見出し画像

巡洋艦ドレスデンの冒険

 第一次大戦でのドイツ巡洋艦といえばまずエムデン SMS Emden の名前が挙がりついでケーニヒスベルク SMS Königsberg が有名ですが、それほど知られてはいないもののドレスデン SMS Dresden の行動もけっこう波瀾万丈といえるのでできれば多くの方に知って欲しいと思います。

巡洋艦ドレスデン

 ドレスデンは1908年に就役した軽巡洋艦でその艦名はドイツ帝国の構成国のひとつであるザクセン王国の首都に由来する。長さは約120m、10.5cm砲を10門搭載しおよそ350名が乗り組んだ。

キール運河を通航するドレスデン

 1913年12月27日ドレスデンは内戦状態にあったメキシコに派遣される。艦長ケーラー中佐 Erich Köhler (1873-1914) の指揮のもとベラクルスに到着したのは年をまたいだ1914年1月21日となった。隣国のアメリカがすでに強力な艦隊を派遣しており列強の軍艦もベラクルスに集まっていた。ケーラー艦長は他国の艦船と協力してドイツを含むヨーロッパの民間人をドイツ客船に送り届けたりアメリカ国民をアメリカ客船まで護衛したりした。またメキシコシティ駐在のドイツ総領事の依頼で10名の水兵を送った。その一方でドイツが支援する勢力に武器を運ぶ商船を護衛し、武器の提供が衝突の激化につながるとして反対したアメリカと一触即発に陥るなどした。
 劣勢に陥ったメキシコのウエルタ大統領 Victoriano Huerta (1850-1916) は7月15日に辞任し7月20日に亡命した。前大統領を英領ジャマイカに送り届けたのがドレスデンだった。25日にジャマイカのキングストンに入港したドレスデンは本国で緊張が高まっていると知らされる。6月28日にオーストリア皇太子が暗殺されたことをきっかけに第一次世界大戦がまさに始まろうとしていた。
 27日ハイチのポルトープランスに移ったドレスデンは本国から派遣されていたカールスルーエ SMS Karlsruhe と合流する。カールスルーエの艦長リュデッケ中佐 Fritz Lüdecke (1873-1931) はカリブ海に派遣されるまでドレスデンの艦長だった。リュデッケとケーラーは乗艦を交換する。リュデッケが本国から携えてきた命令ではケーラーがより新型のカールスルーエでカリブ海での任務を引き続き担当し、リュデッケはドレスデンを本国に帰還させるはずだった。しかし情勢の緊張をうけてドレスデンも通商破壊戦に備えよとの新たな命令が届けられた。

ドレスデン艦長リュデッケ中佐


 カールスルーエはベラクルスに戻ることを断念しキューバに脱出、メキシコに向かうとみせかけて反対方向の大西洋に向かった。その直後にドイツがフランスに宣戦布告しイギリスとも開戦間近との知らせをうけ通商破壊戦を開始した。ドイツの石炭輸送船と合流して補給をうけながら連合国船舶を撃沈または捕獲した。いったんアルゼンチン付近まで南下して反転北上、カリブ海のバルバドス付近にいたった11月4日、突然爆発事故を起こして沈没してしまう。随伴の石炭補給船が救出した生存者のなかにケーラー艦長は含まれていなかった。連合軍側はカールスルーエの事故をしらないまま捜索を続けた。ドイツ本国も生存者を乗せた石炭補給船が本国に帰還するまでカールスルーエの沈没を知らなかった。連合軍がそれに気づくのは1915年3月のことである。

東洋戦隊との合流

 日清戦争後、ドイツは山東半島南岸の青島を清国から租借し東洋戦隊の根拠地としていた。ここには伯爵シュペー中将 Graf Maximilian von Spee (1861-1914) 率いる2隻の装甲巡洋艦を主力とする戦隊が駐留していたのだが、上海や香港にはイギリス艦隊が存在する上に日本はイギリスの同盟国であり圧倒的に不利な状況にあった。

