日本海軍の組織(6)工作庁など
日本海軍の組織について説明しています。今回は工作庁などについて。
前回の記事は以下になります。
海軍工廠
陸軍と違って海軍は船という機械なしには成り立たない存在であり、そのため技術を重視したといわれる。その真偽はともかく、創設期の海軍が技術の導入を図ったことは事実で、幕末に製鉄所の建設地として横須賀が選定されたことが結果として軍港として発展する端緒となった。横須賀製鉄所はのちに造船所を併設するようになり、はじめ品川や横浜を根拠としていた日本海軍は整備の利便性と東京湾口を扼する位置、適当な入江をもつ地形などの利点から横須賀に移った。
横須賀の経験から実感された軍港と造船所のセットの利点はほかの軍港にも引き継がれた。西日本の拠点として神戸にもうけられた小野浜造船所は、呉に軍港が置かれると廃止された。呉軍港はのちに日本海軍における造船のメッカになる。
軍港に置かれた造船所は鎮守府造船部や海軍造船廠を経て、明治35(1902)年に軍港に置かれた技術関係の官衙を海軍工廠に一元化し、その下の造船部となる。
各軍港に海軍工廠を置き、所在地名を冠して横須賀海軍工廠などと称した。海軍工廠長は鎮守府司令長官に隷し、技術的な事項については海軍艦政本部長または海軍航空本部長の区処をうけた。海軍工廠には部長、所長、検査官、課長、幹事、部員、教官、副部員、附などの職員が置かれた。
海軍工廠は部制をとり、造船部、造機部、造兵部、製鋼部、砲熕部、造船実験部、会計部などが置かれた。部の構成は工廠によって異なり、例えば製鋼部や砲熕部は呉海軍工廠にのみ存在した。課長、検査官、部員(大尉以上)、副部員(中尉以下)、附が各部課で働いた。海軍工廠は艦船、機関、兵器などを実際に製造する総合工場であり、多数の工員(傭人)、技手(判任官)、技師(高等官)などの軍属や、技術関係の士官が配属された。
海軍工廠に附属する工員養成所では新規雇用された工員の養成をおこなった。そのために所長、幹事、教官が配属された。軍港地では海軍工廠の工員が人口のかなりの部分を占めており、軍縮で海軍工廠での工事量が減って工員が整理されると、工員相手の商売をしていたものも含めて人口が激減した。
大正12(1923)年、呉海軍工廠広支廠が独立して広海軍工廠となり、はじめて軍港地以外に海軍工廠が置かれた。戦前から戦中にかけて各地に海軍工廠が設置されたが、こうした新設の海軍工廠では機銃など特定の兵器を製造することが多かった。
海軍技手養成所
工員の養成は各鎮守府に置かれた海軍工廠の工員養成所でおこなわれていたが、工員を正式な官吏(判任官)である技手に養成するのは海軍技手養成所でおこなっていた。軍港地に置かれることが多く、移転して所管が変わったりすることがあるが、最終的には三ヶ所にまで増やされ、呉海軍工廠、海軍技術廠、第一海軍燃料廠に隷属した。
海軍航空廠
航空機の開発生産は主として企業でおこなわれていたが、実験や試験は海軍側では横須賀海軍航空隊の実験部で担当していた。のちに分離され海軍航空廠として研究開発や実験をおこなった。
航空廠はさらに海軍航空技術廠を経て海軍技術廠と海軍航空廠に改編され、技術廠では航空兵器のみならず広く兵器開発をおこない(レーダーの開発で知られる)、航空廠は航空機の運用に必要な需品や消耗品の調達、保管、供給にあたった。
海軍火薬廠
日露戦争以前に火薬製造所が設立され、ここで製造された下瀬火薬は日露戦争で威力を発揮した。のちに海軍火薬廠に改編されたが、さらに各地に増設されて番号で区別された。
海軍燃料廠
日本海軍での艦船燃料の利用の歴史は国内産の石炭にはじまり、カロリーの高いウェールズ産の英国炭、石炭を粉末状にして固めた練炭、そして石油と移り変わってきたといわれる。海軍自身で炭鉱を運営していた時期もあったが、こうした燃料関係の開発や調達管理をおこなうために海軍燃料廠が設立された。各地におかれ番号で区別されたが、特に山口県徳山に置かれ石油精製設備があった第三海軍燃料廠が知られる。
海軍衣糧廠
海軍衣糧廠では被服や食糧の調達、保管、供給を担当し、所要の地に置かれて番号で区別された。
海軍技術研究所
水槽を使った艦船の模型試験をおこなっていた艦型試験所を大正12(1923)年に改編して海軍技術研究所として海軍艦政本部長の隷下に置いた。造船研究部、化学研究部、電気研究部などの研究部を置いて基礎研究にあたった。
おわりに
次回は最終回になります。特務機関などについて。
ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は呉海軍工廠で艤装工事中の戦艦大和)
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