ。
「ふざけんなよ!」
 善知鳥は手を伸ばし、冷たく湿ったつぐみの手首を掴む。彼女の顔から手を引きはがし、ぐっと自身の顔を寄せた。
「自分の都合で子どもを振り回すな! 俺に甘えてどうすんだよ? 俺には甘えさせてくれなかったくせに! 親になれないなら、何で産んだ? 俺もかもめも都も、あんたが親じゃなかったら、もっと良い人生だったよ!」
 顔面を蒼白にし、声もなく震えるつぐみを突き飛ばすようにして、善知鳥は母から身を離す。こめかみと背中に、冷たい汗が流れた。心臓が、うるさいほどに鳴っている。母に向かって声を荒げたのは、初めてだった。
「ゆるして……。善知鳥、お願い、ゆるして」
 罵声の内容にショックを受けたのか、それとも初めて息子から怒鳴られた衝撃のためか、つぐみはか細い声で泣く。
「……俺に悪いって気持ちがあるなら、せめて少しぐらい親らしいことをしてくれよ。アルバイトの契約書の保護者サインを書いてくれるだけでいいから。もう、会社の人の話を聞かなくてもいい。サインだけしてくれたら、もうあんたに用事は無い」
 憎しみも、怒りも、もう感じない。善知鳥の心に残ったのは、虚しさだけだ。
 脳のどこかの回路が、焼き切れてしまったような気分だった。
「かぞくが、ほしかったのに、」
 宙を見つめて目を見開いたまま、つぐみは静かに涙を流し続ける。
「なんにも、うまくいかない……」
 善知鳥は母親から離れたところで、片膝を抱いて座り込む。頭の片隅にいる冷静な自分が、かもめの泣き方に似ているな、とつぶやくのを聞きながら。
「なんにも! うまくいかない!」
 堰を切ったように、つぐみは大声で泣きはじめた。善知鳥は立てた膝の上に自分の額を当て、耳を塞ぐ。ぐっと耳に押しつけた掌越しに聞こえるつぐみの声は、なんだか波音に似ていた。
「…………」
 しばらく経ってから顔を上げると、つぐみは泣き止んでいた。それどころか、こちらに背を向け、鏡の前で涙の跡を隠すための入念な化粧をしている最中である。
「善知鳥」
 鏡越しに、母子の視線が合う。
「何?」
「本当に、危ないことじゃないのね?」
 そう尋ねるつぐみの声は、まるでまっとうな神経を持った普通の母親のようだった。
「大丈夫だよ。危険なことは何も無いし、皆いい人ばかりだし」
「そう。なら、いいわ」
 何事も無かったかのように振舞う母に、善知鳥も同じ態度で接する。つぐみは、意識しているのか無意識なのか、感情を爆発させた後はいつもこうだった。自分にとって都合の悪いことをきれいさっぱり忘れ去り、これからも彼女は生きていくのだろう。子どもが自分の手から離れた後でも。
「会社の人って、男? 女?」
「今日来てくれたのは、女の人。駅で求人広告見てた俺に、声をかけてきてくれたんだ」
「美人なの? あたしより若い?」
「顔の基準はよくわからないし、あの人の歳なんて考えたこともない」
 まったくこれだから男って、などと文句を言いながら、つぐみは服を選んでいる。善知鳥は立ち上がり、床に散乱したあらゆるものを慎重に避けながら、子ども部屋を覗き込んだ。
 敷かれたままの小さい布団、脱ぎ捨てられたままの都のパジャマ。どうやら、都が施設に行ってから、この部屋につぐみは入ってきてないらしい。
「同伴の予約が入ってて、四時には着替えて出ないといけないの。用事って、すぐ済む?」
 化粧をして身体のラインを強調する服を身に纏ったつぐみは、こんなに恐ろしく汚い部屋に住んでいるとは思えないほど、美しかった。
「母さんは、サインしてくれるだけでいいよ。すぐ済む」
 善知鳥は何年振りかもわからないほど久しぶりに、母と並んで歩いた。ここ数ヶ月で背が伸びてきた善知鳥は、もうとっくにピンヒールを履いた母の背すらも追い越している。耳のあたりで揺れるつぐみの髪に、白いものがちらほらと混じっているのが見えた。
「場所は?」
「大通り沿いのファミレス」
「あぁ、あそこね。店員の愛想が悪いわ。待ち合わせに便利だから使うけど」
 適当に相槌を打ちながら、善知鳥は携帯端末を操作して、かもめにメッセージを送る。
《三葉さんに、母は詳しい話が聞ける状態じゃないですって伝えてくれ。サインだけしてもらったら、帰ってもらう》
《了解。お兄ちゃん、無事?》
 無事ではないような気がするが、妹を安心させるため、善知鳥は無事だと答えた。暑さのためか緊張のためか、アスファルトに反射する太陽の強い光が目に痛い。急に一瞬だけ目の前が暗くなり、身体がふらついてしまう。足を踏ん張って耐え、目を閉じたまま、数秒その場に留まる。
 目を開けたとき、つぐみの姿が遠くに見えた。母は、息子が立ち止まったことを気にもせず、スタスタと歩いていく。
 善知鳥は自分の頭に浮かびそうになった言葉たちを、水に流すようにしてやり過ごし、ひとつ深呼吸をしてからつぐみの後を追った。足早に歩きながら、器用に携帯端末で、かもめに再びメッセージを送る。
《あと、三葉さんに、母に俺のバイト代の金額を教えないでって伝えて》
 かもめからの返信は、もう伝えてある、だった。
「かもめも、中にいるの?」
「中で待ってるよ」
 ファミレスに着いたとき、時刻は午後二時を回っていた。
「かもめ!」
 決して広くはない店内に、つぐみの声が響き渡った。数人の客が、何事だと振り返る。
「ちょっと、やめてよ! 恥ずかしいじゃない!」
 入り口から一番遠い席で、かもめが立ち上がるのが見えた。つぐみは、高いピンヒールにも関わらず、小走りで娘に駆け寄った。
「無事なのね? 顔をよく見せて!」
 つぐみはかもめの顔を両手で挟み、自分の方へ引き寄せようとする。かもめは嫌悪を露わにし、母親の手を激しく振り払った。
「やめてったら! もう!」
 三葉とかもめの座る四人掛けのボックス席のテーブルには、飲みかけの珈琲と、食べかけのチョコレートケーキが乗っている。善知鳥はかもめをなだめて座らせ、突っ立ったままのつぐみを三葉に紹介した。
「遅くなってすみません、三葉さん。母のつぐみです。母さん、こちら、職場の上司の三葉さん」
 三葉は姿勢良く立ち上がり、深々と頭を下げる。つぐみは、堅苦しいことは苦手だと言わんばかりに、顔を顰めていた。
「ご挨拶が遅れて、大変申し訳ございません。三葉早百合と申します。パンタシアというゲーム会社の社員です」
 三葉が慣れた仕草で差し出した名刺を、つぐみは奪うようにして取った。
「サインだけしてくれって言われたんだけど、サインだけでいいのね?」
「つぐみさんが、弊社の業務を誤解されているようですので、よろしければ業務内容を説明させていただきたく……」
「書くものをちょうだい。そんなちんたらした話に付き合ってられないのよ、こっちは」
 苛立たしげに早口でまくしたてるつぐみに、かもめが嚙みついた。
「三葉さんがわざわざ来てくれてるのに、そんな言い方無いでしょ?」
「かもめさん、いいのよ。お母様もお忙しいでしょうから」
 三葉が差し出した保護者同意書とペンをひったくり、つぐみは隣のボックス席の椅子に腰かける。挑みかかるようにして、同意書に書かれた内容を読もうとしていた。
「ねぇ、これ、給料の支払いはどうなってんの?」
「銀行口座に振り込まれる」
「居酒屋のバイトより、時給高いんでしょうね?」
「あそこよりは高いよ。出来高払いだから、入ったり入らなかったりするけど」
 善知鳥はつぐみのそばの通路に立ち、細かい質問に答えた。つぐみが口を開くたびに、かもめの眉間の皺が深くなっていく。善知鳥は目で妹をなだめながら、母親が書類にサインするまでの間、根気強く彼女に付き合った。
「で、いくらもらえてるの?」
 署名を終えた紙を手の下に敷いたまま、つぐみは善知鳥に向かって身を乗り出してくる。いよいよ、かもめの口が火を噴きそうだ。
「だいたい、月20万」
 顔色一つ変えずに、善知鳥は用意していた金額を口にした。三葉が、息を潜めて成り行きを見守っているのがわかる。下手に口出しをしてこないのが、本当にありがたかった。
「そう」
 つぐみは意外にも、あっさり保護者同意書を善知鳥に渡してくれた。用事は済んだとばかりに、さっと立ち上がり、スカートの裾を引っ張ってかたちを整える。
「じゃあ、生活費は今までと同じ金額でいいわ。あんたたちにも、生活があるだろうし」
 かもめが勢いよく立ち上がろうとするのを、善知鳥は両手で妹の肩を掴んで押し留める。そんな姿を見ても、つぐみは何も感じていないらしく、微笑みさえも浮かべてこう言った。
