マガジンのカバー画像

日本海軍軍人伝

116
日本海軍の軍人について
運営しているクリエイター

#支那方面艦隊

支那方面艦隊司令長官伝 (12)福田良三

支那方面艦隊司令長官伝 (12)福田良三

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は福田良三です。
 総説および前回の記事は以下になります。

第二十三潜水艦長 福田良三は明治22(1889)年11月1日に熊本県の玉名で生まれた。日露戦争のあと江田島の海軍兵学校に入校する。明治43(1910)年7月18日に第38期生149名中50位で卒業し海軍少尉候補生を命じられた。首席は原清である。

もっとみる
支那方面艦隊司令長官伝 (11)近藤信竹

支那方面艦隊司令長官伝 (11)近藤信竹

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は近藤信竹です。
 総説および前回の記事は以下になります。

陸奥運用長 近藤信竹は明治19(1886)年9月25日に大阪で生まれた。日露戦争の真っ最中に江田島の海軍兵学校に入校する。明治40(1907)年11月20日に第35期生172名の首席で卒業し海軍少尉候補生を命じられた。巡洋艦厳島で遠洋航海に出航

もっとみる
支那方面艦隊司令長官伝 (10)長谷川清

支那方面艦隊司令長官伝 (10)長谷川清

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は長谷川清です。
 総説および前回の記事は以下になります。

長門艦長 長谷川清は明治16(1883)年5月7日に福井で医師の子として生まれた。海軍将校を志して江田島の海軍兵学校に入校する。明治36(1903)年12月14日に第31期生173名の6位で卒業し海軍少尉候補生を命じられた。首席は枝原百合一だっ

もっとみる
支那方面艦隊司令長官伝 (9)百武源吾

支那方面艦隊司令長官伝 (9)百武源吾

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は百武源吾です。
 総説および前回の記事は以下になります。

多摩艦長 百武源吾は明治15(1882)年1月28日にもと佐賀藩の足軽の家に生まれた。兄三郎はのちに海軍大将、弟晴吉は陸軍中将にまで昇る。兄弟で海軍大将に進んだのは百武三郎・源吾兄弟だけである。海軍将校をめざしていたすぐ上の兄が若くして亡くなっ

もっとみる
支那方面艦隊司令長官伝 (8)今村信次郎

支那方面艦隊司令長官伝 (8)今村信次郎

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は今村信次郎です。
 総説および前回の記事は以下になります。

三笠乗組 今村信次郎は明治13(1880)年12月4日に米沢藩士の家に生まれた。山下源太郎や黒井悌次郎と同郷になる。米沢中学を経て日清戦争後の海軍兵学校に入校した。明治35(1902)年12月4日に第30期生187名中の首席として卒業し海軍少

もっとみる
支那方面艦隊司令長官伝 (7)左近司政三

支那方面艦隊司令長官伝 (7)左近司政三

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は左近司政三です。
 総説および前回の記事は以下になります。

練習艦隊参謀 左近司政三は明治12(1879)年6月27日に旧米沢藩士の家に生まれた。叔父の養子となり大阪に移ってそこで育つ。日清戦争後に江田島の海軍兵学校に入校して海軍将校をめざした。明治33(1900)年12月13日に第28期生105名中

もっとみる
支那方面艦隊司令長官伝 (6)野村吉三郎

支那方面艦隊司令長官伝 (6)野村吉三郎

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は野村吉三郎です。
 総説および前回の記事は以下になります。

済遠航海長 野村吉三郎は明治10(1877)年12月16日に紀伊和歌山藩士だった塩田家に生まれた。同じく和歌山藩士の野村家に養子に入る。海軍将校をめざして江田島の海軍兵学校に入校したのは日清戦争が終わった翌年のことである。明治31(1898)

もっとみる
支那方面艦隊司令長官伝 (5)中野直枝

支那方面艦隊司令長官伝 (5)中野直枝

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は中野直枝です。
 総説および前回の記事は以下になります。

海軍軍令部参謀 中野直枝は慶応4(1868)年2月15日に土佐国で生まれた。東京築地にあった海軍兵学校に入校し、在校中に学校が広島県江田島に移転する。第15期生80名のうち6位の成績で卒業し、明治22(1889)年4月20日に海軍少尉候補生を命

もっとみる
支那方面艦隊司令長官伝 (4)小栗孝三郎

支那方面艦隊司令長官伝 (4)小栗孝三郎

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は小栗孝三郎です。
 総説および前回の記事は以下になります。

比叡分隊長 小栗孝三郎は慶応4(1868)年8月4日、加賀金沢藩の支藩である大聖寺藩士の家に生まれた。小栗が生まれて1ヶ月ほどで元号が明治と変わる。海軍将校を目指して築地にあった海軍兵学校に入校するが、一号生徒のときに学校が広島県江田島に移転

もっとみる
支那方面艦隊司令長官伝 (3)野間口兼雄

支那方面艦隊司令長官伝 (3)野間口兼雄

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は野間口兼雄です。
 総説および前回の記事は以下になります。

海軍省副官 野間口兼雄は慶応2(1866)年2月14日に薩摩藩士の家に生まれた。海軍将校を志して海軍兵学校に第13期生として入校し、同期生36名中6位の成績で卒業した。首席は伊藤乙次郎である。前年までは在校中に行っていた遠洋航海は、野間口らか

もっとみる
支那方面艦隊司令長官伝 (2)黒井悌次郎

支那方面艦隊司令長官伝 (2)黒井悌次郎

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は黒井悌次郎です。
 総説および前回の記事は以下になります。

陸戦重砲隊指揮官 黒井悌次郎は慶応2(1866)年5月22日に出羽米沢藩士の家に生まれた。山下源太郎と同郷ということになる。東京築地にあった海軍兵学校に志願して海軍将校をめざした。第13期生36名のうち4位の成績で卒業する。首席は伊藤乙次郎だ

もっとみる
支那方面艦隊司令長官伝 (1)有馬良橘

支那方面艦隊司令長官伝 (1)有馬良橘

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。初回は有馬良橘です。
 総説の記事は以下になります。

侍従武官 有馬良橘は文久元(1861)年11月15日に御三家である紀伊和歌山藩の藩医の家に生まれた。戊辰戦争で父は医師として幕府側で従軍したため、維新後は朝敵扱いをされて苦労したという。有馬が海軍将校をめざして築地の海軍兵学校に入校したのはすでに20歳を

もっとみる
支那方面艦隊司令長官伝 総説

支那方面艦隊司令長官伝 総説

 歴代の支那方面艦隊司令長官と、その前身になる第三艦隊司令長官について述べていきます。
 まずは総説から。

日清戦争 日清戦争で清国に勝利し台湾と遼東半島を取得した日本だったが、三国干渉で遼東半島の返還を余儀なくされ、中国方面で拠点を得ることはできなかった。遼東半島先端の関東州(旅順、大連)はロシアが租借し、戦争末期に日本が占領した威海衛は戦後イギリスが租借し、山東半島南岸の膠州湾をドイツが租借

もっとみる
聯合艦隊司令長官伝 (22)鈴木貫太郎

聯合艦隊司令長官伝 (22)鈴木貫太郎

 歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は鈴木貫太郎です。
 総説の記事と、前回の記事は以下になります。

第四駆逐隊司令 鈴木貫太郎は慶応3(1867)年12月24日に下総関宿藩士の家に生まれた。当時父は和泉にある関宿藩飛び地の代官をつとめており、鈴木も和泉で生まれたが維新後は関宿に帰還する。その後前橋に移り住んだが

もっとみる