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ニル婆と私(5)

 泣き疲れて眠る、なんて何年ぶりのことだろう。
 本日二度目の起床はそれなりの清々しさを伴っていた。すっかり高くなった太陽が、澄み渡る青空をバックにさんさんと光り輝いている。絵に描いたような気持ちのよい午後。枕元の時計を確認すると、ちょうど二時になったところだった。
 ベッドから身体を起こした私は、直感的に自分の身体が平熱に戻っていることを悟る。まぁ、単に先延ばしになっただけとはいえ、束の間ストレスから解放されたからね。毎度のことながら、自分のわかりやすさに感心する。ここまでいくと人体の神秘に思いを馳せちゃうね。
 ベッドから降りてスリッパに足を突っ込むと、そろりそろりと自室を後にした。誰もいないはずだとわかっていても、やっぱり緊張しちゃうんだよな。階段を降りて廊下を端まで歩き、ダイニングが無人であることを確認してようやく息をついた。よかった。私は今、ちゃんと一人だ。
 食卓のそばにある窓を開け放てば、柔らかい風がカーテンをふわりと膨らませながら外の香りを運んでくれる。僅かに汗ばんでいた身体が、ゆっくりと乾いていくのを感じた。
 泣き腫らした瞼は熱をもちひどく腫れているのに、気持ちはとても穏やかだった。遠くから聞こえる子供のはしゃぎ声を、微笑ましいと思う心の余裕がある。
 私は少し考えてから、冷蔵庫の前へと移動した。目の前の扉を開ければきっと器に移されたカレーが冷えているんだろうけれど、そもそも私は母さんのカレーが好きじゃないし、今はそういう気分でもない。腰をかがめて冷凍庫を開けた私は、中から冷凍食品のから揚げの袋を取り出した。景気をつけたい時には、やっぱり肉でしょ、肉。
 皿の上におもいきって五個のから揚げをのせ、ラップをかけずにレンジにぶちこむ。六百ワットで、大体三分半。熱くなりすぎた皿をとりあげて、茶碗にご飯を盛る。そうして、から揚げとご飯を口の中にかっこんだら、なんだか力が湧いてきた。
 五個のから揚げと茶碗一杯のご飯を平らげた頃には、じんわりとお腹の底があったかくなっていて、そこからゆっくりと喜びのようなものが込み上げてくるのがわかった。それはここ数日縁遠かった、幸せというものによく似た感情だったと思う。すると、自分が自殺する勇気もない臆病者だということが、なんだか少しだけよいことのように思えてきた。
 もうちょっとだけ、生きてみるのもありかもしれない。すん、と鼻を鳴らした私は、そんなようなことを思った。思っただけでさらに心が軽くなって、私は自分が勝手に課した「死ね」の呪いが、こんなにもがんじがらめに自分を縛りつけていたことを知る。
 とはいえ、母親が帰宅した後のことや、明日のことを考えるとやっぱり心がずどんと重くなった。このままじゃあいつまた「死ね」の波がやってくるかわかったもんじゃない。
 とにかく天啓が欲しかった。
 私一人じゃあ思いつかないような、すんばらしい打開策を導き出してくれる、神様か仏様か、なんかそういう類のやつ。
 いっそ大魔王とかでもいいよ、と思った時に頭をよぎったのは、昨日のいかれたロックババア、ニル婆の姿だった。
 だいぶ厄介な婆さんだったけれど、的中したいくつかの予言にはそら恐ろしいものを感じた。そして職業は、どうやら占い師であるらしい。
 あのババアに頼るのはどうしたって癪だ。けれどもしかしたら、そこから思わぬ道がひらけるかもしれない。相反する二つの気持ちが、私の中で戦いを始める。
 激戦を制し僅差で勝利したのは、あの婆さんの中にある、かもしれない未知の力を信じ、頼りたいと願う自分だった。
 私は手早く使い終わった食器を洗うと、一目散に自室へ向かう。机の中にしまってある財布には、いくら入っていたっけな。占いって一回いくらぐらいだろ。全財産はたけば、いけるかな。
 だんだんとハイになってきた私は光の速さで服を着替え、家を出た。
 目の前に垂れた希望の糸は、一見するとひどく頼りない。でも生憎と今の私は、それに縋りつくしか道がないんだ。僅かな希望をババアに託して、私は一路駅前商店街へと向かう。
 帽子をかぶり忘れた頭が、容赦のない日差しに照らされて今にも沸騰しそうだ。夏の訪れは近い。すると間もなくやってくる、終業式、通知表返却、そして恐怖の三者面談――。
 早急に、蹴りをつけなくてはならない。私は両足に力をこめ、例の裏路地への道を急いだ。

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