「かもめも元気そうでよかったわ。変な男には、十分気をつけるのよ。あんたはあたしに似て美人だから」
「あんたなんかに心配されなくても、あたしは大丈夫よ!」
「かもめ、相手にするな」
 善知鳥は腰の辺りにある妹の頭を、そっと抱き寄せた。かもめが、すがりつくように、善知鳥の腰に腕を回してくる。
「ありがとう、母さん。心配しなくても、ちゃんと金は振り込むから」
 つぐみの目を見ながら、きっぱりとした声で善知鳥は言葉を発した。この言葉に込められた真意を、つぐみが感じ取ったのかどうかはわからない。だが、つぐみは一瞬、寂しそうな、裏切られたような目をして、善知鳥たちを見る。だが、彼女は無言で立ち去った。場違いに間抜けな鈴の音を鳴らして、ファミレスを出て行く。
「……三葉さん、不愉快な思いをさせてしまって、本当にすみません」
 善知鳥は、かもめの隣に座りながら、三葉に深く頭を下げた。
「私のことはいいのよ。善知鳥くん、かもめさん、その、何て言ったらいいかわからないけど……」
 保護者同意書を受け取った三葉は、そこに書かれたつぐみの名前に目を落とす。
「あなたたちが、大変な暮らしをしてきたなかで、それでも自分や、お互いのことを大事にする気持ちを失わずにいて、よかったなって思う。ごめんなさい、上手く伝えられないけど……」
 三葉は顔を上げ、善知鳥とかもめの顔を交互に見る。
「ええと、何も知らない人間が言うことじゃないかもしれないけど、親子だからって、仲良くしないといけないってことはないわよね。ずっと、死ぬまで分かり合えなくても、それはもう、仕方のないことよ。人間には、相性もあるし、どうしようもない環境もあるんだから」
 必死で慰めようとしてくれる三葉の気持ちに、善知鳥は胸が熱くなった。つぐみにも、三葉にも、同じように感情を揺さぶられるけれど、両者の言葉はまったく違う影響を善知鳥に与える。何か一つでも条件が違えば、つぐみと善知鳥たちも、こんな関係になれたのかもしれない。だが、そうはならなかった。
「あたし、三葉さんみたいな大人になりたいです。なれますか?」
「私? 参考にしない方がいいわよ。でも、一つだけなら、アドバイスできるわ」
「俺も知りたいです」
 かもめだけではく善知鳥も話に乗ってきたためか、三葉は照れくさそうに笑った。
「本当に、たいしたことじゃないの。でも、本当は一番大事なことかもね」
 三葉は一度だけ窓の外に目を向け、抜けるような晴天を仰いだ。それから、善知鳥たちに向き直り、背筋を伸ばす。
「未完成な自分を、受け入れること。まだ足りない、まだ完成には程遠いと思えたら、それが努力をする原動力になるわ」
「それって、どういう努力をするんですか? 本を読んで勉強するとか?」
「そうね。それもひとつの手段ね。でも、あまりにも自分の力では及ばない問題にぶち当たったときは、誰かの手を借りるのも、努力のうちよ」
「……自分では何もしないのに?」
 批判めいた言い方に聞こえただろうか。不満が顔に出てしまった善知鳥に、三葉はいつもの明るい笑顔を向けてくれる。
「誰かに『助けて』と言うのも、立派な行動よ。そうじゃない? 少なくとも、その問題から逃げてはいないわ」
 善知鳥は、かもめと顔を見合わせ、それからゆっくりと頷いた。
「ありがとうございました、三葉さん。覚えておきます」
「ありがとうございました!」
 三葉は眩しそうに目を細め、目尻に溜まった小さな涙の粒を、さっと指先で拭った。そして、テーブルの端に立てかけられたメニューを手に取り、善知鳥に手渡す。
「何かおススメのメニューはある? 私が食べれるものでお願いね」

第10話『あたらしいなかまたち』



 9月11日の朝早く、三葉が珍しく泊のデスクを訪れた。
「泊さん、ちょっといいですか?」
 深刻な表情の彼女を見て、泊は昨日三葉から着信が入っていたことを思い出す。後で連絡しようと考えていたのに、すっかり忘れていた。
「申し訳ない、三葉さん。昨日はちょっとバタバタしていて……」
「新しいメンバーのことで、ですか?」
 三葉の口調は、突っかかるような言い方ではなかった。しかし、やはり小さな棘を含んでいる。ついに、彼女の耳に入ってしまったらしい。
「うん、いや、ええと、そうなんだけど、そうじゃないんだ」
 あたふたと混乱している泊を、三葉はわずかに細めた目で見つめてくる。
「櫻井常務から、新メンバーの加入申請が来ていると聞きました。私にはまっっったく与り知らぬことでしたが、泊さんには、当然、連絡が入っていましたよね?」
 要所要所で声の強弱を変えてくる三葉の前で、泊は頭を垂れた。これは、相当怒っている。だが、事情を話せばわかってくれるはずだ。
「三葉さん、ちゃんと説明させてほしいんだ。楠木くんも、一緒に」
「釈明じゃなく、説明でよろしいんですね?」
「もちろん。僕にはやましいところは何も無いよ。ただ、その、タイミングが難しかっただけで」
 泊の誠意が伝わったのか、三葉はふっと肩の力を抜いてくれた。
「わかりました。ちゃんと聞きますから、ちゃんと説明してくださいね」
 2人はエレベーターに乗り込み、9階のプレイルームへと上がっていく。
「楠木くんの調子はどうだい? スコアは、昨日少し調子が悪かったみたいだけど」
「昨日は、ちょっと家族のことで気持ちが乱れていたみたいです。でも、たぶん大丈夫ですよ。すぐに持ち直します。とにかく山桜桃くんに早く戻ってきてほしい、と言ってますね」
「こっちも、捜してはいるんだけど、正直言って親権者が隠してるんじゃお手上げだよ。僕たちは赤の他人だからね。携帯端末も取り上げられたのか、GPSの記録も追えないし」
 山桜桃の行方は不明だが、恵一が何も騒がないため、十中八九彼がどこかに軟禁もしくは監禁していると思われた。あまりに劣悪な環境に置かれているなら、警察に通報して介入できるのだが、状況がわからない以上、うかつに通報などできない。
「その件について、私、ちょっと試してみたいことがあるんです」
「と、いうのは?」
「私の友人で、DV被害者支援をしている人がいるんです。山桜桃くんのお母様から、仮に彼女が行方を知らなくても、ヒントくらいは得られるんじゃないかと思って」
 一時期意識不明だった夏美は、2日ほどで目を醒ましたらしい。命に別状は無く、順調に回復していると聞いている。恵一は自分では面会に行かず、必要なものは部下に命じて届けさせているようだった。
「なるほど……。良いと思う。でも、まだ面会はできないんじゃないかな?」
「もちろん、彼女の回復を待ってから。実は、友人には、もう相談しています。入院されている病院の医療ソーシャルワーカーと繋がりがあるので話をしてみる、と言われました。実際、お母様にも支援は必要です。自殺未遂をしなくてはならないほどに自分を追い詰めた人間と、また同じ家で暮らすなんて、危険すぎます」
 泊は、恵一から受けた数々の嫌がらせや暴言を思い出し、顔を歪める。自分は、仕事のときやちょっとの間を我慢すれば逃れられた。もちろん、耐え難い苦痛ではあったけれども、恵一との縁は切ろうと思えば切れる縁だ。
 だが、家の中にあのような暴君がいて、しかも自分の生殺与奪を握っているという状態にあった夏美の苦しみは、想像をはるかに超えるものだっただろう。山桜桃にしても同じだ。願わくば、彼らがこのまま恵一とは別の場所で生きていけるようになってほしい。
「その件は、三葉さんに任せるよ。僕にできることがあれば、何でも言ってほしい」
「ありがとうございます。何かあれば、すぐにおしらせします」
 プレイルームに足を踏み入れると、ちょうどマシンから出てきた善知鳥が出迎えてくれた。
「おはようございます。何かあったんですか?」
 朝一番に泊と三葉が連れだってやってきたことで、善知鳥は何かを察したらしい。
「実は、君と三葉さんに話しておかないといけないことがあるんだ。本当はもっと早く言うべきだったんだけど、準備が整ってないことを言い訳にして、僕がずるずる先延ばしにしてしまってた」
  泊はいつも持ち歩いているタブレットを、プレイルームのテーブルの上に置いた。テーブルを囲うように置かれた四脚の椅子のひとつに、山桜桃がいつも着ていたネオンイエローの上着が置いてある。
「新しいメンバーを、入れようと思う」
