ツキノワ

風は凪いでいた。すでに半分以上身を隠した太陽とともに、空は薄暗くなっていった。雲は多く、月を覆うように伸びた形をしていた。

病院からの帰り道、私の足取りは軽いものではなかった。医者から渡された診断書は、来月受ける手術が確固たるものだということを示しているようでどうにも気分が乗らないのだ。
命を預かる仕事というのもあってか、手術の説明をしている医者は矢継ぎ早に言葉を放つのだが、それがさらに私の気分を重くした。

小さいころから体が弱かったし、厄介な持病をもっていのもあってか、病院という場所には慣れていた。とはいえ、それらの処置は基本的に薬だったし、今回のように大掛かりな手術というのは初めてだった。
はっきり言って不安しかない。誰だって自分の体を掻っ捌かれることなんて嫌に決まってる。麻酔があるから一瞬だと説明を受けたが、それは死を迎えるのも一瞬であることの裏付けに過ぎない。

説明を受けた後の病院はまるで、戦地のように感じられた。ナースコールに呼ばれ走っている看護婦も、見舞いに来たであろう中年夫婦も、それらすべてがどこかで死につながっているように見えて仕方がなかった。扉一枚超えた先で明日を迎えられる患者とそうでない患者がいる。
果たして自分がどちら側に立つことになるのか。

以前足取りは重いままだった。このまま不安を募らせるのはよくないだろうと思い、無理やりにでも気分を上げるために何かないものかとあたりを見回すと、コンビニがあった。青白い光を放つ蛍光版は今この一時だけ、月の代わりを果たしているようだった。


そうだ、何か甘いものでも買って帰ろう。好きなものでも買えば少しは気が紛れるだろう、とまるで明りに群がる蛾のように入口へと向かった。
自動ドアから数メートル離れた駐輪場のすぐそばのところに、老婆が座っていた。座っている椅子というのが、街中を歩いているとよく老人が引いている荷物入れ兼椅子ののようなものだった。

普段であればほとんど気にならないようなことだったが、いつのまにか私は足を止め、その老婆のことをじっと見ていた。

髪はすべて白くなっており、ところどころ抜け落ちていて歪だったが、滑らかな光沢があるようにも見えた。座り方もうなだれるようなものではなく、背筋を伸ばし手を膝に置き首のすわった座り方だった。誰かを待っているような、そんな座り方だった。そして目には黄土色の斑点のようなものが出ていた。しかし、それ異常に澄んでいた。


じっと、月を見ている。


薄い雲に覆われて、淡い光を放っている月を見ている。
しばらくすると私の視線に気が付いたのか、どうかしましたか、と静かな声で聞いた。

こんなところで何をしているのか、ということをそれとなく聞くと、ここが一番目立つから、と言ってこちらに手招きをした。近くに寄れということだろう、私は老婆のすぐそばまで近寄った。
「ここでね、迎えを待ってるのよ。」
迎えというのはいわゆる送迎のことだろうか。誰が迎えに来てくれるのか聞くと、私の主人よ、少し照れくさそうに言った。
「主人はね、終戦直後の街の復興に勤しんでいてね。私はそこの飯盒係として派遣されてたのよ。」

そう言ってつらつらと過去の馴れ初めを語り始めた。
燃えるような恋から愛の逃避行まで、それこそ「生」そのものをあらわしたかのような話の節々に歳月の重みを感じる。驚きの連続で口が開いたままだったかもしれない。老婆はただ楽しそうに、慈しむように話を続ける。

ふと、これから自分が受けるであろう手術のことを思い出した。
これから私は生きるか死ぬかの選択をすることになる。いや、正しくは裁決を下される、だろう。何せ今私の命は私が握っているわけではないのだから。

その事実が無性に私を空しくさせた。目の前の老婆は苦難ありきとはいっても未来があったのだ。可能性に満ちた人生であったはずだ。
じゃあ、私は?目の前が真っ暗になったような気分になる。数字の上では何とでもいえるだろう。だが、こみ上げてくるこの渇いた咳が、生きる可能性すらも奪い去っている。

