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40歳からの勇気 〜なりたい自分になるためのアドラー心理学〜 【第2章:あなたは仮想の世界に生きている】


映画『マトリックス』の中に見る仮想現実


あなたは今生きているこの世界が、もしかしたら夢なのではないか?と感じたことはないだろうか。起きているのに夢を見ているような感覚。漠然とした違和感…

「あなたが生きているこの世界は、コンピュータによって作られた仮想現実だ」と言われたら、あなたはどうするだろうか。このまま仮想現実の世界で生き続けるか?それとも真の現実の世界に目覚めるか?

映画『マトリックス』はそんな選択を迫られるところから物語が始まる。

大手ソフト会社に勤めるプログラマー、トーマス・アンダーソンには、コンピュータ犯罪のスペシャリスト、天才ハッカー「ネオ」というもう一つの顔があった。伝説のサイバー・ヒーロー「モーフィアス」から、コンピュータが作り出した仮想現実『マトリックス』のことを聞かされたネオは、日常の違和感に自ら悩まされていたことを理由に、現実の世界に目覚めることを選択する。


『マトリックス』はSFクション映画としても素晴らしく面白いが、私はそれ以上に「精神世界」や「潜在意識」を扱った作品としてこの映画に興味をもっている。

目覚める前のネオに、モーフィアスは次のように言う。

『君は、君の心の囚人なんだ』と。


ネオが現実の世界に目覚めた時に知った真実は、(モーフィアスたち以外の)全ての人類がプラグに繋がれ、ロボットに培養されている世界だった。そう、その世界では人間はロボットによって飼育され、ロッボトは人間から摂取した電気エネルギーを自分たちの動力源となる「電池」に変えていたのである。

そして人類は、そのプラグに繋がれることによって、ロボットが作り出した仮想現実『マトリックス』を、まるで夢を見るかのように見せられていただけだったのだ。つまり、ネオがそれまで「現実」だと信じていた世界は、ロボットが作り出した単なるコンピュータプログラムだったのである。

私はこの映画を単なるSFの世界として割り切るのではなく、我々の日常生活に置き換えて考えてみる必要があると思うのだ。


モーフィアスは言う。

『現実とは何だ。君はどうやって現実とそうでないものを見分けるのだ?君が感じるもの、匂うもの、見るもの、それを現実と言うなら、現実とは、君の脳から発せられた単純な電気信号に過ぎない』と。


そう、これを我々の日常生活に置き換えるとしたら、あなたは何を思うだろうか?

もちろん我々はプラグに繋がれているわけではないが、この現実が、何がしかのプログラムによって書き込まれた仮想の世界であったとしたら。

今あなたに見えているその光景は、本当にありのままの世界(現実)であると言いきれるだろうか。





それぞれの仮想世界

アドラーの考えに従うならば、人は誰もが(多かれ少なかれ)劣等感を持っている。

しかし劣等感とは、極めて「主観的な価値判断」であることもまた事実だ。


背が低いことが(例えば日本人の平均身長よりもだいぶ低いといった)客観的事実としてあったとしても、背が低いことで他人よりも劣っていると感じる人もいれば、そんなことは全く意に介さない人もいるだろう。それは、その人が背が低いという客観的事実に対する、その人の主観的な意味付けに過ぎないからだ。


しかし、劣等感を感じる人は確かにいる。背が低いことに劣等感を感じる人は、いったいどんなことを考えているのだろうか。


「私は背が低いことで他人よりも劣っているのだ。だから他人は私のことを上から見下し、私のことを小さい奴だと思うだろう。私が小さいことで、私の存在を軽んじるかもしれない。あるいはバカにするかもしれないし、冷やかすかもしれないし、私のことをいじめるかもしれない。」

背が低いことに劣等感を感じている人が、もしそのようなことを考えているのだとしたら、これはその人の主観的な思いこみであり、妄想に過ぎないことが分かるだろう。なぜならこの考えには何の根拠もないからだ。


しかし、背が低いことに劣等感を感じている人は「まるでそうであるかのように」自分を見て、世界を見ている。

それはまるでモーフィアスの言う『心の囚人』である。


今ここに、2人の男性がいるとしよう。2人は全く同じ身長であり、平均身長よりもかなり低い。Aさんは、自分が背が低いことに劣等感を持っているが、Bさんは(自分が背が低いことを自覚はしているが)普段、あまり意識することはない。(つまり劣等感を感じていない)


そこで、あなたに問いたい。

Aさんが見ている現実とBさんが見ている現実は、果たして同じ世界の現実であると言えるだろうか?


