見出し画像

40歳からの勇気〜なりたい自分になるためのアドラー心理学〜 【第3章:あなたが作り上げた人生の目的と、「目的論」的な考え方】


40歳の原因論と、劣等コンプレックス

超高齢化する日本社会では若僧扱いされる40代。それでも肉体の衰えをひしひしと感じる年頃でもある。

もう20代や30代の頃のように浴びるようにお酒も飲めないし、徹夜明けで仕事をするのもきつくなったし、近頃は何だか物覚えもわるくなってきた。

身体は重いし、階段の上り下りには息が切れるし、代謝も落ちてきたのか、少しでも食べ過ぎるとお腹まわりに肉がつく。肌つやもよくないし、最近は髪の毛も薄くなってきたような…

そんなふうに感じている40代の方は少なくないのではなかろうか?


加齢による衰え。これは生き物である以上、避けることのできない宿命である。


しかし、仮に今あなたが「外国語を学び直したい」と思っているが、40歳という年齢を理由に語学教室に通うのをためらっているとする。

つまり、年をとって物覚えがわるくなってきたので若い子たちについていけないかもしれない。恥をかくのではないか?と思って、語学教室の入学申請にブレーキがかかってしまっているのだとしたら、それは原因論的に物事を考えているからだ。


また、40歳という年齢は責任を伴う年齢でもある。結婚し、子どもができ、家族を守っていかなくてはという自覚も生まれてくるし、社会人として20年近くも働けば部下もできて、上司からの要求も多くなってくるものだ。


社会的責任。これも避けられない現実としてあるだろう。


しかし、肉体の衰えを解消するために会員になったスポーツジムに、今ほとんど通えていないとする。その理由が、40歳という年齢に伴う会社での立場によるものだとしたら(例えば、部下の面倒を見る必要があるのでなかなか早く帰れないとか、上司に飲みに誘われると中間管理職である自分はなかなか断れない、などの理由でジムから足が遠のいているのだとしたら)それも、あなたが原因論で動いているからに他ならない。


40歳という年齢が原因で物覚えがわるくなってきたから語学教室に通うのをためらったり、

40歳という年齢上の立場が原因で早い時間に退社できないからスポーツジムに通えないというその原因論は、「自分がしないことの言い訳として使われている」ことは誰の目から見ても明らかだ。


そう、原因論は人に用いられる時、しばしば言い訳として使われる。


第1章であなたは、劣等感には2種類あるということを学んだ。

劣等感は「他人よりも劣っているという感情」のことだが、それは程度によって「適度な劣等感」と、「過剰な劣等感」に分けられる。

適度な劣等感は、成長のための有益な刺激にもなるが、劣等感が過剰になると、やる気を失わせたり、目の前の課題から逃げたりするようになる。これを「劣等コンプレックス」と呼んだ。


そういう意味では、原因とか理由を言い訳に使うケースは、適度な劣等感というよりも劣等コンプレックスに近い状態と言えるかもしれない。

つまり40歳になって物覚えがわるくなったことを理由に「語学教室に行くという課題を避けたり」、あるいは40歳という会社での年齢上の立場や責任を理由に「スポーツジムに行くという課題を避ける」のだ。





『原因と結果』⇄『手段と目的』の関係性

あなたが会社に遅刻したとしよう。あなたにはその原因が分かっている。

それは前日にお酒を飲み過ぎたからだ。(まあよくある話だ)

つまりあなたは、前日にお酒を飲み過ぎたことが「原因」で、会社に遅刻するという「結果」を招いたと考えるだろう。

実は、この原因と結果の関係は、「手段」と「目的」の関係に置き換えることができる。つまりこうだ。


あなたは会社に遅刻するという「目的」のために、前日にお酒を飲み過ぎるという「手段」を使ったのだ。


「そんなばかな」とあなたは思うだろう。

遅刻することが分かっていたら、最後のあの一杯は頼まなかった。あるいは強い日本酒ではなく、軽めのサワーかウーロン茶に切り替えていたとあなたは言うかもしれない。

その通りだ。否定はしない。原因論が中心である世の中では、その理解はある意味正常だ。

原因→結果から、手段→目的への変換をもう少し続けてみよう。


・40歳になって物覚えがわるくなったから(原因)語学教室に行くのをためらうのではなくて(結果)、本当は語学教室に行きたくないから(目的)物覚えがわるくなったからという(手段)を使った。


・40歳という年齢上の立場もあって部下にも上司にも気を遣い、時間を取られてしまうから(原因)スポーツジムに通えないのではなくて(結果)、本当はスポーツジムに通いたくないから(目的)、部下にも上司にも気を遣って時間を費やすという(手段)を使った。


