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日本海軍の組織(4)艦隊など

 日本海軍の組織について説明しています。今回は艦隊などの部隊について。
 前回の記事は以下になります。

艦隊

 艦隊令において艦隊は「2隻以上の軍艦」で編成し、必要に応じて駆逐隊や駆逐艦、潜水隊や潜水艦、航空隊などを編入し、港務部、防備隊、航空隊、特務艦を附属する、とされている。のちに但し書きで、軍艦と駆逐隊など、あるいは2個以上の航空隊でも編成できると要件を広げた。軍艦が1隻のみ、あるいはまったく含まれていなくても艦隊と呼べるようになる。なお日本海軍では軍艦とは一部の大型艦艇のみをさす。詳しくは以下の記事を参照。

 聯合艦隊は複数の艦隊で編成するとされた。だがのちには聯合艦隊以外にも複数の艦隊を指揮下に置く艦隊(方面艦隊)が編成されるようになった。
 艦隊には任務や担当海域に応じて適宜番号や名称を与えて区別したが、特に基準はなく法令の上では差はない。

 艦隊には司令長官または司令官を置いた。艦隊司令長官および独立艦隊司令官は親補職とされた。艦隊司令長官には大中将があてられたが大半は中将で、大将は限られておりその場合でも在職中に中将から昇進する例が多かった。東郷平八郎、山本五十六といった聯合艦隊司令長官も中将で補職され在職中に大将に昇進している。艦隊司令長官は天皇に直隷するが、聯合艦隊に編入された場合は聯合艦隊司令長官の指揮をうける。

 幕僚として参謀長参謀副官機関長軍医長主計長が置かれた。戦時中には一部の艦隊で参謀副長が置かれるようになった。聯合艦隊では2人制をとって1人を陸軍から受け入れていた。

 艦隊の編成は明治半ば頃からようやく実体のあるものが現れ始める。明治18(1885)年に常備小艦隊が編成されたのが後世まで続く艦隊のはじめである。明治22(1889)年には常備艦隊と改称した。
 明治27(1894)年に日清戦争が避けられなくなると常備艦隊に編入されていない軍艦で警備艦隊を編成(まもなく西海艦隊と改称)し、常備艦隊とあわせて聯合艦隊を設置し、その司令長官は常備艦隊司令長官が兼ねた。終戦後はまた常備艦隊だけの体制に戻るが、日露戦争が目前になると第一、第二、第三艦隊を編成しそのうち第一、第二艦隊で聯合艦隊を編成した。第一艦隊司令長官が聯合艦隊司令長官を兼ねた。
 戦後、聯合艦隊は解散するが第一、第二艦隊が常時編成されるようになる。明治41(1908)年秋、年度訓練の最後を締めくくる大演習にあわせて聯合艦隊が臨時編成され第一、第二艦隊を編入した。大演習が終了すると解散し、存続したのは一月ほどだったが、この直前にアメリカ艦隊(いわゆるホワイト・フリート)が横浜を訪問していることは注目される。
 大正4(1915)年から、毎年秋の大演習にあわせて聯合艦隊を臨時編成する例となった。またこの年から中国警備を担当する第三艦隊が編成された。第三艦隊は聯合艦隊に編入されない。大正11(1922)年から聯合艦隊は一年を通じて編成されるようになる。同時に第三艦隊は廃止された。

 昭和7(1932)年に上海事変がおきると再度第三艦隊が編成された。昭和8(1933)年には聯合艦隊がそれまでの臨時編成扱いから実情にあわせた常時編成となり、長官の辞令上の肩書きがそれまでの「第一艦隊司令長官兼聯合艦隊司令長官」から「聯合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官」に変更となった。本職と兼職が入れ替わっている。
 昭和12(1937)年に日中戦争が始まると中国方面に第四、第五艦隊が新編され、第三、第四、第五艦隊をあわせ指揮する支那方面艦隊が置かれるようになる。支那方面艦隊は、聯合艦隊とは別の指揮系統に置かれた。
 昭和15(1940)年、基地航空隊からなる第十一航空艦隊が新編された。冒頭で触れた艦隊令の但し書きはこのために付け加えられたのである。昭和16(1941)年、対米戦をにらんで艦隊が次々に新設されて聯合艦隊に編入されると、司令部の負荷を軽減するために聯合艦隊司令部が兼ねていた第一艦隊司令部が分離独立した。