想像してみてほしい。
街を歩いていて、向こう側から背の高い人が歩いてくる。その人の後ろを、ノラ猫がトコトコと歩いてきた。そんな同じシチュエーションで、AさんとBさんはそれぞれどのように感じるのだろうか?

背が低いことで他人よりも劣っていると感じるAさんは、まずその背の高い人に注目したはずだ。そして少し不快な気持ちになったかもしれない。後ろから歩いてくるノラ猫には、気付かなかった可能性もあるだろう。

しかし、背が低いことを意識していないBさんは、背が高い人とすれ違ったことすら気付かなかったかもしれない。動物が大好きだったBさんは、ひょっとしたらその後ろを歩いてくるノラ猫に関心を移していたので、背の高い人は目に入らず、その猫を見て「可愛いな」と愛おしい気持ちにすらなったかもしれないのだ。


同じような身体を持った2人が、同じ場所で遭遇した、同じシチュエーションではあるが、果たしてあなたは、この2人が、たった一つしかない「ありのままの世界」、「同じ現実」に生きているといえるだろうか?


我々が寄せる関心は、みなそれぞれ異なる。

それはどのような劣等感を持つかによっても変わってくるし、どこに注目を与えるかによって、見える世界も当然変わってくるのだ。


つまり、我々はありのままの(たった一つの)現実世界に生きているのではなく、その人が関心を寄せ、注目したそれぞれの世界「まるでそうであるかのような世界」に生きているのである。

それは言い換えるならば「主観的に意味付けされた世界」であり、ありのままの世界ではないという意味では、モーフィアスの言う『マトリックス』のような世界なのかもしれない。


つまり我々は、それぞれの「仮想世界」に生きているのだ。






虚構の有用性

仮想と同じような意味合いでよく使われる言葉として、フィクション(虚構)という言葉がある。

虚構とは「事実ではないことを事実らしく作り上げること」であり、いわばつくりもの」のことだが、リアルな現実の反対概念として使われるという意味では、虚構は仮想とよく似ている。


ユヴァル・ノア・ハラリの書いた『サピエンス全史』(河出書房新社)は世界的大ベストセラーになったが、この本の中で繰り返し述べられているのが、「虚構の有用性」だ。


ヒト科のホモ属のサピエンスという生き物である「ホモ・サピエンス(我々人類)」が、食物連鎖の頂点に立ち、ここまでの繁栄を極めることができたのは、虚構を創り出すことができたからだとハラリは言う。

つまり虚構を共有することで、お互いが協力することを可能にしたからだというのだ。


アフリカでほそぼそと暮らしていた猿の一種族に過ぎなかった我々の祖先は、約7万年に認知革命を起こした。それは虚構としての「言語」を作り出すことだった。虚構である言語を駆使することで、サピエンスは互いの意思を伝えあい、協力し合うことでサバイバルすることができるようになった。

そしてサピエンスは、究極の虚構である「貨幣」をも作り出すことで、最も効率的に、多くの見知らぬ者どうしが協力し合えるシステムを作り上げることに成功する。

やがてサピエンスは「国家」や「国民」、「企業」や「法律」、さらには「人権」や「平等」といった概念まで、ありとあらゆる虚構を作り上げ、それを信頼し、共有することで発展してきたというのがハラリの見解だ。