 正面に立つ善知鳥の表情を注意深く観察しながら、泊は告げた。善知鳥は、相変わらず読めない無表情のまま、次の言葉を待っている。だが、拒絶している感じではなかった。良い報せか、悪い報せなのか、見極めようとしている顔だ。
「8月の20日頃だったかな。うちの会社の櫻井常務から、6名ほどこちらへ出向させるようにと命令された」
 タブレットの画面に、出向社員六名の顔写真と名前が表示される。男性4名、女性2名。皆、20代前半と若く、顔写真はどれも笑顔だった。
「彼らを使って、コネクトウェルバのプロジェクトを中止に追い込むように、というのが本来の命令なんだ。でも、僕はもちろん、その命令に従うつもりはない。かといって、この6名の社員を、何もせず宙に浮かせておくわけにもいかなかった」
 そこで泊は、渕上とも相談して一計を案じた。恵一には、コネクトウェルバのプロトタイプマシンを使って社員たちを訓練していると報告する。しかし、実際に社員たちがやっていることは、焔の氷柱問題を始めとしたコネクトウェルバに適したブレインストーミングだ。泊や渕上が問題を提起し、社員たちは一日かけて各自の答えを出す。それを週に4回ほどやっていた。残りの一日は自習時間とし、新しいコネクトウェルバの攻略法を考えてもらっている。
「まだ、実際のマシンでスコアを出したことはないけど、たぶん2人か3人は、高い数値が出るんじゃないかと思う。楠木くんたちには遠く及ばないだろうけど、彼らも十分優秀だよ」
 熱心に語りかける泊にほだされたのか、善知鳥の表情が少し和らいだ。泊は画面を切り替え、今までに行った訓練の記録を表示させる。
「これが、実際の様子。ちょっと見てみて」
「はい」
 狭い小さな会議室で、6名の社員が円形に椅子を配置して座っている。机は壁際に寄せられ、円の中心には誰もいない。入社年数も学歴もバラバラな社員たちに、気後れすることなく自分の意見を言ってもらえる雰囲気をつくるため、泊はこの配置を提案した。
「どういう問題を出すんですか?」
「主に、倫理とか哲学とかの本から拝借したものを使うね。命とは何か、愛とは何か、信じるとは何か……。答えを考える彼らが若いからかな? 結構、自分の中には無い回答が出てきて、聞いてるだけでも面白いよ」
「人をどうやって殺して埋めるか、という問題は出してないですよね?」
「うん、まぁ、その、そういうのは、ほら、受け入れられる人と、受け入れられない人がいるからね」
 ドキリとさせられる質問をしてきた善知鳥に、困惑しながらも泊は真面目に返答した。そうですよね、と頷く善知鳥の表情は暗い。やはり、黙って事を進めていたことが気に障ったようだ。
「……なぁ、楠木くん。君が嫌だと言うなら、新メンバーの加入はどうにかして見送ってもらう……」
「いいえ、嫌だと言っても、新メンバーには加入してもらいます」
 泊の台詞を遮るように、三葉が言葉を発した。泊と善知鳥の間に顔を挟むかたちで、彼女は身を乗り出す。
「私も、最初この話を聞いたときは、絶対に入れないと思ったわ。山桜桃くんさえ帰ってくれば、うちのチームは十分本戦で戦えるもの。でも、拒絶した私に、ボスが言ったの。私が守ろうとしているのは、箱庭だって。それを崩すのが怖いのは、私の自己保身じゃないか? プレイヤーに……善知鳥くんや、山桜桃くんに、嫌われたくないだけなんじゃないかって。図星だったわ」
 善知鳥は、三葉の言葉を、時折頷きながら真剣に聞いている。
「たとえ、生きている環境や、考え方が違っていても、目的がちゃんと共有できていれば協力し合えるはずよ。あなたも、山桜桃くんも、自分の感情に飲まれて大局を見失ってしまう人間じゃないわ。私はそう信じることにしたの」
 三葉は一気に言いきって、ふぅっと息をつく。善知鳥は身体をわずかに動かし、三葉と向き合うかたちで立った。
「三葉さんや、泊さんが、その方がいいと判断されたのなら、俺は決定に従います。仕方がなく、というわけじゃなくて……。話を聞いてて、俺も新しいメンバーを入れた方がいいんじゃないか、と思ったからです」
 善知鳥は言葉を区切り、先ほどまで自分が入っていたマシンの方を見やった。
「でも、もし、先輩が帰ってきて、新しいメンバーがいるのなら自分は抜けると言ったら、俺も抜けます」
 まるで、マシンのそばに立つ山桜桃に話しかけているかのような口ぶりだった。泊は、まさかと思いつつ、マシンの方を見る。やはり、誰もいない。静かに規則正しい機械音を発している、白い大きな箱があるだけだ。
「俺は金目当てでこの仕事をやってますし、別に先輩に義理立てする必要もないでしょうけど、あの人がいないのは……何かが違うんです。上手く説明できませんけど」
「櫻井くんは、君にとって戦友だからだよ。自分の価値観や、環境が大きく変わっていくときに、そばにいて支えてくれた相手だからね。大事に思うのは当然だよ」
 大人になれば、同じ職場の者同士でも一線を引くものだ。この場に残るも去るも、それぞれの決断であり、それぞれの人生なのだから。
 善知鳥の決断は若さゆえの勢いからくるものだ。だが、泊には、考え直せと彼を諭すことはできない。たとえ後々後悔することがあっても、今彼は、自分の意志で決めたのだ。泊にできることは、行く末を見守り、フォローしてやることだけだった。
「山桜桃くんが何て言うのか、結果待ちね」
 三葉も、善知鳥の主張を受け入れたようだ。
「あ、ちょっと失礼」
 沈黙が下りたタイミングで、三葉の携帯端末が鳴った。
「……はい、三葉です。温田くん? あの話、どうなってる?」
 三葉は眉間に皺を寄せ、携帯端末に向かって硬い声を投げかける。
「今日? いいわよ。今からでも。すぐそっちに行くわ。じゃ、あとで」
 通話を終えた三葉は泊に向かって、さっきの件です、と言う。
「山桜桃くんのお母様に、承諾が取れたみたいです。会えるかどうかはわかりませんが、私も病院に行ってきます」
「わかった。気をつけてね」
 声をかけた泊に頷き、三葉は左手を伸ばして善知鳥の肩に触れる。
「善知鳥くん、山桜桃くんの行方がわかるかもしれないの。こっちは私に任せて、あなたはあなたにしかできないことに集中してちょうだい」
「わかりました。お願いします」
 三葉が乗ったエレベーターの扉が閉まるのを見届け、泊は新規メンバーの説明を続けた。
「一度に6名全員を入れようとは思ってない。本戦まではまだ3週間あるから、1週間に2名ずつでどうかな?」
 プロトタイプマシンで出したスコアの高い順に、2名ずつ加えていく。それが、泊の立てた計画だった。スコアの低い者が高いスコアを出すまでには、長期間の訓練が必要だ。だが、そこそこ高いスコアを出す者が安定して高いスコアが出せるようになるのは、もっと短い期間で済む。
「楠木くんの都合もあるだろうし、来週の月曜日から入ってもらうことにするよ」
「今日からじゃ駄目ですか? 少しでもマシンに慣れる時間を長く取った方がいいと思いますよ」
 善知鳥からの嬉しい提案を、泊は満面の笑みで受け取る。
「いいのかい? なら、午後から来てもらうようにするよ。午前中は、楠木くんの練習にあててほしいからね」
 泊は、手配をしてくると善知鳥に告げ、エレベーターに乗り込む。私用の携帯端末を取り出し、やさしい電力株式会社の本社にいる渕上に連絡を取った。
〈おう、お疲れさん。どうした?〉
「渕上さん、プレイヤーが新規メンバーの加入を承諾してくれました。マシンも、今日の午後から使ってもいいそうです」
〈そうか! よかった。これで、あいつらも報われるな〉
「まずは、二名から始めようと思っています。スコアの高い田村(たむら)さんと小椋(おぐら)さんを」
〈ああ、あの二人は性格も大人しいから、うってつけだろう。俺が連れて行く。ついでに、プレイルームとやらも見せてくれよ〉
「そうですね。プロジェクトが委員会方式に変わりましたし、渕上専務には視察の名目でお越しいただければと思います」
 わざとらしく堅苦しい言い方をした泊と、それを聞いた渕上は共犯者の笑いを交わす。
 昨日の午後に開催された定例役員会議で、コネクトウェルバのプロジェクトは恵一個人の手を離れた。今は、専務である渕上と常務である恵一、それに代表取締役の岩崎が連名で最高責任者となっている。渕上の話では、コネクトウェルバのことを聞いた岩崎はその理念に深く感動し、全面的に協力する旨を約束してくれたそうだ。これまでは、恵一が敢えて報告を上げていなかったので、岩崎はまったくこのプロジェクトについて知らなかったらしい。
