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ASD/ADHD特性を武器にする

“神経発達症“などの新しい言葉が出てきたが、従来の“発達障害“という言葉と同じく、ASDやADHD特性がネガティブな文脈で語られていることにはかわりない。

確かに、現代社会においてはネガティブに働くことが多いだろう。

しかし、現代まで人類のDNAの中に受け継がれてきたからには、なにかしらの理由があるはずだし、僕自身は自分の特性のポジティブな面に着目するようになってから、人生がうまく回るようになってきた実感はある。

今回は、主にASDとADHDについて、特性をポジティブにとらえ、それを“武器“にしていく方法について書きたいと思う。

1.僕の「発達障害」に対する基本的な考え

(1)障害は個人に起因するものでなく、個人と環境の不適応

“発達障害”という言葉からは、あたかもその個人に“障害”があると思われがちだが、僕はそうではないと考えている。
障害とは、個人と社会の間の“壁”のことだと思っていて、個人ではなく環境を変えるとそれが障害でなくなるケースはいくらでもある。

僕ら、作業療法士は人をみるとき「個人・環境・課題」の3つをみるのはそのためだ。

例えば、対人関係が苦手なAさん、高度なコミュニケーションスキルを必要とする業務に携わっていたとしよう。
たくさんのミスを犯して、障害を疑った上司から受診をすすめられ、結果「発達障害」の診断を受ける。
配置転換にて、彼の強みである“論理的思考“が活かせる裏方の技術部門に異動になった。
業務内容も慣れるまでは難易度を調整して、時間をかけてスキルの育成を図った。
数年後には、Aさんはその部署で責任あるポジションにつき、バリバリと仕事をこなしている。

環境と課題を調整した結果、“障害“がなくなった例だ。

大切なのは、特性だけをみるのではなく、環境や課題との相互作用の中でみること。
そうすることで個人のスキルを高めた方がいいのか、環境もしくは課題を調整した方がいいのかがみえてくる。

これが僕の発達障害に対する基本的な考え方だ。

(2)発達障害は"治す"ものではない

大前提として、その特性が本人及び周囲に害をなしていなければ、それを矯正する必要はない。
それに、基本的に特性はなくならない。
しかし、マイルドにすることはできる。
もしくは、他の部分でしっかりカバーできていれば、逆にその特性をより強めてもいいのかもしれない。

2.ASD特性を武器に変える

(1)ルーティーンへのこだわりを「よい習慣の獲得」に繋げる

「こだわりが強い」「融通がきかない」
ASDに対する評価でよくきくものだ。
ここで重要な点だが、ASDのこだわりと強迫性障害のこだわりは似て非なるものだ。
後者は「やめたくてもやめられない」「苦しくて」「生活に支障がでる」ものだ。

一方、ASDのこだわりは、本人の意思によるもので、周囲の理解があれば生活には支障はでない。
そして、さらにいうと、ASD特性のない人にとって「めんどくさくて続かない習慣」も、ASD特性がある人が一度ルーティーンに組み込んでしまうと難なく続けられるのだ。
これを逆手にとって、「めんどくさいけど継続した方がいい習慣」にこだわってみるといい。

僕の場合「筋トレ」「節約」「家計管理」「定期的な運動」「家事」「投資」「食事のバランス」「勉強」などを“こだわり“にしている。
結婚当初は妻にとまどいを与えることもあったけど、妻の僕の特性に対する理解と、定期的な話し合いによって、今は彼女の不平不満もおさまっている(はず)。
そして、なにより、アメフト部だった高校時代から変わらない体重と体脂肪率、健康診断でひっかかったことが一度もないよく動く体、抜群の視力など、自分のかけがえのない財産を守ることができている。

よい習慣にハマりやすい一方、わるい習慣にもハマってしまいやすいので、「人の意見にはしっかり耳を傾ける素直さ」と「自分をかえりみる心」だけはなくさないようにしたい。

(2)人に共感しにくい特性を「人間分析」に活かす

ASD特性がある人は、他人の表情を認知する力が弱いともいわれている。
他にも原因はあると思うが、とにかく人に“共感“しにくい。
一方で「自他境界があいまいだ」ともいわれていることから、どうやら、自分と他人を区別して、相手の心情に自分の心をリンクさせるのが苦手なようだ。

これは僕も自分自身についてそう感じることが多い。
目の前で妻が涙を流していても、情感を呼び起こされるより、「この人が泣いているのはなぜだろう」が勝ってしまうのだ。
今までの恋愛や友人関係でもこういう場面は何度もあった。
要するに「理解できない」のだ。

そのためか、いつからか僕は“人間“というものに強い興味を感じるようになった。
大学時代は、心理学をはじめとして人間を理解するためにいろいろな本を読み漁った。
それは、大人になってからも続いている。
医療従事者になったのも、そんな興味関心の延長であり、今でも日々の臨床で、人間に対する考察をアップデートしつづけている。

