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嫌だと感じる一線を上げていく

昨日、こんな記事を書いた。

中身は、タイトルに反して迷走したようにも感じる。

ダイジェストを書くと、完璧主義な自分を脱却したくてどんな出来栄えでもいいから投稿をすることに。しかし、それらの記事を後で見直してみると、その出来栄えに嫌気が差し、校正することに。だが、それが投稿への足枷になる。けれども、時には満足することもあり、捨てたものではない。

といった所。結局は?と問いたくなりますが、両方ありなのでは?ということをほのめかして終わりました。

この記事が昨日の記事のタイトルに相応しい内容になるかも?しれません。

端的に書けば、慣れてくるとそれだけでは満足できなくなる、と言えます。

自分で向上心があるとは言えませんが、何かに慣れてくると「もっとスムーズにやりたい」「最短距離を目指す」という思考が生まれます。それを飛び越えて「別の方法がないか?」と考えたりもします。

理想としては最初から完璧が一番なのでそこを目指したい所ですが、それはできないと諦め、慣れることから始める。慣れたら、自分の完璧主義を目指して色々試行錯誤しながら走り出す。

こう考えた方がいいのではないか。そもそもとして、「試行錯誤しながら」と言っているので最初から完璧ではないと自認しているはずなのに当の自分がそれに気づいていないんだなと今書いていて気づきました。

完璧主義な自分もありつつ、遊び心を持って物事に取り組んでいるのかもしれません。一見両立は難しそうです。ですが、考えてみれば、完璧主義かどうかはあくまでも自分が納得するかであって、他人から見た完璧を求めている訳では無いかもしれません。

自分が満足する範囲内でなら遊び心を持って物事に取り組み、結果として自分が想定する完璧であれば特に問題ないと判断しているのかもしれません。

では、タイトルの「嫌だと感じる一線」もあくまでも自己満足と言えます。

この記事を書き始めた当初は「嫌だと感じる一線」を「当たり前基準が高い」ことと同じ意味で使おうと考えていました。というのも、この記事の着地点として、「嫌だと感じる一線」が「当たり前基準が高い」と落ち着く予定でした。ですが、察しの良い方は分かる通り、どうもそれは変わりそうです。

「当たり前基準」というのは他の人の目からの視点が入ると思ってます。そもそも、「当たり前」という言葉自体が常識、一般的な知識などと同じ意味合いで使われていると思ってます。

当たり前というのは、各々が考える自分の嫌な一線(手を抜けないこと)を集計した結果、つまりは多くの人が大切にしていることがいわゆる常識や当たり前になっていくと思ってます。なので、あくまでも自分以外の誰か目線が「当たり前基準」には必要であって、そこに自分の一線が入るかは分かりません。

一線がどういう所に引かれるのかは人それぞれであって、その一線にはそれなりの理由があります。さらには、その一線を引くためには時間がかかります(何が大切かは簡単にはわからないから)。自分らしさというのはそういう自分が飛び越えられない一線の先にあるのかもしれません。

要は何が言いたいんだ?と自分でもはてなが浮かんでいます。

振り返ると、「校正していない記事は投稿しにくい」は自分の一線に成りつつあるのだと言えます。これが当たり前が基準高いことに繋がるかは分かりません。しかし、ライターの体験談を読むと「何回も校正してやっと入稿しました!」というのは珍しくないと思います。

ここで「うん?」と思ったのは、なぜ一線を「上げる」必要があるのか?

今まで触れてこなかったこの記事のタイトル『嫌だと感じる一線を上げていく』の「上げていく」の部分です。

何でも上昇させることが良しとされそうですが、本当にそうなのか?

これ以上はただでさえよく分からないことがさらに意味不明になりそうなのでここで止めておきます。

今一度振り返ると、嫌だと思うことを止めていくことが自分らしさに繋がることなのか。それは単純に当たり前を習得していくだけではないのか?と思ったりしました。

つまり、今まで書いてきたことはよく分かっていません。


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