日本海軍の階級について (9)軍楽科
今回は軍楽科と、廃止された部科の簡単な説明を。
前回までの記事は以下になります。
軍楽科
軍楽隊はかなり古くからあり、イギリスから指導者を招いて教えを受けたという話も伝わっている。
はじめは海兵隊に属していたこともあり早くから武官扱いだった。明治5(1872)年の官等表には楽手、鼓手、喇叭手などの階級が見受けられる。
明治19(1886)年に階級がひとまず整理された。
明治30(1897)年には高等官である准士官がおかれ、大正4(1915)年に特務士官となり、大正9(1920)年に特務士官が三階級になるとともに階級呼称が兵科にならって改められた。
軍楽科は演奏技能があることが大前提なので志願兵のみで構成されていたのが特徴である。また本来、海軍兵の兵籍はその本籍地を管轄する鎮守府にあるものだが、軍楽科は本籍にかかわらず横須賀鎮守府に兵籍が置かれた。所帯が小さく一ヶ所にまとめたほうが得策と考えられたらしい。東京音楽学校(現・東京藝術大学)との協力にも好都合だった。
軍楽科には士官がなく、特務士官・准士官・下士官および兵しか所属していなかった。昭和17(1942)年になって、大尉の昇進先として士官たる軍楽少佐が新設された。
士官がいないにもかかわらず、その任務の特性から服制も異なった。服装には格上のものから順に正装、礼装、通常礼装、軍装、略装があり軍装が一般の勤務で着用すべきとされていた。下士官以下は通常礼装以上の設定がなく儀式では軍装を着用するとされていたが、軍楽科だけは例外で華やかな礼装が設定されていた。
軍楽科の識別線は藍色である。
兵(軍楽科)
明治19(1886)年には一等ないし三等楽生が設けられていたが、明治22(1889)年に一等ないし五等軍楽生とされた。
大正9(1920)年に一等ないし四等軍楽兵と改められ、昭和17(1942)年に陸軍にあわせる形で改称された。
四等軍楽兵(のち二等軍楽兵)は最下級である。
三等軍楽兵(のち一等軍楽兵)はその上級である。
二等軍楽兵(のち上等軍楽兵)はさらに上級である。
一等軍楽兵(のち軍楽兵長)は兵の最上級である。
下士官、准士官(軍楽科)
下士官は一等ないし三等軍楽手と称していたが、大正9(1920)年に軍楽兵曹と改められた。昭和17(1942)年に上等、一等、二等と改称している。
三等軍楽兵曹(のち二等軍楽兵曹)は判任官四等に相当する。
二等軍楽兵曹(のち一等軍楽兵曹)は判任官三等に相当する。
一等軍楽兵曹(のち上等軍楽兵曹)は判任官二等に相当する。
准士官はもと軍楽師と呼んだが大正9(1920)年に軍楽兵曹長と改称した。
軍楽兵曹長は判任官一等に相当する。
特務士官(軍楽科)
明治30(1897)年に高等官たる准士官として軍楽長が新設され、大正4(1915)年に特務士官となり大正9(1920)年に三階級となる。
昭和17(1942)年に「特務」が除かれた。
軍楽特務少尉(のち軍楽少尉)は高等官八等(奏任官六等)に相当する。
軍楽特務中尉(のち軍楽中尉)は高等官七等(奏任官五等)に相当する。
軍楽特務大尉(のち軍楽大尉)は高等官六等(奏任官四等)に相当する。
士官(軍楽科)
昭和17(1942)年11月1日に、士官の軍楽科が新設され、軍楽少佐の階級が設定された。特務士官たる軍楽大尉から特選で任用するための受け皿なのであろう。
逆にいえばこのときまで軍楽特務大尉には特選で士官に任用される途は閉ざされていた。
軍楽少佐は高等官五等(奏任官三等)に相当する。
海兵部
明治のはじめには海兵隊が存在した。士官の階級は兵科と変わらないが、下士官や兵には陸軍らしい軍曹や一等歩兵などというものも見受けられる。
明治11(1878)年に廃止された。
船匠科
古くから艦内工作を担当する船匠科があった。昭和5(1930)年に廃止されて機関科に統合されたが、昭和13(1938)年に機関科から分離した工作科は船匠科が復活したものと考えることもできる。
もと兵は木工、下士官は船匠手、准士官は船匠師、特務士官は船匠長と称したが、大正9(1920)年に兵科にならったものに改められた。
船匠科の識別線は緑色であった。ちなみにのちの工作科は機関科と同じ紫色で、整備科が緑色を受け継いだ。
おわりに
軍楽科は関連を含めても士官がいない、ある意味プロフェッショナルの集まりだったのでしょう。少なくとも日本海軍では他に例がありません。
次回は予備員について。
ではまた次回にお会いしましょう。
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