人は言葉で信用するのか。それとも、人で信用するのか。 〜文脈と信憑性の不思議な問題〜

近頃、科学者と哲学者の対立(と言うよりも啀み合い)をTwitterで散見して、科学者側の主張に「哲学者は科学的知識を引用する時に、詳細な根拠となる論文をまともに読んでいない。彼らは科学者が書いた一般向けの読み物や中等教育レベルの知識から引用している。哲学者は本人がその科学的知識の機序を本質的に理解していないのにも関わらず、好き勝手弁論していてズルくて鬱陶しい。(意訳)」のような主張をみつけて、その論理的な構造の面白さに惹かれた。

確かに、科学的知識の詳細な根拠が記載されている論文を読まなければ、また論文に記述されている内容が十分に理解できる程度には各科学的素養がなければ、科学的知識の本質的な理解が得られておらず、そのような中途半端にブラックボックス化された主語の大きい知識を組み合わせて書き上げられたテクストに「人類の叡智と呼べるような知識としての価値や有用性やその行いの意義はあるのか?」と問いたくもなる。

仮にそのテクストに科学的価値は無いとしても、それには美学価値や有用性や意義があるかもしれない。これは当然だ。哲学は科学とは違うからだ。ということは科学者の側は、彼ら自身の科学的価値を重視する価値観だけで、そのテクストの価値を判断しているから話が噛み合わない、とする価値観の相違という初歩的な問題で、一方的な主張の押し付けをしているだけなのではないだろうか?

そこで新たな問いとなるのが、例えば「猿の奏でたランダム性の高いピアノや、猿が描いた絵には美学的価値があるのか?」といった問いだ。

猿は我々人類と同様な思考や感性を持っていない。その前提であれば、猿の芸術には我々人類の芸術と同様な背景や感性が備わっていない。つまりその芸術に内包される機知のある恣意的な意味が無いのだ。それならば、やはり我々人類にとって価値が無いと言えるかもしれない。

しかし、では次の問いを考えてみよう。「世界中にある滝や山脈、渓谷などの絶景や晴天、星空などは、そこに恣意的な意味は無いと言えるが、それでも美学的価値が認められるの何故か?」と。これで大凡の結論は出たのかもしれない。我々の認めるところの美学的価値は、それに内包される恣意的な意味の存在は必要とせず、単にそれを観賞する人自身の主観的な感性によるものだと言うことだ。もちろん、ある人によっては「地球上の絶景には神々の御技とも呼べる神秘性を感じる。それにこそ価値がある。」と神などの超自然的な存在を擬人化し、そこに恣意的な意味を見出すかもしれない。それでも、自然に対する美学的価値は大凡は主観によるものだと言える。

それでも「膨大な文学作品を学習したAIによるオリジナルな文学作品に美学的価値を感じるか?」という問いには、美学の主観的価値論に一石投じるような刺激がある。それもそのはず、文学作品に限らず文章には、筆者の想定した文脈があり、それを読者が読み解く謂わばコミュニケーションのような関係性が前提となっているからだ。そのため仮にAIが「今日の富士山は美しい」と書いたならば、我々はそれにとてつもない違和感を憶えるだろう。「お前は富士山を知っているのか?」→"富士山の写真を提示"、「お前は富士山を見た事があるのか?」→"富士山の定点カメラの映像を表示"、「お前は富士山を見たときの美しさの感動が分かるのか?」→"富士山に関連付けられる美しさの表現を具体的文学的に表現し、数ある富士山の写真の中でも特別美しいものだけを提示"

ここまで読めばお分かりだろうが、実は人間とAIのコミュニケーションは十分成立し得る。それでも、我々がAIの感動を頑なに認められないのは何故だろうか。もはやこれは我々自身のAIに対する機械的な認識、つまるところ差別意識ではないだろうか。

そして更にこれを科学的価値のある知識に置き換えると、AIが数学や理論物理学の論文を書くことになる。その手法によって得られた新たな知識は、果たして現実的な科学的価値や有用性があるのだろうか?

この時点ではこの議論に決着はつかないが、我々人間がAIによって齎された論文を査読し、検証をすることで、その科学的価値は確認できる。つまり、AIの思考過程がブラックボックス化されていても、明らかに与えられた知識以上の知識を有していようと、その結果として出力された論文が検証によって正当性が保証されれば大した問題はないということ。もっとも、今のAIは思考過程や判断の根拠を表現できるようにもなってきているらしいが。

つまり科学的価値の判断は、論文を書いた人の知識や思想に依らず、その論文の内容のみで判断される。だからこそ科学論文をAIが書いても、哲学者が書いても、それに誤謬さえ無ければ問題はないのだ。それを検証するためのアカデミアのシステムは既に整備されている。

とは言え、哲学者に限らずとも異分野の学者や一般人が十分な知識のないまま好き勝手主張したり指摘したりしても、その多くは間違っている可能性が高い。だからこそ、疑似科学のような科学的知識の啓発上問題がある行いであるため、異分野の専門家の合意なしに好き勝手主張したり指摘したりするのは自重すべきなのだろう。

もちろん、科学の領域にも哲学によってでしか答えようのない問いは存在する。それが科学の方法論だ。科学の反証可能性という基礎的な考えも科学哲学によって成立した。つまりどのようにすれば正しい知識が得られるか、また正しい知識とは何かを定義するには必然的に哲学が必要になる。しかしそれができるのは、科学的素養と哲学的素養を併せ持つ知識人にしか不可能だろう。

結局の所、厳密には人の言葉のみによって信用すべきではあるが、それを判断できるような知識の無い人、または誰にも答えようのない考えなどは、無闇に信用すべきではない。そのため人は人で信用する。つまりは肩書やそれまでの実績を参照する方が簡単なのだ。肩書や実績は多くの同業者によって認められた証でもある。その統計的確実性が、人の言葉の信憑性を保証している。それをメタに捉えれば、常に易きに流れるように人の肩書や実績ばかりで判断するのは危険であり、結局は自分自身の知識を蓄え、客観的に判断できる教養人となるしかないのだ。