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海軍大臣伝 (13)永野修身

 歴代の海軍大臣について書いています。今回は永野修身です。
 前回の記事は以下になります。

佐官まで

 永野ながの修身おさみは明治13(1880)年6月15日に高知県でもと土佐藩士族の家に生まれた。海南中学を経て明治31(1898)年に海軍兵学校に入校、明治33(1900)年12月13日に卒業して海軍少尉候補生を命じられた。卒業成績は第28期生105名中2位。首席の波多野はたの貞夫さだおが技術方面に進んだ(のち火薬廠長)ため実質的にクラスヘッドになった。防護巡洋艦橋立はしだてに乗り組み、姉妹艦厳島いつくしまとともに清国、東南アジア方面への遠洋航海に出航したのは明治34(1901)年2月だった。8月に帰国し、戦艦朝日あさひに配属される。明治35(1902)年1月18日、海軍少尉に任官した。装甲巡洋艦浅間あさま乗組を経て明治36(1903)年9月26日に海軍中尉に進級する。砲術練習所学生を命じられたが日露戦争を間近に控えてひと月も経たずに出征し運送船有明丸ありあけまるに乗り組んだ。明治37(1904)年4月には香港丸ほんこんまるに移る。
 7月上旬、旅順を包囲していた陸軍第三軍の要請で、聯合艦隊から重砲隊を派遣して陸戦に協力することとなり、黒井くろい悌次郎ていじろう中佐(のち大将)を指揮官とする聯合艦隊附属陸戦重砲隊が編成された。黒井中佐は香港丸乗組で、同じ船に乗り組んでおり砲術学生を(半月だが)経験している永野中尉を重砲隊に引っ張った。旅順で永野は当時の日本海軍では馴染みがなかった間接射撃を駆使し、旅順港内のロシア艦に損傷が出たためロシア艦隊司令官は出撃を決意して黄海海戦(8月10日)につながったといわれる。第三軍は多大な犠牲を払って前進し観測地点を確保して港内のロシア艦を砲撃、あるいは沈没あるいは自沈しロシア艦隊は壊滅した。艦隊を失なった旅順要塞は開城した。その後海軍大尉に進級した(明治38(1995)年1月12日)永野は新設された旅順工作廠廠員として自ら撃破したロシア艦の引き揚げと修理にあたった。旅順工作廠長は黒井大佐(同日進級)だった。

 いったん戦艦敷島しきしま分隊長に移ったのち、砲術練習所学生に復帰した。学生課程を終えると海軍兵学校砲術教官として後輩の教育にあたる。当時は第34期生から36期生が在校していた。半年ほどで巡洋艦厳島分隊長(のち砲術長)に移る。厳島は練習艦隊に配属され、兵学校第34期生の候補生を乗せてハワイ北米方面へ、さらに35期生を乗せて東南アジア方面へと遠洋航海に従事した。明治41(1908)年4月30日夜、遠洋航海の途中、台湾海峡澎湖ほうこ諸島馬公ばこう港に碇泊中の厳島でたまたま当直将校だった永野はふと、もしいま目の前の僚艦松島まつしまが爆発事故を起こしたらどういう処置をとるべきかと考えた。永野はときどきこうした思考実験をおこなって最善の処置をとる訓練をしていたという。本来こうした場合はまず防火配置を発令することとされている。しかし永野はまず救助を最優先するべきだと考え、総短艇派遣を発令するのが適当という結論に達した。すると本当に松島が爆発事故を起こして沈没してしまった。他艦があわてて防火配置を発令するなか、永野はすべての短艇を派遣して溺者救助を命じ、多くの乗員を救ったが、深夜のことで犠牲も多かった。それでも永野の冷静な判断は高く評価された。
 明治41(1908)年11月に佐世保鎮守府参謀に移ったが、翌年海軍大学校甲種学生(第8期生)を命じられる。修了後の明治43(1910)年12月1日に海軍少佐に進級、同時に戦艦香取かとり砲術長に補せられる。改元直後の大正元(1912)年9月に海軍省軍務局局員に移ったのは留学準備のためだろうか。翌年アメリカのハーバード大学に留学する。在米中の大正3(1914)年12月1日に海軍中佐に進級、大正4(1915)年に帰国した。装甲巡洋艦日進にっしん副長、おなじく磐手いわて副長をつとめた。磐手は43期生の候補生を乗せてオーストラリア、南洋諸島方面への遠洋航海をおこなっている。南洋諸島は第一次世界大戦でドイツから日本が占領したばかりだった。
 大正5(1916)年8月、海軍省人事局局員に補せられて士官人事を担当する第一課勤務を命じられる。大正7(1918)年10月1日、海軍大佐に進級するのと同時に課長に昇格する。1年つとめて巡洋艦平戸ひらど艦長に補せられた。永野が艦長をつとめたのは平戸だけである。やはり1年でアメリカ駐在武官としてふたたび渡米した。前任者は同期生の上田うえだ良武よしたけだった。在米中にワシントン軍縮会議が開かれ、日本全権の随員をつとめた。長谷川はせがわきよしに武官職を譲って帰国を命じられた直後の大正12(1923)年12月1日に海軍少将に進級した。

