想像力と敬意の関係について
※これは以前書いたブログを今の気分でリライトしたものです
私は職業柄というか立場柄というか、人さまからしばしばコメントやアドバイスを求められます。
そのたびに、「大した話はできないんですけど…」と言いながらほんとうに大したことがない話をしています。こんなんで大丈夫かな…と自分でも思いますが、大した話しかできないのでこればっかりは仕方ありません。
ちなみに、大したことがありそうな話をするのは意外とかんたんで、
・珍しい語彙や慣用句を使い
・賢そうな比喩を織り交ぜつつ
・言い切る
と、なんだかそれっぽい化粧がほどこされ、ふしぎと大した話のように聞こえます。
というわけで私もつねづね胸を張って言い切っていればそれなりに格好がつくはずなのですが、繰り返しますけどほんとうに大したことない話しかできないので、毎度のごとく言いよどみ、歯切れの悪い発言を繰り返してここまで来てしまいました。
ついでにいうと、「人の仕事にケチをつける」のも、大したことがありそうに見せる手段としては有効です。内容がどうであれ、ケチをつけるとその瞬間に強制的に「批評 ー 被批評」の構造が立ち上がる(捏造される)ので、批評している側がなんとなく賢そうに見えてしまうからです。
フェンスと想像力と敬意
私は仕事をするときは以下のチェスタートンの格言を意識することが多いのですが、
なぜフェンスが建てられたのかわかるまで、決してフェンスをとりはずしてはならない
(Don’t ever take a fence down until you know the reason it was put up)
この、とっても慎重かつコンサバな格言が妙に好きなのは、そこに「想像力」と「敬意」が働いているからだと思います。
唐突ですが、「想像力」と「敬意」は並列なんでしょうか。
私は想像力から敬意が生まれることが多いのではないかと思っています。
一般に、知らないことは想像しにくいものです。でも、仮に想像ができなくても、「想像ができない世界がこの世には存在しうる」という想像はできるはずです。その想像こそが「敬意」なのではないかと。
だから、「自分はなんでも知っているZE!」とでも言わんばかりに人さまの仕事に無遠慮に踏み込んでくる行為や表現は、敬意を欠いた行動、つまり「拙者は想像力が乏しい輩でござい」という表明に他ならないのではないか。
チェスタートンのフェンスは、そういうことを言っているんだと思います。
頼まれごとは試されごと
見える化、定量化によって細かく事実関係をつっつくようなことは以前よりもやりやすくなりました。DXだなんだとかまびすしい世の中ですが、そのおかげでワークフローにはますますデジタルが介在し、あらゆるところに証跡が残る世界へと進んでいます。
人さまから求められるコメントやアドバイスの機会は、常に想像力と敬意を試されている機会でもあります。「頼まれごとは試されごと」なんてよく言ったものです。
私はEコマースとか広告とかの仕事が多いのですが、こういった分野は表面上の情報(データ)がとりやすく、しかもそのデータはやればやるほど増えていきます。
そして、私のいるところは(ありがたいことに引き合いをいただくことが多いので)たいていの仕事は頼まれてから始まります。
つまり、毎回毎回想像力と敬意を試されているわけです。
データと人とを、想像力を以って知的で創造的な営みに転換できるのかねキミは? ん?
自分の斜め上あたりからそんな声が聞こえてきます。
会社をつくることが正式に決まってからもうすぐ1年が経ちそうな今になって改めてこんなことをぼんやり考えなおしてみると、あーこれやっぱ一人じゃ無理じゃね? ていうか一社でも無理じゃね? みんなが来てくれてよかったなあ、なんて思ってます。
この1年間、思ったとおりにぜんぜんいかないこともあれば、思った以上だったこともあります。
前者は敬意をもって反省し、後者をもっともっとつくれるよう、想像力を働かせていきたいと思います。はー、がんばろう〜。
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