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Ancient Virus X(太古のウイルスX)との闘い(中編)

※このフィクション短編小説は、COVID-19(新型コロナウイルス)の流行からインスピレーションを受けて作成しました。



「デラウェア州のAVX隔離棟?!」
普段は物静かなクリスが、裏返った声を部屋いっぱいに反響させた。
向かい合って座っているクリスの父は、息子の反応に驚く様子もなく、「そうだ」と頷く。「でも――」と口を開くクリスを父は即座に手で制し、首を振った。
「もう決まったことだ」

デラウェア州のAVX隔離区域は、アメリカ全土の中でも最優先で準備された。ニューヨークを少し南下した所に位置するデラウェアには大きな湾があり、ニューヨークの湾から船で患者を搬送できる。
政府はニューヨークの患者を真っ先に隔離し、起こりうる最悪なシナリオから逃れることができたのだ。今のところ。

致死率80%といわれるAVXに、父が飛び込んでいく。熟練医師としての父の威厳は増すばかりで、「優秀な医者の息子」にのしかかる重圧も重くなる一方だった。


クリスが所属する循環器内科の部長からデラウェア行きを打診されたのは、父がデラウェアに行って二日後のことだった。いつ声が掛かってもおかしくないと腹をくくっていても、いざ面と向かって打診されると、全身からぶわっと冷や汗が噴き出すのを感じだ。

断るという選択肢は、クリスにはなかった。高校に入学する前から医大に入るための教育を受け、周囲の期待に作り笑顔で耐え――川の流れに逆らえない水のように今の場所まで漂ってきた、クリスには。
それを承知でぬけぬけとクリスを呼び出した部長の表情は、申し訳なさで醜く歪むのを必死にこらえているように見えた。


クリスは丸裸で消毒液のシャワーを浴びながら、あの時断れなかったことを心底悔やんだ。
今日は何人の死を見ただろうか。心は今にも折れそうだ。
なんであの時断らなかったんだ? どうして自分は医師になんかなったんだ?
防護服を脱いでどんなに身が軽くなっても、体のまん中は息がしづらいほど重い。重みで、真っ暗な沼にズブズブと沈んでいくようだ。
どうして俺は、父の持つ高潔な魂を継がなかったんだろう。

「お疲れ、クリス」
着替えを終えて食堂で夕食をとっているクリスの肩を、ジョーが軽く小突いた。二人は研修医時代を一緒に過ごした同期だ。ジョーはクリスより一足先にデラウェア入りした、ここでの先輩でもある。
野心家のジョーは自信過剰な面があるものの、表裏がはっきりとしていて憎めない人間だ。クリスが唯一不快を覚えたことといえば、彼がその野心からデラウェア行きを決めたことくらいだった。

そのまま隣で食事を始めたジョーはクリスのプレートに目をやり、「無理やり食うしかないよな」と眉を寄せる。クリスは黙ったまま、プレートに盛られたサラダを睨んだ。無駄話に費やす体力もなければ、気力もない。
ジョーはクリスの反応など気にせず、食べ物を口に運ぶ。が、ふと手を止め、身を丸めて「ここだけの話――」と小声で言った。
「――俺は特別給与が目当てで手を挙げたんだ。……将来、開業医でやっていきたくってさ」

なにをまた改まって、とクリスは胸の内で呟いた。
大体、ここで働く人の五割はそうだ。AVX区域従事者に政府が支払う特別給与は、相場の三倍近くになる。まるで命の価値が数値化されたようでクリスは不快感を覚えたが、自分がここへ来た理由を考えると、何かを言える立場ではない。
と、ジョーの声の調子が急に変わった。
「……でももう、金とか将来とか、よく分かんなくなった」

クリスはやっと、顔を上げる。いつも自信満々なオーラをまとう野心家のジョーが、かつてないほど萎んでいる。強靭そうなジョーの精神も、限界が近いのだ。クリスは素っ気ない態度をとったことを申し訳なく思った。
「割り切って来たんだ。できることは限られてるって。接触感染だから、ミスなく防護してたら感染することはないだろうって。無事にやり遂げたら、今後のキャリアも金も手に入る――そう思ってさ」

ジョーは今にも泣きだしそうだ。
「今はもうさ、生きて帰れたら――……生きていられるだけでもいいか、って」
ついに、ジョーはむせび始めた。クリスは細かく揺れるジョーの背中に手を当てる。が、慰めや励ましの言葉は出てこなかった。そんなことできるはずがない。

ふいに、ジョーは体を揺らすのをピタリと止め、情けなく丸めていた体をまっすぐ伸ばした。いつの間にか、ジョーをまとう力強いオーラが戻っている。
「たった一人でもいいから、ここの患者を外に出したい」
ジョーは、真っ赤に血走った両目でクリスと目を合わせた。
「でなきゃ、俺はここから出られない」


部屋に戻ってベッドに倒れこんだクリスは、「たった一人でもいいから」と言うジョーの赤く腫れた目を思い出した。目が合った瞬間、全身に鳥肌が立ったあの感覚がふたたび皮膚に広がる。
クリスは、声に出してジョーの言葉を繰り返した。
「たった一人でもいいから、ここの患者を外に出したい」

(中編終わり)



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