昔話はまだ続きそうだった。相変わらず話している老婆の顔は笑顔であった。

耐えられない、と大きく咳き込んでしまった。想像よりも大きな音だったのか老婆は、目を丸くし、大丈夫ですかと心配そうな声を出した。
「大丈夫です」と一言いえばよかったのだが、「体調がすぐれないので…」と半ば強制的に話を切ってしまった。
「すみませんね、こんな老人の昔話に付き合わせてしまって。」
「そんなことありません。あの、とても面白かったですし、是非また聞かせてもらえると嬉しいです。」
言葉に偽りはなかった。話の続きは気になるし、人生の教訓というやつだろうか、心に深く刻まれるようなものもあった。希望の詰まった老婆の言葉は柔らかい羽のようなものだったが、どうやら私は、その尖った部分を飲み込んでしまったらしい。

それでは、と言い残しコンビニの入口に向かった。自動ドアをくぐると、らっしゃせー、と気の抜けた声が聞こえた。スイーツの置かれた棚に一直線に向かい、好きなものが残っているか確認をする。
どうやらどの種類のスイーツも売切れてはいないようだ。さきほど老婆と話していた時の無力感を埋めるように、ゆっくりと買い物かごをスイーツで満たした。

今日くらいはいいだろう。普段見ることのない甘いもので一杯のかごを見て、なんだか笑みがこぼれてきた。
ほしいものはあらかた詰め終えたところで、レジへと向かう。
相変わらずけだるげな様子の店員だったが、レジに出された商品の数を見て目を丸くしていた。慌ててレジ打ちの作業をしている間、私はあの老婆のことを考えていた。買い物をしていた時間は15分程度だろうか。迎えが来ると言っていたが、どのくらい時間がかかるのかわからないので、まだあそこに座っているのかどうか…。もしまだいたのなら、きっと気まずくなってしまうだろう。

どうにかして顔を合わせずにやり過ごせる手はないだろうか。
レジを打ち終わった店員が支払いを促す。財布を出して金額を確認すると、5000円を超えていた。財布の中には千円札が4枚見えた。足りないかと思ったがなんとか小銭をかき集め払うことができた。

軽くなった財布と大きさの割に軽いレジ袋をもってコンビニから出る。
老婆はまだそこにいた。ただ最初に出会った時とは違い、手押し車には座っていなかった。背筋はまっすぐと伸び、相変わらず月を見ていた。大きく見開いた眼には涙が溜まっていた。

迎えが来なかったのだろうか。心配が募り、今までごちゃごちゃと考えていたことすべてを心に押し込み、声をかけようとする。
しかし私のかけた声は、突然発された老婆の言葉によってかき消された。


「あなた、やっぱり、私ひとりじゃ生きていけないわ。」


涙は止めどなくあふれている。その涙を照らすように、老婆の見上げた視線の先に、月の光が集い始めた。それはだんだんと人の形を成していき、ついに一人の男性となった。

「長い間一人にしてしまって、本当にすまなかった。」
「ええ、そうよ。何度もあなたのこと思い出しては、挫けちゃいけないって前を向いてきたわ。でももう、いいでしょう。あなたのところに行かせて。ずっと一人でこの世界に居座っているのも、苦しいの。」

老婆は手を伸ばした。まるで母親に抱っこをねだる子供のように。男性は応えるようにそっと老婆を抱いた。
二人は淡く光りはじめ、だんだんと輪郭を失っていく。ついには光の粒子となった。粒子はまるで天の川のように揺らめき、元の場所に還るかのように月のもとへと昇って行った。

手押し車は、残ったままだった。シートについている皴が、先ほどの出来事が夢ではないことを物語っていた。

消えた老婆はどうなったんだろうか。
光の粒子になったんだから、まだ生きているのだろうか。
先ほどの男性は老婆の夫だったのだろうか。
男性は死んでいるのだろうか。
迎え、とはそういうことだったのだろうか。
生を尽くした者の座っていた席に、次はだれが座るのだろうか。

空っぽになった手押し車には、行き場をなくした温い空気以外、何も存在しない。
いつの間にか私は、手押し車に手をかけていた。レジ袋を椅子の部分に置き、押し進める。
重かった足取りは軽く、崩れかけた気力は確固たる決意に変わった。
雲に覆われていた満月は顔を出しており、いつもより輝いていた。月光が背中を押してくれている。
歩みを止めるつもりはなかった。

次にこの席に座るのは、私でありたいと思ったから。

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