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日本海軍の組織(5)学校

 日本海軍の組織について説明しています。今回は学校について。
 前回の記事は以下になります。

学校

 海軍にかぎらず平時の軍隊の最大の任務のひとつは練度の維持向上で、部隊でも日常的に教育訓練はおこなわれているが、それとは別に部隊を離れて集合教育をおこなうのが学校などの教育機関である。
 かつて海軍省の外局として海軍教育本部が置かれた時期もあったが、大正時代に廃止され海軍省教育局の所管事項となる。教育綱領は海軍大臣が定めるが、直接に海軍大臣に隷属するのは海軍大学校、海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校、海軍軍医学校にかぎられ、これら以外の学校は所在地により各鎮守府司令長官に隷属した。

 教育を専門とする組織である学校のほかに、部隊や官衙に練習部をもうけて集合教育を担当させた。

海軍大学校

 海軍大学校は目黒に置かれ、海軍士官に高等の兵術を教授し、研究を行なった。海軍大学校長は海軍大臣に隷する。副官教頭教官研究部長研究部部員主計長が置かれた。

 海軍大学校の課程でもっとも重要なのは甲種学生課程だろう。大尉もしくは少佐を学生とし、高等の兵術を教授し高級指揮官として勤務するために必要な知識を得ることを目的とした。大臣大将をめざすなら必ず履修しておきたい課程である。陸軍に比べれば海軍大学校甲種学生は出世のためには必ずしも必要ではないと言われることもあるが、それも程度問題でやはり海軍大学校卒業者の方が圧倒的に有利ではあるし、甲種学生の成績(順位)が大きく影響した。

 特修科学生は甲種学生を履修できなかった大中佐に甲種学生に近い教育を与えるものであるが、あまり実例は聞かない。

 機関学生は高等の機関術を大中尉に教授して将来機関科関係の高級指揮官たることをめざした。

 選科学生は専門の学科を習得するための課程で、例えば大学に研究生として通学するなどした。

海軍兵学校

 海軍兵学校は兵科将校を養成することを主たる目的として、はじめ東京築地に置かれたが明治21(1888)年に広島県江田島に移った。海軍兵学校長は海軍大臣に隷し、教頭教官監事長監事分隊長軍医長主計長を置いた。教頭、教官は教科の教授にあたり、監事長、監事は訓育、つまり生活指導にあたった。

 生徒課程の応募条件は16歳以上19歳以下で、試験と健康診断を経て合格したものが全寮制の生活を送った。生徒は各学年を通じて編成された分隊で上級生から日常生活の指導を受けながら学んだ。最上級生を一号生徒と呼び、学年が下がるごとに二号、三号生徒などと呼んだ。卒業時の成績の順位はハンモックナンバーと呼ばれてその後の出世に大きく影響した。
 卒業した生徒は少尉候補生を命じられ、練習艦隊で遠洋航海に出た。

 戦時中は士官の大量養成が求められて採用人数が大幅に増え、近隣に分校が設けられた。また校長を補佐する副校長がもうけられた。

 生徒課程とは別に選修学生課程があり、准士官または上級下士官に、士官と同様の勤務をするために必要な教育をほどこした。

海軍機関学校

 海軍機関学校は機関科将校の養成を主たる目的とした。機関科将校の養成課程はしばらく定まらず、最終的に海軍機関学校での生徒養成が確立したのは明治26(1893)年のことだった。はじめ横須賀に置かれたが関東大震災で被災し一時江田島の海軍兵学校に間借りしたのち、京都府舞鶴に移転した。
 海軍機関学校長は海軍大臣に隷した。副官教頭教官監事長監事分隊長軍医長主計長を置いたことなどは海軍兵学校と同じである。

 昭和19(1944)年に海軍兵学校舞鶴分校に改編された。

海軍経理学校

 海軍経理学校は主計科士官の養成を目的とした。主計科士官の養成については機関科以上に変遷があり外部からの採用と部内養成のあいだを行き来したが、最終的に明治40(1907)年に築地に海軍経理学校が設立され、海軍兵学校や海軍機関学校に近い生徒課程による養成が始まった。
 海軍経理学校長は海軍大臣に隷し、副官教頭教官監事長監事研究部長研究部部員軍医長主計長などの職員を置いた。

 主計科士官たるべき生徒や選修学生の教育に加えて、士官や下士官、兵に対する術科教育も担当し、甲種学生、高等科学生、普通科学生、補修学生、選科学生、高等科経理術練習生、高等科衣糧術練習生、普通科経理術練習生、普通科衣糧術練習生といった課程にあたった。甲種学生課程では主計科の要職で勤務することを目的とした教育がおこなわれ、補修学生課程では生徒課程を経ず主計科士官に採用されたものに初任士官に必要な基礎知識を教授した。また研究部では経理術およびその教育法に関する研究をおこなった。

