空中官能

“幸福とは違った。甘い感傷もなかった。すべてが終わった。”


目黒シネマの特集上映でフランソワ・トリュフォーの『恋のエチュード』なる映画を観た。二十歳の年頃にツタヤでレンタルした時から、二度目の鑑賞だ。18歳から映画を進んで見るようになった。それ以前は家の棚にある戦争映画やオヤジの趣味である『男はつらいよ』シリーズ、そしてその親父が定期的に借りてくるスピルバーグやリドリー・スコットをうるせーなと思いながらも年に数本見る程度だった。親父は映画が好きな方ではあると思うのだが、まず俺自身が映画に興味がなかったのだから、どうしようもない。

時を経てある程度の主体性をもって映画を見るようになって、「たかが観客の俺ごときが、こんな赦しを得ていいのか」と思えるようになった。とてつもない僥倖を感じるようになった。何故ならまあ、xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxetc.

映画の思い出を語り始めたらキリがない。今日は低気圧が尾を引く夜だ、そこまで元気もない。投げオブ投げ、投げやりな言葉、投げやりな情交、投げて詰む人間関係。


書き出しの引用は『恋のエチュード』終盤のラブ・シーンで語られるセリフの字幕で、なんとなく今日の日記がカッコつくかなーなんぞ思いながら反芻していた。
トリュフォーの映画は最高だ。ゴダールやロメールだのといったフランスの「ヌーベルバーグ」(要はNew Wave)と呼ばれる作品群の重要な部分を占めているが、ゴダールより全然好きだ。いやゴダールもメチャクチャ好きなんだけど。
映画を批評する機知も気力もないため作品の良さみたいなモンを伝えることは今日はムリ(今日は、というのは、まあそのうち全力なる映画カンソー文を書きたいという虚勢を抱いているため)。しかし、なんとなく抱いた感慨だけでも書き残すことにしようか。

あらすじ。あー面倒だ、ウィキに書いてあります。要は、フランス人のお坊ちゃんが、イギリス人の美人姉妹双方と恋に落ちるっていうバカ話だ。
筋自体はくだらない、性愛についての男目線の、実に軽薄な感傷で埋め尽くされているパターンだ。トリュフォーの映画はそんな話が多い。でも俺はすごく好きだ。スジなんてどうでもいい。映画なんだから。ショットのヤバさ、画繋ぎの巧妙さで右脳をブチ抜いてくれよってタイプなんだよな。ポリティカル・コレクトなるものの社会“全般”への侵食はそのハードルを更に上げている。クソオブクソだ!◯ね!

そんな私情は置いといて、とにかくヤバい映画をトリュフォー氏は観客にぶつけてくれる。まず、エロい。毎度色事を匂わすような書き方しか出来なくて申し訳ない。まあ、根が助平だから赦してほしい。“許して”じゃなく“赦し”て。後者の方により根源的でマゾヒスティックなニュアンスを感じる。法的な、その場の損得関係の均衡のための“許し”ではなく、存在そのものに対する“赦し”。そんな勝手な印象。何を言ってるんだ。
ああそうだ、何がエロいかって、まあ、直接的なポルノ表現を抜きにいかにして観客を官能の海に沈められるかってことなんだよ。激しい濡れ場を雑に取り入れて前衛だの価値ある退廃だのを気取るような昨今の邦画にありがちなソレとは真逆なんだ。ほんとにやばい表現を食らうと、一生、泳がされちまうんだ、その深い海を。映画さえ観てりゃいいんだ、一生この腑抜けの馬鹿面でテキトーに生きてりゃいいなと思えちゃうんだ。ん〜〜〜、いわゆる日常的な風景にしても、サイエンスフィクションな想像的な世界にしても、それらを如何にして切り取るかという難しさが映画という表現の妙味だと思うんだ。まず俳優のセレクト、ロケーション、カメラワーク、編集云々。総合芸術と呼ばれる映画を拵えることって、メチャクチャ難しいことだと日々唸らされる。

このシーンのこの一瞬に打ちのめされてしまった!もうしばらくそのシーンが頭から離れない!という感動を、皆さんも体験してこられたことでしょう。その感動の正体とは一体何なんだ。道徳も政治性も何もかもを抜きにした、ある種の実存なるものが剥き出しに表出した状態ではないかと、まずは浅薄に推理しておく。テキトーに言い換えると、映像表現の喚起力によって「ありのままの僕私そのもの」が虚空を漂い、その浮遊感が肯定されてしまっているという、絶大なる幸福感。音楽と一緒だ。質のいい映画とは質のいい音楽と一緒なのか?ああ、創作とはそういうことなのか?田舎者の俺にはわからない。不快感。心地よい不快感がある種のカタルシスとして自身を覆い尽くし、かえって逆説的な快楽に浸りホクソ笑んでしまうことだってある。ああ、ただのチンケな快楽主義者?わからない。出た、逃げの定番、わ・か・ら・な・い。

「幸福とは違った。甘い感傷もなかった。すべてが終わった。」というナレーションとともに男女が交わるシーンが終盤に流れる。そのシーンが実に美しい。たまらない。異性への最終的な責任のとりかた、終末を見据えた疲労感、人生への諦観、それら全て、いやそれら以上の全てを含み込んだ、なんとも言えないシーンだ。そして大量の“血”が流れる。映像に殺される。是非見て欲しい。サブスクになかったっけ。ツタヤにあるから、借りて欲しい。フランソワ・トリュフォーの『恋のエチュード』。


俺は映画を観ていて美しいショットの連続に打ちのめされると、頬杖をつき、頭を斜めに傾けて仰け反るような体勢をとってしまう。ああ、してやられた、もーだめだ、と。そして外に出ての一服がメチャクチャにおいしい。大したことない映画だと、別にうまくもない。本当にいい映画は全神経を持っていかれる。体力をシッカリ消費する。筋トレやサウナと一緒だ。そうだ。間違いない。「ととの」っちまっているのかな?


ゴールデンウィークらしくない天気が続きますね。

2023/04/27

皆さんの健康を祈ります。死ななければOKですよ。(「生きてるだけで丸儲け」といった言説が攻撃されたり擁護されたりと、何かとトゲトゲした時代・世間ではありますが、俺は「生きてりゃそれでいい、人を殺さない限り」と思ってます。)

オヤスミ💤

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