聯合艦隊司令長官伝 (28)高橋三吉
歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は高橋三吉です。
総説の記事と、前回の記事は以下になります。
第二艦隊参謀
高橋三吉は明治15(1882)年8月24日に東京で生まれた。父はもと岡山藩士だが維新後は新政府に出仕して東京で勤務していた。そのまま東京で育ち日清戦争後に海軍将校をめざして江田島の海軍兵学校に入校した。明治34(1901)年12月14日に第29期生115名中5位の成績で卒業し海軍少尉候補生を命じられた。首席は溝部洋六である。このときの遠洋航海は明治22(1889)年以来その役割を担ってきたコルベット金剛と比叡の最後の遠洋航海になった。高橋は比叡に乗り組んで明治35(1902)年2月に横須賀を出航しオーストラリアや、アメリカ領になったばかりのフィリピンを巡って8月に帰国した。装甲巡洋艦常磐に配属されたがまもなく巡洋艦松島に移る。明治36(1903)年1月23日に海軍少尉に任官したがその時には第30期生の候補生たちが遠洋航海のために乗り組んでいた。江田島でともに生活していた下級生と清国沿岸、オーストラリア、東南アジアを巡った。この年の遠洋航海は常備艦隊司令官の上村彦之丞が橋立、松島、厳島を率いる形となり、日露戦後に編成されるようになった練習艦隊を先取りした。2月に横須賀を発ち、8月に帰国した。このころにはすでに満州をめぐる日露交渉が始まっていた。この交渉は最終的に決裂し戦争が始まる。
日露戦争の前半を高橋は駆逐艦叢雲で従軍した。第二艦隊の第五駆逐隊に属し、開戦冒頭に大連湾を襲撃したあとも旅順方面で夜襲や封鎖をおこなった。黄海海戦にも参加している。明治37(1904)年7月13日に海軍中尉に進級した。旅順が陥落すると戦艦敷島分隊長に移り日本海海戦を戦っている。戦時ということで中尉からわずか1年の明治38(1905)年8月5日に海軍大尉に進級した。戦後は砲術練習所学生を経て戦艦朝日分隊長に補せられる。さらに海軍兵学校の監事に移る。監事は教官と異なり生徒の生活指導にあたる。ついで高橋は巡洋艦厳島分隊長に移ったが、厳島には兵学校を卒業した第35期の候補生が遠洋航海のため乗り組んできた。高橋は引き続き彼らを指導することになる。明治41(1908)年度の練習艦隊は吉松茂太郎を司令官として橋立、松島、厳島で編制されていた。東南アジアを巡って清国沿岸から北海道方面を経て横須賀に戻る予定だったが4月30日に馬公で松島が爆沈してしまう。以降の行程を中断して佐世保に直航することになった。事故の原因は不明である。
帰国後は呉鎮守府参謀を短期間つとめたあと海軍大学校乙種学生と海軍砲術学校高等科学生を修めて砲術屋の仲間入りをした。呉鎮守府副官を1年つとめて海軍大学校甲種学生(第10期生)を命じられる。在校中の明治44(1911)年12月1日に海軍少佐に進級した。修了後は装甲巡洋艦生駒分隊長、戦艦河内分隊長を経て海軍省人事局で勤務した。第一次世界大戦がはじまると調査研究のためヨーロッパに派遣される。1年あまりの派遣を終えて帰国すると第二艦隊第四戦隊参謀に補せられる。大正5(1916)年12月1日に海軍中佐に進級し戦艦肥前副長に移る。しかしドイツが無制限潜水艦戦をはじめたため日本も対応を迫られ複数の特務艦隊を編成した。インド洋を担当する第一特務艦隊の参謀に高橋が発令されるがこの方面でのドイツ潜水艦の行動はそれほど活発ではなく日本の活動は短期間で終わった。横須賀鎮守府参謀を2年間つとめて第二艦隊参謀に補せられる。このときの第二艦隊司令長官は伏見宮博恭王で、高橋と伏見宮はのちに海軍軍令部でも上司と部下の関係になる。