軍令部次長

 帰国後、情報担当の軍令部第三班長を命じられる。その後第三戦隊司令官(巡洋艦鬼怒きぬ大井おおい)、さらに中国大陸を担当する第一遣外艦隊司令官を歴任する。昭和2(1927)年2月1日に練習艦隊司令官に補せられ、兵学校55期生、機関学校36期生、経理学校15期生を乗せてアメリカ東海岸まで往復する遠洋航海を指揮した。遠洋航海中の昭和2(1927)年12月1日に海軍中将に進級する。
 昭和3(1928)年12月10日、海軍兵学校長に補されると、ハーバード大学で学んだ自発的に生徒に考えさせる教育法を導入し、これまでの詰め込み式教育を廃止した。しかし反対も多く、永野の退任後はもとに戻ってしまう。生徒たちにはそれなりに効果があったようで、該当の将校たちは「理屈っぽい」と嫌われたという。効果がどれくらいあったか、どちらが望ましかったかは判断が難しい。

 東京を離れた江田島で生徒教育に没頭していた永野だったが、ロンドン条約のごたごたで山梨やまなし勝之進かつのしん海軍次官と末次すえつぐ信正のぶまさ軍令部次長が喧嘩両成敗の形で更迭されると、昭和5(1930)年6月10日に末次の後釜として海軍軍令部次長に補せられることになった。騒動の圏外にいたことが評価されたのだろうが軍令部での勤務は第三班長の10ヶ月ほどくらいでそれほど豊富なわけではなかった。1年あまりつとめて昭和6(1931)年10月10日にやはり中間派の百武ひゃくたけ源吾げんごに次長を譲る。さらに翌年の話だが谷口たにぐち尚真なおみ軍令部長が伏見宮ふしみのみやに交代すると百武次長は4ヶ月で更迭され軍令部プロパーの高橋たかはし三吉さんきちが次長となる。高橋は伏見宮の威光を背に軍令部の権限強化を推し進めることになる。

 永野は軍令部出仕に置かれ、このあと2年ほど実任務を与えられなかった。途中、ジュネーブ軍縮会議に全権として派遣されたが妥結には至らなかった。このまま予備役になっても不思議ではない立場に置かれたが、昭和8(1933)年11月15日の定期異動で鎮守府の筆頭である横須賀鎮守府の司令長官に親補される。唐突な復権だがどういう事情だったのだろうか。軍令部の権限強化を押しきられた大角おおすみ岑生みねお海軍大臣が無色な永野を手駒として確保しようとしたのかもしれない。昭和9(1934)年3月1日に海軍大将に親任され、11月15日に軍事参議官に移った。昭和10(1935)年11月には軍縮会議の全権としてロンドンに渡ったが結局日本は脱退を通告した。

