暇は人間をダメにするか?

先日、とある人と「暇」についての考察を行った。哲学系の話なのだが、「暇というのは人間にとって悪か、否か」というものだ。暇があるからこそ、人間は無駄にモノやサービスを消費して自分を苦しめたり、賭け事や酒や薬物といったものに手を出してしまうのではないか……というのが、「悪派」の言い分。一方で、暇というのは人間にインスピレーションを与え、豊かな発想と進歩に貢献している……というのが「否定派」の言い分だ。

これはわりと有名な話だが、School(学校)の語源はギリシャ語のスコラ(暇)からきているといわれていて、古代ギリシャにおいて、勉強というのは暇つぶしにやるものだった。当時、「仕事」は奴隷がやるものと決まっていたので、普通の市民はとくに働く必要がなかったのだ(現代においてもその構図はあまり変わらない気がするけど)。となれば、人類の発展に貢献した哲学とか数学とか天文学とかは、「暇な人間が生み出したもの」とは、たしかに言えるかもしれない。

ただ、私としては、単純に「暇は必要だ」とは断言しがたい。なぜなら、この考察を行ったときに一番の話題になったのだが、「そもそも『暇』とはどういう状態を指すのか?」ということの定義があいまいなまま議論が進んでしまっているからだ。たとえば、スケジュールをつねに入れておかないと気がすまない人も世の中に入るが、彼は果たして本当に忙しいのだろうか? スケジュールを埋めるために休日にもなにか予定などを入れているのだとすれば、その予定は単なる「暇つぶし」ではないのか――という疑問が湧いてくる。

そもそも、人間が生きていくために「どうしてもやらなくてはならないこと」は、突き詰めて考えると非常に限られる。食べる、寝る、排泄する、(人によってはセックスする)など、生命を維持するために必要最低限の事柄だ。仕事をするのは、これらの生命的な欲求を現代社会で満たすための間接的な手段に過ぎないのであって、「仕事をする=やらなくてはならないこと」ではない。と考えると、人生の大部分はもしかすると「暇」な時間が大部分を占めているのかもしれないのだ。

そうなると、「暇が悪か否か」という問いかけそのものがナンセンスなものになってしまう。なぜなら、「暇を作らないようにすること」そのものが「暇だからできること」で、その行為自体が「暇つぶし」になっているからだ。結局、人間はつねに暇な存在だ。

ただ、「暇のつぶし方」にも巧拙はあるかもしれない。暇をうまく使う人は人生が楽しくなるだろうし、暇をうまく使えない人は人生がつまらないものになる可能性がある。人々は本から「仕事のやり方」「人間関係の築き方」「恋人の見つけ方」などを学ぼうとするが、それらの根源にあるのは「なにをするのが一番いい“暇つぶし”なのか?」ということなのかもしれない。

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