東洋戦隊司令官伯爵シュペー中将


 サラエボでの暗殺事件が起きる前の6月20日にドイツ東洋戦隊はエムデンだけを残してドイツ領ニューギニアに向かった。途中でヨーロッパ情勢の緊張を知ったシュペーは独領カロリン諸島のポナペにとどまり情勢の推移をみまもった。8月に入るとマリアナ諸島のパガンに移り、メキシコ西海岸に派遣されていたニュルンベルク SMS Nürnberg や青島から脱出してきたエムデンと合流した。
 ひとまず戦力の集結を果たしたシュペーは、南米大陸を迂回して本国を目指すという悲壮な決意をかためた。このときエムデン艦長ミュラー中佐 Karl von Müller (1873-1923) は単独で通商破壊にあたりたいと申し出て許された。エムデンの以後の活躍はよく知られているのでここでは触れない。8月15日シュペー率いる本隊はチリ海岸を目指してパガンを出港した。途中サモアが連合軍に占拠されたと知り仏領タヒチに向かう。9月22日タヒチのパペーテ港では在泊していたフランス艦艇を破壊したが機雷を恐れて入港することなく集積されていた石炭も入手できなかった。その後に向かったチリ領のイースター島で、アメリカ西海岸に派遣されていたライプチヒ SMS Leipzig およびリュデッケ艦長が指揮するドレスデンと合流する。10月12日のことである。
 カリブ海方面にあったドレスデンは厳重に無線封止をして身を潜めていたが、開戦のしらせを受けると南大西洋に向かった。アマゾン川河口付近やブラジル領トリニダド島付近、そしてアルゼンチンのラプラタ川河口付近で連合国商船を捕獲し、さらにアルゼンチン海岸に沿って南下を続けたが機関に不調をきたしたため島陰に隠れて修理を行なった。そこで合流したドイツ商船の南米大陸西岸には商船が多いという情報をうけて太平洋に向かうことを決心した。9月18日にマゼラン海峡を抜けて太平洋に出たドレスデンは同じく東太平洋で行動していたライプチヒと無線連絡に成功しシュペーの東洋戦隊がチリを目指していることを知ったのである。イースター島で東洋戦隊と合流した翌日リュデッケは大佐に昇進した。

ドイツ東洋戦隊のたどった航路

コロネル沖の勝利

 いまや装甲巡洋艦シャルンホルスト SMS Scharnhorst、グナイゼナウ SMS Gneisenau、軽巡洋艦ニュルンベルク、ライプチヒ、ドレスデン(および付属補給船)で構成されるドイツ東洋戦隊は10月18日にイースター島を出港してまずはチリ海岸をめざし、その後は海岸に沿って南下した。イギリス海軍部隊が迎撃しようと待ち受けているとの情報を得たシュペー司令官は偵察のためライプチヒを先行させた。
 クラドック少将 Sir Christopher Cradock (1862-1914) 率いるイギリス艦隊はチリ中部コロネル付近にあった。ドイツ艦隊によるタヒチ島攻撃の知らせをうけて近くチリ海岸に現れると睨んだのである。クラドック指揮下にあったのは装甲巡洋艦2隻、軽巡洋艦グラスゴー HMS Glasgow、特設巡洋艦オトラント HMS Otranto でドイツ側と比べるとやや見劣りするものの主力の装甲巡洋艦は同数だった。
 11月1日、連絡のためコロネル港に派遣されていたグラスゴーは本隊と合流しようとしていた。16時17分、ライプチヒはイギリス艦隊の煙を発見する。ほぼ同時にグラスゴーもドイツ艦隊を発見した。両艦隊はいずれも南に向かい追撃戦の様相を呈したがイギリス側には低速の特設巡洋艦オトラントが含まれていた。クラドックはドイツ艦隊との交戦を決意し距離を詰めようとする。
 しかしシュペーは距離をあけて時間稼ぎに出る。18時50分に砲戦が開始されたとき、東側に位置するドイツ艦隊はチリ海岸を背にしており、西側に位置するイギリス艦隊はまさに沈もうとする太陽を背にしていた。ドイツ艦隊からイギリス艦隊を見るとくっきりと水平線上に浮かび上がっているのに対し、イギリス艦隊から見るとドイツ艦隊の姿は背後の海岸線に溶け込んで識別困難だった。
 砲戦は一方的な結果に終わる。1時間ほどでイギリス艦隊旗艦グッドホープ HMS Good Hope は撃沈されクラドック司令官を含む全乗員が運命をともにした。さらに1時間後にはモンマス HMS Monmouth も同じ運命をたどった。ドレスデンはライプチヒとともにグラスゴーを狙ったが非力な10.5cm砲では有効な打撃を与えられなかった。グラスゴーはオトラントとともに暗闇にまぎれて南方に脱出した。

