海軍大臣伝 (15)吉田善吾
歴代の海軍大臣について書いています。今回は吉田善吾です。
前回の記事は以下になります。
佐官まで
吉田善吾は明治18(1885)年2月14日、佐賀県で士族の家に生まれた。米穀商の吉田家に養子に入る。佐賀中学を経て明治34(1901)年12月に海軍兵学校に入校し、明治37(1904)年11月14日に卒業して海軍少尉候補生を命じられた。第32期生192名中の卒業成績は12位。まさに日露戦争の最中であり、恒例の遠洋航海は行なわれず候補生はまず韓崎丸で短期間の実習をおこなったのちに艦隊に配属されていった。吉田の配属先は聯合艦隊主力の第一戦隊に所属する装甲巡洋艦春日で、日本海海戦には春日で参加する。明治38(1905)年8月31日に海軍少尉に任官した。
戦後は呉水雷団第五水雷艇隊附として水雷艇に乗り組む。これがきっかけだったのか吉田はその後水雷の道に進む。通報艦姉川乗組を経て砲術練習所と水雷術練習所の学生を相次いで履修する。普通科学生課程に相当するものだろう。駆逐艦朝露乗組に移って明治40(1907)年9月28日に海軍中尉に進級する。巡洋艦橋立に乗り組んで東南アジア方面への遠洋航海に赴いたが途中、台湾馬公港で僚艦松島が爆沈する。帰国後は横須賀の海軍水雷学校附、さらに水雷学校附属練習艇隊附をつとめた。さらに横須賀敷設隊分隊長をつとめていた明治42(1909)年10月11日に海軍大尉に進級する。砲術・水雷術の基礎を学ぶ海軍大学校乙種学生と水雷学校高等科学生を相次いで修めてひとかどの水雷屋として認められる。水雷学校の教官を3年間つとめて海軍大学校甲種学生を命じられた(第13期生)。
甲種学生修了と同時に大正4(1915)年12月13日、海軍少佐に進級する。第三艦隊参謀として中国大陸で2年間を過ごし帰国後はまたもや水雷学校教官をつとめた。第一水雷戦隊参謀をつとめていた大正8(1919)年12月1日に海軍中佐に進級した。練習艦隊参謀としてスエズ運河経由で地中海まで往復した後、教育本部部員、海軍省教育局局員、教育局第二課長(術科教育担当)をつとめ、課長在職中の大正12(1923)年12月1日に海軍大佐に進級した。いったん巡洋艦平戸艦長、舞鶴要港部参謀長として出たのち、海軍省に軍務局第一課長として戻ってくる。軍務局第一課長は海軍の政策決定の主務者である。当時の海軍大臣ははじめ財部彪、のち岡田啓介だった。巡洋戦艦金剛、戦艦陸奥の艦長を1年ずつつとめて昭和4(1929)年11月30日に海軍少将に進級した。
聯合艦隊司令長官
少将進級と同時に軍備計画を担当する海軍軍令部第二班長を命じられる。この時期に計画された艦艇は軍縮条約の制限の範囲でできるだけ高性能を求めたため無理のある設計になりがちでのちに問題となった。ただし軍令部が使用者として要求することは当然の役割で、それを技術的に判断するのが設計者の責任だとする意見もある。
昭和7(1932)、8(1933)両年度は聯合艦隊参謀長をつとめた。司令長官は小林躋造だった。昭和8(1933)年9月からは大角岑生海軍大臣の下で軍務局長をつとめる。この時期は国際連盟脱退などの国際環境の変化に対応する第二次補充計画の策定と実施が海軍省の重要課題だった。在職中の昭和9(1934)年11月15日に海軍中将に進級した。二二六事件の直前に練習艦隊司令官に転出し、兵学校62期生、機関学校43期生、経理学校22期生の候補生を乗せて北米東海岸まで往復した。
帰国後は昭和12(1937)年度に第二艦隊司令長官に親補される。上官にあたる聯合艦隊司令長官ははじめ米内光政だったがまもなく永野修身にかわった。
昭和13(1938)年度には聯合艦隊司令長官に親補され、翌14(1939)年度も留任した。すでに日中戦争がはじまっていたが、対中国作戦を担当する第三艦隊(のち支那方面艦隊)は聯合艦隊の指揮下にはなく、おもに訓練に注力していた。吉田は神経質な性格で、司令部で食卓に生牡蠣が出たときにはなかなか口をつけなかったという。
