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【エピソード紹介】フランス・ギャルと幻の企画(映画編)


 今回はフランス・ギャルの芸能活動における、いわゆる「幻の没企画」を取り上げたいと思います。前回の記事で「エルトン・ジョンとのアルバム企画がギャルの妊娠が理由で没になった」と書きましたが、ギャルの伝記や活動当時の雑誌の記事などを読むと、他にもかなりの数の「実現しなかった幻のプロジェクト」の存在が伺えます。中には「もしこれが実現していたら凄いことになっていたのでは…?」というものもありますので、かいつまんでご紹介したいと思います。また別の内容を紹介する記事も書く予定ですが、今回は映画(+α)編です。

 ギャルの仏語版Wikipediaを見ると、"Un destin sans cinéma"(映画のない運命)という項目が目を引きます。その記載の通り、ギャルは1963年のデビューから1997年の歌手活動引退まで、映画やドラマに女優として出演することはほとんどありませんでした。("STARMANIA"等のオペラやTVミュージカルには何度か出演して歌っています)

 同時期に活動していたフランスの女性アイドル歌手、フランソワーズ・アルディやシルヴィ・バルタン、ジェーン・バーキン等が女優としても活躍している中、「歌のみに専念する」というギャルの活動スタイルは、当時としてはかなり異質だと思います。これはギャルが後のインタビュー等でよく語っているように、「演技が非常に苦手だった」という理由もありそうですが、いくつか「乗り気だったにも関わらず流れてしまった企画」も存在したようです。


 

①ミュージカル映画「不思議の国のアリス」

 驚くべきことに、あのウォルト・ディズニー卿本人が、ギャル主演による「不思議の国のアリス」のミュージカル映画の製作を企画していたという話があります。1965年にギャルの曲をトリビュートしたTV番組がアメリカで放送され、それを見たディズニー卿は、ギャルの可愛らしい容姿と歌声に興味を持ったようです。「不思議の国のアリス」は1951年に既にアニメ映画化されており好評を博していましたが、ディズニー卿自身は音楽に納得がいっていなかったとか…。

 ギャルはこの話にかなり好意的な反応を示していたそうですが、残念ながらディズニー卿は既に重い病気を患っていました。そして1966年にディズニー卿が亡くなるとともに、映画の企画も立ち消えになってしまったということです。

 フランス・ギャル主演の「不思議の国のアリス」、もし実現していたらどうなっていたでしょうか。ギャルはその後ミュージカル女優として地位を築いていたかもしれないと思う反面、彼女の人生を大きく変えたミシェル・ベルジェとの出会いもなかった…かもしれません。

1965年のギャル
小柄で可憐な容姿は「アリス」にお似合いだ
(Photo by Giancarlo BOTTI/
Gamma-Rapho via Getty Images)


②アラン・ドロンとの幻の共演

 アラン・ドロンといえば、1960〜70年代を中心に活躍し、その甘いマスクで一世を風靡した往年の世界的大スターです。(フランス人です)代表作は映画「太陽がいっぱい」(Plein soleil、1960)や、ダリダとのデュエット曲「あまい囁き」(Paroles, Paroles、1973)など。日本でも非常に人気が高く、CMにも多数出演していました。

 めちゃくちゃカッコいいの一言です。「イケメン」という言葉を使うのも畏れ多いほどの正統派ハンサムです。お年を召しても渋くて魅力的。88歳の現在は俳優業を引退されていますが、2000年前後までは数多くの映画に出演されていたようです。

 そしてこのアラン・ドロン主演の映画「さらば友よ」(Adieu l'ami、1968)のヒロイン役として、最初にキャスティングされていたのがフランス・ギャルだったという話があります。しかし、この大抜擢をギャルは断ってしまいました。理由は「アラン・ドロンとのキスシーンがあるから」。当時のギャルは歌手のクロード・フランソワと交際しており、元々女優志向のなかった彼女は、お芝居とはいえ恋人以外とのキスを受け入れられなかった…というのが表向きに伝わっている話です。ただ、一説には「クロード・フランソワがアラン・ドロンとのキスシーンを許せず、ギャルにこの話を断らせた」とも言われています。クロードはギャルのユーロビジョン優勝すら良く思っておらず、彼女の成功や人気に嫉妬していたとか…。(クロード・フランソワについては別途記事を書きたいと思います)

 絶世の美男子アラン・ドロンと、これまた絶世の美女フランス・ギャルの共演、個人的には非常に観てみたかったです。


③夫ベルジェとの確執

 これまでにも何度も書いた通り、ギャルは1974年からシンガーソングライターのミシェル・ベルジェとタッグを組んで活動していきます(1976年に結婚)。ベルジェが書いた曲をギャルが歌う…という活動スタイルを10年以上にわたって続け、2人はミュージシャンとしてだけでなく、「理想的なカップル」としても人気を集めていました。しかし、80年代半ば以降のベルジェは、徐々に音楽制作よりも映像制作や演出に興味を惹かれていったようです。"Babacar""Évidemment"等複数の曲のMVや、ギャルのコンサートの演出・監督をベルジェ自らが手掛けていることからも、その傾向が伺えます。彼は元々オペラ"STARMANIA"の原案を作成するなど、音楽だけに留まらない多彩な才能の持ち主でもありました。

 そして、1988年ごろにはベルジェはギャルを主演としたミュージカル映画の企画をしていたようです。しかしながら、彼女はこれも拒否してしまいます。ギャルは当時のことを「演技をするのが嫌だった」とインタビューでは述べていますが、彼女がちょうど芸能活動からの引退を考えていたことも大きいと思います。(おそらくはお子さんの病気のため)これを受けたベルジェは非常に落ち込み、夫婦の間に大きな亀裂が生まれてしまいました。

 その後ギャルは数年間をほぼ休業状態で過ごし、一方のベルジェは"STARMANIA"の新バージョンや英語版を製作したりと、それぞれ別の活動を行いますが、結局2人は最終的には一緒に音楽活動に戻ることを決めました。そして1992年に初めてのデュエットアルバム"Double jeu"をリリースすることになるのですが、その製作は非常に困難を極めたそうです。

 これはアルバムのメイキングと発売当時のインタビューを編集した動画のようです。(ギャルは当時44歳)。私にはとても和やかに見えるのですが…裏ではいろいろあったのでしょう。

 そしてこのアルバムの発売2か月後にベルジェが心臓発作に倒れ、夫婦2人での共作活動は突然終わりを告げてしまいました。ギャルはのちにこのアルバムを「全く新しいミシェルのサウンド」と言い、「これからどこに向かっていくのかもっと見ていたかった」と語っています…。


【参考】



 

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