友だちはいた方がいいのか?
今回は、僕が昔から考えつづけてきた「友だちはいた方がいいいのか?」というテーマについて、掘り下げてみたいと思います。
きっと、多くの方が悩まれるテーマかと思います。
このnoteが何かの参考になれば幸いです。
1.僕の「友だち観」
過去に、アスペルガー特性があると診断された僕ですが、友だちは多い方でした。
今も、親友といえる友人が何人かいますし、浅い関係も入れると、交友関係は広い方だと思います。
では、僕は何を求めて、友だちづきあいをして、今なお交友関係を維持しつづけるのでしょうか。
端的にいってしまうと「刺激」と「安心」を求めているといえます。
若い頃は、安心よりも刺激を求め、歳を重ねるごとに安心を求めるようになりましたが、常にこの両者を欲する気持ちが、僕を友だちとの関係維持に向かわせていたのです。
僕は落ち着きのない子どもだったので、一人でもあちこちに出かけたり、色んな実験をしたりしてました。
40歳をこえた今もそれは変わりませんが。
でも、友だちといると、自分一人ではいけない場所に行けたり、できないことがいろいろできたりするんです。
彼らが身につけた知識や能力から学ぶことも多かったです。
特に、音楽やファッション、文化や芸術への好奇心は、友人関係の中で育まれたといっても過言ではありません。
一方で、相反するようですが、僕は自分の生活に、安心感も求めていました。
むしろ、心理的な安心感があるからこそ、僕は外の世界への好奇心を失わずに生きてこられたとも思っています。
発達特性があっても、僕は人間なので、味方と思える人たちに囲まれていると安心感を得られます。
小学生の頃は、クラスメートと、生活スタイルや遊びも似通っていて、友人関係を築きやすかったので、その中で、それなりに安心感を感じられていました。
海外に住んでいた頃、なかなか外国人のクラスメートと友人関係が築けなかった僕は、同じ日本人の友だちとの関係にずいぶん安心を感じさせてもらいました。
そのおかげで、刺激を求めて外国人との友人関係を結ぶようになりました。
このように、僕にとって、友だちとは「刺激」と「安心」を与えてくれるものでありました。
2.友だちとはなにか
僕の「友だち観」については書きましたが、ここで、そもそも一般的に、友だちとはどういった存在を指すのかみてみようと思います。
調べてみると、色んな定義が出てきました。
僕がいうような「刺激」や「安心感」は出てきませんでした(笑)
すごく、ざっくりとまとめると「お互いの距離が近くて、飾らない自分でも、肯定的な感情を共有し合える間柄」といえるでしょうか。
…ちなみに、僕は友だちとお金の貸し借りはしません。
お金を渡すときは、あげるつもりで渡します。
そして、もう一つ大事な点なのですが、友だち関係は、情緒的なつながりだけで成立するのです。
家族や親戚であれば、例外はあれど、法的な関係が生じます。
同じクラス、同じ職場だけど、情緒的なつながりがなければ「友だち」とはいえませんよね。
それ故に、関係を継続するのも解消するのも自由なのです。
ある意味、自由な意思決定の下に成り立つ、極めて自己決定的な関係ともいえるでしょう。
僕も、成長の過程で、たくさんの友人関係を結びましたし、かつては親しくしていたけど、いつの間にか疎遠になってしまった人も数知れません。
3.友だちがいなくても生きられるか?
ここまでで、友だちが与えてくれるいい影響は、なんとなくお分かりかと思います。
ありのままの自分でいられる(=リラックスした状態でいられる)人間関係というのは、人生にはかりしれない恩恵をもたらしてくれますよね。
では、もしも友だちがいなかったらどうなるのでしょうか?
残念ながら、僕はプライベートでは、友だちが全くいないという人に出会ったことがありません。
それもそのはず、そんなつっこんだことを聞けるのは、ある程度仲がいい人に限られますし、それを聞ける時点でその人は僕の「友だち」といえるからです。
僕は医療従事者であり、対象者の方々の生活史に踏み込む機会が非常に多いです。
その中には、長い間、親しい人間関係をもたず、ひとりぼっちで生きてこられた方も何人かいました。
そして、その方々が、全員不幸な生き方をしていたかといわれれば、必ずしもそうではありませんでした。
いつも、病室の窓際で、日光を浴びながら朗らかな微笑をたたえていた高齢女性は、都市部の一軒家でずっとひとりで生活をされていました。
ずっと未婚で、両親に先立たれてからは、事務員として細々とした暮らしを営まれてきたそうです。
近所づきあいもほとんどなく、職場と家を往復する以外は、ときどき買い物や用事に出かけたりする毎日だったとお話し下さいました。
僕には彼女が不幸にはみえませんでした。
それどころか、病院職員に対するさりげない気づかいや温かみのある対応からは、えもいえぬ幸福感すらただよってきました。
ひんぱんにお話をする内に、彼女がご両親との幸せな思い出や、飼っていた猫について話される様子が気になるようになりました。
彼女は、それらについて話すとき、とてもリラックスした様子だったのです。
僕には、彼女が、記憶の中にいる両親や愛猫を「心のよりどころ」にしているようにみえました。
もちろん、友だちがいないことで孤独感に苛まれている人もいました。
件の女性のように、親しい交友関係がなくても、孤独に悩まされず心穏やかに過ごされている人に共通していたのは、「仕事」「趣味」「思い出」「内なる自信」はたまた「信仰心」など、『心のよりどころ』を持っていることでした。
家族仲が良好な故に、友だちづきあいがゼロでも、穏やかな老後を過ごされる方も大勢いました。