〈2時間以内には、そっちに行く。でかい車が停められる駐車場、近くにあるか?〉
 渕上は、指導している少年野球の送迎のため、9人乗りの大型車に乗っていた。営業でもない自分が社用車を使うのはおかしいと言い張って、社内の用事のときであっても彼は自分の車を自ら運転する。
「ありますよ。場所はトークアプリに送っておきます」
 泊は通話を終了させ、近くのコインパーキングの位置を渕上に送信した。市内のバス会社が、路線バスの待機所をコインパーキングとして開放しているのだ。最終バスが戻る午後11時までに退出すればいいので、観光客から買い物客まで幅広い客層が利用している。
 泊の携帯端末が、立て続けに通知音を鳴らしはじめた。トークアプリに、大量のメッセージが送られてきている。恵一からだった。
『通話拒否しているな? 解除しろ。』
『渕上がしゃしゃり出てきた。お前の仕業か?』
『恩知らずめ。クビにしてやる。』
『渕上のことは任せる。どうにかしてくれ』
『先生に叱られる。何とかしてくれ。頼む』
『おい、ちゃんと読め。見ろ。』
 罵詈雑言と懇願を繰り返している様は、滑稽だった。メッセージが20を超えたところで、通知音はピタリと止んだ。諦めたはずはないので、効果的な嫌がらせでも思いついたのかもしれない。
 泊はため息をつき、トークアプリを開いて、スクリーンショットを撮った。それを、渕上へと送る。渕上からは、笑止千万、とだけ返ってきた。
 以前の恵一なら、もっと搦手で攻めてきたはずだ。こんなにも切羽詰まった様子を見せるのは初めてのことである。さすがの恵一も、妻の自殺未遂を受けて動揺しているのだろうか。それとも、味方だと錯覚していた泊が渕上についたことが衝撃だったのだろうか。いずれにしても、同情する気にはなれない。
 泊はエレベーターに乗り込み、3階の人事課へ向かった。
「プレイルームに見学者が来るので、ゲスト用パスを3名分発行していただけますか?」
 人事課の若い男性職員に話しかけると、彼はちょっと戸惑った様子を見せた。その様子につられて顔を曇らせた泊に、男性は「少々、お待ちください」と頭を下げる。彼は自分のデスクらしき場所へ行き、一枚の紙を手にして戻ってきた。
「お待たせしました。泊さん、実は櫻井常務から、このような指示が送られてきていまして……」
 言葉を濁しながら差し出された紙に書かれていたのは、自分の一存で泊をコネクトウェルバのプロジェクトから外す、という内容だった。
「これは、今日送られてきたんですか?」
「2分前に来たんです」
 返事をしなかった泊に業を煮やして、このような暴挙に出たということか。 泊は職員を安心させるため、努めて柔らかい声で言った。
「昨日付でプロジェクトが委員会方式になったので、櫻井常務の指示だけで異動させることはできないはずですよ。あとで渕上専務がいらっしゃるので、私の処遇についても聞いてみます」
 自分で判断しなくてよいと言われ、人事課の若い職員は安堵の表情を見せた。
「では、決まりましたらご連絡ください。こちら、ゲストパスです」
「ありがとうございました」
 発行されたゲストパスと、恵一の指示が書かれた紙きれを持って、泊は六階にある自分のデスクに戻った。私用のタブレットを起動し、今から来る新メンバー2人の経歴と成績を確認する。
 1人目は、田村洋平(たむらようへい)。28歳の男性で、観察眼が鋭く、言葉選びが上手い。新メンバーの中では最年長のため、自然とリーダー的な役割を担ってくれている。
 彼は、4年前にやさしい電力株式会社に新卒採用された。最初の配属先は、資材調達部だった。そこでの新人の主な仕事は、先輩や上司の持ってきた素材をまとめながら、上層部や顧客に向けてのプレゼン用資料を作成することである。仕事で早々に結果を出したいと焦っていた入社1年目の田村は、プレゼン用資料に渡された素材の一部を使わず、自らネットで調べた内容をまとめて資料作成をしていたらしい。時には感謝されることもあったようで、田村は自分のやり方が正解なのだと思い込んだ。彼の指導係は早々に匙を投げ、田村は地雷原を単独で歩くような仕事のやり方に固執したまま入社から数ヶ月後経った頃、ついにしっぺ返しをくらった。彼の新人特有の浅い知識とネットからの拾い物の文章で構成されたプレゼン用資料を見た大口顧客の担当者から、資材調達部は取引の停止を言い渡された。
「でも、君からプレゼン用資料を受け取った上司も、内容を確認しないまま相手へ渡してしまったんだろう? それは、上司の責任が大きいと思うけどね」
 その話を聞いたときの泊の言葉に、田村は苦笑いで応えた。
「あの上司は『悪いことは部下のせい、良いことは自分の手柄』と公言してはばからない人でしたから」
 田村は会社員として厳しすぎる洗礼を受け、社内における出世レースから脱落した。その後は数ヶ月ごとにたくさんの部署をたらい回しにされ、最終的に行きついた先が機密処理部だ。日々、シュレッダーの音を聞くだけで一日が終わることに、焦りと絶望、そして諦念が入り混じった感情を抱いていたという。
「給料が出るから、定年までここにいてもいいか、なんて考えが頭に浮かんだこともあります。実績が何も無いので、下手に辞めることもできず、苦しかったです。コネクトウェルバのプロジェクトに参加できたことで、自分の苦しんだ日々が報われると思います」
 田村は資材調達部での経験を活かし、コネクトウェルバについての公式資料を読み込んでまとめたものを、メンバーたちに共有することに専念している。ただ、過去のトラウマがあるからか、あまり自分の意見を声高に主張することはない。
 2人目は、小椋朝美(おぐらあさみ)。今年の4月に入社してきたばかりの22歳の女性だ。機密処理部に配属されたのが8月の頭なので、わずか4ヶ月でシュレッダー部屋送りになっている。正社員として採用された大卒の人間が、このような扱いを受けるのは異例のことだ。
 彼女が最初に配属されたのは、カスタマーサポート室の中にあるコールセンターだった。幹部候補生として手厚いサポートを受けながら、最初の1ヶ月は順調に過ぎたようだ。雲行きが怪しくなったのは、5月のゴールデンウイークの頃だった。学生時代の友人と2泊3日の旅行を計画していた小椋は、コールセンターに配属された日に休暇申請の届け出をした。やさしい電力株式会社が、新入社員であっても年間10日の有給休暇が消化できる制度を導入していたからだ。小椋はゴールデンウイークの真っ只中である5月3日から5日までを休暇に充て、6日に職場に戻る。始業時間10分前に出社した彼女が見たものは、空になったかつての自分のデスクだった。彼女が使っていた会社支給のでストップパソコンは、上司である女性が自分のものが壊れたからと引き取っていったらしい。
 気が弱く、おっとりとした性格の彼女は、上司に対して強く出ることができず、おかしいと思いながらも頭を下げた。
 新人の分際で、忙しい時期に休暇を取ってしまい、申し訳ありません。
 すると上司は、自分はそんなことで腹を立てていない、とうそぶいた。あなたの机も、善意で綺麗にしてあげたのに、と。
 小椋は翌日から原因不明の体調不良のため出社できなくなり、7月には自ら異動届を提出した。希望した移動先は地方支社もしくは総務部だったのだが、提出から1ヶ月後に告げられた配属先は機密処理部だった。
「中学の時にも、似たような嫌がらせを受けて、一時期自宅からのオンライン登校に切り替えていました。まさか、大手の企業に就職してから、こんな扱いを受けるとは思わず、ショックでした」
 彼女は今でも、2週に一度はメンタルクリニックに通院している。コネクトウェルバのプロジェクトに参加することも、最初は固辞していた。自分なんかでは皆の足を引っ張るだけで、期待されるような成果を上げることができない、と。
 だが、泊は面談の時から、彼女はコネクトウェルバに向いていると考えていた。小椋は読書家で、想像力に富み、何より心根が優しい。他のメンバーのために部屋の空調に気をつかったり、休憩時間の延長を提案するなど、細かいところに目が行き届いている。それに、善知鳥と同じ年で仲の良い弟がいるらしいので、現プレイヤーの2人ともうまくやっていけるだろう。
