支那方面艦隊司令長官伝 (12)福田良三
歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は福田良三です。
総説および前回の記事は以下になります。
第二十三潜水艦長
福田良三は明治22(1889)年11月1日に熊本県の玉名で生まれた。日露戦争のあと江田島の海軍兵学校に入校する。明治43(1910)年7月18日に第38期生149名中50位で卒業し海軍少尉候補生を命じられた。首席は原清である。遠洋航海のため防護巡洋艦笠置に乗り組む。この年の練習艦隊は装甲巡洋艦浅間と笠置で編成されていた。浅間などの装甲巡洋艦はこののち遠洋航海に交代であてられることになるが、笠置などの防護巡洋艦が使用されたのはこのときだけだった。八代六郎司令官の指揮で10月16日に横須賀を出航し、ハワイ、北米西海岸を巡って翌年3月6日に帰国した。戦艦肥前(もとロシア戦艦レトヴィザン)に配属され、さらに巡洋艦須磨に移って明治44(1911)年12月1日に海軍少尉に任官する。砲術学校と水雷学校の普通科学生を修了して大正2(1913)年12月1日に海軍中尉に進級すると佐世保鎮守府第十三駆逐隊に所属する三等駆逐艦白雲に乗り組む。わずか300トンの小艦である。1年間すごして装甲巡洋艦吾妻に移った。大正5(1916)年の吾妻は練習艦隊に配属され、第43期生の候補生を乗せて松村龍雄司令官の指揮で4月20日に横須賀を出航し、東南アジア、オーストラリア、ニュージーランド、日本占領下の南洋諸島を巡って8月22日に帰国している。帰国すると呉防備隊に属する第一潜水艇隊附に補せられて、はじめて潜水艦勤務を経験する。このとき第一潜水艇隊は日本がはじめに輸入した第一から第五潜水艇と、それをもとに国産した第六、第七潜水艇で編成されていた。
いったん水雷学校の高等科学生として部隊を離れ、その間の大正6(1917)年4月1日に海軍大尉に進級してひとかどの水雷屋となって第一潜水艇隊に艇長として復帰する。潜水艦乗りは水雷または航海のマークを得た上で実艦または潜水学校で潜水艦特有の技能を身につけるというキャリアをたどるのを通例としていた。福田は水雷マーク持ちの潜水艦乗りということになる。大正7(1918)年度は同じく呉防備隊の第十二潜水艇隊に移った。この隊はイギリスから導入したC型潜水艦で編成されており能力はかなり向上していた。なおこの年から潜水艇隊の番号が改められ、呉鎮守府所管の潜水艇隊は10番台の番号を称するようになった。
まもなく工作船関東に移ったのは、第一次世界大戦の終結によりドイツ潜水艦の配分をうけることになり、その受領にヨーロッパに派遣されるためだった。地中海のまマルタで引き渡された潜水艦を日本まで持ち帰ったが、大西洋で激しい戦闘に直面していたドイツ潜水艦ははるかに進んでおり、実艦を調査した日本は大きく影響を受けることになる。その後は呉鎮守府に所属する第十四潜水隊(海中型)、同じく第十七潜水隊(フランスS型)で艦長をつとめた。第十七潜水隊は横須賀鎮守府に移って第二潜水隊と改称している。
兵学校での成績も平凡で、目立たない潜水艦で地道に勤務してきた福田にとって海軍大学校甲種学生(第20期生)に選ばれたのは大きかった。居住性に劣る潜水艦勤務のかたわらの受験勉強は並大抵ではなかったはずだが幸い合格して2年間の課程を終えて大正11(1922)年12月1日に海軍少佐に進級する。広島湾に面した潜水学校の教官をつとめたあと第二十三潜水艦(のち呂号第十三潜水艦、海中型)の艦長で潜水艦勤務に戻った。新たに編成(厳密には復帰)された第二艦隊第二潜水戦隊の参謀に移る。司令官は河合退蔵である。
水雷屋は本来駆逐艦勤務を想定している。第四号駆逐艦(のち呉竹)、駆逐艦帆風の艦長をつとめた。海軍大学校教官だった昭和2(1927)年12月1日に海軍中佐に進級した。
支那方面艦隊司令長官