つまり「フィクション(虚構)」は、人類にとって有用なものなのである。


『サピエンス全史』からさかのぼること100年前、実はもう一人、虚構の有用性を説いていた学者がいた。

その名はハンス・ファイヒンガー。

1911年、ドイツ人哲学者であるファイヒンガーは『THE PHILOSOPHY OF “AS IF”(かのように)の哲学』というタイトルの本を出版した。

アドラーは、ベルリンで出版されたこの本(ドイツ語)の初版本を読んでいて、ファインヒンガーの考え方に大きな影響を受けたと言われている。




AS IFの哲学とアドラー心理学における『仮想論』

以下に、ロバート・W・ランディン著『アドラー心理学入門』(一光社)より、ファインヒンガーの考え方に関する記述を引用する。


【ファインヒンガーによれば、私たちだれもが、たいていは意識的なものですが、アイデアつまり空想の連続の中で暮らしていて、その空想は現実世界には対応するものがありません。空想としてであっても、それは私たちの日常生活では実用的価値がたいへんたくさんあります。これらの空想は、活動の基盤として私たちが受け入れる作業原理になります。】

…省略

【空想は人生をより楽しくて生き甲斐のあるものにしてくれます。たとえば、宇宙が完全に秩序だっていて便利である「かのように」行動することによって、空想はより便利で納得がいきます。ファインヒンガーによれば、すべての原子が完全に規則正しい様相で動くかのように、私たちは自然の法則という空想を創造しているのです。同じく、善であって親切で思いやりがある全能の神を、人は慰めてもらうために信じることができます。ところが実際には、この信念は、現実のものごとの起こり方には当てはまりません。もし神が私たちを愛して面倒をみてくれるのであれば、どうしてこのように大勢の悲惨で貧しく不幸な人々が世の中にいるのでしょうか。しかし、神がすべての人類の面倒を見ているという作り話を、私たちは創造します。50P】


ファインヒンガーは、この『AS IFの哲学』という本の中で、世の中のあらゆる対象物が「かのように」の偽りに服従させられていることを、様々な事例を取り出して指摘した上で、フィクション(虚構)がいかに我々の日常生活に都合よく、そして有用に利用されてきたかを説いたのである。

やはり虚構は、人類の進化にとって必要なものであるのと同時に、人生をより充実にするためにも必要なものだったのだ。


アドラーは、ファイヒンガーの『As Ifの哲学』から「利用できる虚構」という考え方を応用し、自身の理論に「心理学的虚構」という概念として取り入れた。


つまり我々は、ありのままの世界を見ているのではなく、as if(まるでそうであるかのように)理解し、世界を認知しているに過ぎないというのである。

アドラーは、例えば劣等感に苦しみ、いつも緊張している人のことを『まるで深淵の前に立っているかのようだ』とか、あるいは『まるで敵国にいるかのようにふるまっている』という言い方で表現した。

彼らは実際に「深淵の前に立っている」わけではないし、事実として「敵国にいる」わけでもない。

しかし、彼らには「まるでそうであるかのように」見えているのであり、世界を「そうであるかのように」認識し、そして自分が「そうであるかのように」振舞っているのである。


アドラー心理学ではこの考え方を「仮想論」(fixtionalism )と呼んでいる。





虚構の最終目標

アドラーの考えが独創的だったのは、心理的な創造物であるフィクションを、「人生の最終目標」という概念と結びつけたことである。

『はじめに』の中でも少しふれたように、アドラーは「人間は誰もが最終目標を持っており、それに向かって生きている」と考えた。


その最終目標は、フィクション(虚構)として作られたものであるが、人はこの最終目標に導かれるように生きている(行動している)というのが、アドラーの見解なのである。


おそらくあなたは、これまで自分の人生の最終目標などというものを意識したことはないだろう。

私自身、アドラー心理学を学ぶまでは自分の最終目標なんて考えたこともなかったし、そんなものが存在するとも思っていなかった。

しかし、今あなたが見ている現実が、あなたの仮想世界なのだとしたら(そう考えたら)、その世界同様、あなたの最終目標というものが何がしかのプログラムとして書き込まれていたとしても、なんら不思議はないのではなかろうか?


そう、全ては仮想であり、虚構なのだ。


モーフィアスの言葉をこのように言い換えてみてはどうだろう。

「あなたは、あなたの虚構の囚人なのだ」と。

あなたの虚構の最終目標が、あなたの全てを決めているのだと。


☞第3章につづく

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