海軍大学校教官を2年間つとめているあいだの大正9(1920)年12月1日に海軍大佐に進級した。海軍軍令部参謀に補せられ、平時編制や教範を担当する第一班第二課長を命じられた。ワシントン条約が成立して軍令部では計画の練り直しを迫られていた。ロシアから捕獲した巡洋艦を改造した敷設艦阿蘇艦長のあと、戦艦扶桑艦長をつとめて大正14(1925)年12月1日に海軍少将に進級した。
軍令部次長
少将に進級した高橋は海軍軍令部で防衛計画を担当する第二班長を命じられる。大正16/昭和2(1927)年度には聯合艦隊参謀長に補せられる。司令長官は加藤寛治だった。加藤長官は艦隊に猛訓練を課し、結果として美保関事件を引き起こして多くの犠牲者を出した。このとき高橋参謀長は加藤長官に「間違いがあるといけないので引き揚げませんか」と発言して、大川内伝七参謀に「部下がたくさん死んでいるのに長官が引き揚げるとは」と叱責されるという一幕があった。翌昭和3(1928)年度には新たに編成された第一航空戦隊の司令官に補せられた。第一航空戦隊は航空母艦赤城、鳳翔と付属駆逐隊で編成され、第一艦隊や第二艦隊には所属せず聯合艦隊に直接隷属した。昭和4(1929)年度も第一航空戦隊司令官をつとめたが前年と同じく年度はじめには編成されず途中で編成されて聯合艦隊の指揮下におかれた。昭和4(1929)年度の聯合艦隊長官は谷口尚真、部下の赤城艦長は山本五十六大佐である。
昭和4(1929)年度末の定期異動により11月30日に海軍中将に進級して海軍大学校長に補せられる。ロンドン会議が政治問題化したとき、高橋は条約に反対だったが海軍大学校長は政策に口を出せるような立場ではなく結果として条約が成立するのを眺めているしかなかった。高橋は軍令部の課長の時代から軍令部の権限を強化して特に所要兵力の計画を海軍省から軍令部に移すべきだと考えており、実際に運動したこともあったが時期尚早として却下されていた。しかし高橋は諦めず、ロンドン条約問題をみてますますその必要性を確信した。こうした経緯からも高橋は強硬な艦隊派として知られ、加藤寛治や末次信正は高橋を有能な子分とみなしていた。しかし高橋は加藤や末次をそれほどあてにしていたわけではなかったらしい。高橋が頼ったのはかつての上司である伏見宮だった。
ロンドン条約問題で海軍軍令部長は加藤から谷口に代わっていたが谷口は対米協調を重視する条約支持派で、谷口のもとでは軍令部の権限強化など思いもよらないことだった。ところが昭和6(1931)年に満州事変が起きると陸軍は皇族の長老である閑院宮載仁親王を参謀総長に起用する。これは皇道派の荒木貞夫陸軍大臣が参謀本部から宇垣一成などの長老の影響力を排除し、皇族の参謀総長を看板にして皇道派が実権を掌握しようとしたものだった。高橋ら海軍の艦隊派と陸軍の皇道派のあいだにはかねてから連絡があったが閑院宮の参謀総長就任について事前に相談があったとは考えにくい。しかしこれは高橋にとって好都合であったことは間違いない。陸軍に位負けしないためにも海軍でも皇族を海軍軍令部長にあてるべきだという意見は説得力があった。候補者は伏見宮以外にない。高橋はこの運動を推し進める。運動の目標の本丸は人事を握る海軍大臣の大角岑生である。大角はどちらかといえば中間派だがその時々で強い方に傾く嫌いがあった。大角には伏見宮の不興を買いかねないようなことは考えられず、上海事変の真っ最中であるにもかかわらず谷口海軍軍令部長を更迭し伏見宮が部長に親補された。伏見宮は谷口系の百武源吾次長に代わって、功労者である高橋を次長に起用した。
軍令部を実質的に切り回すことになった高橋は伏見宮を担いで持論の権限強化を進める。5月27日に元帥の称号を得た伏見宮からは「わたしの在任中でなければ実現できまい。是非やれ」と全面的な支援を受けた。さすがの大角大臣も自らの権限を譲り渡すことになる改定には極力抵抗したが皇族の威信には抗しきれず屈した。最後まで抵抗した海軍省軍務局第一課長井上成美大佐が更迭され、兵力量策定と平時の外地派艦船の指揮権を海軍大臣から海軍軍令部に移すとともに名称を「海軍軍令部」から「軍令部」に変更する改定が昭和8(1933)年10月1日付で施行された。このとき参謀本部は「海軍」を削ることに難色を示したが海軍側は「軍令部といえば海軍に決まっている。どうしても海軍を残したいのであれば参謀本部も陸軍参謀本部に改称しろ」と返して黙らせたという。伏見宮の職名は海軍軍令部長から軍令部総長に改められ、高橋の職名も海軍軍令部次長から軍令部次長に変わった。改定をやり遂げた高橋は年度末に次長を松山茂に譲って艦隊に出る。