海軍大臣
昭和14(1939)年度の年度訓練が佳境を迎えようとしていた8月30日、内閣の交代があって米内海軍大臣が退任し、後任に吉田が指名された。吉田は海軍省の勤務経験も豊富で適任とされていたが、同期生の山本五十六次官は吉田が神経質なことを危ぶんで、吉田の下で海軍次官をつとめてもいいと申し出たが、吉田のあとの聯合艦隊司令長官に決まり次官には住山徳太郎が就任した。
新しい首相となった阿部信行は陸軍の支持を得て就任した陸軍大将だったが予備役になって久しく、陸軍大臣の経験もなくはじめから経験不足を危ぶまれていた。ちょうどヨーロッパではじまった第二次世界大戦に日本は中立を保ち日中戦争に専念するとしたが、ドイツが電撃戦でポーランドを占領すると独ソ不可侵条約で煮え湯を飲まされたことなど忘れたかのようにドイツとの提携論がまたもや浮かび上がってきた。中国が抗戦を継続できているのはイギリスの支援によるものであり、ドイツとの提携でイギリスの支援をとめれば蒋介石は音をあげるというのである。組閣時に天皇から米英との協調を命じられた阿部首相は板挟みになって4ヶ月で内閣を投げ出した。
阿部内閣を倒した陸軍が首相に想定していたのは陸軍大臣の畑俊六だったが、実際に内閣を組織したのは米内光政だった。米内内閣では陸軍が日独同盟を強く主張し、米内首相と吉田海相が抵抗した。しかしその間、ドイツはフランスを降伏に追い込みイギリス軍を大陸から追い出すに至って同盟論者は勢いづくとともに「バスに乗り遅れるな」と焦りの色を強め、ついに畑陸軍大臣が「陸軍の総意」として辞任を申し出る。米内内閣は総辞職し、近衛内閣が成立したが吉田海軍大臣と住山次官は留任した。
新しい内閣でも吉田の同盟反対は変わらなかったが、一貫して反対を堅持してきた米内はすでに去り、近衛首相の態度は定まらず、松岡洋右外務大臣は同盟を支持するなど吉田は閣内で孤立していた。神経をすり減らした吉田ははたで見ても心配なぐらい憔悴していたという。ついに倒れた吉田は入院し、9月5日に辞任した。住山次官もあわせて交代することになり、海軍大臣には及川古志郎、次官には豊田貞次郎が就任した。及川と豊田は同盟を容認し、9月27日に調印がおこなわれた。
ひとまず軍令部出仕の辞令を得て療養していた吉田は昭和15(1940)年11月15日の定期異動で海軍大将に親任され軍事参議官に補せられた。この後、太平洋戦争開戦をはさんで2年間この地位にとどまっていたのは体調を考慮されたものだろうか。昭和17(1942)年11月11日には古賀峯一のあとを継いで支那方面艦隊司令長官に親補される。翌年近藤信竹に譲って帰国、海軍大学校長を短期間つとめたあと、古賀の殉職をうけて聯合艦隊司令長官にうつった豊田副武のあとの横須賀鎮守府司令長官に補される。この前後の吉田は、欠員が出た配置の穴埋めにあてられる役割をあてがわれていたようだ。終戦まぢかい昭和20(1945)年初夏にポストの整理がおこなわれ、その一貫として吉田も昭和20(1945)年6月1日に予備役に編入された。
吉田善吾は昭和41(1966)年11月14日に死去。満81歳。海軍大将正三位勲一等。
おわりに
吉田は山本五十六や嶋田繁太郎の同期生で、聯合艦隊司令長官と海軍大臣をつとめたエリートなのですが意外に影が薄いのはなぜでしょう。やはり開戦前に体を壊して第一線を退いたのが大きいのでしょう。終戦直前まで現役だったのですけどね。ちょっと調べたのですが金鵄勲章はもらっていないらしく、歴代の海軍大臣で金鵄勲章を得ていないのは初期を除くと吉田と野村直邦だけみたいです。
次回は及川古志郎です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は吉田が候補生時代に乗り組んだ水雷母艦韓崎丸)