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扉を直すということ

今日、扉を直した。というのはなにかのメタファーではなく、文字通りレストランのドアを修繕したというそのまんまの意味だ。僕が働いているブルワリーのレストランは10mの吹き抜けがある大空間で、ドアが大きく重いうえに気圧の関係もあってドアクローザーがすぐに傷んでしまうのだ。閉まるときの音がうるさいので調整しようとしたら取り付けネジが脱落していてかろうじて止まっているという危なっかしい状態だった。さっそくネジを取り寄せて修理したのだけれど、修理しながら考えた。僕が気づいていたドアの音に、レストランのサービスの人間が気がついていなかったというのは大きな問題ではないか。かなり大きな音だったから、当然、不快に思っていたお客様もいたはずだと思う。そのことにセンサーが働いていないのだ。毎日そこにいるとドアの閉まる音にも慣れてしまうのだろう。「ここはこんなもんだろう」と疑問にも思わない。これってサービス業としてこれは致命的なんじゃないか?ドアの音にとどまらず、お客様が感じる些細な不快さに気づかないのでは、細やかなサービスなどできはしないだろう。お客様は決して安くはない対価を払い、便利な場所でもないこのレストランにわざわざ来てくださるのだ。食事やビールが美味しいのは当たり前。それを上回る快適さ、一分の隙もない心遣いがあってはじめて満足していただけるのだ。

そんなことを考えていて、自分を振り返ってみるとやっぱり同じように「慣れ」とか「鈍感さ」があることに気づく。デザインをしていてもつい「前と同じようにやればラクだな」とか「時間がないからここはこれでいいか」などと考えてしまう。入稿原稿を作って送信した後で「間違いではないし、誰も気づかないだろうけどちょっとだけレイアウトの詰めが気になる」みたいな箇所を見つけてしまった時、もう一度面倒な作業に戻って作り直して入稿するかどうか。(こんな時僕はある著名なアートディレクターの「気づいちゃったんだからしょうがない」という言葉を3回ほどつぶやいて渋々修正するのだ)

ビールづくりはまだ慢心できるほどではないけれど、それでもまだやりきっていない感触は確かにある。まだまだ心を遣う、手間暇をかける、という部分があるはずだ。自分の未熟さゆえにまだそれがどこなのかがわからないのだろう。もっともっと、手をかけて気を配って、ビールの質を高めることはできるはずだ。

伊丹十三のエッセイで読んだイブ・サンローランの逸話が好きだ。彼は一着の服を作るのに30回近くも仮縫いを繰り返したという。それが意味するのは、30回作り直すことの凄さではなく、30回も作り直してなおまだ改善点を見つけることができる厳しい目を持っていたことの凄さなのだ。

いいものを作るためには、まず細かな差異、微差に気づく鋭敏なセンサーが必要なのだろう。そのことに気づくいいきっかけだった。

そんなこんなで不在だったマネージャーにLINEで伝えたところ、丁寧に礼を述べた後「別のドアも締まりが悪いので直して欲しい」という。いや待て待て。気づいていたのに放置していたのか。それはあかんやろ。しまらない話だ。ドアだけに。

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