艦隊派の先輩にあたる末次が司令長官をつとめる聯合艦隊の下で第二艦隊司令長官に親補される。1年つとめて聯合艦隊司令長官に移り、昭和10(1935)年度と昭和11(1936)年度の2年間指揮をとった。昭和10(1935)年度の秋の演習では台風が接近していたが演習を強行し、波浪で多くの艦艇が損傷する第四艦隊事件を引き起こす。高橋の判断も問題視されたが、艦艇の強度不足が特に重大視されて結果的に高橋は不問となった。翌年2月26日には一部の陸軍部隊が東京の各所を襲撃する。二二六事件である。四国西部宿毛湾で演習中だった聯合艦隊のうち第一艦隊は東京湾に、第二艦隊は大阪湾に急行した。襲撃された重臣のうち岡田啓介首相、斎藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長はいずれも海軍出身であり、高橋とは海軍部内での立場は違うが、陸軍に海軍の長老が襲われるという事態のほうがはるかに問題で高橋は陸軍反乱部隊に厳しい態度で臨んだ。結果的に事件は4日で収束し陸海衝突は回避された。事件直後の昭和11(1936)年4月1日に海軍大将に親任される。
聯合艦隊を同期の米内光政に譲って軍事参議官に退いた。米内がわずか2ヶ月で海軍大臣に就任したときには「きみは僕のあとにせっかく聯合艦隊の長官になれたのに、大臣になんかなってしまって気の毒だ」といい、米内は「そう言ってくれるのはきみくらいだよ」と応えたという。高橋は艦隊派、米内は条約派とされるがふたりは仲がよく、第一特務艦隊参謀として出征したときには夫人を米内家に居候させていたというエピソードがある。第29期生の中では高橋と藤田尚徳が先に大将に進級し米内は遅れていたが、高橋と藤田はともに米内にもっとも期待していた。高橋は条約には反対だったが軍令部で長く勤務した作戦のプロとして対米戦争は避けるべきだと考えていたという。高橋と藤田は示し会わせて現役を退き、米内の序列を引き上げてその発言力を高めようとした。高橋は昭和14(1939)年4月5日に自ら望んで予備役に編入され現役を離れる。しかし米内は翌年内閣を組織するために予備役となり、それも半年で総辞職に追い込まれてしまう。
敗戦後、高橋は戦犯容疑者として逮捕されたが不起訴となる。
高橋三吉は昭和41(1966)年6月15日死去。満83歳。海軍大将正三位勲一等功五級。
おわりに
高橋三吉は軍令部の権限強化を主導した人物として井上成美あたりからはすこぶる評判の悪い人物ですが、米内との関係などからもそう単純に割りきることもできないように思います。それは高橋個人の性格にもよりますがむしろ当時の日本海軍が抱えていた、アメリカに備えながらもまともに戦えば勝ち目はない、という矛盾の産物だったのではないでしょうか。
また派閥争いよりも同期の繋がりを重視したり、海軍が陸軍に攻撃されるとそれまでの部内の行きがかりはいったん置いて陸軍と対決するなど、身内を優先するのはいかにも日本的だなと思いました。
米内光政、永野修身、吉田善吾についてはそれぞれ以下の記事をご覧ください。
次回は山本五十六です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は高橋が艦長をつとめた巡洋艦阿蘇)
附録(履歴)
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