その原動力は、まちがいなく「理解できないけど理解したい」という、僕の特性に由来する強い想いなのだ。

そうやって研究を続けているうちに、人間の本質についての理解を自分なりに深めることができてきた。
そこから、ぬきだした法則などを整理して実践にうつすことで、ある程度は他者とうまくやれるようになった。

(3)興味の限定を「専門分野への特化」に

ASD特性があると興味の幅が限定されるといわれる。
確かに、周りのASD特性もちを眺めているとそういう印象をもつ。

大学時代の友人は法律に対する強い興味が検察官への道を開いた。
僕の父もおそらくASD特性があるが(未診断)、若い頃からトランジスタや集積回路に強い関心をもっていたらしく、高専を経て大企業に就職しても、技術畑一本で定年まで勤めあげた。
本棚には、門外漢には理解できないような専門書がところせましと並べられている。

人間社会というのはオールラウンダーだけでは成り立たない。
小さな組織ですらそうだ。
専門スキルをもった人々と、それを有機的にうまく機能させるマネージャーがいて成り立つ。
ASD特性があるとマネジメントは難しいといわれるし、僕自身管理職を経験してそれは実感した。
(しかし“マネジメント“に強い興味を抱くことができればよいマネージャーにもなれる気はする)
なので、僕が思うのは、ASD特性がある人は「好き」「興味がある」ものをみつけ、それを徹底的に磨いた方が、周囲も自分も楽に生きられるのではないかということ。

もちろん、何事においても“ひとつのこと“をやってるだけでは生きてはいけない。
それでも、興味がないことは全く頑張れないので、自分の「好き」を軸にスキルを高めていけばいいのではなかろうか。

(4)自分の世界に閉じこもりがちなところを「他の人にない魅力」に

まわりで「魅力的だ」と感じるのはどんな人だろう。
その多くが"その人独自の世界"に住んではいないだろうか?

ASD特性があると、“朱に交わっても赤くなれない“気がする。
「自閉」の言葉どおり、常に自分の世界に閉じこもっていて、そこから他者をみているような感覚なのだ。

この特性ほど、冒頭に挙げたようなオンリーワンの魅力を磨くのに適しているものはない。
実際、若いころの僕は"独特の世界に住んでいる"ようにみられていたと思う。
人が見向きもしないことに、何時間も夢中になっていたりしたわけだから。

自分でも、20代くらいまでは「人が目を向けないようなこと」ばかりに惹かれていた自覚はある。
それはそれで、誰とも争わずにすんだので楽ではあった。
それ以上に、人にいわせれば、“なにを考えてるかわからない不思議さ“が、僕の魅力になっていたようだ。

そのためか好意的に受けとめてくる人もあらわれ、恋愛もそこそこ経験できたし、友だちもたくさんできた。

40代を迎えた今は、さすがに"人の目"も多少意識するようになった。
自分がASD特性をもっていると知ってからは、意図的にその特性を活かして、他の人の意見や情熱に流されずに、自分の判断や視点を大事にするようになった。

「なにをかんがえてるかわからない不思議さ」に加えて「常に自分の意見をもっているところ」「独自の視点で物事を分析するアナリスト気質」が僕の魅力になっているらしい(妻・友人談)。

自分語りが多くなったが、とにかく「自分は自分のままでいい」と強く信じることだ。
人に迷惑をかけているようなら“自分“を変えなくていい。
"やり方“を変えるだけでいい。

そうすれば、自分だけの世界は、そのまま唯一無二の魅力になってくれるはずだ。

3.ADHD特性を武器に変える

(1)多動性を「行動力」に

ADHD特性があると、とにかくジッとしていられないのだ。
動きまわっていた方が生存率が高かったであろう太古の時代の名残と考えている。

僕も小さな頃からとにかくジッとしていられなかった。
学校から帰るとカバンを放り出して友だちと野山を駆け巡っていた。
大人になってもその傾向は改まることなく、よく考えずに動いて失敗することもたくさんあったが、エネルギッシュに未知の世界に飛び込んできたので、自分の視野はずいぶん広がった。
「やりたいと思ったことをやらずに死にたくない」をモットーに、心に浮かんだことを即実行にうつしてきたわけだ。

ADHD当事者の方にも、支援者の方にもいいたいのは、二点だけ。

①多動性は“抑える“のではなく、適切な行動に変える方がいい
このためには、行為に「優先順位」をつける練習が必要である。
優先順位さえつけられるようになったら、多動なんてほっといたらいい。
優先度の高い行為から順にやっていけばいい。
それが無意識にできるようになれば、スーパー仕事人間もしくはスーパー主婦(夫)になれる。

②ジッとしていなければいけない状況でおとなしくしてられるようにする
僕は、社会生活は、1時間程度ジッとしていられれば、だいたいうまくいくと思っている。
それ以上の場合は、ほんの少しの休憩を申し出ればいい。
(医療関係の研修なんかは1時間以上休憩がないことがあるからツラい…笑)
マインドフルネスなどの瞑想も多動を抑えるツールとしては有効だと思うので、取り入れてもいいかもしれない。

