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ひとまわり~2人目(前編)~

エスプレッソに興味を持ったのをきっかけにバール巡りをして、記した「バールノート」。あれから12年が経ち、彼等の今に会いに行きたくなりました。その記録を、ここで残していこうと思います。2人目は、バール巡りから紹介で知り合ったバリスタさんの話です。

出会い

Aさんを知ったのはバール巡りの始めの頃、とあるバリスタさんに紹介してもらったのがきっかけでした。都内では珍しい「パスティッチェリア・バール」で、イタリア菓子が並ぶイタリアンバールにAさんは居ました。

場所柄もしかりですが、石畳のエントランスからスタイリッシュで白を基調とした綺麗な空間に、入る前に少しドキドキしたのを覚えています。入口入って直ぐ正面にケーキのショーケース、左手に白い大理石のバンコがあり、奥には落ち着きのあるテーブル席。入った瞬間からコーヒーとスイーツの心地よい香りが広がっていました。

Aさんから店内利用かを尋ねられた私は、「バンコでお願いします。」と答え、いつもの様にエスプレッソを飲み、カプチーノを注文しました。そこから、〇〇さんの紹介で来たことや、エスプレッソの勉強をしている話など、物腰の柔らかいAさんの接客のお陰で、どんどん話が広がったのを覚えています。

応援

その日をきっかけに、私は何度もAさんが居るバールに伺う様になりました。理由は、Aさんの接客だけでなく、他のバリスタさんもクオリティが高かったこと、スイーツがイタリア菓子に特化していて凄く美味しく、菓子の勉強にもなったことからです。今思うと「客が店に付く」という貴重なお店だったと思います。

不定期ですがバールに通う中で、Aさんがバリスタの大会に出場する話を聞きました。もうすぐ予選で、仕事終わりや休日を利用して練習や準備をしている話を聞き、その内容の大変さと、若輩者ながらその大会の事を知っていた私は、Aさんの予選を応援しに行くことになりました。誰が見ても実直にひたむきに取り組んでいるAさんなら、ファイナルまで行くに違いない、心の中ではそう信じて応援していました。

予選会に足を運ぶまでは。

努力と結果は≠

当時の大会の設定は「4名のお客様が来店されました。お客様は15分しか時間がありませんが、どうしてもエスプレッソとカプチーノが飲みたいとのご要望。それを叶えるために、貴方はどのような接客をしますか?」という設定の中で、それぞれが4名にエスプレッソとカプチーノを提供する15分間の接客を競うものでした。

競技者にはタイマーは見えません。手を挙げ「始めます」の瞬間からカウントが始まり、接客を終え再び手を挙げた瞬間で、15分以内でなければなりません。そして応援者(観覧者)は、時間の経過が分かりそうなリアクション(声を出す、手を振る等)は禁止、静寂の中で競技が行われます。当時は特に厳しい審査で、観覧者も息を飲む空間でした。そんなこととはつゆ知らずの私は、Aさんの番になり、競技の最中ずっと内容を聞きながら、目の前に見えるタイマーの進行に表情を出さないよう、手をギュッと握りしめて応援したのを、鮮明に覚えています。

Aさんのその年の結果は、惜しくもファイナルには進めませんでした。何百人もエントリーがある大会でのファイナル8名への進出は、並大抵の努力では済まないことは百も承知しています。でも、客観的に見ても「競技の設定」には十分沿って、素晴らしい接客をしていたのに…何故?という疑問が残りました。「努力は報われる」と、誰が言った。報われるならAさんはファイナルに行ける力を十分に持っている、もどかしさとやり切れない気持ちが残りました。

奇しくも、丁度そこからの数年間は、あるお店のバリスタが上位を占める年が続くという、不思議な結果と、接客の審査のはずが農園やコーヒー豆、フレーバーの複雑さ等、接客よりも重視されたところに違和感を持ち、私は大会自体を見に行かなくなりました。当時、私もバリスタだったので、方々から「大会出ないの?」と聞かれましたが、「出ません、絶対に」と否定し続けました。理由はその違和感と、そこに費やす時間とお金を、私は今目の前に来てくれるお客様へ還元していたかったからです。あとは単純に、あの予選会を見て「こんな凄い緊張感の中でなんて、とても出来ない…」という思いからでした。

突然の知らせ

私がバリスタを辞めた後も、Aさんのバールには時々行きました。現役で居た頃より頻度は減りましたが、いつ行っても誰がカウンターに立っていても変わらない雰囲気が好きだったからです。

しばらく経ったある日、別のバールで「知ってる?○○(Aさんの居る店名)、閉店するんだって」と言われました。あまりに驚き、直ぐにホームページを確認すると、「閉店のお知らせ」が。当時は特にバリスタ間の横の繋がりや情報共有が濃かったので、どのような経緯など、親しいバリスタの中で知る事になります。客観的にみれば繁盛し、常連さんにも愛され、クオリティの高いお店だったため、当時の衝撃はとても大きかったです。

閉店までのお店は、ずっと客足が途絶えず、いつ行っても店内に人が多く賑わい、誰もが惜しむ中、最後の日が訪れました。その後、Aさんは関西の系列店拠点を移しました。個人的な連絡先を交換していなかった私は、そこでパタリと音信不通になり、共通の繋がりからたまに近況を知る程度になりました。


あっという間に月日は流れ、気付けば9年が経っていました。Aさんは関西にいると思っていた私は、ある事をきっかけにAさんが東京に戻っていることを知ります。


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