海軍大臣

 帰国直後に二二六事件が起こった。永野は責任がある地位にいなかったのでなにもできなかったが、長老である斎藤さいとうまこと鈴木すずき貫太郎かんたろう岡田おかだ啓介けいすけを陸軍に襲撃された海軍は厳しい態度で臨んだ。しかし肝心の大角海軍大臣の腰が引けていた。陸海衝突の回避を最優先して微温的な対応に終始した大角は、鎮圧後に総辞職した岡田内閣を継いで成立した広田ひろた弘毅こうき内閣に残れなかった。
 大角が後任の海軍大臣に選んだのが永野修身だった。実のところ、永野の海軍省勤務は大正7(1918)年から翌年にかけての人事局第一課長以来で17年ぶりになる。しかし無色ぶりが評価されたのだろう。二二六事件で陸軍の影響力は逆に増しており、陸海衝突を避けるには格好の人選だった。新しい内閣でまず定められたのは陸軍大臣の任命要件を現役に限定することだった。大正2(1913)年に現役の規定が削除されていたが、二二六事件の責任をとって予備役に編入された将軍たちが陸軍大臣に就任して影響力を行使することを防ぐため、と陸軍ではその理由を説明したが、実際には陸軍が陸軍大臣の地位をたてに内閣に圧力をかける前提として機能した。海軍でも陸軍にあわせて現役規定を復活する。また陸軍にあわせて山本やまもと英輔えいすけ小林こばやし躋造せいぞう中村なかむら良三りょうぞう大将を予備役に編入した。

 永野が海軍大臣としておこなった人事ではまず次官人事が注目される。昭和11(1936)年12月1日の定期異動で長谷川次官が第三艦隊司令長官に転出すると、永野が後任に選んだのは海軍航空本部長の山本やまもと五十六いそろくだったが、山本はこれを言下に断った。永野が憤然として「君は以前も自分の誘いを断った。君は僕が嫌いなのか?」と迫るとさすがの山本も「永野大将は尊敬する先輩である。これ以上断ると誤解を生むので」と言って引き受けた。果たしてそれは誤解だっただろうか。次官就任に祝いをいわれた山本は「何がめでたいものか。せっかく日本の航空をよくしようと頑張ってきたのに、軍人が政務にまわされて、ちっともめでたくはないのだ」と吐き捨てた。
 もうひとつ、同日に艦隊でも異動があり横須賀鎮守府司令長官の米内よない光政みつまさが聯合艦隊司令長官に親補された。米内は二二六事件で横須賀鎮守府の警備区域になる東京に陸戦隊を派遣して鎮圧に貢献していたが、同期生のなかでも目立たない存在で抜擢とも言える人事だった。

 昭和11(1936)年いっぱいで軍縮条約は失効し、12(1937)年からは制限なく艦艇の整備ができるようになる。それを見越して昭和12(1937)年度を起点とする第三次補充計画が策定された。いわゆる③計画で、この計画で戦艦大和やまとや航空母艦翔鶴しょうかくなどが建造されることになるが、まさにその予算を提出しようとしているときに陸軍による倒閣運動が始まった。永野は内閣が倒れるようなことがあると予算の通過が滞ると考えて仲介に乗り出したが、陸軍の勢いは海軍大臣がどうにかできるものではなかった。内閣は倒れ、永野の努力は失敗したという結果だけが残った。昭和12(1937)年2月2日に成立した陸軍出身のはやし銑十郎せんじゅうろう内閣に永野の椅子はなかった。

軍令部総長

 永野の後任となったのは聯合艦隊司令長官の米内光政だった。年度がかわったばかりで人事異動の影響を小さくしようという配慮がされたのか、永野と米内が互いに交代することになり、永野が聯合艦隊司令長官に親補された。7月に日中戦争がはじまって海軍部隊も大陸に投入されたが、対米作戦を第一義とする聯合艦隊主力は内地にとどまり、12月1日の定期異動で永野は軍事参議官に移った。

