日本海軍の組織(3)鎮守府
日本海軍の組織について説明しています。今回は鎮守府について。
前回の記事は以下になります。
海軍区
日本の領土および海面を海軍区に区分していた。時期によって変化はあるが、最後の改定は昭和14(1939)年になされて、四つの海軍区を規定し第一ないし第四海軍区と呼んだ。海軍区にはひとつずつ軍港を置き、要地に要港を置いた。
第一海軍区は東日本を管轄し樺太北海道から日本海側は秋田県まで、太平洋側は三重県までの府県と、それらに面する海面である。なお内陸の栃木、群馬、埼玉、山梨、長野、岐阜の各県を含む。第一海軍区の軍港は神奈川県横須賀である。
第二海軍区は近畿から九州にかけての太平洋および瀬戸内海に面する地域を管轄し、本州では和歌山県より西、瀬戸内海を経て山口県まで、四国すべて、九州では福岡県の遠賀郡より東に大分県を経て宮崎県までの府県と海面である。陸上では滋賀県と奈良県、福岡県のうち遠賀郡以東の海に面した郡市を含み、兵庫県の日本海に面した郡を除く。また宮崎県に面する海面のうち有明湾は含まれない。第二海軍区の軍港は広島県呉である。
第三海軍区は九州西部から北は朝鮮沿岸、南は南西諸島を経て台湾までを管轄した。朝鮮、台湾および宗像郡以西の(第二海軍区に含まれない)福岡県、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、沖縄の各県の陸上および海面と、宮崎県に面する海面のうち有明湾を含む。第三海軍区の軍港は長崎県佐世保である。
第四海軍区は本州の日本海側を管轄し、山形県から島根県までの海に面する府県と海面だが、兵庫県については日本海に面する郡に限った。第四海軍区の軍港は京都府舞鶴である。
この他、満州関東庁の租借地および海面を管轄する関東庁海軍区と、委任統治領である南洋諸島とその海面を管轄する南洋海軍区があった。関東庁海軍区は第三海軍区が、南洋海軍区は第一海軍区が管理することになっていた。
鎮守府
海軍区にひとつずつある軍港に鎮守府を置き、軍港の所在地名を冠して横須賀鎮守府などと呼んだ。
鎮守府司令長官は親補職で大中将をあて、天皇に直隷する。軍政事項については海軍大臣の指揮をうけ、軍令事項については軍令部総長の指示をうけた。
鎮守府は管轄する海域の防御にあたるとともに、軍港の業務を統轄し、管轄地区に所在する部隊や学校などの組織を監督し、下士官および兵の人事を担任した。
艦船はその本籍をいずれかの鎮守府におき、航空隊や駆逐隊、潜水隊、通信隊などの部隊はいずれかの鎮守府が所管した。本籍や所管は、その艦船や部隊が前線に投入されても変わらず、第一義的には鎮守府が維持管理に責任を負った。
鎮守府には司令長官の幕僚として参謀長、参謀、副官、人事長、機関長、軍医長、主計長、法務長を置いた。
海軍人事部
軍港には海軍人事部を置き、鎮守府司令長官に隷属した。人事部では下士官および兵の配属を計画実施する。准士官以上の人事は海軍省人事局でおこなわれるが、下士官および兵はその本籍にしたがっていずれかの鎮守府に兵籍をもつ。たとえば栃木県に本籍がある人物が海軍に志願した、あるいは徴兵されて海軍に割り当てられた場合、栃木県は第一海軍区に属するため、自動的に横須賀鎮守府に兵籍をもつことになる。
鎮守府に本籍がある艦船や、鎮守府が所管する部隊への下士官兵の配員は鎮守府がおこなうため、栃木県出身の下士官兵(横須賀鎮守府籍)が呉鎮守府籍の艦船(例えば戦艦陸奥)に乗り組むことは基本的にあり得ない。
下士官および兵の配員を適切におこなうために、海軍人事部では鎮守府の指揮(鎮守府の幕僚である人事長が海軍人事部長を兼ねた)のもと、志願兵の採用の計画実施、徴兵の所要数を算定して海軍大臣を通じ陸軍に通知(徴兵は陸軍の担当)、再現役願の許可却下、昇進、賞罰、特修兵(いわゆるマーク持ち)の育成計画の策定実施などをおこなう必要がある。艦船や部隊の定員表は海軍大臣が作成(実際は海軍省の担当者だが)するが、そのうち下士官兵の部分を埋めるのは鎮守府の役割になる。
なお下士官兵でも搭乗員(掌飛行兵)については、兵籍は鎮守府にあったが配属は所管鎮守府と無関係に海軍省でまとめて取り扱った。また軍楽兵については本籍地にかかわらず横須賀鎮守府籍とされた。所帯が小さく、所属も東京軍楽隊、艦隊司令部附、鎮守府附に限られ艦船や部隊に所属することがないため、横須賀にまとめるのが得策とされたのであろう。ちなみに軍楽兵は志願兵のみで構成された。