(2)衝動性を「決断力」「実行力」に

個人的にADHD特性でやっかいなのは「衝動性」だと思っている。
多動性と似ているが、こちらは“動き回る“ことが主ではなく、考えなしにパッと行動うにうつしてしまうことが主なのである。

僕もこれまで衝動的な行動で身を滅ぼしかけたことが何度もある。
後先考えずにつっぱしってしまうからだ。
とくに人間関係でのトラブルが多かった。

同じ悩みを抱える当事者は多いのではないだろうか。

ここでも勘違いしてはいけないのが、衝動性という特性そのものがわるいのではなく、その結果人に迷惑をかけたり、自分自身や自分の財産が損害を被ってしまう"結果"が悪いわけだ。

逆にいうと、結果がよければ、衝動性も「決断力」や「実行力」に昇華できる。
そのためには以下のことが必要になるだろう。

① 衝動性をマイルドにする
あたりまえだが、刺激→即反応ではトラブルは起こってしまう。
なので、衝動性を決断力や実行力に変えるための必須条件として、刺激と反応の間に数秒でいいのでワンクッションを挟めるようにしておいた方がいい。
これには時間がかかるが、日常生活の中でトレーニングを積むことで、誰にでもできるようになると思ってる。
例えば、誰もいない場所でも信号を守る、歩きスマホはしない、衝動が爆発しそうになったら深呼吸したり10秒数えたりする、などだ。
こうすることで、心拍数を常に少な目に抑える鍛錬を重ねていれば、刺激と反応の間に数秒のラグが生まれるようになると思う。
その数秒で、無意識レベルで合理的な判断が多少はできるようになるはずだ。
つまり、動物的反応から"直感"という人間らしい判断力への昇華だ。

②事前準備、シミュレーションはしっかり
心の準備をしていない状態でのぶっつけ本番では、人間は衝動に流されてしまいやすくなる。
最近日本中を熱狂させた井上選手とネリ選手の試合がその好例といえる。
大先輩を弄んだ憎きメキシコ人ボクサーに1R早々に、キャリア初のダウンを奪われた井上選手。
試合会場が凍りついた場面でも、本人は冷静に8カウントを待って回復につとめ、その後の試合展開をイメージしたそうだ。
「モンスター」と呼ばれ、無類の強さを誇っていた井上選手、なんと"自分がダウンさせられる"シーンを以前からなんどもイメージしてきたそうだ。
普段からのシミュレーションが、その後ネリ選手を圧倒した冷静な試合運びを可能にしたわけだ。
現代人は、すきま時間にもとにかくタスクを詰め込む。
事前準備やシミュレーション、イメージトレーニングなどしない人が増えたんではないだろうか。
これでは、衝動性にふりまわされることになってもやむを得ないといえるだろう。

③ 最低限のリスクヘッジはしておく
これも事前準備に含まれるのかもしれないが、これから自分がいく場所、すること、それまでの道中で起こりうる"最悪の事態"を常にイメージしておくことは大切だ。
例えば、道中で事故が起こった場合、相手と話してるときにウンコをもらしてしまった場合など。
二個目は半分冗談だが、お腹を下しやすい僕にとっては現実的なリスクだ。
そうしたことを想定して、せめて心の準備だけでもしておけば、落ち着いてことに臨めるので、衝動性はでにくくなる。
人生で起こりうる最悪の事態、それは自分自身や自分が愛する人たちの死ではなかろうか。
こうしたことに対してさえ、"起こりうること"として心の準備をしておけば、人生において衝動性に頼る必要はなくなる。

これらができるようになれば、衝動性は、必ずや自分を高みにつれていってくれる、強力な武器になるはずだ。

4.ASD×ADHDのあわせわざで威力倍増

個人的に思っているのが、実はASD特性とADHD特性はお互いのデメリットを補完し合う関係にあるのではないかということ。
例えば、ADHDの多動や衝動性という自分をアクティブにし過ぎてしまう特性は、ASDの先の見通しが立たないと躊躇してしまう特性で多少マイルドになるし、「計画を立ててから実行する」という適応的な結果を生みやすいのではないかと思うんです。

他にも、お互いを補い合うようなパターンはあると思うが、長くなるので今回は割愛する。

僕自身の個人的感想としては、ざっくりいうと、アクティブで冒険心に満ち溢れたADHDな自分と、日々の習慣や計画性を重んじる慎重派なASDの自分が、がっちりタッグを組んでる感じなのだ。

うまく使えば、これらの特性は「障害が2倍になる」のではなく、「お互いの長所を倍増する」ことになるんではないかと。

5.最後に

長くなったのでそろそろ終わりたいと思う。

"障害"といわれると、ネガティブなイメージがつきまとうが、41年この特性と向き合ってきて、「現代に受け継がれているということはなにか意味があってのことだと思うので、この特性を活かすしかない」と考えるようになっている。

お読みいただいた方々に、なにかしらの気づきがあれば幸いです。

イルハン

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