 昭和16(1941)年2月に大角岑生が中国大陸を視察中に飛行機事故で殉職すると、永野は伏見宮元帥を除いて最先任となった。ちょうど伏見宮が体調の悪化を訴えて軍令部総長を辞職したい意向をもらしており、後任の候補になったのが永野だった。かつて次官として永野大臣に仕えた山本聯合艦隊司令長官は「永野さんは自分では天才だと考えている人だから周りの受けはいいだろう」と辛辣な感想をもらしている。昭和16(1941)年4月9日、軍令部総長に親補される。永野総長は山本長官の個性におされてかその意向に流されることが多かった。真珠湾作戦もミッドウェー作戦も「山本がそこまでいうならやらせてみよう」と容認した。軍令部の実務は次長の伊藤いとう整一せいいちに任せっきりだったようだ。
 ガダルカナルの撤退を経てソロモン、ニューギニア方面で消耗戦にまきこまれて来るべき米軍の本格反攻への備えもままならなかった昭和18(1943)年6月21日、永野は南方軍総司令官寺内てらうち寿一ひさいち陸軍大将、参謀総長杉山すぎやまはじめ陸軍大将とともに元帥の称号を与えられた。永野は「3人のなかで自分が最も若いのに、先任だったので最上位にされた」と喜び、故郷の高知県に凱旋して華々しい祝賀会を催した。山本の戦死からまもなく、戦局が厳しいなか不謹慎だという批判を浴びた。
 昭和19(1944)年2月、米軍が内南洋の日本海軍の拠点トラック諸島を空襲して壊滅的な被害を与えた。ちょうど参謀本部の参謀が滞在しておりその報告を受けた東條とうじょう英機ひでき首相兼陸軍大臣は戦争指導の強化の必要性を強く感じたらしい。自らが参謀総長を兼ね、政府と統帥部の統一をはかることを提案し、海軍にも同調を求めた。東條は首相・陸軍大臣に加えて軍需大臣も兼任しており、参謀総長も兼ねると一人四役になる。あまりにも一人に権限が集中することになり、特に元来独立するべきとされた陸軍省と参謀本部の長を一人で兼ねるのは憲法違反ではないかという批判を呼んだ。東條は近いうちに専任の軍需大臣を任命するとし、陸軍大臣と参謀総長の兼務は憲法の範囲内でできるもっとも有効な手段だとして押しきり、杉山参謀総長を辞職させて参謀総長を兼ねた。海軍でも嶋田しまだ繁太郎しげたろう海軍大臣が軍令部総長を兼ねることになり、永野は反対したが結局2月21日に辞職した。

 残りの戦争のあいだ、永野は終身現役の元帥として形式的に海軍にとどまったが影響力はもたなかった。
 戦後、A級戦犯容疑者として逮捕され巣鴨拘置所に拘留されたが起訴にいたる前の昭和22(1947)年1月5日、永野修身は獄中で病死した。満66歳。元帥海軍大将従二位勲一等功五級。

元帥海軍大将 永野修身 (1880-1947)

おわりに

 永野は若い頃には有能な海軍将校ぶりをしばしば示していたのに、後年になると無能な印象が強くなるのは不思議なことです。本当に無能なら海軍大将まで上り詰めることはできなかったはずですが。日本海軍のスーパーヒーロー山本五十六に嫌われていたことが影響しているのかもしれません。

 さてここで恒例ウィキペディア間違い探しのお時間です笑。陸戦重砲隊のくだり、永野大尉、黒井大佐とありますが二人の昇進は明治38年1月12日、旅順の降伏が1月1日で時期があいません。それぞれ中尉、中佐が正しいです。また表向き旅順工作部附とありますが、これも降伏前に旅順工作部(正しくは旅順工作廠)が存在するわけもなく、明治38年1月12日付の辞令に引っ張られた誤解でしょう。陸戦重砲隊は連合艦隊の東郷長官が長官の職権で発令できる軍隊区分で辞令が出るようなものではありません。聯合艦隊の作戦命令が出されていたはずです。当時の報告書を見ても黒井中佐の肩書きが一貫して指揮官とされていることからもわかるでしょう。軍隊区分では部隊の長を指揮官と呼びます。