コロネル沖海戦

フォークランド

 クラドック司令官の部隊が一方的に敗退したというしらせにイギリス海軍は衝撃をうけた。面子にかけてもシュペーを食い止めなくてはいけない。北海でドイツ大海艦隊と対峙していた大艦隊から虎の子の巡洋戦艦を抽出して南太平洋に派遣することが急きょ決定される。送られたのは巡洋戦艦2隻(インビンシブル HMS Invincible、インフレキシブル HMS Inflexible)、装甲巡洋艦3隻(カーナヴォン HMS Carnavon、コーンウォール HMS Cornwall、ケント HMS Kent)を中心とする部隊でスターディー中将 Sir Doveton Sturdee (1859-1925) が率いた。並々ならぬ決意が見てとれる。11月11日に英本国を発った艦隊は12月7日にフォークランドに到着した。
 コロネル沖でイギリス艦隊を撃破したドイツ艦隊は11月3日バルパライソに入港し大歓迎をうけたが同時にエムデンの喪失と青島の陥落を知らされた。コロネル沖で弾薬の半分を消費していたが補給の見込みはなく、石炭の補給も思うに任せなかった。取り逃したグラスゴーや戦艦カノープス HMS Canopus がドイツ艦隊の所在を探しているという情報もありシュペーは楽観的ではいられなかった。12月1日に南米大陸南端のホーン岬をまわったドイツ艦隊は捕獲したイギリス石炭輸送船から石炭を確保することができ、各艦の石炭庫は満杯になった。
 シュペー中将はフォークランドのイギリス軍基地襲撃を決心する。艦長たちはもはや石炭も十分でありリスクが大きすぎるとして反対したが、当地の石炭庫や無線基地を破壊するのは重要だとしてシュペーは判断を変えなかった。
 12月8日朝、先行したグナイゼナウとニュルンベルクはフォークランド諸島の主都であるスタンリー港に接近する。港内を望観したドイツ艦隊はイギリス巡洋戦艦の特徴的な三脚マストに気づいた。イギリス側もドイツ艦隊を発見して至急出港した。シュペーは先行させていたグナイゼナウとニュルンベルクに本隊への復帰を命じた。ドイツの装甲巡洋艦は攻撃力でも速力でもイギリスの巡洋戦艦には太刀打ちできない。戦力でも劣っている。逃げきれないと覚悟したシュペーはせめて軽巡洋艦だけでも逃がそうと、シャルンホルストとグナイゼナウでイギリス巡洋戦艦に立ち向かった。
 スターディーは2隻の巡洋戦艦でドイツの装甲巡洋艦と交戦する一方で、巡洋艦部隊にはドイツ軽巡洋艦を追うよう命じた。その巡洋艦部隊には太平洋から合流したグラスゴーも含まれていた。数時間続いた砲戦は一方的なものとなり、シャルンホルストはシュペー中将を含む全乗員とともに沈んだ。まもなくグナイゼナウも跡を追ったが約600名の乗員のうち160名ほどがイギリス軍に救助された。シュペーが身をもって逃がそうとした軽巡洋艦もニュルンベルクとライプチヒが撃沈された。ドレスデンはかろうじて南方に脱出して逃れた。