 新メンバーのプロフィールを確認し終え、過去の練習記録を読み返していた泊の携帯端末が鳴った。
〈エントランスにいる。一度鳴らしたんだが、もしかして、取り込み中か?〉
 渕上からだった。慌てて時刻を確認すると、渕上にコインパーキングの場所を送ってから、もうとっくに2時間を過ぎている。
「すみません、資料を読んでいて気がつきませんでした! すぐに下ります」
 エレベーターの中で携帯端末を確認すると、15分ほど前に渕上から着信があった。泊は、自分の額を左の掌でぴしゃりと叩く。
「皆さん、お待たせしてすみません!」
 エントランスに置かれた椅子に、渕上たちが腰かけていた。談笑している彼らに駆け寄ろうとするが、足がもつれそうになってうまく走れない。
「泊さん、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ」
「綺麗な建物ですね」
 田村と小椋が素早く立ち上がり、息を乱す泊に歩み寄ってくる。渕上が、やれやれといった顔をして、のんびりした歩調で若者に続く。
「まだまだ若いくせに、だらしがないぞ、勇作。やっぱり、草野球やらんか?」
「いえ、お断り、します」
 息を整えつつ、泊は3人にゲストパスを手渡した。そして、彼らとともに乗ってきたエレベーターに再び乗り込み、9階のプレイルームに向かう。
「お疲れ様です。泊さん」
 善知鳥は、エレベーターが上がってくるのに気づいていたらしく、扉の前で待っていた。
「楠木くん、お言葉に甘えてマシンを使わせてもらうよ。この2人が、新メンバーの田村さんと、小椋さんだ」
 プレイルームの景観に圧倒されていたらしい田村たちは、自分の名前が呼ばれたことで我に返った。2人とも慌てて進み出て、善知鳥と挨拶を交わす。
「田村です。よろしくお願いします」
「小椋と申します。よろしくお願いします」
「初めまして、楠木です。俺は、今日はもうマシンを使わないので、自由に使ってください。わからないことがあれば、声をかけてください」
 落ち着いた善知鳥の様子に気圧されたのか、田村と小椋はわかりましたと頭を下げる。顔合わせは上手くいった。
「泊さん、そちらの方は……」
 早速マシンの中を探索している2人から視線を外し、善知鳥は泊と渕上に歩み寄ってくる。
「こちらは、やさしい電力株式会社の専務取締役の渕上さん。コネクトウェルバのプロジェクトの責任者の一人だよ」
「渕上です。楠木くんは、若いのに落ち着いてるなぁ」
 明るく話しかける渕上に、善知鳥は躊躇いがちに頭を下げた。
「楠木です。初めまして」
 やさしい電力株式会社の役員と聞いて、口には出さないが、善知鳥が警戒しているのがわかる。泊は彼を安心させるため、少し声を落として微笑む。
「渕上さんには、櫻井くんを捜すのにも協力してもらってる。大丈夫、この人は信用できる人だよ」
 泊の言葉を聞いた善知鳥の目に、光が戻る。渕上に向き直り、深々と頭を下げた。
「先輩の件、協力してくださって、ありがとうございます」
「いやいや、俺は、たいしたことはできてない。頭を上げてくれ」
 腕白小僧の遊び相手には慣れている渕上も、善知鳥のようなタイプとなると勝手が違うようだ。持て余している様子が、泊の目には微笑ましく映る。しばらく眺めていてもよかったのだが、ここは助け舟を出すことにしよう。
「楠木くん、田村さんたちに、マシンの使い方を教えてあげてくれるかな? 彼ら、ヘッドセットしか使ったことがないんだ」
「わかりました」
 善知鳥が背を向けたのと同時に、泊はずっと手に持っていた紙を渕上に渡す。
「これは?」
「さっき、人事課で渡されました。櫻井常務からのクビ宣告です」
 渕上はざっと文面に目を通し、それから無造作に両手で紙を丸めた。
「くだらん」
 吐き捨てるように言い放つ渕上の顔は、口調の強さとは裏腹に、ひどく虚しそうだった。
「勇作。後で人事課に寄って、これは無視するようにと伝えてくれ」
「はい」
 それ以上、渕上は恵一のしたことについて、何ひとつ言及しなかった。
 ただ一言、どうしてこうなっちまったんだろうな、とつぶやいただけで。

最終話『それぞれのみち』



 ここでの生活は単調だ。
 朝起きて、顔を洗って歯を磨き、朝食を摂り、少しの時間休憩する。それから午前中で国語と英語と社会を勉強し、昼食を食べて一時間ほど休憩した後、午後は数学と理科と午前中に解けなかった問題を解く。そして夕食を食べて風呂に入り、歯を磨いて消灯時間を迎える。
 まるで監獄のようだ。
 20年以上も前に、当時高校生だった恵一も同じ生活をしていたと聞いて、山桜桃はなるほどと思う。この生活を続けていたら、頭がおかしくなりそうだと思っていたのは、間違いではなかった。現に、恵一は頭がおかしくなっているではないか。
「山桜桃、もう食べないの?」
「うん、もういい」
「あとで、部屋にスイカを持っていくからね」
「ありがとう、お祖母ちゃん」
 息子から、孫を監視してくれと頼まれているのだろう。祖母の邦子(くにこ)は、しょっちゅう細かい用事を思いついては、山桜桃が使っている勉強部屋へとやってくる。トイレに行くときも、玄関前に立って見張っている徹底ぶりだ。最初の三日間は逃げる機会を伺っていた山桜桃だったが、80代後半の祖母を振り払って家から飛び出すわけにもいかず、ズルズルと時間だけが過ぎていった。
「わからないことがあったら、何でも聞くんだぞ。学問は、聞くことからだ」
「うん、そうする。でも、今のところわからないところは無いから大丈夫だよ、お祖父ちゃん」
 かつて個人塾を経営していた祖父の敬吾(けいご)は、今は近所の小中学校に通う子どもを相手に、放課後勉強会のボランティアをしている。本人は、自分は必要とされていると思っているようだが、山桜桃がこの家に来てからの20日間ほどで、勉強会を主催している保護者から、5回ほど断りの連絡が入っていた。邦子から聞いた話だが、敬吾は子どもたちの座る机を定規で激しく叩いたり、同じ質問を何度もする子どもを馬鹿だと罵ったりするらしい。保護者からしてみれば、もう出入り禁止にしてほしいぐらいだろう。だが、敬吾が相手の気持ちを汲み取れるような人間であれば、そもそも子どもに対してそんな仕打ちをしたりしない。
 小さい頃から、山桜桃は父方の祖父母が苦手だった。祖父は嫌がる山桜桃を捕まえては宿題を教えたがったし、祖母は山桜桃に対して夏美の陰口ばかり吹き込んでくる。中学に行きだした頃から、何故だかこちらの祖父母とは疎遠になった。また会うことになるとは。できれば、一生会いたくなかったというのが本音だ。だが、祖父母の方では孫を可愛がりたい気持ちを持っているらしく、邦子などは、毎日「山桜桃がここに来てくれてよかった」と言っている。
「ほんとにねぇ、あんな白い頭してるから、どうしたのかと思ったわよ。夏美さんもなーんにも言わないんだからねぇ」
 宣言通り勉強部屋にやってきた邦子は、スイカの乗った皿を古い学習机の上に置いた。そのまましばらく居座るつもりなのか、立ったままスイカをひと切れ食べ始める。
「もう黒くしたんだから、その話はやめてくれよ」
 この家に無理矢理連れてこられた初日、邦子は山桜桃のユニコーンカラーの髪を見て、芝居がかった叫び声を上げた。何てことなの、と言った彼女の目は、不思議と夏美によく似ていた。
「はいはい。勉強は進んでる? もっと難しいところに入り直すんでしょう?」
 恵一は、山桜桃の自宅から遠く離れた名門校の名を挙げて、そこを目指せと言ってきた。10月にある模試の判定結果が合格圏内であれば、この家から出してやろう、とも。
「わからないことは何も無いよ」
 教科書には、すべて書いてある。参考書の内容も、高校受験のときにやった範囲を出ていなかった。山桜桃にとって、目新しいことは何も書かれていない。
 ただひたすら、退屈だった。
 プレイルームで、善知鳥と答えの無い問いを考えていたときのことは、すでに遠い記憶になりつつある。
 忘れ去ってしまう前に、何としてでも帰りたかった。
 だが、祖父母の家は山桜桃の住んでいたところの隣県にあり、周囲は住宅街で、タクシーも滅多に通らない。おまけに、携帯端末を取り上げられてしまったため、三葉たちとも連絡が取れない。そして何より山桜桃には、自由にできる金が無かった。
「頼もしいこと。やっぱり、お父さんの自慢の息子ね」
 早くここを逃げ出さないと、確実に発狂する。
