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【第3話:違いを受け入れるという事】海外で全ての願いを叶えた実話

こんにちは。


ブログ歴13年、香港のオレンジゴミ箱が大好きなASAKOです。


2015年〜2020年まで、夫の駐在に帯同し香港で生活しました。


この6年間で、

「人生が180度変わってしまった」

そんな私のことと、

「それ絶対ムリでしょ!」

と言われるようなことでも全て叶えてきたことについて、


香港の想い出とともにストーリー形式で書いています。


香港好きの方だけでなく、願いを実現したい全ての方に役立つ「ヒント」をお持ち帰りいただけると思うので、


ぜひ最後までお読みいただけたら嬉しいです。


第2話で『香港で個展大成功』させたところまでを書きました。
まだご覧になっていない方は、そちらを先にご覧になってからの方がいいかもしれません。


この頃も慌ただしかった。


12月28日に個展が終わって、31日発でカンボジア旅行、1月25日には引越しっていう怒涛の日々を送っていた中で、


1月にカフェでコラボ展示の話があり、キックオフパーティでは私がデザインした、オレンジゴミ箱ケーキを出す!という計画で、


それ自体は嬉しくてワクワク、実現に向けて個展開催中から並行して準備はしていたものの、ケーキの試作品がなかなか上がってこない。


このペースで1月に開催できるわけなく、2月下旬にズレ込んだ・・・のだったが、私が延期を強く希望していたのにはワケがあり(ほんとは5月くらいを希望していた)


日本人のお客さまは、3月中旬から春休みで一時帰国をする。年度末なこともあり、皆さん忙しくなる頃なのだ。


それを訴えてもカフェ側は「大丈夫、大丈夫」って感じでね、結果、パーティに予定数を集められなかった。告知期間も足りなかった。


人を集めるって大変。ウォーキングレッスンの時だって何ヶ月もかけて記事を出して、講座の良さを知ってもらうってことを地道にやったわけで、


カフェ側は、私が人気のある人で、人なんてちゃっと集められるだろう、と思ってくれてたのかもしれないけど、


いやいやそれはムリっすよ。急に言ってもみんな予定あるからね、てな感じで、それでも都合をつけて来てくれた方はいて、


なんとか、ゴミ箱ケーキをお披露目することができたのはホッとした。

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なかなかゴミ箱ケーキを作ってくれるところが無くて、やっと外注で引き受けてくれたベーカリーさんには感謝している。


当日、搬入されたケーキが「予定と違う!」なんてこともあったけど、そういうのも海外あるあるで、受け入れていかなくちゃいけないんだなって思った。

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ゴミ箱ケーキも、アイシングクッキーも、正直最初はうーんって感じの仕上がりだったんだけど、


お友達のアイシングクッキー講師にアドバイスを貰って、何回も試作を繰り返し、ここまでのクオリティに仕上がった。がんばってくれたよ。

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私は延期してでも準備万端にしてクオリティ高いものを提供し、多くの方にこのカフェを知ってもらって、新しいお客さまの獲得に繋げられたらいいなという思いがあった。