フォークランド海戦

再び太平洋へ

 ただ1隻生き残ったドレスデンは本国とは反対方向の南に逃れた。他に選択の余地がなかったのである。燃料の石炭はほとんど尽きていたが幸いなことにドイツ貨物船と合流することができ、チリの港でまず160t、ついで750tの石炭を積み込んだ。本国からは警戒線を突破して帰国するよう指示されたが、実現不可能と判断したリュデッケは太平洋を西に進んでオランダ領東インド(現インドネシア)を経てインド洋に向かいながら通商破壊戦を行なうと決める。さらに1600tの石炭を搭載したドレスデンは2月14日に南太平洋にむけて出航した。
 2月27日、チリ沖マス・ア・ティエラ島南方でイギリス商船を捕獲する。その後マス・ア・ティエラ島で結果として最後となる石炭の補給を行なった。
 3月8日濃霧の中で漂泊していたドレスデンは、同様に漂泊していた英艦ケントを15マイルの距離で発見した。両艦は急ぎ機関を起動してドレスデンは脱出をはかりケントは追跡した。5時間の追跡劇の末ドレスデンはどうにかケントを振り切ったが石炭をほとんど使い尽くした上、酷使され続けた機関に無理をさせた結果回復不能なダメージを与えてしまった。もはやドレスデンは戦闘に耐えないと判断したリュデッケは翌日チリ領マス・ア・ティエラ島カンバーランド湾に入港する。

ロビンソンクルーソー

 マス・ア・ティエラ島は小説「ロビンソンクルーソー」のモデルになった島だった(1966年に正式にロビンソンクルーソー島と改名)。国際法上、交戦国の軍艦は24時間を超えて中立国の港に停泊することはできない。それを超えた場合は戦争が終結するまで抑留されることになる。リュデッケは本国の許可を得た上で語学に堪能なカナリス大尉 Wilhelm Canaris (1887-1945) を派遣してチリ当局に抑留の意向を伝えさせる。
 3月14日朝、英艦ケントとグラスゴーがカンバーランド湾に接近してきた。リュデッケはドレスデンがすでに戦闘不能状態であると信号を送ったが無視され、両艦は中立国チリの領海に侵入して砲撃を加えてくる。ドレスデンは主砲で応戦するがたちまち沈黙させられた。リュデッケが「軍使を送る」と信号してカナリス大尉の派遣を準備したが英艦による砲撃はやまない。白旗を掲げさせるとようやく砲撃が止んだ。
 英艦グラスゴーに派遣されたカナリスはイギリスによるチリの中立侵犯に強く抗議したがグラスゴー艦長は「命令に従っただけだ」とにべもなく、ドレスデンに無条件での降伏を要求した。カナリスはドレスデンはすでにチリによって抑留されていると反論し、帰艦したときには自沈の準備が完了していた。

自沈直前のドレスデン


 10時45分、前部弾薬庫に仕掛けられた爆薬が爆発して艦首を吹き飛ばした。ドレスデンは2つに折れ、前部は沈没し後部は右舷に転覆したが一部海面上に露出したまましばらく浮いていたのでさらに爆破され完全に没した。

後日譚

 カンバーランド湾の戦闘を生き延びたドレスデンの乗員はチリに抑留された。しかしカナリス大尉は8月に脱走して10月に本国に帰還する。カナリスは第二次大戦でドイツ軍諜報機関のトップを務めるが反逆の疑いをかけられ終戦直前に処刑された。
 海底のドレスデンの残骸はこれまで何度か潜水調査をうけてきた。2006年にはドレスデンの鐘が発見され、いま故郷ドイツにある。

ドレスデンの鐘

おわりに

 フォークランド海戦でドイツ東洋戦隊がほとんど全滅したのは知識として知ってはいましたが、ただ1隻生き残ったドレスデンの艦歴を調べ始めたのはまったくの偶然でした。海戦の前にも後にもこんなに劇的な展開があったのかと驚いたものです。カナリスが乗艦していたのも意外でした。海軍士官としての活動は日本ではあまり伝えられていないと思います。
 まだまだ知らないことがいっぱいあると反省させられました。この驚きの一端でもおわけすることができましたら幸いです。

 ではもし次の機会がありましたらまたお会いしましょう。

 なお画像や図版はウィキペディアから引用しました。

(カバー画像は1909年ニューヨークを訪れたドレスデン)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?