見出し画像

小説 やわらかい生き物 10

コーディネート
[1]
物事を調整することは、毎日気付かずに続けていることだ。
夕食の献立を、冷蔵庫の中身だけで組み立てたり、風呂が沸くまでの時間で明日の服装を考えてみたり。

当たり前すぎて、それが、「誰でもできる簡単な事」だと認識されている。
努力も要らない、誰でも自由に、好きなように「出来ること」

そんなものは、本当に共通にあるとしたら、生命活動だけだと思う。
呼吸の仕方を、改めて考えたことがあるだろうか?かえってわからなくなるはずだ。もしかしたら、鼻呼吸と口呼吸の区別さえ、あやふやになってしまわないだろうか。

そして生命活動すら、脅かすのは、自分を取り巻く環境。
弱いものは、朽ちる確率の高い世界。

これも、調整の一部なのだろうか。

少しずつ、削られていく、少ないようでたくさんいる、非正規と分けられたヒト。
[2]

画材屋と文房具のフロアはかなり内容が違っていて、入ったのは初めてだったので、情報の多さより興味の方が勝ち、日本画の筆や、油絵のキャンパスなど見たことないようなものをざっと見ただけで、かなり疲労してしまった。

故に一度、外にて出て、向かいの珈琲チェーン店にて休むことにした。

「初めての分野は疲れる…」
久々にしんみりと疲れてしまった。
こんなことが、昔はよくあった、友達とはしゃいで疲れているのではなく、ひとり、いつの間にか輪から外れ眺めながら疲れたと感じるので自分が幽体離脱して自分を、周囲を眺めている錯覚に陥った。

錯覚というより、本当にそうなのではないかと、半分は事実なのだと受け止めていた。一人で冷却する時間が必要だった。

人の雑談は、早過ぎる。
内容も話題も、それに対する興味も。

時間の流れが違うのかとも思う。

だからこそ、合間にスケッチを続ける彼女に触発されて、ここへ来たのかもしれない。

「ノートくらいの大きさにして、色は、絵手紙コーナーのところにあった5色くらいのセットにしてみるか、四季で分けてあったし」

珈琲を飲み干し、予めの目星を付けて、また売り場へ戻ることにした。
[3]

8月上旬には仕事先の作業が全て終わる手筈になったことを、祐介くんに電話した。

「良かったら見たい展示があったので行く予定があるんです、一緒にどうですか?
一緒にって言っても入館したらだいたいバラバラですがね。
食事会やるなら、陽菜が呼べって言ってたんで、詳細決まったら連絡します。2日以内に。」

2日以内に連絡が来る。
そういう、時間指定の約束は助かる。

そして目の前には、4つの紙袋がある。
中身はわからない。
先日、自分は、自分のぶんの、スケッチブックと少しでも色づけしたら楽しいかもしれないものを見に行ったのだ。
しかし、結局、4パターン、中身は組合せの違うものを買って来た。

4パターン出来た時点で、全部使いこなせなず、1つに絞れないなら、4人の個性に預けてみても面白いような気がした。
そう、思わせるだけの、こんな短い期間で印象を受けた3人だった。

もう会わないかもしれない、しかし、会えたことは、やはり、自分には刺激だった。
関わりはなるべく薄いもの、これは変わらないかもしれない。しかし、僅かにでも変化をもたらしてくれたのは、確かだった。

だから、感謝なのだ、これは。
[4]

「では、2時間後、また、この場所に集合します、アラームセットしてくださいね、なんの合図か忘れないように、解、散!」

遠足のように、いい大人が4人、時計を合わせそれぞれ観たいものを見に行く。見事にバラバラだ。
朝陽さんと祐介くんくらいは一緒なのかと思っていたが、順次が違うとかで同じ場所でも入口が違うから別なのだ。
大丈夫なのかと思ってしまうが、同じ場所なら、何回か対策を考え、試行し、ある程度「困ったらこうする」が決まっているのでお互い一人で良いらしい。

「朝陽ちゃんの興味って一つに集中より、関連したものを広げてくのが好きなの。」
陽菜さんはそう言って僕の隣を歩く、偶然同じ場所に行くのは僕らの方だった。

水族館へ行く、水族館で僕は、何時間もカワウソを見続けてしまう。
だから必然的に誰かと行くなんてない。
そう言うと「私達は全員違うものを見るから、2時間後に集合なの」と振り出しに戻った。

見える景色、同じ道順、少しでも安心が欲しい、これで大丈夫、という基準を自分なりに作り出してしまうことは、ある。
逆に、こう決めてしまうことでいわゆる、「臨機応変」が出来ないとも言われるけれど。
何事も、個人がやり易いように出来ないルールが存在する、その妥協案か、折衷案で社会は成り立っているようにも見える。
まぁ、優しくはない。

同じ場所に何度か来ていても慣れない、という意味がわからないと言われる。
しかし、場所は同じでも、来ている人、天候、そんな些細な違いで条件なんて同じものは揃わない。
些細な違いが「違っている」ということに於いて何パターンもの違いを生み出す。

たまたまその日の展示は来客数が多かったとか、展示内容のが為に空調が寒すぎる程だったとか、塗料を塗り替えたばかりでその匂いが残っていたとか。

ザワザワ、という人の声や、歩く音、衣摺れ、そんなものを「雑音」として「聞かなくていい音」と分けられる人と、全ての音が混ざり合う人とでは、環境というのは全く違うのだ。

例えばの話、軽く暇つぶしに、工事中の道路に面した喫茶店で聞こえる音は、工事中の重機以外にも人の会話、店でかかるBGM、さらに食器の音。
そこで本を読む、何も聞こえてないほどの集中力って、どんなものだろう。
突然の笑い声や、電話着信音、子供が居たら…。

自分に関係がないかな、なんて思ったら必要と不必要を脳がコーディネートしてくれる、だから、「自分に都合の悪い話は聞かない」て表現や逆に自分に関することなんでも聞きつける「地獄耳」なんて表現もある。

意識しなくても脳が処理してくれている、或いは、意識的に「そうなろう!」と考えたときには、一般的には、身の廻りの世界は、自分の脳がある程度の世界にしてくれているって、すごいな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?