 そんな山桜桃の焦燥など知らぬまま、邦子は次のスイカを手に取った。
「あら、あんた、こんなところに落書きしちゃって……」
 邦子は、山桜桃が机の上に書いた【Connect Verba】の文字を見て、顔をくしゃりと歪める。
「駄目よ。この机は、あんたのお父さんが大切に使ってたものなの。あんたの子どもにも使わせるんだから、もっと大事にしてちょうだい」
 山桜桃は舌打ちを堪え、消しておく、とぶっきらぼうに言う。邦子は孫の態度に気分を害されたらしく、口の中でもごもごと文句を言いながら部屋を出て行った。
「ほんと、頭がおかしいぜ……」
 邦子が階段をゆっくり下りていく足音を聞きながら、山桜桃は椅子の背もたれに身を預けた。20年以上昔に購入されたそれは、少し音を立てただけで、山桜桃の身体をしっかりと受け止める。高校時代の恵一は、あまり背もたれを必要としなかったらしい。
 一人っ子の恵一は、敬吾が40歳のときに建てた2階建ての一軒家で、2つの部屋を与えられていた。ひとつは、山桜桃が押し込められている6畳の勉強部屋。もうひとつは、廊下を挟んで向かい側にある12畳の寝室だ。恵一が家を出てから、もう随分経つというのに、今でも2つの部屋は手つかずのまま残されていた。
 小学生から大学卒業までのあいだ使い続けたとは思えないほど、恵一の部屋は綺麗だ。邦子は、恵一のことを、物を大事にする素晴らしい息子だと言う。彼女には、息子の狂気が見えていないのだ。
 山桜桃は、学習机の引き出しの底板に、無数の刃跡を見つけていた。カッターで、何度も何度も何度も繰り返し繰り返し傷をつけている。その傷は古い教科書で何重にも隠されており、おそらく山桜桃が見つけなければ、この机が捨てられるときまで見つからなかっただろう。
 恵一が、どのような暮らしをしていたのか、山桜桃は聞いたことがない。だが、あのカッター痕を見る限り、平穏な気持ちで日を過ごしていたわけではなかったようだ。
「………………」
 学習机の左手にある窓に歩み寄り、山桜桃は駐車場を兼ねた庭を眺めた。家の周囲をぐるりと囲むブロック塀の上に、細い棘のある金網が張り巡らされている。野良猫避けだと敬吾は言っていたが、どう見ても刑務所の塀を模しているように見えた。神経質にご近所の目を気にする邦子でさえ、自宅を有刺鉄線で囲うことを気にしている様子がない。
 恵一にとって、ここはおそらく世界で一番強固な檻なのだ。
 だからこそ、今回、彼は山桜桃をこの家に連れてきたのだろう。自分の両親なら、逃げ出そうとする子どもを家の中に閉じ込めておけると信じて。
「……逃げてみればよかったのに」
 父親から受けた仕打ちを、自分の人生を勝手に歪ませたことを、ゆるす気にはなれない。だが、恵一の過去に同情はする。彼もまた被害者だったのだ。
 かといって、加害者になっていい理由など、何も無いのだが。
「山桜桃、入るぞ」
 ノックも無しに、敬吾が部屋に踏み込んできた。片手に、黄ばんだ紙の束を持っている。
「これはな、数学の問題なんだが、高校生用のちょっと難しいやつだ。大学受験のときには必要になるから、とっておくといい」
 机の上に紙の束を置いた敬吾は、舞い散った埃が付着したスイカを、ひょいと手に取って口に運ぶ。山桜桃は、ありがとうと言おうか、要らないと言おうか、迷いながら祖父の様子を観察していた。
「美味いぞ。食べないのか?」
「あとでもらう。今、ちょっと腹が痛くて」
 敬吾は、探るような視線で山桜桃の顔を見つめ、それからそっけなく「そうか」とつぶやいた。そして、来たときと同じく唐突に部屋を出て行く。
 山桜桃は詰めていた息を吐き、窓ガラスに額を押し当てた。終わりかけの夏の熱を含んだガラスが、冷えた頭をじわじわと温めてくれる。
 今日は、もう9月25日。いよいよ、タイムリミットが近づいてきている。
 逃げ出さなければ。
 しかし、どうやって?
「山桜桃、夕ご飯よ。下りてらっしゃい」
 逃亡案がまとまらないまま、夕食の時間を迎えてしまった。深夜に家を抜け出るのが手っ取り早いのだが、玄関の門扉には警備会社の設置したセンサーが仕掛けられており、敬吾と邦子以外の人間が門を通ると家中に設置された複数のスピーカーから音が出る仕組みになっている。耳が遠くなりはじめた敬吾にも聞こえるように、スピーカーの音量設定は最大になっていた。ちなみに、本当の不審者が侵入してきたときは、リビングか祖父母の寝室に付けられている緊急通報ボタンを押して、警備会社の人間を呼ぶことになっている。
「ほら、たくさん食べなさい。痩せっぽっちなのは、みっともないわ」
「……いただきます……」
 山桜桃は夕食の焼き鮭を食べながら、まだスピーカーのことを考えていた。どうにかして祖父母の目を盗み、全部の電源を切ってしまいたいが、現実的ではない。そうすると、門扉の方のセンサーに細工をするしかなさそうだ。
「お祖母ちゃん、明日、庭の……」
 家庭菜園の世話をしたい、と言いかけた山桜桃の声は、鋭い電子音に遮られた。警戒警報のように鳴り響くそれは、山桜桃が止めたいと思っているスピーカーから出た音だ。
「はいはい、どちら様かしら?」
 邦子は億劫そうに席を立ち、リビングから出て玄関へ向かう。玄関は、10メートルほどの廊下を歩いて、すぐそこにあった。祖父の目が光っているため、山桜桃は大人しく席についたまま食事を続ける。
「はい……。……ええ、そうですけど……。まぁ……そう……」
 訪問者は近所の人間ではないらしく、祖母はよそ行きの声で応対している。
「山桜桃、あなたの学校のお友達が来てるわよ。どうする?」
「友達?」
 新手の詐欺じゃないのか、というのが山桜桃の頭に浮かんだ感想だった。しかし、たとえ相手が詐欺師であっても、祖父母以外の人間と喋れるのなら顔を見せる価値がある。
「どうするって、会っていいの?」
 皮肉を込めた質問に、邦子は本気で困ったような顔で答えた。
「だって、夏休み明けからあなたを探してて、ようやく辿り着いたって言われたのよ。追い返しちゃうのも可哀想でしょう?」
「……わかった。相手の顔を見て、追い返すかどうか決める」
 山桜桃が席を立つことを、敬吾も止めなかった。彼は邦子と一緒にリビングを出て、10メートルほどある廊下を歩く。その先に、見慣れたモスグリーンのブレザーを着た、見慣れた顔がある。
 あまりにも突然のことで、山桜桃は一瞬、夢を見ているのではないかと思った。だが、頭の片隅にいるもう一人の自分が、あいつならこれぐらいのことはやってのけるよ、とつぶやく。確かに、そうかもしれない。
「お祖母ちゃん、あいつは友達じゃなくて後輩だよ」
「あら、そうなの。でも、あの校章の色、あんたと同じ学年のじゃない?」
 邦子の質問には敢えて答えず、山桜桃は祖母と歩調を合わせたまま廊下を5メートルほど進んだ。
 開け放たれた扉を背にして三和土に立つ善知鳥は、相変わらず何を考えているのかわからない無表情をしている。
 山桜桃は、一歩、大きく足を踏み出した。
「後輩、走れ!」
 まるで打ち合わせでもしてあったかのように、善知鳥は無言で身を翻し、門扉の方へと走っていく。その背を、山桜桃は裸足のまま追いかける。
「山桜桃! どこ行くの!? 戻りなさい!」
 背後で鳴り響く電子音にも、邦子の卒倒せんばかりの大きな悲鳴にも振り向くことなく、2人は走り続けた。開けっ放しになっていた門扉を通り、幅の狭い道路に走り出たとき、山桜桃は足裏にアスファルトのぬるい温度と鋭さを感じる。柔らかい皮膚に細かな砂利が食いこむけれど、不思議と痛みを感じなかった。闇に沈みはじめた空に、一番星が瞬いている。
 前を走る善知鳥は、まるで見知った場所を走るかのように迷いなく進んでいく。まだ距離にして200メートルぐらいしか走っていないのに、山桜桃の息はもう限界だった。軟禁生活での運動不足を如実に感じる。途中、善知鳥との距離が広く開きそうになり、山桜桃は歯を食いしばって足を動かした。2人は住宅街の狭い路地を右に左にいくつか曲がり、やがて車が激しく行き交う大通りに出る。
 大通り沿いのコンビニの広い駐車場に、1台の青いミニバンが後部座席のスライドドアを開けて停まっている。側面に少年野球チームの名前が大きく描かれたその車に、善知鳥は飛び込むようにして入っていった。山桜桃も、5歩遅れで後輩に続く。乗り込むときに勢い余って、防水加工が施された合皮のシートに倒れ込んでしまう。
