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聖書における殺人

聖書において殺人は、モーゼの十戒にて「殺してはならない(汝、殺す勿れ)」と記されている。
非常に簡単な教えだが、防衛などの理由があってもダメなのかという疑問には答えていない。実際、モーゼも十戒を定める以前に、同胞のヘブライ人奴隷を殴っていたエジプト人を殴り殺している。

更に言えば、この「殺してはならない」という言葉は、正確には「人殺しをしてはならない」(出エジプト20:13)であり、「人殺し」をさらに詳しく示すなら「敵意をもってほかの人を意図的に、計画的に殺すこと」である。そして、この教えは十戒の6番目であり、その上1~4は神への忠誠に関するものだ。
なので、神がサムエル15:18にて「『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え』」という命令を預言者を通し与えれば、それは正しい殺人になるのである。

この聖絶という内容は「アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」という内容であったのだが、この話の肝は、これほどまでの内容を「なぜ神が命じたのか」ということを理解できていないまま信者たちが実行した点にある。
なぜこのようなことが可能なのか? それは神に対する絶対の信仰にある。

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天が地より高いように、 わたしの道はあなたがたの道より高く、 わたしの思いはあなたがたの思いより高い。(イザヤ55:9)

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:33-36)

つまり、この「理解できない」という問題を、神を完全に理解するのは不可能だと認めた上で、「神が唯一絶対である以上、神の意志や行為は常に正しい」という形で正当化しているのだ。

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ここでもし、神が命じた「女や子供まで皆殺しにする」という内容に対して、自分の倫理や感情などによって「神が正しいか」どうかを判断しようとするならば、それは神を信じているのではなく、自分の感覚を信じているにすぎない。よって、聖書の神が唯一絶対正義だと信じるならば、神が命じたこれらの行いを「正しいと受け止める」しかないのだ。

この正しさの束縛は、「子供を殺した」ことに対し、「カナンの子供は、子供のうちに殺されたので天国へ行ける。もしそのまま大人になっていたら、偶像崇拝の民として、永遠に滅びるから、子供のうちに殺されてよかったのだ。」などの過激な解釈を信者に生ませる原因にも繋がっている。(子供を殺して「よかった」と考える宗教は正しいだろうか?)

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これほど過激な思想に至る要因として「聖絶」の持つ特異性がある。
聖絶における主への献身とは「すべてを滅ぼし尽くすこと」であり、そのために求められるのは「神の道具となること(御言葉に対する完全な服従)」である。つまり、聖絶において略奪などは認められないのだ。しかし、サウルは戦利品を聖絶にせず、運び出したことにより主の目に悪とされてしまった。

これは正に、聖絶という命令に従った本人ですら、聖絶する(女子供を皆殺し、戦利品すらも焼き払う)意味を理解せず命令に従っていたという証拠だろう。(相手が子供を生贄に捧げる蛮族だから滅ぼす程度の認識はあっただろうが)

このように「聖絶」に関して語る時、信者は自分の理解や感情を超た「神の御言葉に服従して聞き従う存在」となることが求められる。
宗教が戦争と関わる上で作り上げられるこの特殊な関係が、信仰に盲目さを呼び込む原因になっているのではないだろうか。(信仰が信者から考える力を奪ってしまう実例に感じる)

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