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ニル婆と私(17)

【泣いて疲れてお眠りよ】

 結局小説を書くことはおろか、パソコンを立ち上げることすらできずに私の土曜日は終わってしまった。現在の時刻は午前一時。暦の上ではあれもこれもみんな、昨日の出来事だ。
 こんな時間になるまで、なにもぼーっとしていたわけじゃなかった。幾度となく「書こう」と思ったんだ。思わないわけがない。
 しかしそのたびにリフレインする牧瀬さんの声が、私の中に芽生えた創作意欲を無残にもかき消してしまう。いや、もしかしたらそんなもの、はなから私の中に存在しちゃあいなかったんじゃないか? もはや何もかもが疑わしく思える自分が悲しい。
 手段の目的化、か。私が本当にやりたいことは、なりたいものは、一体どこにあるのだろう。
 私は本が、小説が好きだ。それは紛れもない事実のはずなのに、今はこんなにも小説のことを考えるのが辛い。本を読むのが苦しい。
 ――たった一つといっても過言ではない人生の楽しみだったはずなのに、こんなのってない。責めるべきなのは神様か仏様か、はたまた大魔王? それとも赤い眼鏡の漫画家様だろうか。
 うっすらと意識を眠気のベールが覆い隠しているのに、頭の一部分だけがいやに張り切って働いていて、うまく眠ることができなかった。考えるのをやめようとしても、次々に生み出されていく思考の連鎖が止まってくれない。
 よくない兆候だ。精神的に不安定になると、たまにこういう状態になる。ごろんごろんと寝返りを繰り返しながら、私は意識的に手足に入った力を抜き、身体をリラックス状態にもっていこうとする。しかしそれができない。無駄に身体の色々な部分が気になって、やたらとストレッチを繰り返したりしてしまう。
 ようやくうつらうつらとできたのは、果たして何時頃だっただろう。結局眠った実感がほとんどないまま、辺りはうっすらと明るくなり、鳥がちちちと鳴いたり、階下からは母親の足音が聞こえてきたりする。
 朝だ。絶望的な気持ちになりながら、心の中で呟いた。もうすぐ母親の無遠慮な声が、「朝ごはんよ」と私のことを呼びたてるだろう。
 彼女は食卓を囲むメンバーが欠けるのを嫌がる。家族が集まったダイニングテーブルは確かにわかりやすい幸せの象徴だけど、そこに参加している自分に酔いたいんだったらまずはその場の居心地を改善しちゃあくれないか。主に小言とちょいちょいまぜこんでくる私のアイデンティティの否定をやめてくれ。
 今顔を合わせたら、また心をずたずたにされるのだろうな、と思った。私はパジャマがわりにしているジャージのまま忍び足で階段を降り、玄関からするりと抜け出す。このままどこまでも行ってしまいたい。ずっと、ずっと、遠いところへ。
 けれど私には、走る気力なんて残されちゃあいなかった。ずるりずるりと裸足にスニーカーをはいた足をひきずって、あてもなく歩く。
 まるで刑罰を与えられた囚人のようだと思った。足には鉄球がついた枷とかはめられちゃって、服は薄汚れたぼろで、髪はぼさぼさ。目は腫れぼったく、瞳は濁って光を失っている。
 朝日はこんなにもさんさんと降り注いでいるのに、私の夜明けはどこだい。どこへいったんだい。
 すん、と鼻をすすり上げてから気付いた。はは、私、また泣いてるよ。
 どんだけ湧いてくるんだ涙、と他人事みたいに笑えてきた。私、きっと今どん底だ。ぽろりとこぼれおちた一滴の涙が、アスファルトに黒い点を作る。輝く太陽によってあっという間に消えてしまうだろう小さな痕。だったら私のこの胸のわだかまりも、ひとつ残らず焼き尽くしてくれよ。あんた、いつも希望の象徴然として、色んな物語に登場しているじゃないか。
 ぐず、ともう一度鼻をすすり上げた時、近づいてくる足音に気付く。泣いているところも含めて、今の私はあまりにも不審者すぎた。あわてて更に顔を伏せて、なんとかこの場をやり過ごそうとする。
「――宮木さん?」
 そう呼ばれたのは計算外だった。夕べ何度も頭の中でこだましていた彼女の声が、今、ここで私の名前を呼んでいる。
「……」
 おそるおそる顔を上げると、ジョギングウェア姿の、今会いたくないひとランキングの上位に君臨し続けている彼女が、面食らったような表情でこちらを見ている。
 牧瀬さん、なんて、呼べるわけがなかった。
 ただ生まれかけた言葉の断片が、うわああああんと嗚咽になって、住宅街にけたたましく響く。
「ちょ、え、大丈夫⁉」
 珍しく動転した様子の牧瀬さんが、そう言って、少し戸惑いながら私の背中をゆるゆるとさすった。小さくて、熱くて、でもあんまり柔らかくないその手の感触に、私の涙腺は再びたやすく決壊して、更にわんわんと泣いてしまった。

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