ゴミ箱ケーキが日本人の間で話題になり、目玉商品となり、それ目当てに日本からの旅行客までもがカフェに訪れてくれるようになったらいいなって、


そんな淡い夢も描いていたけど香港ではスピード重視、クオリティはそこそこでOK 、どんどんやってこう!!みたいな感じなのだと分かった。


確かにその勢いは大事で、完成度を追求するよりも進めてく、ってのは分かるんだけど、


もう少し丁寧にやっておけば、後につづくんじゃないか・・・とか思うのは、やっぱりワタシ甘いのかしらね。


事実、期間中はゴミ箱ケーキセットが食べられる予定だったのに、カフェ側の判断で中止になった。クオリティに問題があると。


いや、こうなるのが目に見えていたから、そうなると私は思っていたんだよ。これは楽しみにしてくれてた方をガッカリさせる結果となり、私も残念だった。


責任も、感じた。


個展は私の独りよがりでよかった。けどコラボは相手がいる。


若い頃から人と関わることを避けてきた私は、とても学びが多かったし「もう嫌だ」とも思ったけれど、


ここで嫌だと幕を下ろしたら、自分の限界もここまで。


成長は止まるし、可能性も消える。

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このコラボ展示では、こんな出来事もあった。


1ヶ月の展示期間中、わたしは基本カフェには行かなかったのだけど、たまに行った時に作品の額が傷ついていることに気づいた。聞くと、落下してしまったらしい。


私の感覚だと、落ちた時点で私に即連絡をし、額が傷ついた旨を伝える。しかしそれがなく、偶然わたしが出向いた時に自ら発見するという現実にショックを受けたのと、


額までを含んで「作品」と呼ぶ私の考えと、傷ついたのは「額」だから問題ないという認識の違いに、大きくショックをうけた。


この後もぞくぞくと作品たちは落下し、合計4つの額作品が傷ものになった。


1つ目の額が傷ついた時にあれだけ言ったのに、また別の額も傷つける。そしてまた私に連絡はしない。


このことで私は時間の経過とともに怒りが増し、人を恨み、心をかき乱した。


泣きたいほど落ち込むほど、私の心は傷つき、色々な人に文句を言ったのだが、聞いてくれた方のアドバイスによると、これは相手にも悪気のないことで、


ただ、感覚の違いである、ということが分かった。


この時、私は「違い」に対する痛烈な嫌悪感を抱いていたことに気づき、


ちがい = きらい と決定づけていたことにまで気づいた時、


私はなんて心が狭いのか、自分の国は良くて、他国はダメ、


自分が常に正義だと刃をむき出しにして、


「外国で、作品展示をさせてくれる機会を与えてくれた」という好意など一切見えず、認めず、受け入れずに、恨みの炎をふつふつと燃やしていたことに、


なんと自分は愚かだったのかということを、思い知った。


おとなしく香港生活を楽しんでいれば、この痛みは感じずに済んだだろう。


けど踏み込んでいったのは私自身であり、だからこそ痛みを知れたわけだけど、これは外国で働く人たちの、


葛藤や、大変さのほんの、ほんの一部を覗いただけに過ぎない。


外国で、言葉も文化も違う現地の人と一緒に、何かを作り上げることの大変さを知ることが出来たのも、だれもが経験できるわけじゃない。


だからこの経験に、恨みどころか感謝の念を持つべきなんじゃないのか?


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香港に20年以上住んでいる先輩に話を聞いてもらった。その時にかけてもらった、今でも大切にしている言葉がある。


「情熱は痛みを乗り越える」


この言葉が私を突き抜けた時、少し光も感じた。


選択肢は、3つ。


1. 闘いながら、関わっていく

2. 調和しながら、関わっていく

3. 関わるのをやめる


この頃、私は香港が嫌になった時期だった。


痛みは、そう簡単に消えるものではなかった。でも、このまま香港が嫌いになってしまうのか、また好きに戻れるのか?


闘うのか、調和するのか、関わらないことだって自由に選べる。


夫にも言われた。


「こちらに言い分があるように、相手にも言い分はあるのではないか」


こういった所までを想像する余裕が、私にはなかった。ただ傷つけられた、傷つけられたとわめくだけで、そこに至るまでの相手がしてくれたことなど全て見えないでいた。


言葉がちがう、生きてきた環境も背景もちがう人間同士が、一緒に何かを成し遂げようとするならば、


違っているのは、当たり前。


まずは違いを受け入れ、その国で暮らさせていただいているということをいつでも忘れずに、


調和しながら、時には闘いながら、


私はやっぱり香港が好きだし、関わっていくことを諦めたくないと思った、


そんなとても学びの多い、イベントだった。


ありがとうと、感謝の気持ちをいま改めて、伝えたいなと思う。


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次は世界がコロナに包まれてしまってからの出来事に移ります。


子供もオンライン授業になり、ずっと家にいる。慣れないことで授業にもサポートが必要だった、それにも慣れてきた頃、


私は手作りマスクを量産、その売上で必要な団体へ寄付するということを始めます。それから香港のBIGメディアに取り上げられるまでのお話。


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それじゃあまたね!!ばいばい!!


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