 次回は米内光政になります。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は永野が艦長をつとめた巡洋艦平戸)

附録(履歴)

明13(1880). 6.15 生
明33(1900).12.13 海軍少尉候補生 橋立乗組
明34(1901). 8.22 朝日乗組
明35(1902). 1.18 海軍少尉
明35(1902). 3.14 浅間乗組
明36(1903). 8.24 横須賀鎮守府附
明36(1903). 9.26 海軍中尉
明36(1903).12. 9 海軍砲術練習所学生
明36(1903).12.22 運送船乗組(有明丸)
明37(1904). 4.16 佐世保鎮守府附
明37(1904). 4.21 第一艦隊附
明37(1904). 4.26 香港丸乗組
明38(1905). 1.12 海軍大尉 旅順海軍工作廠廠員
明38(1905). 6.14 敷島分隊長
明38(1905). 9.12 海軍砲術練習所学生
明39(1906). 1.25 海軍兵学校砲術教官兼監事
明39(1906). 9.28 厳島分隊長
明40(1907). 8. 5 厳島砲術長兼分隊長
明40(1907). 9.28 厳島砲術長
明41(1908). 8.11 厳島砲術長兼分隊長
明41(1908). 9.25 厳島砲術長
明41(1908).11.20 佐世保鎮守府参謀兼副官
明42(1909). 5.25 海軍大学校甲種学生
明43(1910).12. 1 海軍少佐 香取砲術長
明44(1911).11. 1 海軍軍令部出仕
大元(1912). 9.27 海軍省軍務局局員/海軍教育本部部員
大 2(1913). 1.10 米国駐在被仰付(ハーバード大留学)
大 3(1914).12. 1 海軍中佐
大 4(1915). 4. 1 帰朝被仰付
大 4(1915). 5.26 日進副長
大 4(1915).12.12 磐手副長
大 5(1916). 8.24 海軍省人事局局員(第一課)
大 7(1918).10. 1 海軍大佐 海軍省人事局第一課長
大 8(1919).11. 1 平戸艦長
大 9(1920).12. 1 米国在勤帝国大使館附海軍武官
大10(1921).10. 7 ワシントン軍縮会議全権随員被仰付
大12(1923).11.10 帰朝被仰付
大12(1923).12. 1 海軍少将
大13(1924). 2. 5 海軍軍令部参謀(第三班長)
大13(1924).12. 1 第三戦隊司令官
大14(1925). 4.20 第一遣外艦隊司令官
大15(1926). 8.20 海軍軍令部出仕
昭 2(1927). 2. 1 練習艦隊司令官
昭 2(1927).12. 1 海軍中将
昭 3(1928). 1.15 海軍軍令部出仕
昭 3(1928).12.10 海軍兵学校校長
昭 5(1930). 6.10 海軍軍令部次長
昭 6(1931).10.10 海軍軍令部出仕
昭 6(1931).12. 9 ジュネーブ軍縮会議全権被仰付
昭 8(1933).10. 1 軍令部出仕
昭 8(1933).11.15 横須賀鎮守府司令長官/海軍将官会議議員
昭 9(1934). 3. 1 海軍大将
昭 9(1934).11.15 軍事参議官
昭10(1935).11. 4 ロンドン軍縮会議全権被仰付
昭11(1936). 2. 帰朝
昭11(1936). 3. 9 免本職 海軍大臣
昭12(1937). 2. 2 免海軍大臣 聯合艦隊司令長官/第一艦隊長官
昭12(1937).12. 1 軍事参議官
昭16(1941). 4. 9 軍令部総長/海軍将官会議議員
昭18(1943). 6.21 元帥
昭19(1944). 2.21 免除本職兼職
昭22(1947). 1. 5 死去

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