「広さ」の中に。
書いてみる。
なんだか、文章を綴ってみたくなったから、書いてみる。
最初の記事がこれでいいのかはちょっとわからないけれど、まぁいんだ。
あんまり気どらずに、はじめてみる。
なんだか今日は、変な日だった。
やむを得ない外出があったので、外に出たけど、天気が気持ち良さすぎたので人の少ない道をお散歩ながら帰ってきた。
ちゅんちゅん、鳥が鳴いてる。
木があたりまえのように息をしている。
たくさんたくさん太陽さんからエネルギーをもらったら、なんだか疲れちゃったみたいで気がついたら寝てしまっていた。
「あぁ、ぶり大根作ろうと思ってたのに。」
冷蔵庫で2切れのぶりが待ってる。
むくむくっと起き上がって、ちょっと遅めのご飯を作りはじめた。ぶりを切る感覚にちょっとぎょっとしながら、“生きる”を感じる。
こんな瞬間も、美しいと思う。
ご飯を食べてぼんやりとしていたら文章を書きたくなった。
最近は時間に余白が生まれたから考えることが多くなった。特によく考えているのは「違い」について。
いま、世界がすごく渦巻いている。その中でどうしたら違いやそれぞれの「生」を大切にして生きられるのだろう。「違い」を前提にして生きられるのだろう。
先日、大好きな友人が想いを届けてくれた。
「コロナに勝つとか、コロナに負けないとかその言葉に違和感を抱えていたの。
それは、何かを悪者にするのは、すごくわかりやすくて、団結しやすいことかもしれないけれど、
それはやっていることは戦争と変わらないのでは?と思うの。…以下続く…」
あぁ。
もっと世界を愛してみたい。
そう思った。
「違い」は難しい。
違いがあるからこそ、「同じ」を見つけたときにとても嬉しくなる。「同じ」であることは時に自分を守ってくれるし、自分のアイデンティティにもなる。
だから、わたしは「同じ」もいいことだと思うし、必要なことだなぁと思う。
だけど、同じばかりをみていると、違いを受け入れられなくなる。
これは、すごく怖いことだ。
相手を排除する可能性を孕んでいるからだ。
でも、最近わたしは揺れる。
「違い」に近づいてみたとき、それは、自分が傷ついてしまうことがあるからだ。
あぁ、どうしてなんだろう。絶望を感じてしまうことがある。
そんな時は、自分が、「同じ」を求めてしまっている。怖い。
相手の声を聞きたいのに、うまく聞けない。
どうやったら一緒に進めるかな?って考えたいのに、否定に走ってしまうことがある。
難しい。
でも、最近思ったことがある。
「違い」の大海の中に無理に飛び込む必要はないということ。わかり合いたくて、分かち合いたくて、一緒に進んでみたくて、そんな希望を持ちながら「違い」の中に飛び込んでしまうと、それは時に自分が排除される可能性を含んでいる。
だから逆に、守る意識が働いて、どうしてだろう?ができなくなってしまう。
そんな時は、少し距離を置いてみてもいいのかなと思った。広い、宇宙で見る。「違い」でも「同じ」でもないところに自分を置いてみる。自由にしてみる。
大丈夫。
きっと。
あなたは守られているから。
今日も木々が揺れるように、
今日も命が芽生え、命が巡るように、
きっと、おっきな宇宙からあなたは守られている。
わたしたちは守られている。
明日もなんだか変な日かもしれない。
明日はなんだか特別な日になるかもしれない。
手を取り合える広さを信じてお布団に入る。
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