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40歳からの勇気~なりたい自分になるためのアドラー心理学~ 【第1章:あなたの潜在能力が眠る場所】


人間の潜在能力

『人間は自分の潜在能力の30%しか使うことができんが、北斗神拳は残りの70%を使うことに極意がある』

これは私が小学生の頃に夢中になっていた漫画『北斗の拳』(集英社)の主人公、ケンシロウのセリフだ。

『北斗神拳とは、一子相伝の暗殺拳であり、二千年間他門に敗れたことはないとされ、戦いの中で奥義を見出し、常に進化を続ける点から「地上最強の拳」、「闘神の化身(インドラ・リバース)」と呼ばれていた。』(ウィキペディア)

北斗神拳の伝承者となるべく旅を続けるケンシロウの行く手には様々な強敵が立ちはだかるが、北斗神拳を使いこなすケンシロウの前に、敵は秘孔(人間の急所のようなもの)を突かれ、体内爆発を起こして無惨に倒れていく。


小学生には少しグロテスクな描写の多い漫画だったが、私は当時、少年ジャンプの連載をむさぼり読み、母親に注意を受けながらも、夕飯の時間に放映していたアニメに釘付けになったものだ。

圧倒的な強さを誇るケンシロウの闘いとその物語もさることながら、私が最も興味を引かれていたのは、「人間の潜在能力」についてだった。

人間は潜在能力の30%しか使うことができないとはどういう意味なのか?残りの70%の力とはいったいどこに隠されているのだろうか?

当時物知りな友達にそのことを尋ねると、「あれは脳の話だよ」と教えてくれた。つまり、脳の中で使われている部位はほんの一部なので、使われていない脳の部分に潜在的なカが秘められているというのだ。「北斗神拳は、普段は使われてない脳を覚醒させて闘うんだ」と、彼は自分の坊主頭を指差しながら最もらしく話してくれた。

なるほど。そういうことだったのかと、その時は新鮮な驚きとともに感動すら覚えて納得していたが、今考えてみればこの説はかなり怪しい。(まあ、子どもどうしの会話なんて所詮はその程度のものだが)


アドラー心理学について語ろうとするとき、私はいつも人間の潜在能力について考える。というのは、アルフレッド・アドラーが、しばしばこの潜在能力について触れているからだ。


世界的ベストセラーの『人を動かす』や『道は開ける』で知られるデール・カーネギーが、アドラーのことを

【一生を費やして人間とその潜在能力を研究した偉大な心理学者】*1

だと紹介しているが、アドラー心理学には「潜在能力を引き出す」という観点が確かにあると私は思っている。

『北斗の拳』はもちろんフィクションであるが、もし本当に、今はまだ眠っている潜在能力を使うことができたら、いったいどれくらいのことを成し遂げることができるのだろうか。

そもそも、潜在能力とは何なのだろう?

Googleで検索すると、潜在能力の定義だけでなく潜在能力を持っている人の特徴とか、それを引き出す方法やポイントだとか、あるいは潜在能力の診断からテストまで、これらを集めただけでも一冊の分厚い本を作れるくらいのコンテンツが出てくる。それくらい多くの人たちが、潜在能力には関心を寄せているということだ。


そこで1つ提案がある。


仮に潜在能力を「内に潜んでいて、表面化されていない能力である」と定義するならば、「今、自分ができていないこと」を潜在能力と考えてみてはどうだろうか?

つまり潜在能力とは「関心はあるが、今の自分にはできていないこと。しかしできる可能性を持っていること」と意味付けしてみるのだ。


私の知り合いに、かつては太っていて(そのことで苦しんでいたこともあったが)大幅な減量に成功し、今は自分の体験をもとに、痩せるためのアドバイスなどを生業にしている女性がいる。

また別の知り合い(男性)には、人前に出ると緊張してしまって話すことも困難な、いわゆる極度の「あがり症」に苦しんでいたが、訓練によって見事にそれを克服し、本まで出版してしまったという人もいる。

そう、彼らはかつて「できていないことで苦しんでいた」が、「できるようになること」でそれを克服し、仕事にしてしまうほどの成功をおさめた。私はこれを「潜在能力を開花させた」と考えたいのだ。

ここでのポイントは、彼らがかつて「関心がありながらも、それができていないことで苦しんでいた」というその事実にある。


アドラー心理学ではこれを、「劣等感」と呼ぶ。


アドラー心理学におけるライフスタイルの概念(自分と世界に対する意味付けや信念)を理解するためには、まずこの「劣等感」について考えてみる必要がある。




 「劣等感」と「コンプレックス」

「あの人は背が低いことがコンプレックスだ」とか、あるいは「あの人は学歴がないことをコンプレックスに感じている」とか、そういう類いの話をよく耳にする。

いずれもあまりいい意味での使い方ではないが、このコンプレックスを「劣等感」と置き換えてみたらどうなるだろうか。

「あの人は背が低いことが劣等感だ」

「あの人は学歴がないことを劣等感に感じている」

コンプレックスを劣等感に置き換えても、文脈上は何の問題もないのが分かるだろう。つまりここで使われているコンプレックスとは、劣等感を意味すると言っていい。

そもそもcomplexという言葉は、複合体とか合成物という意味だが、特にフロイト派・ユング派・アドラー派の心理学用語として頻繁に用いられた。しかし日本でよく使われるcomplexとは、inferiority complex 、つまり「劣等コンプレックス」のことであり、これはアドラーが作った言葉である。


