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嫌悪の精神

100日連続noteの今日が100回目。
読み返さずに記憶と印象にあることから、やってみてつくづくこれだと思ったこと・・・
それは「嫌悪の精神」が私には大事ということだった。

「嫌悪の精神を持ちなさい」
これはココ・シャネルの言葉で彼女は「私は自分の嫌いなものを創らなかった」と断言した。大きすぎておさまりの悪い帽子、コルセットで締め付けたアクティブではないドレス、金庫をぶらさげているような悪趣味な宝石・・・嫌いなものがすべて19世紀的なものだったから、それらを葬り去った彼女は1920年代「皆殺しの天使」として時代の寵児になったのだ。
私はどちらかというとシャネル本人よりもその周辺にいる人々に惹かれている。親友のミシアやライバルのスキャパレリ、シャネルの最初のパトロンの家で出会った淡い香りを付けていた高級娼婦。
それでも、数多く残るシャネルの意思ある発言は明確で強い磁力があるから、私にインパクトを与え続けている。

嫌悪」ではなく「嫌悪の精神」とは何か
シャネルのクリエイティブが100年後の現在も活力があるのは、図抜けたセンスの故だと思う。
シャネルの嫌悪の精神を輝かせたのはこのセンス、美意識だったと思っている。嫌悪だけではその創造も一過性に終わる気がするのだ。
妬むこと、恨むこと、苦手を回避することと、ここで言う嫌悪は違う。
嫌悪から出発した新しいクリエイティブが人の目を覚まさせる、思考を動かし始めるためには、当然だけれど、その先に自分の理想を描いていることが重要だ。
美意識は特別なものではなく、嫌悪の先に描くもの、それがその人の美意識ということだと思う。

「エレガントな尊重」
私が嫌悪したのは、人への尊重がないこと、自分だけが何か特別のようにはき違えてしまう無知、だと思った。
100日チャレンジで折に触れてできたた私の嫌悪はその二つに対してだった。
だから、創りたい場所はエレガントな尊重が存在する場所、他者に進んで影響されながら変容できる場所だったのだ。
「ときめく会話」「目から鱗の刺激」「おだやかな風」「エレガントな尊重」は私の嫌悪の対極にある場で起こる出来事として想定した。
それが私の美意識。

その思い、からサロンが始まり、続けている。
続けて書くことで、このテーマが再三立ち現れるので、これが私の嫌悪の精神なのだと今は思っている。
そして、わたしも、自分の嫌悪するものは創造しない。

香り、思い、呼吸。

#note100日
#コルクラボ
#adams


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