このことから、僕は、友だちがいなくても、それなりに楽しく生きていくことは可能と考えています。
逆に、僕からみれば、友だちの数は多いはずなのに、なぜか幸せそうにみえない人もいます。
入院患者さんの例でいえば、友だちが多いことを自負していたのに「誰もお見舞いに来てくれない」と憤慨していた人もいました。
つまり、友だちの多い・少ないも、本人の幸福度には何の関係もないということなのでしょう。
4.結局、友だちはいた方がいいのか
僕が出した結論は、つまるところ、自分が人生に何を求めるかによる、です。
適度な刺激が欲しいなら、友だちはいた方がいいと思います。
友だちと交わることで、自分にない視点でものごとがみえたりもします。
世界を広げてくれるのは、損得勘定抜きでつきあってくれる友だちであることも多いです。
また、一人ではなかなか難しいことでも、友だちの力を借りればできたりもします。
自分の力以上のことを、プライベートで成し遂げたいなら、友だちは大きな力になってくれるでしょう。
もちろん、自分自身も、友だちに手を貸すことで、一人では味わえない達成感を得ることもできます。
一方で、安心感や心の安らぎを大事にしながら、人生を歩みたいなら、友だちは必ずしも必要ではないかもしれません。
僕自身も、もし自分に友だちがいなかったら、と考えたとき、「友だち」と呼べる人が全くいなくても、なんとなく生きていける気がします。
これに関しては、かなり徹底した思考実験を行いました。
例えば、突発的な戦争や大災害で、転居や国外退避を余儀なくされて、見知らぬ土地に住むことになったら、とイメージします。
新しい土地では、友だちはいません。
言葉も通じないかもしれません。
可能な限りリアルに想像してみても、とりあえず衣食住さえ整えれば、誰とも関わらなくても、生きていくことはできるんじゃないかと思っています。
僕の人生は、いうならば、そういう状況に陥っても強く生き抜けるように、精神と肉体、技術を磨く「道」だとすら考えています。
先ほどの話に戻りますが、要は、確たる「心のよりどころ」さえあれば、人は生きていけるのです。
僕の場合、それは「自分」という存在に他なりません。
時々「自分」が揺らぎそうなときは、その都度なにかに頼ればいいんです。
5.新しい友情の形
僕はときどき思います。
「友だちって人間である必要はあるのだろうか」と。
ペットを友人のように扱う人は昔からいましたよね。
僕は、生き物は、バリエーションは少なくとも、多少の感情を持っていると考えています。
昆虫や植物を飼育していて思いますが、彼らは僕たちのケアの良し悪しに、明確な反応の差を示します。
僕らは「世話」という形の友好的な感情を示し、彼らは無形の「癒し」という恩恵をもたらしてくれます。
このことから、必ずしも人間の一方的な思い込みによる友情関係ではないように思えるのです。
ただ、多くの場合、彼らの存在は人間に依存的です。
こちらが関わりを放棄すれば、彼らに待つのは死です。
そういった意味では、人間の友だちとは関係性は異なりますが、僕は、ペットも「友だち」にカウントしてもいいのではないかと考えています。
では、生き物以外ではどうでしょうか。
僕は、自他境界があいまいな故に、生物か物質かを問わず感情移入してしまいます。
自分の所有物を擬人化して大切に扱っていたりします。
中でも、ロードバイクは自分の親友だと思っています。
こちらからの働きかけになんの反応もないと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
僕の心身の調子がいいと、街を走ったときに滑らかなペダリングで応えてくれます。
分解して洗浄してきれいにしてあげると、フレームで光を反射して喜びます。
前述した友だちの定義に当てはまらないことも多いですが、こんな友情もあってもいいんではないかと思っています。
一方、今やAIが当たり前のように普及しています。
リアルな対人関係を結ぶのが苦手な人が、AIを活用する例もありそうですが、これに関しては注意が必要だと思います。
というのも、脳がAIを人間と誤認してしまうと、偏った対人交流技能が身についてしまい、現実の人間関係の構築において支障をきたしかねないからです。
このAIの問題には、友だち関係の難しさも潜んでいます。
僕は、友だち関係を結ぶ上で、大切にしないといけないことがあると思っています。
それは、その関係が、「利害関係を共有できる関係であるかどうか」です。
利害関係というとややドライに聴こえるかもしれませんが、簡単にいうと、Aが落ち込んだり悲しんだりすることがBにとってマイナスになり、Aが喜んだり嬉しがったりすることがBにとってプラスになるような関係です。
もちろん、AとBが入れ替わっても成立することが重要です。
もちろん例外もあるでしょうが、長期的に、双方に恩恵をもたらす友だち関係とはこういうものかな、と考えています。
相手がAIの場合は、その関係が成り立つかどうかというと、僕は否定的ですね。
そもそも、共感というのが難しいし、こちらがマイナスな感情を抱いても、AIにはそれがデメリットとなりにくいですし。
人間に話を戻すと、自分が傷ついているときに、さらに追いつめるようなことをしてくる人とは、もはやまともな友だち関係は築けませんもの。
いかがでしたか?
色んな文献を参照しましたが、完全に僕個人の考えです。
読んで下さった方の交友関係が、少しでも豊かなものになる一助になっていれば幸いです。
イルハン
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