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書く理由と書きたい世界観


先日、文章にしたnoteがTwitterで想像以上の反応を頂いた。

かれこれ4年近く、日記をつけ続けている。1回辺り1000文字から多い時だと3000文字くらい。毎日つけてる時もあれば1か月に5回ほどの事もあるが、なんだかんだで長く書いている。始めた当初は主観的で脈絡のない文章でただただ不安定な自身の気持ちを言葉にして客観的に見る為に書くものだった。そうして様々な思考を文章にする中で、ふと「自身の人生のエピローグを描くのは他人である」と思った。どんなに楽しいと当人が感じていても残虐な事件に巻き込まれて亡くなれば周りは「可哀想だね」と思う。逆に鬱々とし他人を信じられないような精神状態で時を過ごしていても老衰で家族に看取られて亡くなれば「生を全うしたね」と思うだろう。細かく言えば異なるだろうが、どんなに人生を生きても私の人生を定義するのは他人だ。そう思った時に、自身の生き方を何かで残したかった。いつ死ぬかも分からないから。

私の祖父はカメラマンだった。祖母が亡くなった日の丁度10年後に、祖父は亡くなった。亡くなってから知るのだが、祖父は生命保険を5年ほど前に解約し500万円ほど入ったであろう金額を全て使い切っていた。おかげで残された親族はお葬式に関わるお金にほとほと困った。しかし、誰一人とて祖父の事は悪く言わず、みな「おじいちゃんらしいね」そういって笑顔で泣いた。亡くなる前に祖父がどんな気持ちで居たかは分からない。脳出血で倒れ意識不明のまま1か月後に亡くなった祖父には、祖母の命日と同日であった事さえ知らないかもしれない。しかしみな何かの運命を感じ、祖父の人生を称えた。500万円を何に使ったかは不明だが、倒れるまで祖父は写真を撮り続けた。毎週末に静岡や新潟に行きシャッターを切り続けた。現像した写真を老人ホームに展示したりしていた。言ってしまえば遊び続けている日々だったと思う。そんな祖父に亡くなる半年前、私が「何の写真を撮っているの?」と聞いた際、「おばあちゃんが好きだった花だよ」そう言っていた。その言葉を亡くなった時に思い出し、私は祖父の人生をこう定義した。”彼は妻を愛した人生だった”と。

そして改めて思う。自身の人生を定義するのは他人。他人が自身の人生を定義する際の題材は発言や生活、生き方に左右される。極力、志半ばで尽き果てぬよう健康な体を維持するようにしているが、突然終わりが来た時の為にも自身の人生を明確化する何かが欲しい。様々な事を考えた。祖父と同じようにシャッターを切る事でも良いし、音を奏でる事や絵に命を吹き込んでもいい。しかし一番に思い付いた事は、文章を書く事であった。

話は変わるが、私はいつも図書室にいる小学生だった。人見知りで人と話す事が苦手。友達が1人もおらず、一番嫌いな授業はみんなで協力して行う体育。割と不登校すれすれの精神状態で生きており、今でこそ自身を陽キャになりたい陰キャとかネタに出来ているが、ただひたすらに陰キャラだった。小学校低学年の時は歴史漫画とダレンシャン、高学年の時はあさのあつこが好きだった事が印象的である。図書室の窓からドッチボールをする同級生を眺め、本当は混ざりたい気持ちを抑えて文章の中に逃げ込んだ。その当時の心の救いが文章であったのだ。

それは洗脳的に染みつき、今も読書が好きだ。日記を始めた4年くらい前には三島由紀夫の『女神』を読んで日本語の美しさに感動し、先日ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んで自身の失恋の記憶が蘇り号泣した。いつかは自身を定義でき誰かに見せられる文章を。そう思い、気付けば時が経っていた。

そんな折にTwitterでこのnoteというサイトを知る。シンプルなデザインで余計なものがなく、空白が広くて読みやすい。何より投稿されている文章が全体的に、淡々と事実が描かれているのにどこか情緒的で好きだと思った。自身の文章を書きだす場所として面白いかもしれないな。そうして書き出したのが割と最近の話。反応はなくても誰かの目に留まれば何か変わる事があるかもしれないと書き続ける事を決め、冒頭に載せたnoteを書いた結果多くの反応を頂いた。それは仕事に手を付けられなくなるほど嬉しかった。自身が好きなもので承認を頂ける事がここまで自分の世界に輝きを生み出すのかと驚き、読んでくれた方全てに感謝した。

そうした時に自身の文章の世界観を考えた。音楽や映画や小説、関わり合う方々含めどんなものにも世界観と言うのはある。それまでの人生や考え方が影響して世界観は作られる。そしてその世界観はその後も触れ続けるキーワードになる。その作り手の世界観が好きだから触れ続けようとなるのだ。私はどんな世界観を作りたいだろう。自身の書きたい世界観をイメージした時にある人を思い出した。

とみめい さんと言う方だ。彼女はDTMという方法で音楽を制作している。パソコンや電子楽器を利用し制作する方法らしい。知ったきっかけはゆいにしおの『帰路』をremixしてる曲だった。

原曲は切ない恋をしている女の子を儚げに、しかし明るく歌っている。暖かい日差しの午後3時くらいに静かに吹く風の中でボンヤリと聴きたい曲と言った印象だ。

原曲もとても良いので一度耳に触れて欲しい。その曲をとみめいさんのremixは180度くらい、違う世界にしている。

夜でも朝でもない明け方。信号や街灯、明け方の陽の光や、はたまたクラブのミラーボールかもしれない。灯が乱反射する視界の中で何かが始まる予感を連想させる。俯き加減だった女の子が少しだけ背を伸ばして前を向く瞬間のような明るさを感じた。

私は1日の中で明け方、時間的には4:00〜5:00くらいが1番好きな時間帯だ。始まりとも終わりともつかない、しかし何かが始まる予感がする。クラブではみな酔い潰れていく中でわずかに残った方と目を合わせフロアで揺れる。飲み続けた居酒屋では少しだけ真面目な話をする。星空を眺めにドライブした帰路では助手席で眠る友人を横目に少しの孤独感に浸る。その日の記憶を反芻させながら振り返る明け方は美しい。

とみめいさんはInstagramでも制作した楽曲をアップしていたり、猫を堕ろすのNewアルバム『サウンド・リクルーティングONLINE』のtry townもRemixしている。いずれの曲も終わりでもなく始まりでもない、でも何かかが始まる予感がする、そんな印象を抱く。明け方のような空間。それが彼女の世界観であり、私が文章で書きたい世界観である。

まだ漠然としており、随筆を書きたいのか小説を書きたいのかさえ決まっていない。しかし起承転結の中で、読み終わった後にほんのりと明るく少しだけ微笑むような結末にしたい。そして全体を通して明け方に導かれるような文章を書けたらと思う。

書きたい世界観を文章にする予定だったはずなのにめちゃくちゃ前置きが長くなってしまった。ここまで読んでくださった方は貴重な時間をありがとうございました。

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