「出すぞ!」
 聞き覚えのない声が車内に響き、山桜桃の背後で電動式のドアがゆっくりと閉まった。閉まりきるのを待ちきれないのか、運転手は車を発進させる。
 動きを急に止めたことで、一気に汗が吹き出してくる。荒い息を整える余裕もなく、口を半開きにしたまま、山桜桃はシートに肘をついて上体を起こした。同じく口を開いたまま、顎から汗を滴らせている善知鳥と、視線が合う。
「……なんで、お前がコレ着てんの?」
 山桜桃は右手を伸ばして、善知鳥が着ている制服の袖を掴む。善知鳥は片手で器用にシートベルトを締めながら、視線を後列の席に投げた。
「あなたのお母様が、今日のために貸してくれたのよ」
 後列には、三葉が座っていた。
「おかえりなさい、山桜桃くん」
 三葉は満面の笑みで、左手でつくった拳を差し出してくる。山桜桃は制服から手を離し、右手でつくった拳を三葉の拳に軽く当てた。
「ただいま」
「助けるのが遅くなってごめんね、櫻井くん。元気そうで安心したよ」
 助手席には、泊の姿があった。
「泊さん、ただいま」
 山桜桃は三葉に向けていた拳を、そのまま泊に向かって差し出す。照れ臭そうに笑いながらも、泊は拳を合わせてくれた。
「櫻井くん。こちらは、運転手役を買って出てくれた渕上さん。僕の上司で、君が小さいころに会ったことがあるそうだよ」
 渕上という名の初老の男性は、バックミラー越しに、一瞬だけ山桜桃と視線を合わせる。
「あれは、もう何年前かな。会社の家族懇親会で、両親と一緒に花見に行っただろ? そのとき、キャッチボールをしたおじさんが、俺だ」
「キャッチボール……。……もしかして、幼稚園のとき行った、山ん中のキャンプ場の?」
 山桜桃の脳裏に、桜の木を背にしてボールを放ってくる男性の姿が浮かんだ。恵一は、キャッチボールになど興味はない。夏美も活動的な人間ではなかったので、山桜桃が誰かとキャッチボールをしたのは、あのときが初めてだった。
「そう! それだ。大きくなったなぁ。何歳になった?」
「17です」
「来年はもう成人か。早いもんだなぁ」
 同じようなことを軟禁初日に敬吾にも言われたが、渕上の方が何倍も親しみがこもっているように聞こえた。山桜桃は渕上に車を出してくれた礼を言い、なぜか草野球チームに勧誘されそうになるのをやんわりと断る。
「先輩、シートベルトしてください」
 5人が乗った車は、隣県へと向かう高速道路にさしかかっていた。善知鳥に促され、山桜桃はシートベルトを装着する。エアコンの風で冷やされた身体がわずかに震え、くしゃみが出た。山桜桃の今の服装は半袖の薄いシャツにハーフパンツで、おまけにぐっしょり汗で濡れている。放っておいたら風邪をひいてしまいそうだ。
「山桜桃くん、これ」
 後列の三葉が、ネオンイエローの上着を差し出してくる。プレイルームで、いつも山桜桃が着ていた上着だ。ふわふわの感触も、見た目に反して少し重さを感じるところも、ファスナーの微妙な閉まりにくささえも懐かしく愛おしい。着慣れた上着を身につけたことで、ようやく気持ちがほぐれてきた。
「なぁ。これ、俺のなんだろ? どうやって手に入れた?」
 山桜桃は善知鳥が着ている制服を指差し、身体をよじって三葉の方へ顔を向ける。
「お母様が協力してくれたの。私たちが、あなたを捜してるって言ったから」
「母さんが?」
 それはつまり、夏美が恵一に反旗を翻したということだ。山桜桃が知る限り、初めてのことである。
「殴られるどころか、あいつに殺されるんじゃねえの……?」
 山桜桃の口から自然と出た言葉に、車内の大人たちが視線を交わし合う。善知鳥までもが、真っ暗な窓の外の風景から視線を外して、山桜桃の方を向いた。
 青ざめた山桜桃に、三葉がゆったりとした口調で告げる。
「お母様はまだ病院に居るわ。身体の方は、もう回復してるの。でも、このまま家に帰すのは危ないという支援団体の判断で、まだ病院に居てもらっているのよ」
「支援団体?」
「DV被害者の支援団体よ。私の高校時代の友人が代表を務めているの。あなただけじゃなく、お母様にも支援が必要だわ」
 三葉の目尻に、涙が溜まっている。彼女は何度か瞬きを繰り返し、溜まった涙を流すまいとこらえていた。
「私の友だちにも、何人かいるわ。パートナーからひどい扱いを受けている人が……男女問わず、ね。そういう相手を伴侶に選んだのは確かに被害者本人だけど、それは単に、選択を間違えただけなのよ。間違えたのなら、やり直せばいい。でも、それには、他の人間の手が要るわ」
 夏美は、これから自宅には帰らず、恵一とも接触しないように国内のどこかの施設に入ることになるという。恵一から独立して、自分の人生を生きられるようになりたいと、夏美本人が言ったらしい。
「山桜桃くんには、連絡先を知る権利があるわ。あなたが知りたいと言ったら、いつでも教えてあげてほしいと、お母様から頼まれているの」
「自分に会いに来い、とは言わなかったんだな?」
「ええ。あなたの自由にしていいって仰っていたわ」
 山桜桃は無言で頷き、両目を閉じた。ここで都合良く思い出せるような『母親とのいい思い出』など持ってはいないことを、再確認する。
「今は、知らなくていい」
 そう言って、閉じていた目を開けたとき、善知鳥と目が合った。山桜桃の心を探ろうとするような彼の目を、笑みを浮かべて撥ね退け、山桜桃は両腕を上げて伸びをする。
「本戦が終わったら、ゆっくり考える。もし、母さんに伝える手段があるなら、そう言っておいてくれよ」
「ええ、ちゃんと伝えておくわ」
 三葉は携帯端末を取り出して、メッセージを打ち込みはじめた。山桜桃は座る位置を少しずらし、善知鳥と正面から向き合う体勢になる。
「で、どうなってる?」
 山桜桃の短い問いかけに、善知鳥は自身の携帯端末を差し出してくる。画面には、スコアが簡潔に書かれている表が映し出されていた。
「俺がひとりでやった試合の記録です」
 9月に入ってから、2日に1度のペースで練習試合が組まれていた。運営側が組んでいるスケジュールとは別に、報奨金が出ない練習試合もあったという。
「チーム同士が合意すれば、公式記録に残さないという条件で対戦ができるようになったらしいです」
「お前、どこかのチームと対戦してみた?」
「俺は、金の出る試合しかやってません」
 俺は、の部分を不自然に強調した善知鳥に、山桜桃は理由を言うよう促す視線を投げる。善知鳥は山桜桃が持ったままの携帯端末に手をかざし、ページをめくる動作をした。液晶画面に、プレイルームのエレベーター前に立つ一組の男女が映し出される。
「……先輩がいない間に、新しいメンバーが加わりました」
「この2人が?」
「実際に加わるのは計6人らしいんですが、俺も、今のところこの2人だけしか会ってません」
 山桜桃は画面をスクロールして、そこに書かれている2人の名前や経歴を読んだ。スコアの推移や、練習方法についての記載もある。
 2人とも、スコアは平凡そのものだった。おまけに、所属はやさしい電力株式会社である。自分がいなくなった隙をついてやってきたところも、はっきり言って気に食わない。それが、新メンバーになった彼らの意志ではないとしても。
 眉間に皺を寄せたまま黙り込んだ山桜桃に、助手席に座る泊が遠慮がちに声をかけてきた。
「櫻井くん。新しいメンバーになる人たちには、君たちの補助をするように、と言ってある。足を引っ張るようなことは、決してしない。それは、僕と渕上さんが保証するよ」
 後列の席から、三葉も口を挟んでくる。
「2人とも、勉強熱心で意欲があるわ。きっと、山桜桃くんにとっても良い刺激になると思う」
 山桜桃は手の中で善知鳥の携帯端末を弄びながら、沈黙する。あのプレイルームは、山桜桃のために造られた場所ではなかったが、彼にとっては唯一の居場所だった。その場所に、見知らぬ人間が急に入り込んできたことに、言葉にするのが難しいくらいの不快感を感じる。
 善知鳥が来たときも、本当は難癖をつけて叩き出してやろうと思っていた。おそらく善知鳥が自分と似たような境遇の人間だと知ることがなければ、いずれは追い出していただろう。
 わかっている。これは自分のワガママだ。しかし、それを頭で理解しているからといって、はいそうですかと頷けるわけではない。
「ちょっと、道草していくか。そこのサービスエリアのそば、穴場で美味いんだ」
