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「教育」という言葉について

我々が、普段何気なく使っている「教育」という言葉。実はこの言葉が一般的に使われるようになったのは、近代になってからである。

「教育」という言葉自体は古代中国ですでに誕生していた。「教育」という漢字は儒教の教典である「孟子」のなかに初めて登場する。

得天下英才而教育之             (天下の英才を得て之を教育す)「孟子」

君子が統治する地域から優秀な人材を選び「教育」することは、君子ならではの楽しみ、喜びであると「孟子」は述べている。

このように「教育」という言葉は中国で生まれ、その中国から漢字を輸入した日本は、「教育」という言葉を取り入れることも可能だった。しかし上記のように、「教育」という漢字の使用は近代まで持ち越されることになる。ここにひとつの「疑問」が生まれる。

「なぜ教育という言葉は近代になってはじめて一般化するのか?」

まず明らかにするのは、なぜ当時の日本では「教育」という言葉を取り入れなかったのかという疑問だ。これを説明するために、「教育」という字の意味を考えてみよう。

教育の「教」の古字は「爻」「子」「攴」という三つの部分から成る。

「爻」=コウは建物、「子」は子供を意味する。そして「攴」=ボクには「手に鞭を持つ」という意味がある。つまり「教」という字には、「建物中の子供たちを、鞭で打ってでも学ばせる」という意味がある。

一方、「育」には、「養って善き人とすること」つまり、子供に内在する可能性の発達に期待するというニュアンスが含まれている。

これらのことから、「教育」とは、強制的な働きかけとともに、子供の主体性にも期待するという、矛盾する二つの作用が内包された言葉であることがわかる。

では、日本語の和語の中には「教育」に類する言葉はあったのだろうか。

一説によれば、「小さいものを愛憐する」という意味をあらわす「ヲ(愛)シフ」という言葉があったと言われている。ここでは小さい者を見守る、大事にするという視点から、子供の主体的な成長、発達が大切にされていた。

つまり、強制力を伴う「教育」という言葉は、当時の日本の主体的な成長を願う人間形成の方法には馴染まなかった。よって「教育」という言葉が使われることもなかったのである。

ではなぜ日本固有の価値観とは相入れない「教育」という言葉が一般化することになるのだろう。

時は流れ、時代は明治。明治時代の日本では、西洋文明をモデルとした近代化が目指されていた。それは教育の分野でも同様であり、西洋的な学校制度の確立が急がれていた。

「教育」という言葉は、この流れのなかで、「education」の翻訳語として登場することになる。ただ明治初頭の多くの学者はこの英単語を「学ぶ」「学問」と翻訳していた。

1872年に制定された「学制」では、「学ぶ」場所としての学校が想定されている。

しかし1879年には学制は廃止され「教育令」が新たに公布される。ここから「教育」という言葉が世間に広まっていくことになる。

近代化を目指す日本にとって、モデルとなる西洋に追いつくためには、教科書の知識を注入する教育、つまり「強制力」を伴った教育が目指されるようになる。この時代の流れも「教育」が一般化する大きな理由であると考える。

「教育」とは本来、主体性と強制力という二つの作用が含まれるものであるが、当時はむしろ「教」に偏った教育が行われていた。

偏りがあるともう一方に戻ろうとするのが世の常である。以後、日本の教育は、「教」と「育」を行ったり来たりしながら時代とともに進んでいくことになる。

参考文献:

森川輝紀「教養の教育学」三元社

青木五郎他「クリアカラー国語便覧」数研出版






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