海軍軍医学校

 海軍軍医学校は、軍医の教育にあたった。海軍自身による軍医養成がおこなわれた時期もあったが、結局は大学医学部や医学専門学校で養成された医師を軍医に採用することとした。変遷を経て明治41(1908)年に海軍軍医学校が設立(復活)された。
 海軍軍医学校長は海軍大臣に隷し、副官教頭教官監事分隊長研究部長研究部部員主計長などの職員を置いた。

 生徒課程は存在せず、高等科学生、普通科学生、選科学生、特修科学生、選修学生を置いた。普通科学生課程では初任の軍医科士官、薬剤科士官、歯科医科士官に海軍士官として勤務するために必要な基礎知識を教授した。選修学生課程では看護科准士官、下士官に看護科特務士官として勤務することを目的として教育をおこなった。また研究部では軍陣医学、薬学、歯科医学およびその教育法に関する研究をおこなった。
 なお教育に支障がない範囲で海軍軍人の診療をおこない、さらに民間人の診療もできるとされた。

術科学校

 海軍砲術学校や海軍水雷学校など、いわゆる術科学校と総称される学校では、士官や下士官兵に対し該当の科員として艦船や部隊で勤務するために必要な技能知識を教育した。細かくみればそれぞれ課程に違いはあるが基本は共通している。
 准士官以上がうける学生課程のうち、高等科学生課程では当該科長たるべき教育を、普通科学生課程では下級士官に対し当該科員として勤務するための教育を、特修科学生課程では佐尉官特務士官准士官に対し必要な術科教育をほどこし、専攻科学生課程では高等科修了者に対し特に研究項目を指定して学習させた。高等科学生をおえればひとかどの専門家(俗に商売、稼業、~屋と称した。鉄砲屋、航海屋など)とされた。
 下士官兵がうける練習生課程には普通科、高等科、特修科練習生課程があり順に内容が高度になっていく。練習生課程をおえると特修兵として制服の袖に対応する記章がつけられ、いわゆるマーク持ちとなって術科により例えば掌砲兵などと呼ばれた。

 各校長は所在の鎮守府司令長官に隷し、教育については海軍大臣の指揮をうける。副官教頭教官分隊長研究部長研究部部員軍医長主計長などを置いた。その他として下士官兵をあて教育を補助させた。下士官で教育の指導にあたるものを教員と呼び、准士官以上の教官と区別した。

 海軍砲術学校は横須賀にあり、砲術のほか陸戦や体操の教育研究も担当した。のち館山校が設置された。
 海軍水雷学校は水雷術を、海軍航海学校では航海術と運用術を、海軍通信学校では通信術を担当した。
 海軍潜水学校は広島県大竹におかれ、潜水艦乗員の教育を担当した。潜水学校では航海術や水雷術を習得した上で、潜水艦乗員として必要な技能を追加教授した。
 海軍対潜学校では機雷術や水測術を、海軍電測学校ではレーダーに関する電測術を、海軍気象学校では気象術を担当した。
 海軍工機学校では機関術を担当し、のち海軍機関学校と改称した。海軍工作学校では工作術を担当した。
 各術科については艦内編制を参照されたい。

練習航空隊

 陸軍と異なり海軍では飛行学校のような組織はもうけず、海軍航空隊のうち練習航空隊に指定されたものが飛行術および整備術の教育をおこなった。予科練習生の教育にあたった霞ヶ浦海軍航空隊などがよく知られる。
 練習航空隊に指定された航空隊の司令が教育に責任を負い、もとからの職員に加えて教務副官教頭教官が置かれた。

海兵団練習部

 各軍港の海兵団に練習部を置いて、主に新兵の教育にあたった。昨日まで民間で暮らしていた新兵をいきなり艦船に配属すると本人ばかりでなく周囲にも危険がおよぶため、まず陸上である程度の教育を施してから艦船や部隊に配属した。
 朝鮮・台湾から応募し採用された特別志願兵の教育はそれぞれ鎮海海兵団、高雄海兵団の練習部でおこなわれた。また軍楽兵の教育は術科教育も含めて横須賀海兵団が担当した。
 初任准士官に対する教育も海兵団で担当した。

海軍病院練習部

 指定された海軍病院に練習部を置いて看護科下士官兵の術科教育にあたった。戦時中に教育対象者の増加に対応するため海軍衛生学校が設立された。

おわりに

 次回は工作庁などについて。

 ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は海兵団での座学教育風景)

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