【掌編小説】 傘かしげ
「手入れしなくても咲くんだ……」
窓から庭のクチナシを眺めながら、私は思わずそう独り言を呟いた。
雨が降っている。いつの間にか沢山の花をつけた庭のクチナシに雨が当たって、花びらがまるで、タンバリンのシンバルのように揺れている。窓を開けたら、やかましい音が聴こえてきそうだなと思った。
「翠雨《すいう》だ。翠雨」と私はまた独り言を呟いた。
夏の初め、青葉に降る雨のことを翠雨という。庭の光景はまさに、それだった。私はいつだったか憶えたその翠雨という単語を口に出せたことに、なんだか小さなタスクを片づけ終えたような、そのような感覚を覚えた。
私は缶ビールをテーブルに置いて煙草を咥え、それから念のため、片方の耳を押さえながら窓を開けた。すると、無防備だった私の鼻腔が、クチナシの花の甘い香りの襲撃に遭った。そして私は、〈あの双子のあの場面〉のことを思い出した。
「これがプルースト現象か」と私。独り言。
ある香りを嗅いで、そしてある記憶が蘇ることをプルースト現象という。プルーストというのは人の名である。フランスの小説家。彼の執筆した小説の主人公が、「香りによって記憶を呼び覚まされる」という体験をすることから、そのような現象のことをプルースト現象、あるいはプルースト効果と呼ぶようになった、らしい。いつだったか憶えたその単語を口に出せたことに——と言いたいところではあるが、そのようなどうでもいい感覚が本当にどうでもよくなるくらい、〈あの双子のあの場面〉を思い出したこと、そのことが私を変に高揚させた。
双子は男の子と女の子だった。今では疎遠になってしまった、同じ女子校に通っていた友人の子。その友人宅がクチナシの花の香りに包まれていて、しかもその双子に会ったのも初夏だったから、だからその記憶が蘇ったのだと思われる。
あの双子に会ったのはその日、一度きりだ。なぜ学生時代もそんなに親しくなかった友人の家に行ったのか、理由はまったく思い出せない。まあ理由なんてどうだっていいのだが、こうして十年後に、女としていささか廃れてきた私がプルースト現象を起こすために彼女の家に行った、ということなのかもしれない。そう片づけておく。
双子は当時、たしか保育園児だった。それは憶えている。ん? ということはつまり、彼と彼女は今、中学生というわけか。もう肩をすくめるしかない。
さて、気を取り直して、〈あの双子のあの場面〉の記憶を辿ってみることにする。短い話だ。よかったら最後まで付き合ってほしい。
あの日も雨が降っていた。私は友人宅の二階の出窓から、双子と一緒にその雨を眺めていた。いや、双子は降りしきるその雨を眺めていたわけではなかった。ふたりは、ほんの少ししか開けられないタイプの出窓の窓台の上に座って、窓についた雨の雫を、指でさし示しながら数えていた。と、そう言えば私も、雨を眺めていたわけではなかった。雨の雫を数えるその双子を、ふたりのすぐ後ろに立って眺めていた。
十まで数えたら一に戻ってまた数える、ということを、双子はおのおの何度もくり返していた。あたかも、これが雨の雫に対する追福だとでも言うように。私はほくほく顔でふたりのそれを眺めていた、と思う。私はこう見えて子供とフレンチトーストには目がないのだ。
双子がその手をとめて同じ方向に顔を向けたのは、本当に同時だったと思う。百分の一秒の誤差もなしに。双子特有のやつだ。
私は双子が顔を向けたそこに目をやった。すると、細い歩道を、傘をかしげながらすれ違う人たちの姿が見えた。
双子はその人たちを見て、けらけらと笑っていた。子供というのは変なところで笑う。彼と彼女の目には、「傘かしげ」が滑稽に映るようだった。
歩道に人がいなくなっても、双子はその歩道から目を離さなかった。傘をかしげ合う人たちを見て、ふたりは笑いたくてしかたなかったのだ。あるいはただ、大人たちを見て笑いたいだけだったのかもしれない。
しばらくして、こちらから見て左の奥の歩道から薄墨色の傘をさした若い男性が歩いて来、そして、右の手前の歩道からカラフルな水玉模様の傘をさした若い女性と見られる人が歩いて来た。これから幼い双子に笑いものにされるとも知らずに。
双子は歩道を見つめていた。彼と彼女は、その男女ふたりがすれ違う瞬間を静かに待ち構えていた。
そして、その場面は訪れた。
薄墨色の傘をさした若い男性が傘をかしげてすぐ、カラフルな水玉模様の傘をさした若い女性と見られる人も傘をかしげた。その瞬間、双子がその傘かしげを真似して、大きく首をかしげた。
ゴツン!
双子の頭がぶつかった。盛大な音だった。
男の子が男性のほうを、女の子が女性のほうを真似していたら、そのような惨事は起きなかったろう。頭をぶつけた双子の反応はどうだったのかと言うと、ふたりは頭を押さえながら大笑いしていた。そんなふたりを見て、私も大笑いした。
私が思い出せるのはここまで。いや、思い出そうとその気になれば何か思い出せるだろうが、それ以上の面白い出来事はなかったろうし、それに、缶ビールにこれ以上汗をかかせるのは忍びない。
私は煙草の火を消して窓を閉め、テーブルの上の飲みかけの缶ビールを取った。そして、あの双子の頭がぶつかる映像を瞼にリピートしながら、こんなセリフを吐こうとして、やめた。
「あの夏に乾——」
〈了〉