 太平洋戦争の開始後、占領地の防衛や警備のために陸上部隊や航空部隊が配置されこれらを指揮する艦隊が各地に編成された。こうした方面の指揮を委任し、聯合艦隊司令部が米軍の主力への対応に注力できるように中間結節点となる方面艦隊司令部が置かれ末端の艦隊を編入した。艦隊だけで最大三階層を構成することになった。
 昭和18(1943)年末には海上護衛総司令部が新設され、海上護衛について各部隊を指揮するとされたが専任の部隊は少なく効果は限定的だった。
 昭和19(1944)年後半になるとこれまで伝統的に海上で陣頭指揮をするものとされていた聯合艦隊司令部が地上に移った。指揮下部隊の規模が大きくなり、戦域も広がって海上での指揮は無理になっていた。米軍が前進して日本軍が押し込まれ、前線が本土に迫ると内戦部隊と外戦部隊の違いが薄まり統一指揮を求められた。昭和20(1945)年1月1日に発令された大海令(大本営海軍部が天皇の裁下を得て伝達する命令)で聯合艦隊司令長官は作戦について支那方面艦隊、海上護衛総司令部、鎮守府、警備府を指揮することとされたが、4月25日に海軍総隊をもうけて聯合艦隊以下、鎮守府や警備府を含むすべての海軍部隊をその指揮下に編入した。海軍総司令部は事実上、聯合艦隊司令部にもうひとつの看板をかけただけで、実質に変わりはなかったが組織系統という面では一応の整理ができた。一方で軍令部(大本営海軍部)と海軍総司令部(聯合艦隊司令部)の役割の違いは曖昧になった。
 5月29日、海軍総司令長官兼聯合艦隊司令長官に小沢治三郎中将が補職された。支那方面艦隊や鎮守府の司令長官には小沢中将よりも先任のものが多かったため、長官レベルで大幅な人事異動がおこなわれた。南西方面艦隊と南東方面艦隊は交通路が遮断されて交代できないため、海軍総司令部の指揮から外して大本営直轄とした。小沢中将はかねてから将来の聯合艦隊司令長官候補として期待されていたが、すでにその手腕を発揮する余地に恵まれなかった。敗戦後、海軍総司令部と聯合艦隊が10月10日に解散したのをはじめ、各艦隊は順次復員し、11月末をもって艦隊令は廃止された。

 電報やメモなどで多用された略号では艦隊を F、聯合艦隊を GF と記述した。F は Fleet の頭文字だが、聯合艦隊は普通 Combined Fleet で単純な頭文字ではない。イギリス大艦隊 Grand Fleet にならったのか、それとも総司令部 General headquarters のように上級部隊の意味を込めたのか、はっきりとはわからない。この種の略号にはときどきこのように根拠が不明確なものがあるが、定着してしまっているので覚えると便利なことがある。番号を冠する艦隊は 1F、2F などと記した。航空艦隊は AF で 1AF などと表記した。以下同様に遣支艦隊は CF、南遣艦隊は KF、機動艦隊は KdF、護衛艦隊は EF、支那方面艦隊は CSF、北東方面艦隊は HTF、南東方面艦隊は NTF、中部太平洋方面艦隊は TYF、南西方面艦隊は GKF、第十方面艦隊は 10HF と記述する。
 海軍総隊は GB、海上護衛総司令部は GEB、海軍練習聯合航空総隊は GCfg と表記した。

戦隊

 艦隊令では、艦隊の一部を戦隊として司令官に指揮させるとしており、法令の趣旨としては戦隊が集まって艦隊を構成するのではなく、艦隊を分割したものが戦隊という位置付けになる。しかし実際の運用の上では同型艦や準同型艦で戦隊を構成することが都合がよかったことから戦隊の構成艦は固定される傾向にあり、艦隊の構成を変更する場合でも戦隊単位で移管することが多かった。
 日清・日露戦争の時代には艦隊に司令官を置き艦隊の一部を指揮させるとしており、こうした艦隊の一部を便宜的に戦隊と呼んだことはあったが、艦隊令で正式に戦隊が規定されたのは意外に遅く大正3(1914)年のことである。
 戦隊には司令官を置き所属する艦隊司令長官の指揮をうけた。幕僚として参謀副官機関長が置かれた。大戦中には一部の戦隊に参謀長を置いた。

 戦隊はその構成に応じて、戦艦や巡洋艦で編成される戦隊、主に駆逐隊で構成される水雷戦隊、潜水艦を中心に構成される潜水戦隊、航空隊や航空母艦で構成される航空戦隊、輸送艦を中心に編成される輸送戦隊などと呼び、それぞれ番号を与えて第一戦隊、第一水雷戦隊などと称した。

 はじめ複数の航空隊で編成された部隊は戦隊に準ずる聯合航空隊と称して航空戦隊とは呼ばなかったが、のちに航空戦隊と呼ぶようになった。ただし聯合航空隊が廃止されたわけではなく、練習航空隊を中心に残った。

 戦隊の略号は S squadron で、第一戦隊は 1S、などと表記した。以下同様に水雷戦隊は Sd、潜水戦隊は Ss、航空戦隊は Sf などと表記した。輸送戦隊については設置が戦争後期になったので定着した略号は見当たらない。聯合航空隊は Cfg である。