昭和4(1929)年に第一遣外艦隊参謀に補せられたのが中国との縁の始まりとなった。当時中国では国民党軍と共産党軍の戦いがいわゆる長征により大きな転換点を迎えていたが、その分日中間の対立は和らいでおり比較的安定していた。1年で帰国して巡洋艦羽黒の副長をつとめ、昭和7(1932)、8(1933)年度は佐世保鎮守府所管で海大型で編成された第二十八潜水隊の司令に補せられた。昭和7(1932)年度は第二艦隊第二潜水戦隊に、昭和8(1933)年度は第一艦隊第一潜水戦隊に所属している。その間の昭和7(1932)年12月1日に海軍大佐に進級した。海軍大学校の教官をつとめたのち、欧米出張を命じられる。当時ドイツは再軍備を宣言した上でイギリスと海軍協定を結んで潜水艦艦隊の再建を進めていた。
帰国して巡洋艦那智艦長をつとめている間に日中戦争が始まった。那智を含む第五戦隊は陸軍部隊の緊急輸送に従事する。横須賀防備隊司令を半年ほどつとめたあと、新設された台北在勤武官に補せられて台湾で勤務する。昭和13(1938)年11月15日に海軍少将に進級する。さらに海南島根拠地隊司令官に補せられる。海南島は海軍が占領して確保しており南進の拠点としていた。防衛のみならず軍政も海軍が担当していた。
太平洋戦争開戦時には華南を担当する第二遣支艦隊司令部附の肩書きとあわせて、興亜院の厦門連絡部長官に任じられていた。興亜院はアジア地域の外交を外務省から切り離すために陸軍が主体となって設立した官庁で、外務省や商工省などの官僚と陸海軍の寄り合い所帯だった。連絡部は諜報機関の役割を果たした。厦門は華南で南シナ海に面する要所である。
昭和17(1942)年5月1日に海軍中将に進級し、東南アジアの占領地に移ってボルネオ島バリクパパンの第二十二根拠地隊司令官に補せられた。バリクパパンでは石油を産出した。昭和18(1943)年末に台湾の高雄警備府司令長官に親補される。台湾では海軍の拠点は長らく澎湖群島の馬公要港だったが、本島南部の高雄に移っていた。台湾の防衛にあたるとともに、台湾人を特別志願兵に採用して教育する責任者でもあった。フィリピンに米軍が上陸すると第一航空艦隊がフィリピンから移って来て、台湾からフィリピンに向かって特攻攻撃を加えた。沖縄に米軍が来襲するとそちらにも特攻をかけることになる。
沖縄に米軍が上陸して一月あまり、聯合艦隊司令長官の交代が計画された。すでに連合軍は本土に迫る位置にまで達しており、本土決戦を期して内地を含む全戦力を聯合艦隊司令長官が(海軍総司令長官の肩書きで)指揮する体制が生まれていた。伝統的に聯合艦隊から独立していた支那方面艦隊も隷下に編入された。新しく聯合艦隊司令長官に予定されていたのは小沢治三郎で、現職の支那方面艦隊司令長官近藤信竹の二期後輩にあたる。後輩が先輩を指揮することになってはまずいということで、聯合艦隊に先だって支那方面艦隊の司令長官が交代した。福田は小沢の1年後輩になり、中国勤務の経験が多いこともあって支那方面艦隊司令長官に親補された。
支那方面艦隊の正面の敵は大陸奥地の中国軍だったが、いまや中国大陸沿岸に連合軍が上陸することも真剣に憂慮された。結局、補職から3ヶ月でポツダム宣言の受諾にいたり、福田は中国方面の海軍部隊を代表して降伏文書に調印した。昭和21(1946)年7月25日に現地で予備役に編入され、56歳で現役を離れた。その後、中国で戦犯として訴追されて有罪判決を受け、服役ののち帰国する。
福田良三は昭和55(1980)年3月26日死去した。享年92、満90歳。海軍中将正四位勲一等。
おわりに
福田良三は戦時中に中将にまで進んで親補職をふたつ経験しているにもかかわらずほとんど知られていません。自分も昔、支那方面艦隊の歴代司令長官を調べた時に太平洋戦争末期が埋まらず「誰なんだろう」と本格的に調べてはじめて名前を知ったといういきさつがあります。中央官庁での勤務がまったくないことと、南西または大陸で終始して米軍との戦闘に関与しなかったことが影響しているでしょう。
これで支那方面艦隊司令長官は最終回となりました。次は何でしょう。考え中です。ではもし機会がありましたら次回お会いしましょう。
(カバー画像は第23潜水艦の姉妹艦、第24潜水艦。のち呂号第15潜水艦)
附録(履歴)
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