どうだろう。私は言葉遊びをしているのではなく、極めて真剣だ。


「もしそうであったとしたら」と仮定してみてほしいのだ。

もし、本当は語学教室に行きたくなくなかったのだとしたら。もし、本当はスポーツジムに通いたくなかったのだとしたら。そうであったとしたら…


勘のいい方はもう気付いたかもしれない。

そう、第2章の最後でふれた、虚構の最終目標に、あなたは導かれているだけかもしれないのだ。あなたがその目的に、ただ無自覚なだけで。





アドラー心理学の『目的論』的な考え方

『嫌われる勇気*1』の中に、赤面症を治したがっている女子高生のエピソードが出てくる。彼女の悩みは赤面症であり、どうしてもこの症状を治したいというのだ。

彼女から相談を受けた哲人(哲学者)が、「もし赤面症が治ったら、あなたは何がしたいか?」とたずねると、彼女は「お付き合いしたい男性がいる」と言う。それは密かに思いを寄せてはいるが、いまだに気持ちを打ち明けられない男性で、もし赤面症が治ったら、その彼に告白してお付き合いしたいというのだ。


どうして彼女が赤面症になり、その赤面症が治らないのか?


哲人(哲学者)の見立てはこうだ。

それは、彼女自身が赤面という症状を必要としているからだと。


つまり、彼女にとって一番避けたいことは、その彼に振られること(自分の愛を受け止めてもらえないこと)なのであり、

『赤面症をもっているかぎり、彼女は「わたしが彼とお付き合いできないのは、この赤面症があるからだ」と考えることができます。告白の勇気を振り絞らずに済むし、たとえ振られようと自分を納得させることができる。そして最終的には、「もしも赤面症が治ったら私だって……」と、可能性のなかに生きることができるのです。68P』


つまり、ありのままの自分を彼に受け入れてもらえなくて、自分が傷つくのを避けるために(目的)、赤面症を作った(手段)と考えられるというのだ。

もちろん、彼女にはそのような自覚はないだろう。彼女の目的は無意識のレベルで働いているからだ。

しかしその目的は「赤面症」という症状をも作り出し、彼女をその方向へと導いた。これが、アドラー心理学の「目的論」的な考え方なのである。


アドラーは

『個人心理学という科学は、生の神秘的で想像的な力を理解しようとする努力から発達した*2』

と言っている。

『その力は目標を追求し、それを達成しようとする欲求であり、仮に一つの方向で失敗したとしても、別の方向で補償しようとする力なのだ*3』

と。そしてこの力こそが、「目的論」的な力なのだとアドラーは言うのだ。


彼女は、思いを寄せている男性に自分を受け入れてもらうという自信がなかったし、想いを告白する勇気もなかった。だから「赤面症」という症状を作り出すことで、彼と付き合うことができないのはこの赤面症のせいであり、赤面症が治りさえすれば、自分は彼と付き合うことができると思い込んだ。

つまりアドラーが言うように、目標を達成しようとする(彼にお付き合いしたいと告白する)代わりに、別の方向で補償した(赤面症になることで、この症状がなければ彼とお付き合いすることができると、可能性の中に生きることを選んだ)のである。


彼女の赤面症は明らかに「劣等コンプレックス」によってもたらされたものであるが、

アドラー心理学の「目的論」にしたがって考えるならば、彼女は、自らの神秘的で想像的なカによって作りだした「赤面症」によって、彼女が達成できない(と思いこんでいる)課題への目標を、別の方向で達成した(補償した)と考えられるのである。





「優越性の追求」と「仮想的目標」

アドラー心理学でいう目標及び目的は、必ずと言っていいほど「自分に価値があると思えるかどうかの問題」がその根本にある。そして、自分に対する価値判断を始点として「自分の価値をより大きくしたい」というゴールに向かって方向づけられている。

アドラー心理学では「人はみな、フェルトマイナスからフェルトプラスの方向に向かって動いている」と考える。

これはつまり、自分の「価値がより少ない感覚」から「価値がより多くなる感覚」になるように、その方向に向かって動いていることを意味する。

しかし、自分に価値があると思えるかどうかはあくまでも本人が感じるものであり、その価値判断は極めて主観的なものである。つまり「自分に価値があると思えるかどうかの問題」も、実は「劣等感」と同じ類の(主観的な)問題なのである。


もうお分りだろう。

アドラー心理学でいう「目標」及び「目的」は、(第1章で扱った)「劣等感の補償行為」として作られたものなのだ。そしてアドラー心理学では、この劣等感の補償行為を「優越性の追求」と呼んでいる。


今仮に、背が低いことに劣等感を持っている少年が、「自分は背が低いから、周りの人たちは自分をバカにしている」と思い込んでいたとしよう。「だから自分は周りからバカにされないように、たくさん勉強して優秀な成績を修めなければならない」と思っていたとする。

この少年の場合、背が低いことに対する劣等感が、その「補償行為」として、「たくさん勉強して優秀な成績を取らなければならない」という目標を作り出したと考えられる。


しかし、この少年が「背が低い」ということは客観的事実として認めるとしても、「背が低いことが理由で周りからバカにされている」という認識はあくまでも主観的な判断である。