戦時中には軍港以外の各地に海軍人事部が設置され、主要都市に地方人事部が置かれた。急膨張した海軍の人事業務量を分散したものだろう。
海軍経理部
軍港には海軍経理部を置き、鎮守府に隷属する組織の会計経理を担当した。経理部長は、鎮守府の幕僚である主計長が兼任するのが通例だった。ただし海軍工廠などの工作庁についてはそれぞれの会計部長に任せることとされた。海軍工廠の会計処理は特に複雑膨大で、専任者を置く必要があった。
海軍建築部
軍港には海軍建築部を置き、鎮守府が管理する施設の建築、土木、国有財産の維持整備を担当した。部長には文官の技師があてられた。戦時中に海軍施設部と改称し、技師の一部は技術科士官たる武官に転官した。
海軍軍需部
軍港には海軍軍需部を置き、艦船や部隊の維持整備、行動に必要な部品や需品の調達、保管、供給を担当した。
海軍艦船部
軍港には海軍艦船部を置き、鎮守府所管の艦船の保存や整備を担当した。
海軍港務部
軍港や要港には海軍港務部を置き、艦船の係留、出入渠、港湾警備、港内の浚渫、浮標の維持整備、救難、検疫など港湾の利用にかかわる作業を担当した。
海兵団
軍港には海兵団が置かれた。海兵団は配属先がない下士官兵を一時的に収容するのとあわせて、軍港地の軍紀風紀の維持にあたった。また練習部では新兵や一部特修兵の教育をおこなう(詳しくは後の回で触れる予定)。
防備隊、防備戦隊、警備戦隊
軍港やその他の要地に防備隊を置き、艦船や部隊を編入または附属して海面防御にあたった。
防備戦隊は軍港に置かれ、艦船や部隊を編入して警備区域の海面防御にあたった。防備隊は防備戦隊に編入された。
警備戦隊は軍港に置かれ、艦船や部隊で編成するとされた。法文上では防備戦隊との違いははっきりしない。警備戦隊には航空隊や防備隊は編入されず、鎮守府司令長官が指定する警備の一部を分掌するとされている。防備戦隊と同時に編成されることもあるので役割分担はあったのだろう。
なお警備隊と呼ばれる部隊もあったが陸上戦闘を目的とする部隊で少し役割が異なる。所管鎮守府はもちろんあったが、戦時に多数編成されて内外地に派遣され、陸上戦闘にあたった。
海軍病院
軍港に海軍病院を置いた。病院長は鎮守府軍医長が兼任するのが通例だった。のちに療養を主な目的とする海軍病院が温泉地や保養地にもうけられた。
ここで挙げた以外に、工作庁や学校にも鎮守府が所管するものがあったが、別に説明する。
要港部、警備府
要港には要港部(昭和期16(1941)年に警備府と改称)を置いたが、一部置かれない要港もあった。徳山要港には要港部が置かれたことがなく、かわりに防備隊が置かれた。馬公には長らく要港部・警備府が置かれていたが高雄が要港とされて警備府が移ったのちも要港であることはかわらず、防備隊がかわりに置かれた。
要港部には司令官を、警備府に改称後は司令長官を置き、天皇に直隷した。舞鶴要港部司令官については昭和11(1936)年7月1日より、その他の要港部司令官についても昭和13(1938)年11月14日にに親補職となる。
幕僚として参謀長、参謀、副官、機関長、軍医長、主計長、法務長を置いた。
他に青森県大湊、朝鮮鎮海が要港に指定された。舞鶴は大正半ばから昭和14(1939)年まで要港に格下げされていた。
旅順鎮守府、旅順要港部・警備府が設置されていた時期があるが、日本国外(租借地)であり、国内に置かれた鎮守府や要港部・警備府とは扱いが別で、根拠となる法令も異なっていた。開戦からまもなく旅順方面根拠地隊に格下げされた。
戦時中、重要な商港に商港警備府を置くこととされたが、実際には大阪にのみ置かれた。
日中戦争中に海南警備府が置かれたが、これは華南海南島の警備と軍政を担当する部隊で性格が異なる。
おわりに
「艦これ」のサーバーとして一躍有名になった鎮守府ですが私は「艦これ」をやってないのでそちらはわかりません。次回は艦隊について。
ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像はもと呉鎮守府庁舎、現在は海上自衛隊呉地方総監部)
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