映画のカットに人間が違和感を覚えない理由(映画の瞬き 映像編集という仕事を読んで)

「映画の瞬き 映像編集という仕事 著:ウォルターマーチ)」を読んで、自分的に一番面白かったところを書き留めておきます。

映画やドラマ、アニメなど、映像作品にはカットというものがありますよね。例えば美少女が朝寝坊したシーンだと

①<目覚まし時計のアップ>目覚まし時計が鳴り、手でそれを止める

②<部屋全体>寝ぼけながら起き上がる

③<美少女アップ>時計をみて「やばい!!寝坊ー!!!!」

みたいな感じで1つのシーンを描くのにも複数のカットが使われることが多いですよね。
カットは時空、空間を自由自在に行き来できます。
時間軸を過去にしたり未来にしたりできるし、家にいたのに急に学校に行けたりもします。カットがあることによって視聴者は物語への理解を深めるためにめちゃ重要です。

一方、人間の視覚は基本的に継続的ですよね。人間の一日を映画に例えると目という唯一備えたカメラで、一日が24時間のノーカット映画として上映されてるみたいな感じです。時間軸を過去にしたり未来にしたりはできないし、家から学校に行くには道のりというシーンをカットすることはできません。

このように映像作品と人間の視覚は違うわけですが、これだと人間が初めて映像作品をみた時に時空、空間が自由に行き来することに驚き、違和感を覚えてもおかしくはないですよね。
でもおそらく映像作品を初めてみた時、みんな驚いたり違和感を感じなかったと思います(そもそもいつ初めてみた記憶がないと思いますが)。

なぜカットに違和感を覚えずに映画を見ることができるでしょうか。
「これは人間が『映像作品はこういうものだ』と理解しているからでしょ」と思う人もいると思います。そうかもしれません(僕もそう思いました)。
これは科学的根拠がないものなので正直なんとも言えないです。笑
ただ、この本にはこのことに関して非常に面白い考察がありました。

著者のウォルターマーチさんは映画の編集を生業にしている方で、
ある日、撮影された映像のあるシーンのカットポイントを吟味していました。すると、自分がカットしようとしたところの極めて近いタイミングで
演者が瞬きをしていることに気がつきました。それはたまたまではなく、他のシーンでも、他の映画のカット作業の時でも同じでした。

そこでウォルターマーチさんは「瞬きは目が乾かないためにしていると通説だが、本当にそうならば湿度や温度などの条件が同じ場合、瞬きは等間隔に行われるはず。瞬きが等間隔ではないのは目が乾かないため以外にも何か理由がある。」と考えました。
最終的にウォルターマーチさんは「瞬きとは頭の中で展開する思考の分離作業を助長するもの、または無意識に脳が行う思考の分離作業に伴って勝手に表出するもの」であると結論付けました。

これはどういうことかというと、「あのTシャツを見て」と言われて見る、その後すぐに「このケーキを見て」と言われて見るということがあったとこします。これは「Tシャツを見てと言われたので見た」→「このケーキを見てと言われたので見た」という思考の移り変わりがありますが、あなたがこれと同じ状況になった時、この「→」があるタイミングで無意識に瞬きをします。これは「Tシャツを見てと言われたので見た」という思考と「このケーキを見てと言われたので見た」という思考が移り変わるタイミングで瞬きが行われていると言うことです。思考が移り変わるのために瞬きが必要なのか、思考が移り変わると副産物として勝手に瞬きをしてしまうのか、これはどちらかわかっていませんが、とにかく思考が移り変わる時に瞬きは行われるようです。

これを踏まえて、改めて人間の一日を映画に例えると、24時間ある中で思考が変わるたびに瞬きというカットが入り、小さくカットされた思考というシーンの集合体で24時間の映画が出来上がります。
こう考えるとグッと映画っぽくなりましたね。

映画監督のジョン・ヒューストンさんは「映画は思考に近い芸術」という言葉を残しています。
人間は思考を瞬きでカットし、別の思考へ変わる。
映画は映像をカットして別の映像に変わっていき、それによって思考の移り変わりを表現している。
そもそもかなり似ているものだったんですね。だから人間は映画を見てもカットに違和感を感じないんだと思います。

なぜウォルターマーチさんがカットをしようとしたところで演者が瞬きをしていたか(そのタイミングで思考が移り変わったのか)については長くなりそうなので説明しません。ぜひ本を読んでみてください。

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