『比べて分かる!フロイトとアドラーの心理学』(青春出版社)の中で、和田秀樹氏は次のように述べている。

『たとえば、しばしば「劣等感」の意味で使われる「コンプレックス」という言葉があります。しかし本来、心理学用語としての「コンプレックス」は、「感情複合」や「心理複合体」といった意味。ひとことで説明できる単純な概念ではありません。フロイトの理論にも「エディプス・コンプレックスという概念がありますが、そこに劣等感という意味合いはないのです。それなのに、一般的には、これが「劣等感」と同じ意味で広く誤用されています。いや、その誤用が定着した結果、すでに国語辞典にもその意味が採用されていますから、日本語では「コンプレックス=劣等感」だといっていいでしょう 34P〜35P』


そして和田氏は、この誤用のきっかけをつくったのがアドラーだと言う。

『彼が提唱した「劣等コンプレックス」という心理学的な概念がひじょうに説得力のあるものだったため、いつの間にか「コンプレックス」だけで「劣等感」を意味するようになってしまったのです。35P』

 

まとめると、日本でよく使われる「コンプレックス」という言葉は「劣等感」を意味するが、その語源はもともとアドラーが作った「劣等コンプレックス」という言葉である。しかし、その概念があまりに説得力のあるものだったため、いつの間にか「劣等」の部分が省略されて「コンプレックス」だけで「劣等感」を意味するようになったというのだ。

これは大変興味深い指摘である。


そもそも劣等感という言葉は『自分が他人よりも劣っているという感情(大辞林)』のことだ。

つまり背が低いことに劣等感を抱いている人は、背が低いことで他人よりも劣っていると感じ、学歴がないことに劣等感を抱いている人は、学歴がないこと(今の日本では学校歴がないこと)で他人よりも劣っていると感じる。

しかし、背が低いからといって他人よりも劣っているとは感じない人もいるだろうし、あるいは学歴がないからといって他人よりも劣っていると感じない人もいるだろう。


つまり劣等感とは、本人が感じるもの(そう思い込んでいるもの)であり、それは極めて主観的な価値判断によるものなのである。

 

自分に価値があると思えるかどうか。これはアドラー心理学にとって大変重要なテーマなのであるが、それは後の章で詳しくふれるとして、まずはアルフレッド・アドラーが「劣等感」についてどのように言っているのかを見てみよう。




アドラー心理学で扱う「劣等感」には2種類ある

アドラーはその著書『個人心理学講義』(アルテ)の中で

『劣等感は、健康で正常な努力と成長への刺激である*2』

と言っている。あるいは

『劣等感をすっかり取り除くことはできない。実際、私たちはそうすることを望んでいない。なぜなら、劣等感は、パーソナリティ形成の有用な基礎となるからである*3』

と言っているのだ。


つまりアドラーは、「劣等感」に対しては基本的に肯定的である。「劣等感は健康で正常な努力と成長への刺激であり、パーソナリティ形成のためにはなくてはならないもの」というのがアドラーの見解なのだ。


しかし、この「劣等感」が病気の様相を呈する時があるとも言っている。


それは

『無能感が個人を圧倒し、有益な活動へ刺激するどころか、人を落ち込ませ、成長できないようにするときに初めて、劣等感は病的な状態になる*4』

というのだ。

それではどのような時に「劣等感」が病的な状態になるのか?


それは、劣等感が過剰な時である。

つまり劣等感が強すぎて過剰な状態になると、無能感を生み、人を落ち込ませ、成長できないような病的な状態を作り出すのである。


「適度な劣等感」は健康で正常な努力と成長の刺激になるが、「過剰な劣等感」は無能感を生み、半ば病的な状態を作りだす。

つまり、「劣等感は程度によって変わる」というのだ。


そして

『コンプレックスという言葉は、過剰な状態を意味する*5』

とアドラーが言っているように、「劣等コンプレックス」とは「劣等感が過剰な状態」を指しているのである。


つまり、アドラー心理学で扱う「劣等感」には2種類あると言える。それは成長の刺激となる適度な「劣等感」と、病的な状態を引き起こす過剰な劣等感「劣等コンプレックス」である。




 