 自動車の走行音しか聞こえなくなった車内に、突然、場違いなほど明るい渕上の声が響いた。あまりにも自然な口調だったので、山桜桃ですら直前に何の話をしていたのか忘れかけてしまったぐらいだった。
 サービスエリアに着いたとき、渕上と泊、それに三葉は車から降りた。善知鳥は座席を動かして三葉が降りるのを手伝ったあと、再び山桜桃の隣に座る。
「俺、靴無いから残る。そんなに腹減ってないし」
「俺も、疲れたんで残ります」
「2人とも、飲み物がいるでしょ? 何か買ってくるわね」
「戻って来るときでいいですよ、三葉さん」
「三葉、とにかく身体に悪そうな甘いもの買ってきてくれよ。スナック菓子もチョコもアイスも無かったからな、あの家。信じられねぇ」
 大人たちがサービスエリアに立ち並ぶ建物に向かって歩いていくのを、山桜桃と善知鳥は無言で見送った。渕上が車のエンジンをかけっぱなしにしていってくれたため、車内は快適な温度に保たれている。
「……俺がいない間、どうだった?」
 窮屈なシートベルトを外し、善知鳥に携帯端末を返しながら、山桜桃は囁くような声で尋ねる。
「戦績は悪くなかったですよ。俺ひとりの試合でも」
「みたいだな。さすがだよ」
「あと、プレイルームの机がいつも片付いてました」
「あのな、俺はそういうことを聞いてんじゃねーから」
 山桜桃は足を組み、シートの背もたれに身を預けた。フロントガラス越しに、大型のトラックが駐車しようとしている光景を見るともなしに眺める。善知鳥があまりにも普通の態度で接してくるので、肩の力が一気に抜けた。
「新しいメンバー、どうよ?」
 おかげで、どう切り出すべきか迷っていた質問を、あっさりと聞くことができた。善知鳥はそんな山桜桃の葛藤を知ってか知らずか、いつも通りの淡々とした口調で答える。
「田村さんも小椋さんも、穏やかで話しやすいですよ。ただ、育ちというか……今まで生きてきた環境が違いすぎて、価値観も倫理観も合わなくて……」
「合わねぇって、たとえばどんなことで?」
「先輩が言ってた、スコアを伸ばす方法あるじゃないですか。誰かを殺して、死体を処理するところまで考えるっていうやつ。俺も最近実践してて、確かにスコアが伸びたんですよ」
 どうしてそんなに高いスコアが出せるのか、と田村に聞かれ、善知鳥は山桜桃から教わった方法を口にした。軽い気持ちで尋ねたのだろう田村と、横で聞いていた小椋の顔から血の気が引いていくのを見て、善知鳥は自分と彼らが完全に違うと思ったらしい。
「それ、明らかにヤバイ奴だと思われてるぞ、お前」
 山桜桃は組んでいた足を下ろし、身体ごと善知鳥に向き直った。他人事のような言い方が気に入らなかったのか、室内灯に照らされた善知鳥の顔が少し歪む。
「先輩が最初に考え出したんですよ?」
「俺にはヤバイ奴の自覚があるからいいんだよ! ていうか、もっと適切な喩えあったろ?」
「俺は、他のやり方がまったく頭に浮かびませんでした。そしたら、小椋さんが言ったんです。『ものすごく困った状況にある人を想像して、その人をどうやったら助けられるか、一生懸命考えたらいいんじゃないですか?』って」
 善知鳥は、山桜桃の反応を確かめるようにじっとこちらを見つめてくる。山桜桃は、正体のわからない何かに心を打ちのめされ、両手で顔を覆った。
「……なんていうか……違うな」
「違うんですよ……。万事、そんな感じです」
 見なくても、善知鳥が遠い目をしているであろうことはわかった。
「そんなわけで、2人が加わって2週間くらい経ちましたけど、まだ全然馴染めないです」
 田村も小椋も、いわゆる『普通の家庭』で育っているようだと善知鳥は言う。家族とは喧嘩もするけれど仲が良く、手作りの弁当を持ってきたり、報奨金で親に恩返しの旅行をプレゼントするというような話題で盛り上がっているらしい。山桜桃にとってもそうだが、善知鳥にとっても縁遠い話だ。何を話しても互いの違いが浮き彫りになるだけなので、善知鳥は極力雑談を避けているという。
「俺とお前の話が合う方が、珍しいってことなんじゃねーの」
 顔から手を離した山桜桃は、口の端を上げて善知鳥に笑いかけた。善知鳥も、同じような笑みを返してくる。
 世の中には、親に愛されて育ってきた人間の方が多い。それが当たり前だと信じて疑わない人間も、大勢いる。そういう人間たちを目の当たりにすると、自分の何が悪かったのだろうと、山桜桃は思ってしまう。運が悪かっただけだろうか。それとも、親の期待に応えて、親が愛せるような理想の子どもになりきれなかった自分自身だろうか。
「他の4人も、そんな感じだろうな」
「泊さんの話を聞いていると、そんな気がします。別に、スコアに影響はないですけど、プレイルームの居心地が一気に悪くなりました。三葉さんからは、今まで俺たちがいたのは箱庭だって言われました。そうかもしれませんけど」
 三葉の言葉に納得していないらしく、善知鳥は、彼にしては珍しく大きなため息をつく。
「箱庭か。たしかに、そうかもな」
「三葉さんが正しいのはわかってます。でも、気持ちがついていきません」
 不貞腐れたような顔で、善知鳥は片方の靴を脱ぎ、シートの上で片膝を抱えた。新しいメンバーなど平然と受け入れてしまいそうな善知鳥でさえ、やはり思うところがあるようだ。それとも、山桜桃がいない間に何かがあって、心境の変化でもあったのかもしれない。以前の彼なら、自分の感情など二の次だったような気がする。
「俺もだよ。でも、変わらないとな」
 自身に言い聞かせるように、山桜桃は強く頷く。善知鳥は少し意外そうに山桜桃の様子を眺めていたが、すぐに同じ強さで首を縦に振った。
「そうですね」
 善知鳥の目に、見慣れた光が宿っている。彼の背後の窓ガラスに映る自分自身の目にも、同じ光があった。
「そうだ、先輩。言いそびれてました」
「まだなんかあんの?」
 片膝に引っ掛けていた手を、善知鳥は山桜桃に向けて差し出してくる。
「おかえりなさい。無事で、本当に良かったです」
 かすかに震えた声と、冷たくなった掌。
 山桜桃は、気安い気持ちで善知鳥の手を握り返したことを後悔し、ぐっと手に力を込めた。冷えた後輩の手を、熱くなった両手で包み込む。
「俺は、あの家にいる間に、殴られてないし、怒鳴られてもない。……そのことを、心配してくれてたんだよな? ありがとう」
 善知鳥は、山桜桃の両手に包まれた手にすがるように自身の額を当て、良かったです、ともう一度つぶやく。呼吸に合わせて上下する善知鳥の薄い背中を眺めながら、手が3本あれば、この背中を撫でてやれるのに、と山桜桃は思った。
 しばらくして、落ち着きを取り戻した善知鳥に、山桜桃はいつもの調子で話しかける。
「とにかく、今は本戦で勝つことだけ考えようぜ。これからの話は、その後だ」
 わかりましたと応えた善知鳥も、もういつもの顔に戻っていた。


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 2036年10月4日から25日にかけて行われた第1回コネクトウェルバ世界大会において、日本チームは8位という成績を残した。
 優勝には遠く及ばなかったものの、『全員で課題を考え、全員で課題解決に取り組むチーム結束力の高さ』を理由に、日本チームのメンバー全員が大会MVPに選ばれた。
 パンタシアのCEOであるリチャード・センは、大会後に発したコメントで、こう書いている。
〈日本チームについては、特に古参のプレイヤー2名の成長ぶりが著しい。若さゆえの思考の柔軟さと、若さに似合わぬ思考の深さが、彼らの武器だ。向上心のある2人なので、これからもその武器を磨いていってほしい。
 長い人生の中で、彼らは多くの困難に直面するだろう。だが、物事を深く考えることで解決できない問題は、多くない。おそらく彼らは自力で、たいていの困難なら対処していける。
 だが、自力では超えられない壁にぶつかったときは、今回の経験を思い出してほしい。志を同じくする仲間が見つけられれば、一人では超えられない壁も、超えられるようになる。また、絶対にできないと思っていたことでも、少し視点を変えるだけで、できるようになることも多い。
 彼らのこれからの人生に、幸多からんことを、心から願う〉

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