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ニル婆と私(20)

【例のババァの言うことにゃあ】

 夢を、みていた。
 はじめは絶対に叶うと思っていて、けれど挫折して死にたくなって、なんとか生き延びたはいいけれどどうしたら叶えられるのかわからなくなってしまった夢。
 大切に大切に、育てていた種のはずだった。温めていた卵のはずだった。
 どうして間違ってしまったんだろう。
 どこでどうすればよかったんだろう。
 泣いて泣いて泣き疲れて、突っ伏していた椅子の座面もびしょびしょに濡れた昼下がり。呆れた母は、どうやら昼食に私を呼び立てることを諦めたらしい。階下からの声は聞こえなくなり、辺りはとても、とても静かだ。
 わかっているんだ、なにもパソコンが無ければ小説を書けないわけじゃない。
 紙とペンさえあれば、もっと言えば私の頭さえあれば、そこから物語は生まれていく。
 データが消えたのは悲しいしショックだけれど、本当の問題はそこではないんだ。
『あんたも下らない夢じゃなくて、現実を見なさいよね』
 母さんの言い放った無神経な言葉が、ずがんと脳天に突き刺さっている。
 下らない夢。
 下らない? 小説家になるっていう、この夢が?
 そんなことはない、と叫んでいる私の心の片隅で、誰かがこう囁くのだ。
『叶わない夢は、下らないよ』
 真っ暗闇の中、いびつな笑いを浮かべる、私の中のどこかにいる私。
 そう。この夢は叶わないかもしれない。現段階では叶う見込みがない。あるのは根拠のない過去形の自信だけ。
『私は、本当に小説家になれるのかな?』
 その問いに答えはない。私には少なくとも、未来を知る力はないからだ。
『私は、小説家になりたいのかな?』
 これは昨夜から幾度も繰り返した問いだ。その答えはイエスだった。過去形の回答。では、今の私の本当の気持ちは?
『私は、小説を書きたいのかな?』
 一晩自分に問い続けた設問の、後半部分だ。私は小説を書きたかった。それは一体いつの話だ? スランプに陥る前? 創英賞に落ちる前? それとも、もしかしたら、そんな気持ちはまやかしで……。
 今にも崩れそうな崖っぷちに、一人で立っているような気持ちだった。今まで確かだと思っていたもののすべてが、、がらがらと音をたてて壊れていくのを感じる。牧瀬さん、ごめん。私、ちょっともう駄目かもしれない。
『へぇ、こんなところで諦めるのかい』
 脳内に、そんなしゃがれた声が響いた。あのババアは意外にもそんな言葉を吐いたことはなかったはずなので、全ては私の妄想だ。だけれど私の脳裏には、ニル婆の不敵で挑発的なにやにや笑いが、はっきりと浮かんでいた。
 なんだよ。あんたの占い、ことごとく私の希望をへし折ってきたじゃないか。
 《大海を知れ》《何者にもなろうとするな》
 ニル婆のアドバイスからは、どうしたって小説家への栄光の道が読み取れない。むしろそんな道、はなっから存在しないって言ってるみたいだ。やっぱり私には、小説家なんて……。
『そんで今、諦めて、それでいいの?』
 私に改めてそう問うたのは、牧瀬さんの声だった。私の想像にすぎないはずなのに、突き放すような感じと気づかわし気な感じのバランスが、いかにもリアルだ。彼女はきっと、今の私に会ったらそう言うだろう。そしてどっちの答えを出したとしても、「そう」って短く言って頷くんだ。
 さぁ、その問いに、私はなんて答えを出す?
 私はぐんっと立ち上がると、ショルダーバッグをひっ掴み、まずは一階の洗面所で顔を洗った。タオルでごしごし頬を拭いながら、頑張れ、頑張れ、と自分の重い足を叱咤する。玄関からそろりと抜け出して、向かう場所なんてもう決まっているだろう。
 私はけだるい身体と鈍重な心を奮い立たせながら、駅前商店街へと向かった。
「おう、来たね」
 にやりと笑って短くなった煙草をひねり潰したニル婆に、私は戦いを挑むような心持ちで問う。
「ねぇ、私は、これからどうなる? どうしたらいい?」
 偉そうな態度と、頼りない質問の内容がまるで合ってない。
 ニル婆は可笑しそうにけひゃひゃと笑いながら私の目を見て、
「――それがあんたの占ってほしいことかい?」
と、いつもより少しばかり低い声でもったいぶるように問うてみせた。

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