「劣等感」は補償行為を生み出す

「劣等感」と「劣等コンプレックス」の違いについてもう少し触れておこう。

仮に、背が低いことに劣等感を抱いている人がいたとする。その人が取るべき道は2つある。

一つは、「背が低い」というその劣等感(他人よりも劣っていると思う感情)を、別のエネルギー(アドラーの言葉を借りるならば成長の刺激)に変えて、有用な努力をするという道である。

例えば、背が低いことでバカにされたりしないように、人の3倍勉強して優秀な成績を取る人もいるだろう。あるいは背が低いことで他人からなめられたりしないように、格闘技を習って精神的にも肉体的にも強くなるといった道を取る人もいるかもしれない。

もう一つは、背が低いという劣等感から対人関係を避けるという道だ。例えば、友達にバカにされるのが嫌で、友達とは一切遊ばずに家に引きこもるとか、あるいは「背が低いと女性から愛されない」と思い込み(そのことで女性から傷付けられないように)女性との接触を避けるといった行動を取る人もいるだろう。

前者が人間の成長を促す適度な「劣等感」であり、後者が過剰な劣等感から目の前の課題を避けてしまう「劣等コンプレックス」である。


ここで大事なことは、それが適度な「劣等感」であれ「劣等コンプレックス」であれ、劣等感を感じた人は必ず「補償行為」を取るということだ。


「補償行為」とは「劣等感」を埋め合わせるために、他の事柄で優位に立とうとする行為である。

つまり、ある人にとっては人の3倍勉強して優秀な成績を収めることが、他人よりも優位に立つことを意味し(補償行為となりうるし)、

またある人にとっては、女性との接触をできる限り避けることで、「女性から愛されないであろう、実際の自分」よりも優位に立つことを意味する。(補償行為を取っているということになる)


アドラー心理学ではこの補償行為を、「優越性の追求」と呼んでいる。


ちなみにアドラーは

『劣等感と優越性の追求は互いに補完し合う関係である*6』

とも言っている。つまり人は「劣等感」を感じると、必ずその補償行為である「優越性」を発動することで、上手くバランスを取っているというのだ。




 

アドラー心理学は「劣等感」に始まり「劣等感」に終わる

日本ではあまり知られていないが、アドラーは自身の心理学をIndividual Psychology と名付けており、「個人心理学」というのがアドラー心理学の正式な名称である。

ちなみに「個人心理学」の個人(individual)という言葉 には2つの意味があると言われている。一つはindividual にはnot dividual(分割できない)という意味が込められていて、アドラー自身が「個人というものはこれ以上分割できない全体的な存在である」と考えていたこと。

もう一つは、「類型化できない他の誰でもないその人=個人(individual)」を扱う心理学なのだということだ。


アドラーは前著『個人心理学講義』の中で

『すべての人が劣等感を持ち、成功と優越性を追求する。このことがまさに精神生活を構成する*7』

と言っている。


つまり、劣等感は全ての人が多かれ少なかれ持っているものであり、その補償行為として、誰もが優越性を追求しているというのがアドラーの見解であり、これが個人心理学(アドラー心理学)の前提なのだ。


そして

『個人心理学の方法は劣等感に始まり、劣等感に終わるということを我々はためらうことなく認める*8』

とアドラー自身が言っているように、アドラー心理学とは「劣等感」と、その劣等感の補償行為として発動する「優越性の追求」を解明しようとした心理学であると私は解釈している。


話を戻そう。

潜在能力が眠る場所。

それは(その人が主観的に感じる)「劣等感」の中にある。

まだ表面化されていない能力は、劣等感の補償行為として発動される「優越性の追求」に、そのヒントが隠されているのだ。


かつては太っていることに苦しんでいたが、大幅な減量に成功し、今は痩せたい人のためのアドバイスを生業にしている女性は、その「劣等感」をどのように使い、どのようにその能力を目覚めさせたのだろうか?

あるいは極度の「あがり症」に苦しんでいたが見事にそれを克服し、「あがり症」に関するアドバイス本まで出してしまった男性は、その「劣等感」をどのように転化させることでそれを成し遂げることができたのだろうか?


全ては「劣等感」という感情の中に、その秘密が隠されている。


そして、「劣等感」はあなたをまるで「別の世界」へといざなうだろう。

次章では、あなたが自覚すらしていない、その「もう一つの世界」の話をしよう。

☞第2章につづく



*1『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)22P
*2『個人心理学講義』(アルテ)45P
*3『個人心理学講義』(アルテ)63P
*4『個人心理学講義』(アルテ)45P
*5 ALFRED ADLER THE SCIENCE OF LIVING (Martino Publishing) 79Pより訳出
*6 ALFRED ADLER THE SCIENCE OF LIVING (Martino Publishing) 79Pより訳出
*7『個人心理学講義』(アルテ)134P
*8『個人心理学講義』(アルテ)166P

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