駆逐隊など

 複数の駆逐艦により駆逐隊を編成した。同様に潜水隊砲艦隊(昭和19(1944)年以降)、海防隊(昭和17(1942)年以降)、輸送隊(昭和19年以降)、水雷隊掃海隊駆潜隊(昭和15(1940)年以降)が編成され、それぞれ番号を冠して呼んだ。所管する鎮守府によって番号を区分し、第一ないし第十駆逐隊は横須賀鎮守府所管、第十一ないし第二十潜水隊は呉鎮守府所管、第二十一ないし第三十水雷隊は佐世保鎮守府所管、第三十一ないし第四十掃海隊は舞鶴鎮守府所管などとされた。
 駆逐隊などには司令を置き、中大佐があてられた。司令の補佐として機関長軍医長主計長隊附を置いた。艦隊司令長官や戦隊司令官の乗艦は旗艦と呼ぶが、隊司令の乗艦は司令駆逐艦などと呼び旗艦とは言わない。駆逐艦や潜水艦は、軍艦には含まれない。軍艦の艦長と同格なのは隊司令で、あわせて「所轄長」と総称された。

 駆逐隊の略号は dg、潜水隊の略号は sg が用いられた。その他の隊については定着した略号は見当たらない。

航空隊

 海軍航空隊は所在地を冠して横須賀海軍航空隊などと呼んだ。航空隊には司令副長飛行長飛行隊長補修長などを置いた。司令は所在地を所管する鎮守府に隷属するが、必要に応じて艦隊に編入されてその指揮をうける。
 日中戦争がはじまると既存の航空隊が出征するのに加えて、特設航空隊が編成された。特設航空隊は番号を与えられ第一航空隊などと呼ばれた。

 昭和17(1942)年、内地で教育や防空にあたる部隊をのぞいて、航空隊には三桁の番号が与えられることになった。百の位は使用機種、十の位は所管鎮守府、一の位は常設・特設の別を表すことになり、例えば第三四三航空隊は局地戦闘機を装備する呉鎮守府所管の常設航空隊であることがわかる。昭和18(1943)年末には航空機を運用する甲航空隊と、整備や飛行場管理をおこなう乙航空隊にわけ(空地分離)、乙航空隊には地名を冠することとした。さらに昭和19(1944)年に入ると航空隊の中の飛行隊レベルで独立して配属されるようになり、そうした飛行隊は例えば戦闘機を装備する場合、戦闘第一飛行隊などと呼んだ。

 航空隊の略号は一般に fg だが、単に「空」で表記される例が多かった。横須賀航空隊を横空、横浜航空隊を浜空、霞ヶ浦航空隊を霞空、第一航空隊を 1空、といった具合である。

特別陸戦隊、根拠地隊など

 特別陸戦隊は陸上戦闘を目的として編成された部隊である。なぜ「特別」なのかと言えば、本来の陸戦隊は艦船乗員が派遣されて臨時に編成されるもので、常設の部隊がむしろ例外だからである。上海事変をきっかけにして常設されるようになった上海特別陸戦隊が有名だが、のちには鎮守府によって多数編成され例えば呉鎮守府第六特別陸戦隊などと呼ぶ。複数の特別陸戦隊を編入した聯合特別陸戦隊も編成され番号で呼ばれた。

 警備隊は要地警備のために編成された陸戦部隊だが、特別陸戦隊と同じく前線に投入された。

 根拠地隊(特設艦船部隊令による)・特別根拠地隊(特別根拠地隊令による)は、根拠地に置き防御、警備、港務、補給などを掌り、必要な艦船部隊を編入または附属するとされた。司令官が置かれ所属長官の指揮をうける。幕僚として参謀長参謀副官機関長軍医長主計長を置いた。特別根拠地隊には参謀長、参謀、副官のかわりに副長を置いた。番号または所在地名を冠し、例えば沖縄方面根拠地隊、第31特別根拠地隊などと称した。
 本来は上記説明の通り、根拠地の防備や港務を担当して艦隊を支援する役割だったが、陸上防衛を担当する戦隊レベルの部隊が他になかったため、警備隊や特別陸戦隊を編入して要地の防衛にあたることになり、反攻する米軍の矢面に立たされ苦戦を強いられた。

 根拠地隊は「根」、特別根拠地隊は「特根」と略され沖縄方面根、31特根などと表記した。特別陸戦隊は特陸隊、特陸などと記された。

おわりに

 艦隊の説明を書いていたら「艦隊これくしょん」という言葉が降ってきたのでそのうちなにか書くかもしれません。もちろんゲームとはまったく関係ありません。

 次回は学校について。

 ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は戦艦長門、陸奥、二等巡洋艦龍田)

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