さらに、「バカにされないように、優秀な成績を取らなければならない」という目標も、何の論理的繋がりのない、主観的な思い込みである。

というのは(百歩譲って)彼が背が低いことで周りからバカにされていることが事実であったとしても、「優秀な成績を取れば周りからバカにされない」という保証はどこにもないからだ。


つまり、劣等感が主観的な価値判断だとすれば、その補償行為(優越性の追求)として作られる目標も、同じように主観的なものであり、それは「仮想的」目標なのである。





アドラー心理学の「自己決定性」

アドラー心理学では、「遺伝」を否定しなければ「環境」も否定しない。

遺伝や環境はその人に影響を与えるもの=「影響因」として考えている。


しかし、遺伝や環境はその人のいわゆる「性格」を決定づけるもの=「決定因」としては考えていない。


アドラー心理学では、遺伝や環境の影響を受けた上で、「最終的な決定は自分自身が行なっている」と考えるのだ。

つまりアドラー心理学で重視するのは「もしそうだとしたら、あなたはどうするのか?」という問いなのである。

(図)取り出し 2.001


あなたはどうするのか?ここで問われるのが、

アドラーの言う「神秘的で想像的な力=creativity 」であり、アドラー心理学ではこれを「自己決定性」と呼んでいる。


先ほどの、背が低いことに劣等感を感じている少年が、背が低いことを「遺伝」であると考えたとする。つまり両親が背が低いから、自分も背が低いのだと。これはいわゆる原因論だ。

しかしこの少年は、背が低いことで周りにバカにされないように、たくさん勉強して優秀な成績を取ろうと思った。これは明らかに彼の自己決定であり、彼の想像力が作り上げた仮想の目標なのである。

そう、この少年は背の低いことを親からの遺伝であると考えたとしても、そこで(その原因論で)終わってはいないのだ。

たくさん勉強して優秀な成績をおさめるという目標を作ることで、その劣等感を補償しようとしているからだ。つまり自己決定による想像力を働かせることで、「目的論」的に生きていると考えられるのである。


同じように背が低いことに劣等感を感じている別の少年が、「女の子との接触をいっさい持たない」という行動を取っている場合はどうだろう。

彼は過去に女の子にバカにされたことがあった。その理由が、自分が背が低いからそういう扱いを受けたのだと思い込み、それ以来「女の子には近づかない」という決意をしたのだ。

ここにも彼の想像力が働いているのが分かる。彼は、女の子に近づかなければこれ以上傷つくことはないと思った。つまり、女の子との接触をたてば自分の価値がこれ以上引き下げられることがない上に「今の不安定な自分よりも、より多くの価値を感じることができる」と判断したのだ。そのような仮想の目標で自らの劣等感を補償したのである。


しかし、彼には優越性を追求する選択肢が他にもあったことを忘れてはならない。これ以上バカにされないように女の子に攻撃的な対応を取ることもできただろうし、あるいは女の子にバカにされるどころか逆に魅力的な存在に見えるように、自らを磨いていく方法だってあったはずなのだ。

それでも彼は、女の子に近づかないという回避の手段を自ら選ぶことでその劣等感を補償したのであり、これはまぎれもなく彼の自己決定による目的論的な生き方なのである。



この章であなたに理解してほしかったのは、人は必ずしも原因論で行動しているわけではないということだ。

そして、私はあなたに、アドラー心理学が重視する目的論的な生き方を意識してみてほしいと思うのだ。

それは、人間が(多かれ少なかれ)主観的な劣等感によって突き動かされており、その劣等感を補償するために、自ら作り上げた仮想の目標に向かって生きているという考え方である。


第1章で私は、潜在能力が眠る場所とは劣等感であり、潜在能力とは、その劣等感から発動する補償行為、すなわち「優越性の追求」の中にそのヒントが隠されていると述べた。

第2章では、人はありのままの世界(たった一つの現実)に生きているのではなく、「まるでそうであるかのような」それぞれの仮想世界に生きているのだということについて語った。そしてそこには、劣等感が大きな影響を与えているということもあなたはすでに理解しているだろう。

さらに本章では、劣等感は仮想世界だけではなく、「仮想の目標」をも作り出しているということについて述べた。

「仮想の目標」は劣等感を補償するために自らの想像力で作り上げたものであり、人はその目標に導かれるように生きているという考え方、つまり「目的論的」な生き方・考え方を(きっと半分くらいは)理解してもらえたのではないかと思う。


準備は整った。

次章では、いよいよライフスタイルの本質に迫ることができるはずだ。

人が思い描く自身のイメージがどのように作られるのか。それは同時に、世界に対してどのような認識を抱かせ、人をどのような方向に向かわせるのかを、次章で明らかにしていこうと思う。

ライフスタイルという、あなたをを縛り付けるその窮屈な拘束服の正体を。

☞第4章につづく


*1『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)64P〜69P
*2 ALFRED ADLER THE SCIENCE OF LIVING (Martino Publishing) 32Pより訳出
*3 ALFRED ADLER THE SCIENCE OF LIVING (Martino Publishing) 32Pより訳出


この記事が参加している募集

#スキしてみて

526,895件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?